秘密のバックヤード -Ⅰ
臙脂色をしたカーテンの裏側は、ひどく狭かった。
新淵さんと香坂くんがいるお店の気配を感じたくなくて、私の気配も伝わってほしくなくて。窮屈な部屋で小さな丸椅子に座って、息を詰める。うなだれて、ただ自分の足元を眺めていた。
とても意地の悪い、なにか悪意のようなものに行き会ってしまったんだろうか。
それとも、私が何かを間違えでもしたんだろうか。
香坂くんとのやり取りを思い返して、頭の中で反芻した香坂くんの言葉だとか態度に改めて胸が痛む。私も随分とムキになって言い返した。
感情を爆発させるのは、悪手なんだろう。
でも、じゃあ、黙って飲み込んでしまえばよかったとでも。
新淵さんがあの場にいたら、もっとうまく収めてくれたんだろうか。
それとも私じゃなくて、新淵さんが怒った。
(いや)
そんな新淵さんは見たくない。もしあの場に、一緒に新淵さんがいてくれたとしても。心強さよりも、苦しさが上回ったに違いない。
新淵さんは香坂くんに悪し様に言われていたことを知らないし、香坂くんだって、少なくとも今、眼鏡を直してもらっている間は態度に出さないんだろう。
なら、それで。それで、いいなら。
私の胸がどんなに、重くったって。
胸のつかえを溜息で吐き出す気にもならず、ただ息をひそめて部屋を眺めた。
細長い部屋だ。片側には背の高いスチールラックと、そこに収まった道具や荷物らしきもの。向かいにはシンクがあって、電子レンジがのっかった背の低い冷蔵庫とか、ゴミ箱とかが一緒に並んでいる。
ものすごく普通の、お店の舞台裏みたいだった。表のお店は実用から離れて、雰囲気づくりに専念しているのだとしても、おかしくないけれど。新淵さんは、宅配業者だって使う魔法使いだけれど。
今の私には、この現実的な風景が妙に寂しかった。
シンク隣の作業台の上に、電気ケトルが置いてある。ガスコンロは見当たらない。
お湯を火で沸かしたって電気で沸かしたって、それこそ魔法を使ったって、きっと変わるものではないし。新淵さんはいつだって、温かい飲み物を用意してくれた。
(コーヒー、飲めないんだけどな)
バックヤードに誘導された後、新淵さんが淹れてくれたのはコーヒーだった。今でも部屋の中には、独特の香ばしい香りが漂っている。
スティックのお砂糖とポーションミルクを添えてくれたけれど、それでも飲める気がしなくて口をつけずにいた。
今日のコーヒーは、きっと香坂くんの好みに合わせたものなんだろう。
そう思うとなんだか悔しくて、そしてそんな些細なことで感情を乱される自分が情けない。
新淵さんは、甘いものと温かいものをくれるって、言ってくれた。
やっぱり、すがりたくなってしまった。温かく迎えてほしいと、思ってしまった。
コーヒーみたいな、苦いものを飲み込むことができなくて。甘くて温かなものを求める、私は、弱い。
「スウちゃん」
声が、した。
カーテンを引く音と一緒に、それでもレールを走る金具の音には邪魔をされずに。間違いなく、私の耳に届く。
「新淵さん」
甘い声、だなんて思わない。落ち着いていて、ゆっくり優しく、染みていく。
「トウくん、帰ったよ」
新淵さんが下げてきたカップは二つ。両方とも、ほとんど口をつけていないみたいだった。
「ああ。スウちゃん、やっぱりコーヒー飲めなかったんだね。ごめんね」
私の手の中のカップをのぞき込みながら、新淵さんは言った。
「すみません。私、苦いの駄目で」
きっと香坂くんのためのコーヒーだっただろうに、下げられたカップの中身はほとんど減っていないようだ。せっかく新淵さんが淹れてくれたというのに。
「まさか紅茶、切らしてるとは思わなくてさ」
「え?」
