ガラスの花 - Ⅲ

 頭に血が上った。場が荒れた。興奮で収集がつかなくなりそうだったその場に、割って入った声。

「新淵さん」

 湿った声で、中野が呼びかけた。

 穏やかな容貌と、丸い銀縁眼鏡。

 怪しい眼鏡屋の店主その人が、入り口の扉から姿を現す。

 今までその人のために怒っていた中野の眼差しは、すがるように眦を下げた。

「あれ、トウくんじゃない。久しぶりだね」

 今しがた自分が悪く言った相手に、にこやかに挨拶をされる。

「……どうも」

 後ろめたくはあった。けれど好まない相手だろうと、眼鏡を直してもらわないと困る以上、取り繕って振舞うことだってできる。いつもそうしている。

 中野はきっと、そんなことはない。心から店主さんを、魔法を素敵なものだと信じている。

 その素直さが苛立たしかった。


「大きくなったね。もう高校生? あ、そうか。トウくんもスウちゃんと同じ学校なんだ」

 俺の制服を眺めて、それから中野に視線を移して、店主さんは言った。

 学校指定のはシャツは、男女とも右袖に校章の刺繍がある。上着の類を着用しない季節は特にわかりやすいので、店主さんもすぐ気が付いたのだろう。

「もしかして、二人とも知り合いだったのかな。一体、何を騒いでたの。言い争ってたみたいだけど」

「まあちょっと、色々」

「色々、ね。言いたくないなら、無理に聞かないけど」

 俺は眼鏡をどうにかしたいだけだったので、放っておいてくれればよかった。中野は中野で、押し黙ったままうつむいていた。

「スウちゃん、大丈夫?」

「新淵さん」

 中野は助けを求めるように顔を上げて、もう一度店主さんを呼ぶ。

「あの、香坂くんが……その……」

 中野はさぞかし俺の非道さを、店主さんに話したいことだろう。

「うん?」

「いえ……」

 だけど中野は、結局何も言わなかった。上げた首を再びもたげる。

 その様子に、店主さんはわずかに首を傾けて、それから言った。

「うん、とにかくいらっしゃい。甘いものを食べよう、お茶にしよう」

 そんなもの出てくるのかこの店、と思いながら俺は黙っていた。俺は中野の言うとおりに帰るつもりはなかったが、さすがにへこんだような彼女をよそ目に、さっさと店に入る気にはなれなかった。中途半端にポーチの段差に足をかけて中野の様子をうかがうが、立ち尽くしたままだ。


「俺と一緒なのが、嫌なんじゃないですかね」

 状況を完全には飲み込んでいない店主さんに、説明するように言った。

「なあ。俺、用事終わったらさっさと帰るから」

 来いよ、と中野に呼びかける。

 場を譲るほど、広い心にはなれないけれど。このまま帰られても、まるで自分が追い返したみたいで気分はよくない。追い返されそうとしていたのは、自分の方だが。

「……無理に、引き留めるつもりはないけど」

 ゆっくりと、店主さんは中野に言う。

「落ち着くまで、裏にいてもいいよ。美味しいお菓子もあるしさ」

 投げつけるような自分の言葉とは違う、穏やかな調子。

「そんなしょぼくれちゃったスウちゃん、そのまま帰しちゃうのは心配だもの」

 店主さんの微笑みに、そりゃあ中野も浮かされもする、と呆れ半分に納得する。

 何かをこらえているのか、それとも気恥ずかしいのか、中野は赤い顔で小さくうなずいた。

 小娘一人を惑わしている自覚が、この店主にはどこまであるのやら。

 俺がこの怪しい魔法使いを信用できない理由が、ひとつ増えてしまったのだった。


「派手にやったね。目の下に青タンこさえてると思ったら」

 店主さんは、俺の割れた眼鏡を検分しながら言った。

 通された店内は、俺の記憶の中にある数年前の様子と、特段変わったところはなさそうだった。窓際の商品台と、やたら高そうな椅子とか、テーブルとか。

 部屋の奥にかかったあずき色のカーテンの裏側は、恐らくスタッフルームみたいなところだろう。店主さんに促されて、とりあえず中野はその場所に落ち着いたようだった。

「直りますか。それとも交換しないと駄目ですか」

「んー、ひびは派手に入ってるけど、砕けたわけじゃなさそうだね。レンズが欠け落ちてもいない。これならこのまま直せるかな」

 立ったまま手元で眺めまわしていた眼鏡を、店主さんはテーブルにいったん置いた。

「まあ、コーヒーでも飲んで待っててよ」

 そのまま同じテーブルの椅子に座るよう促される。

 接客のテーブルも作業台も、一緒くたなのはどうかと思うけれど。眼鏡に魔法を施す過程では、大掛かりな道具も作業も必要ないようだ。店主さんも席について、再び眼鏡を手にする。

 

