つがいの環 -Ⅰ

 高校の制服を着た子たちとすれ違う。多分、部活動帰りの子たちだ。私は私服で、学校のある駅に降りた。まだ夏休み中で、目的地も学校じゃないから全く問題はないけれど。

 図書館に本を返却しなければならなかった。貸出期間は二週間だったはずで、新学期が始まる前に期限が来てしまう。だったら夏休み中に、もう一度行かなくちゃ。

 そう思いながら準備して、改めて市立図書館の利用案内を確認する。そうしたら実は貸出期間は二週間でなくて三週間、延滞手続きも図書館のウェブサイト上でできることに気が付いた、のだけど。


(クッキー、作っちゃったし)

 新淵さんに渡そうと、お茶菓子のクッキーを焼いたのだ。

 図書館のついでが眼鏡屋さんなのか、眼鏡屋さんのついでが図書館なのかは、この時点で最早だいぶ曖昧だったけれど。夏休み中に二回も押し掛けるなんて、どうかと思ったけれど。絵本にはクッキーのレシピが載っていたし。夏休みは、とても長いし。


 今回作ったクッキーはオーソドックスなレシピで、前回作ったステンドグラスクッキーに比べて格段に作りやすかった。絵本に出てくるクッキーの形は少し変わっていて完全再現とはならなかったが、可愛いのは間違いない。くまさんの絵本が大好きだったという、小さい頃の私が見たら喜ぶんじゃないだろうか。


 市役所通りを一本外れる。路地に入ると、制服を着た生徒たちは全く目につかなくなった。

 それでも私服でこのあたりを歩くのは、二回目でもちょっと不思議な気分だ。

 今日はふんわりした感じのチュニックにパンツを合わせて、足元はサンダルだけどカーディガンはちゃんと持っている。

 洋服の下には、ガラスのレンズ。

 洋服の生地越しにその丸い感触を確かめて、思わず歩みが止まった。

 思わずあの時のことを思い出して、恥ずかしさに硬直してしまう。

 

 レンズに魔法をかける、新淵さんの指先。

 長い綺麗な指が、薄く小さなガラスレンズに触れていた。

そのレンズが今まさに自分の胸元に触れていて、冷たいはずのそれが胸を焦がすんじゃないか。

 そんな発想をすることが、あまりにも恥ずかしかった。

 だけど、それでも。

 新淵さんの大きな手とその指が魔法をかけ、仕事をし、お茶を淹れる。新淵さんの所作を、記憶が反芻する。


(指輪は、ない)

 どこか後ろめたく新淵さんの姿を思い浮かべながら、気づいたことがある。

 新淵さんは指輪を嵌めていない。

 そもそもアクセサリーの類を新淵さんは身に着けていなくて、装飾品はせいぜい襟元のループタイと、あと革ベルトのごくシンプルな腕時計くらい。

 だけどセンスとか洒落っ気とか、そういうことでなくて。

 空いた左手の薬指。

 愛を誓った相手と、指輪を交わす指。

 南波さんは、ひとりもの同士と言っていた。だから少なくとも今は、おひとりなのだろう。だけど長い人生の中で、ずっと一人だったのかはわからない。

 南波さんはひとりの今でも薬指に指輪をしているけれど、旦那さんを亡くしたのはそう遠い昔のことではない。ひとりになってあまりにも時間がたてば、頓着しなくなるものかもしれないし。そもそも、結婚してたって指輪をしない人はいるだろう。


(気にして、知って、どうだっていうの)

 どうということじゃないのかもしれない。親しくなった人の家族とか人間関係が気になるのは、そう変なことではない。学校でだってクラスメイトと、家族やお互いの知らない友達の話とかはする。

 だけどきっと、知りたいのはそういうこととは違う。

 もっと近いのは、誰それは彼氏彼女がいるとか、付き合ってる人がいるのだとか、そういう話題。

 どこから仕入れてくるのか、私が知らなすぎるだけなのか、みんなその手の話題には敏感だった。一番多いのは自己申告らしいけれど、ある男子と女子が一緒に帰っていただとか、同じ部活の子に事情を聞き出したとか。みんな楽しそうに、羨ましそうに耳にした恋バナで盛り上がるのだ。

 

 だけど私とは、情報源が違う。

 新淵さんの事情を知る人は限りなく少ないだろうし、同年代の子で指輪の有無を気にする子はまずいない。高校生で指輪をかわしている二人がいないわけではないようだけど、少なくとも意中の人が結婚しているかどうかを心配することは、ほとんどないだろう。

 そうして私は、相手がずいぶんと大人であることを思い知るのだった。


 ぐるぐると回る思考を振り払って、お店に向かって歩き出す。余計なことを考えていたら、お店に行くのだって気まずくなってしまいそうだ。

 いつもの角を曲がって、臙脂色の庇が見えた。

「あ」

 小さな黒い影が舞った。お店のポーチに降り立って、カアと一声。

「白ちゃん」

 新淵さんの使い魔、カラスの白夜が出迎えてくれた。いや、単に木か屋根から降りてきただけかもしれないけれど。近づいても飛び立つこともなく、真っ黒な目でこちらを見つめる。

「こんにちは」

 かがんで声をかける。挨拶とか、ちゃんと理解するんだろうか。カラスはもともと賢い生き物だけど、使い魔として使役されているし、もしかした白ちゃんも、ものすごく長生きだったりするのかも。だとしたら、私よりもずっとものを知っているかもしれない。

 主人である、新淵さんのことだって。


「ねえ白ちゃん」

 白ちゃんは首を傾けた。

「新淵さんって、奥さんがいたりしたこと、ある?」

 カラスのつぶらな瞳は、夜の闇のようだ。それでも暗がりの中の湖が、月の光を映すように。静かに光って、知性と理性を感じさせるのだ。

 揺れた、と思う。湖面のような深い黒色の瞳が。

 カラスの瞳に吸い込まれそうだ、と思ったら――。

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