ガラスの花 -Ⅰ
じわじわとした痛みに、持ち上げた頭を振る。頭痛がするのは、怪我のせいかそれとも。
目頭をつまんで、枕元の眼鏡に手を伸ばした。
黒一色のセルフレームに囲まれたレンズは、二つ並んだ長方形。
その左レンズには、無残にもひびが入っていた。それも一本や二本ではなく、衝撃の強かったであろう箇所から、何本もひびが延びていた。蜘蛛の巣とは言わないまでも、蜘蛛が足を広げたようにも見える亀裂。
愛用品のあまりの惨状にため息をつく。壁にくっついた枕元以外の三方を、白いカーテンで囲まれた空間は居心地が悪い。ため息をつけば、四角い空間を鬱々とした空気が満たした。
「
音量は控えめだけど、聞き取りやすい声がカーテン越しに尋ねてくる。
「落ち着いてんなら、教室帰ってお昼食べなよー」
俺は体を伸ばしながら答えた。
「戻りまーす」
四時間目の途中で保健室に駆け込んで、大体三十分くらい。サボりにきたわけでも仮眠を取りに来たわけでもなく、切実に保健室を頼って来たわけだが。怪我の手当てはしてもらったし、体調はもうどうしようもない気がしたし、教室に戻ることにした。
ベッドから降りたところで、チャイムが鳴る。
「まだあんまり、顔色よくないね。吐き気とか、めまいとかしてない?」
「まあ、なんとか」
「打った場所が場所だから、よく様子見て、ちょっとでもおかしかったらすぐ病院行きなさいね」
「はーい、どうも」
「あと眼鏡」
保健室の先生は、訝しむように目を細めた。
「割れてるのに、かけるのやめなよ。香坂くん、視力そこまで悪くないでしょ。入学後の健康診断、矯正無しでいけたと思うけど」
「先生、いちいち生徒の検査結果なんて、覚えてるんですか」
「全員は無理だけど。でも、視力いいのに眼鏡かけてたら、そりゃ印象に残るよ。なに、おしゃれ?」
「そういうことにでも、しといてください」
先生の言うことを聞き流しながら、俺は出入り口へ向かった。
グラウンドでの体育の授業中に負傷して保健室に駆け込んだので、靴は中庭に面した出入り口に置いてある。
アルミサッシを開けると、急に出入り口が音を立てたからだろう、ちょうどそこを通りがかったらしき生徒がこちらを見た。
赤い眼鏡の女子。
何となく目があって、お互いに足を止める。
「あら、中野さん。なんか久しぶりだねえ」
「あ、先生。こんにちわ」
背後にいた先生が、俺を挟んでその女子に声をかけた。
「最近どう。具合悪くなってないの」
「はい、お陰さまで。保健室に行くほど具合が悪くなることは、ほとんどなくなりました」
「いいことだ。……あ」
人を挟んで会話をするなと思うも、先生はまだ続けるらしい。
「中野さん、駄目じゃん。上履きで外出てこないのー」
「ごめんなさいー」
謝りはしたものの、赤眼鏡女子はそこまで深刻にとらえていないようだ。というか、言った先生の方も。
昇降口から中庭までは、わずかな距離しかない。だから実際のところ、みんな上履きのまま出てきてしまうのだった。飲み物を手にしているところを見ると、中庭に設置してある自販機まで買い物しに来たのだろう。
先生の言葉に誘導されて見た女子の上履き、学年カラーを示す爪先の色は青。俺の着ているジャージのラインも青。
つまりはタメ。
「あ、ごめんなさい」
無言で赤眼鏡の脇をすり抜けると、進路をふさいだことだろうか、謝られた。それほど迷惑したわけでもないけれど、特に返事もしない。
外に出れば、爽やかな風が頬を撫でた。夏休みが開けてひと月ほど、九月終わりの日差しは夏の名残よりも、秋の到来を感じさせた。青空は澄んで高い。
陽気は心地いいというのに、気分はあまり良くなかった。
ひびの入った視界は最悪だ。昼休みに突入して、多くの生徒が自由に動き回る。目の前がちかちかとした。
紺の制服に、白いシャツ。黒い髪。
ほとんど統一された色彩の中に、ぼんやりと浮かぶ色とりどりの、光のようなものが見える。
「……大丈夫ですか?」
背後から、どこか遠慮がちな声がした。振り返ると、先ほどの赤眼鏡が立っている。先生が呼んでいて、さっきチラ見した上履きに書かれていた名前は、確か、中野。
「具合、悪いんですか」
保健室から出てきたやつの足取りが重ければ、そう思いもするのかもしれない。視力が悪いわけではないけれど、それでもにじむ視界に俺は目を細めた。
「あー、大丈夫だから」
というのは嘘で、大丈夫かと言われれば結構厳しいのだが。話を聞いてもらおうが保健室に戻ろうが、どうにもならないので。
「でも、顔色」
「親切だな」
おとなしそうな雰囲気で、おせっかいな感じはしないけれど。まあ、見た目だけじゃ何にもわからない。
「あ、えっと。私も具合悪くなった時、すごく親切にしてもらったことがあって。だから、私もその人みたくなれたら良いなって」
こちらをうかがうような表情が、急に明るくなった。頬を緩める表情は少し照れているようにも見えて、親切だと褒めたからか。
「眼鏡、割れちゃったんですか」
「ああ。……ていうか、タメだろ。敬語じゃなくていいから」
そう、タメで教室は同じ並びなんだから。俺の具合が悪かろうが中野が親切なんだろうが、もう一緒に行く流れだ。同じ方向に歩き出す。