 店主さんが割れたレンズを指でなぞるようにすると、銀色の光が生まれた。

 窓の外は日が落ちかけていて、店内は薄暗い。

 薄暮の中で、魔力は得体のしれない光を放った。集まった光は液体のようにも見えて、レンズの上で揺れるそれは、例えば水銀みたいな、触れてはいけないもののような気がしてしまう。ガラスレンズがぼんやり光るのなんて、小さい頃に図鑑で見たウランガラス――それだって有害でないのはわかっているのに――の怪しい輝きを思わせた。

 どうしたって怪しく見えてしまうのは、自分が魔法を疎ましく思っているから。


「トウくんは、スウちゃんと仲が良いんだ」

 手は止めずに、店主さんが尋ねる。

「いや、今日初めて話しました。俺が眼鏡壊して具合悪くしてたら、声かけられて」

 魔法の眼鏡は魔眼の威力を抑えるとともに、保有している魔力量も抑制しているらしかった。魔法なんて怪しげなものをどうやって理解すればいいかはわからないから、店主さんに説明されたことをとりあえず頭にとどめておくにすぎないけれど。

「ああ、そう。スウちゃんはいい子だね」

 微笑みながらの店主さんの言葉に、確かに俺も親切だとは言ったけれどと思う。

 ただその親切の、裏側には。

「中野、自分も具合悪くした時に、人から助けられたからって言ってましたよ。それって多分、店主さんのことだと思うんですけど」

「そっか。嬉しいね、そうやって助け合いの輪みたいのが広がるっていうのは」

 良いこと、なのだろう。善き行いの、良い人の、影響を受けるのは。

 けれど中野のそれは恋心に浮かれた延長線上にある気がして、そのお幸せぶりが何となく気に入らない。


「……まあ、俺の心が狭いんでしょうけど」

 苛立ちを自覚しながら話す。俺の中野に対する態度は八つ当たりもいいところで、一方的に傷つけた。

「中野が、俺が魔眼で見る『花』を、綺麗だとか言うんですよ。んで、ムカついて」

 けれど中野は中野で、無自覚に俺の神経に障っていた。それでも腹を立てたのは、自分の勝手でしかない。

「それは、トウくんの魔眼がどういう能力を持ってるか、スウちゃんに説明して?」

「いや……えーと。中野って、人の記憶が見えるタイプの魔眼持ちなんですか?」

「そうそう。ああ、それでか。トウくんの花の記憶を、スウちゃんが見たんだ」

「多分。結構具体的に、花のことわかってましたから」

「なるほどね。何も知らないで見たら、きっと綺麗なんだろうね」

 中野をかばう言葉とは思わなかった。事実でしかないだろう。俺だって、そう思ったから。


「いいもんじゃないですよ。人の命が目に見えるっていうのは」

 たとえ美しいものの姿形を、借りていたとしても。

 俺の目には、人の胸に咲く花が見えた。

 形や種類は様々だったが、ガラス細工のような、氷を削り出したような透明さは誰の胸の花にも共通していた。ぼんやりと光っていることも。

 ガラスの花は見かけとは裏腹、頑丈でいて。そして見かけ通り、脆くもある。

 胸の花は生命とか、魂とか、そういう存在を象徴している。

 命が失われるとき、花は儚く砕けた。

 クリスタルをばらまいたみたいに、ダイヤモンドダストが舞うみたいに。最後に美しく輝いて、花は散りゆくのだった。

 胸の花が人間の命を表していると気づいたのは、魔眼が発現したその時まさに、花が砕けるさまを目にしたからだ。


 魔眼が目覚めたのは、交通事故に遭ったことがきっかけらしい。

 事故の衝撃は、十年近く経っても覚えている。大きな音と、ぶつかった瞬間の痛みと。

 市役所通りの、ちょうど役所があるあたりを歩いていた。小学校に入学してすぐのこと、当時の通学路で。

 歩道は歩いていたのだが、ガードレールや柵がない場所だった。そこに車道から車が突っ込んできて、何人かがなぎ倒された。

 小さな体でも、人間が車とぶつかると結構な音がする。そんなに吹っ飛んだ気はしてなかったけど、気づいたら体は数メートル離れたところに倒れこんでいた。

 仰向けになった態勢で、首を少しだけ傾けた。

 光る花が、数か所に咲いているのが見える。

 きっと人もそこには倒れていたはずだ。聞いた話によると現場はひどい状況で、血もずいぶん流れていたという。だけど俺の目には花ばかりが映って、見たことのないガラスのような花を、綺麗だなとぼんやり思った。

 その中のいくつかの花が、砕けた時も。

 首を真上に向けたら、春の穏やかな空は真っ青で。なんだか夢みたいだなと思ったことを覚えている。


「最初は意味がよくわかってなかったですけど。でも、砕けた花の数と亡くなった人数が、合っちゃったんですよね。俺、小さかったけど、直感っていうんですか。あの花は人間の命みたいなもんで、死ぬ時に砕けるんだろうなって、なんとなくわかったっていうか」