「この前もらった、紅茶の詰め合わせ。あれ、ティーバッグが一つずつ個包装してあったでしょう。今、ちょうど半分使ったくらいで、さっきその残りから淹れる分を開封してみたらさ。ティーバッグじゃなくて、一杯取りのドリップコーヒーが出てきたんだよ。詰め合わせ、半分が紅茶で、もう半分がコーヒーだったみたいなんだよね」
「じゃあ、香坂くんの好みに合わせたわけじゃ」
「トウくんがなにを好きかなんて、知らないなあ。今まで一度も飲み物とか出したことなかったし。もしかしてトウくんも、コーヒーは飲まないのかも」
そういうことだったのか。それじゃあ嫉妬みたいな感情を抱いた自分は、いったい何だったというんだろう。
「詰め合わせを飲みきるまでは、別のお茶を買い足してなかったし。こういう時に限って、ココアとかもないんだ。砂糖とミルクがあれば、コーヒーでも飲めるかなと思ったんだけど」
「あの、飲みます。せっかく淹れてもらったので」
新淵さんはいつものように、温かい飲み物を淹れてくれたんだ。ただ、種類が少し違っただけで。
「ああそうだ、牛乳あったかな。ポーションじゃ少ないから、カフェオレにしちゃおう。もう淹れなおそうね、冷めちゃってるし」
「そんな、わざわざ」
「あとお菓子。一緒に出すの忘れちゃってて。思い切り甘いのにしよう」
とびきりに甘やかされている、気がする。
新淵さんがコーヒーを淹れなおすのを眺めながら、やっぱりもうちょっと、この甘さに浸っていたいと。そんな風に思ってしまうのだった。
「こんな狭いところに押し込んだみたいで、ごめんね」
むやみに手を出すのはかえって邪魔だろうと、私は大人しく着席したままでいた。新淵さんが手際よく作り上げた、カフェオレ入りマグカップを受け取る。
「いいえ。むしろ気遣ってもらっちゃって、ありがとうございます」
「どこも店の裏なんて、こんなもんだとは思うんだけど。狭いよね」
「私、バイトとかしたことないので。お店のバックヤードみたいなところに入るの初めてです」
それでもなんとなくイメージはできた。どんなにおしゃれなカフェや雑貨屋さんとかでも、不思議な眼鏡屋さんでも。お店を営業してお仕事をするためには、実用的で現実的な場所になるのだろう。
「バックヤードって、由来はわかる?」
「由来って、控え室とか休憩室とか、そういうことでなくてですか?」
そういう単語の、英語訳ではないのだろうか。知っている英単語に当たらないか、言葉を噛み砕く。
「バック……裏の、ヤード? って、なに。単位のですか」
「ヤード、庭のことだね。つまり裏庭」
「ああ。裏庭、かあ」
庭とはかけ離れたような場所だけれど。だけど色んなお店に一つ庭があると思うと、ちょっと素敵な言い回しだなと思う。
「庭ならもうちょっと、広いよね。天気が良ければ気持ちもいいし。よし、そうしよう」
新淵さんのわずかに弾んだ声と、その言葉の意味を図りかねていたら。
「ちょっとごめんね」
大きな手が、私の顔に触れた。
正確には、新淵さんが触れたのは顔ではなく、私のかけている眼鏡だった。だけど両レンズの縁に触れるように添えられた両手は、体温が伝わるくらい顔に近い。見上げていた新淵さんの顔がさっきより近づいたのは、眼鏡に触れるのに少し身をかがめたからだろう。
(まって)
不躾な手を、振り払うことができない。マグカップを握っているから。じゃなくて、拒否するほどに嫌ではない。嫌なはずがない。
甘い何かを、期待しているから?
そんな、わけはなく。そのような何かが起きたら、動揺と恥ずかしさのあまり死んでしまう。恥ずかしさと困惑に、硬直してしまって。
新淵さんの指先が、レンズの縁をなぞる。顔を撫でられたわけでもないのに、呼吸が止まりそうだ。
だから一瞬、視界に光が瞬いた時には、意識が飛ぶ兆候なのかと思った。
眩しさに目をつむって、瞼を再び開いたら。
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