「えーと、うん。……すごい割れ方してるね」
「体育でサッカーしてたら、すっ転んで。そのままゴールポストに顔面スライディングした」
ぶつかった瞬間は、冗談抜きで目の前に火花が散るかと思った。左目の下はあざになってしまって、顔色が悪く見える一因にもなっているのだろう。
「痛ったあ……」
「割れやすいんだよな、ガラスレンズだから」
最近の眼鏡の主流であるプラスチックレンズと、俺が使う眼鏡のガラスレンズでは、衝撃を受けた時の具合が違う。それぞれに良し悪しはあるけれど、ガラスを選ぶのは、何かしらこだわった場合だ。
「ガラスレンズなんだ! 良いよね、ガラスレンズ。私、好きだよ」
何がそんなに心動くのか、中野は声を弾ませた。
かけている赤い眼鏡は、レンズ周り全部をフレームが囲っているタイプのフルリム。俺も同じくフルリムで、フレームの種類が限定されるガラスレンズでも対応できる。
「じゃあ、それもガラスなのか」
「ううん、私のはプラ」
なんだそれ。単にガラスレンズに憧れがあるってだけの話か。プラスチックレンズの方が、扱いは楽だろうに。
そこら辺の店に並んでいる、種類豊富な眼鏡を選べる方が羨ましい。世間に流通している眼鏡の大半はプラスチックレンズ製で、多種多様なデザインがあるのは、プラスチックレンズの方が加工の自由が利くからだ。どうせかけるならばと思ってしまう。
先生にはおしゃれ眼鏡なのかと聞かれたが、実際はその逆、完全に実用品であり、けれどその機能は視力矯正ではない。
眼鏡を購入するにも直すにも、特殊な店を訪ねなければならない。
「プラの方が、探しやすいし色々楽だろ」
「でも、ガラスの眼鏡は不思議なものが見えそうだよね」
「……は?」
一瞬、何を寝ぼけたことを言ってるんだと呆れかけ。
けれどふざけていると聞き流すには、その寝言は。
「あー……変なこと言ったね。その」
中野は曖昧に笑う。取り繕うようなその笑みに、なにか思考や意味が見て取れないか。お互い表情をうかがって、視線がぶつかる。
「……ねえ」
中野が笑顔を消した。俺の顔を眺めながら、プラスチックレンズの向こうの目をしきりに瞬かせる。
「光る花って、見たことある?」
問いかけに、身が固まった。周囲の音も動きも、止まったような気がした。
それなのに視界のあちこちに、淡く光る花が揺れる。
「……お前」
俺は睨むようだったのか、信じられないものを見るような目つきにでもなったのか。
「あ、えっと、何でもないから。私、友達待たせてるから行くね!」
中野は身を引くように体の向きを変えて、逃げるように走り去ってしまった。
(あいつ、今)
「なに。なんかしたの、香坂くん」
背後からの声に振り替えると、保険の先生が疑わし気な目でこちらを見ていた。
「いや、なんも。つーか何してるんですか、先生は」
「私も昼休憩だよ。しかし香坂くんと中野さんって、クラス同じだっけ」
「いや、違いますけど」
「そう。いや、ずいぶん喋ってたからさ。中野さん、初対面の人と喋るのは苦手だって言ってたんだけど」
おとなしそうな、という印象はそう的外れでもなかったらしい。けれど確かに、ずいぶん会話した気はする。共通の話題があったからか。それが眼鏡って言うのも、なんだかおかしい気がするけれど。
「でも最近、調子良さそうみたいだしな。学校にだいぶ慣れたのかな。良かった良かった」
「体弱いんですか、あの人」
「んー、体調は崩しやすかったみたいだね。入学したてはよく保健室に来てたし」
もし中野が、自分と同類だとしたら。体調を崩しやすかったというのは納得できる。
「あとは気持ちの方がね。まあ彼女、ちょっと繊細な子だったからさ」
「俺もこれでなかなか、繊細なんですけどね」
と冗談半分。残りの半分は、何とも言えない。
「そうかいそうかい。まあ、ほんとに何か嫌なことでもあったら、休みにおいで。保健室はね、そういう場所でいいんだよ」
養護教諭としての職務と思いを口にしたその人を、いい先生だと思いながらも首を横に振る。
「よっぽどの怪我か、病気でもしない限り、行きません。俺、病院みたいなとこは嫌いなんで」
しんどいまま何とか午後の授業を乗り切って、帰路につく。学校から家までは徒歩で辿り着ける距離なのが、せめてもの救いだ。
眼鏡は外してしまった。壊れてしまったことで完全に効果を失ってしまったレンズに、もはや用はなかったし。視力は悪くないから、色々とうっとおしいのさえ我慢すればものは見える。
さて眼鏡をどうするか、気が進まないが店を訪ねるか。果たしてそこに店はあるのか――解決策を見出すというよりは、気分が重いのをいかに振り切って面倒を乗りえるかという問題だった。
あの店も店主も、あまり好きにはなれない。
自宅が見えてきて、もう家でだらだらしてしまいたいという思いを強くしていたら。
「え、なに。うちになんか用」
母親の趣味で飾られた、そこら中に花の植木鉢が並ぶ我が家。
その前に、どういうわけだか中野の姿があった。
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