 わかったのも魔力の作用ですかねと問えば、店主さんは首をひねる。

「どうだろうね。魔法使いは、直観が鋭い人が多いけど。断定はできないな」

 店主さんに出逢い、状況を説明したところで魔眼の存在と、それが持つ能力がほぼ確定した。そのあとも親族の葬儀とかで、能力の裏付けをした。亡くなった人の胸に、花の破片しか残らないことを確認するのは、あまり気分のいいものではなかったが。


「ほんっと、いらないわ。この魔眼」

 困ったように笑う店主さんの胸には、淡い黄色がほのかに光る。

 大振りで丸っこい、確か月の名前が付いた花。

「眼鏡、直ったよ」

 つるを開いたまま、眼鏡を手渡される。銀色の光は収まっていたので、受け取る抵抗は少なかった。

「ちゃんと合ってるかな」

 割れていたレンズは綺麗に直っていて、継いだ跡のようなものすら見えない。

 道具もなしに短時間で、壊れたものが元通りになる。やっぱり信じられなくて、気味が悪い。

「かけてみて」

 つるの端を、こめかみのあたりに沿わせる。目を伏せて、そのままつるを耳の上まで滑らせた。鼻あてのぶつかるわずかな感触、眼鏡があるべき場所に収まる。ようやく眼鏡が戻って、そっと目を開けた。


 視界を光の花が埋め尽くしていた。

 頭上も足元も、赤、青、黄。緑、紫……色は豊かというより目を焼くようで、極彩色に飲み込まれそうだった。ちかちか瞬く光の花は視界中でぐるぐると渦巻いて、まるで万華鏡の中に放り込まれたようだ。

 これが鏡だというなら、叩き割ってしまいたい。

 瞬間、目の前の光景がひび割れた。空間に亀裂が入るなんておかしいことだけれど、そういう風に見えるのだから仕方ない。

 花で埋め尽くされた景色は崩れ落ち、きらきらと光を放った。

 まるで割れ落ちる、車のフロントガラスのように。

 破られた世界には、どこまでも澄み渡る青空が広がっていた。


「……っあー」

 呻きながら頭を振った。何度か瞬きして顔を上げると、店主さんが妙に真剣な表情でこちらをのぞき込んでいた。風景はさっきまでと同じく、眼鏡屋のもの。

「この、眼鏡かけた瞬間に幻覚みたいなやつが見えるの、なんとかなりませんかね」

 毎日、毎朝というわけではないのだけれど。新しい眼鏡に変えた時とか、長時間にわたって裸眼で過ごした後とかに眼鏡をかけると、妙なものを見ることになるのだ。

「魔力を抑制する眼鏡だからね。瞬間的に、魔眼が抵抗しようとするんだよ」

 トウくんの魔眼の威力は強いからね、と嬉しくもなんともない評価をされる。

 役立たずの能力が強くても、何にもならない。

「大丈夫? 眼鏡、合いそうかな」

 俺は店主さんの胸を見た。黄色い花は見えない。

「多分、大丈夫です」

 もうちょっと人がいるところに行くか、気分が悪いのが収まるかしないと正確な判断は難しい。でもこの人が魔法をかけた眼鏡が合わなかったことなんてないから、大丈夫だろう。


「んじゃ、俺、帰りますんで。どうもありがとうございました」

 軽く頭を下げて、椅子の足元に置いていた鞄を担ぎ上げる。

「もうちょっと、ゆっくりしていけばいいのに。コーヒーだって残ってるし」

 カップのコーヒーは残ってるどころか、実は口をつけてすらいない。失礼なのかもしれないと思ったけれど、なんとなく飲む気にはなれなかった。まさか毒が入ってるとか魔法がかけられているとか、そんなことは思わないけれど。

「いや、帰りますよ。中野に悪いし」

 眼鏡の効果か、気分が悪いのは少しずつ和らいでいる。中野にきつく当たったのは、体調の悪さからくる余裕のなさのせいもあった。それを言い訳に開き直る気はないし、素直に申し訳ないとも思う。気まずくもあるのだ。向こうだって、顔も見たくないだろうし。

「何も知らないから、トウくんの気に障ることも言ったかもしれないけど。スウちゃん、良い子だから。わかってあげてね」

 そう優しく口にする店主さんを、少しばかり冷めた目で見ながら。

「女子高生相手に気を持たせるようなことすんの、やめた方がいいっすよ」

 おせっかいを一言。店主さんは目をぱちぱちとさせた。

「なんか似たようなこと、前にも言われた気がするなあ」

 のんびりと言って、相変わらずいまいち感情の読み取れない微笑みを浮かべる。

「肝に銘じておくよ」

 果たしてこの人は、言葉の意味を分かって使っているのだろうかと疑わしく思いながら、もう一度、店主さんの胸元を見た。

淡い黄色の花は、魔法のレンズに遮られてもう見えない。

眼鏡のブリッジをぐいと押し上げて、俺は店を後にした。

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