指先から微熱 -Ⅱ

 温かいお茶を頂いて、お腹の中が温まる。独特の甘い香りがする、カフェインレスのハーブティー。ここに常備してあるお茶は、こだわったものではないと聞いていたけれど。

「安物だよ。最近は百貨店だとか専門店なんかに行かなくても、安くて面白いものが買えるよね」

 確かに、ネット――を新淵さんが利用するのかは定かではないが――では何でも買えてしまうし。

 それにこの地域、駅周辺にしたって色々買い物はできる。駅の中にある、うず高く食品雑貨を積んだお店には、輸入品もたくさん揃っている。

「人が訪ねてきてくれるんだから、せっかくなら何か用意しようって思うしね。久々に張り合いがあって楽しいよ」

 そんなことを言われては、調子に乗ってしまいそうになる。

 南波さんだって来るだろうし、ほかにもお客さんはいるかもしれないし。

「今日はなんだか体にいい感じのお茶が、スウちゃんにぴったりだったしね。体は温まったかな。頭痛はどう?」

「ありがとうございます。もうほとんど、大丈夫です」

 それでも私のために用意してくれるのなら、と心が膨らんでいくのを止めるのは、ちょっと難しそうだった。


「お代わりいる?」

 新淵さんはティーポットに手を伸ばした。持ち上げたティーポットを、中身を攪拌するようにくるくると回す。

 新淵さんの手つきを眺めていたら、布のポットカバーが伏せてある傍に、先ほど片付けていた眼鏡や道具が置いてあるのが目に入った。

「あの、もしかして何か作業中でしたか?」

「うん?」

 私の視線を辿って、新淵さんは置いてあるトレイを手に取る。

「ああ、これね。うん、ちょっと眼鏡に魔法をかけてたところ」

「魔法」

 ここでは日常である単語を、少しは馴染んだと思った言葉を、それでも特別なもののように感じて繰り返す。

「そう。これは顧客から預かった眼鏡。合わなくなってきたから、魔法をかけなおしてほしいんだって」

「魔法使いのお客さんですか?」

「うん。でも魔眼は持ってない。だからこれは、魔眼を再現する眼鏡だね」

「そういう話を聞くと、なんだか魔法使いってたくさんいそうな気がします」

「だいぶ減ったよ。でもまだ幾らか、お客さんは抱えてる。直接訪ねてくるのは少ないけど」

 そう言って新淵さんは、テーブルの片隅に置いてあった宅配伝票のようなものをひっくり返した。多分、個人情報保護の観点から。

「宅配便で送られて来るんですか」

「昔は白夜に運んでもらってたこともあるけどね。でも先方が使い魔を亡くして宅配便を使うようになってからは、うちも変えた。時代だね、物流システムは偉大だよ」

 物品を魔法でやり取りするのはとても夢がある光景だけど、現実的な手法はそれはそれで手堅いのかもしれない、なんて思う。

 

 新淵さんはトレイに乗せた眼鏡を手に取った。丸っこい台形をひっくり返したようなレンズと、それを囲むブロンズっぽい色合いのフレーム。

「魔法をかける眼鏡はね、ガラスレンズを使うんだ。プラスチックレンズでもできるけど、ガラスのが相性いいんだよね。魔法の持ちが違う」

「なんででしょう。ガラスの方が、歴史が古いから?」

 魔法は現代よりも過去のものになりつつあるというのだから、クラシックなものの方が相性がいいということだろうか、と自分なりに推測を立てる。

「そう言う人もいるね。眼鏡の歴史もガラスレンズ製から始まってるみたいだし。あとは天然ガラスなんてものがあるくらいだから、人工物しかないプラスチックよりは馴染みやすいとか……この説はどうだろうな。眼鏡のレンズなんて、ガラスにしろプラスチックにしろ人工物なんだし」

 新淵さんは首を傾けて笑った。

「結局のところ、理屈じゃないらしい」

 決まり事のようなものは全く分からない、と加えて、新淵さんは眼鏡レンズの表面を上に向けた。

「魔法なんて、理屈で使ったことないもの」

 

 新淵さんの指先が、レンズの上をすべる。

 指先が綺麗な尾を引いた。銀色の、ぼんやりとした光の筋。

 新淵さんはレンズの上で、円を描くように指を動かした。光が渦を描く。それはパレットで絵具をかき混ぜているようにも見えて、渦を描く線は一つに溶けあった。

 レンズの上でまあるく集まった光は強さを増して、膜のように揺れる。

 光が新淵さんの手元と顔を、淡く照らした。

 白く光る肌とか、髪や顔の線が落とす影とかが、新淵さんの姿を幻想的に見せる。

 そのまま光の膜はレンズの表面を覆って、最後に一層明るく輝いてから消えた。

「……綺麗」

 思わずため息が漏れる。

 美しいものも不思議なものも色々見せてもらったけれど、新淵さんが実際に魔法を使っている場面は初めてじゃないだろうか。

 宇宙や、人様の過去を覗き見ることと比べて、スケールは小さいかもしれないけれど。

 それでも新淵さんが魔法をかける姿は、あまりに綺麗だったから。

 この人は本当に、月の光でも操れるんじゃないだろうかと、馬鹿みたいなことを本気で思った。

 二枚目のレンズにも魔法をかけ終えると、新淵さんは眼鏡を静かにトレイに戻す。


「そうだ。スウちゃんにあげたレンズも、魔法かけなおしておこうか」

「え?」

「魔眼も発現しちゃったしね。もしかしたら、もうちょっと強めにかけておいた方がいいかもしれない。今日具合悪くなったのも、レンズの力がイマイチ利いてない可能性もあるし」

 手を差し出されて、私は自分の首の後ろに手を回した。

 レンズに結んだ革紐は手芸店で買ったアクセサリーパーツで、ちゃんと留め具がついている。留め具を外して、服の下に入れてあるレンズを引っ張り出した。

「お願いします」

「はい、お預かりします」

 私は革紐をつまんで、レンズを新淵さんの手元へと渡した。

 革紐はフレームにくっついた小さなでっぱりの、ちょうどくびれた部分に結び付けてある。そう簡単には外れないと思うけれど、新淵さんはレンズの方をしっかりとつまんで受け取った。

 小さなクロスでレンズを磨く。それを見て、自分で拭いてから渡すべきだったと恥ずかしくなった。

 だって毎日身に着けてるから、そんなに綺麗なものじゃないし。レンズは洋服と、中に着ているキャミソール下着の間に滑り込んでいるはずだから、肌には直接触れていないとは思うのだけれど、それでも。


 新淵さんの指が、レンズをなぞる。

 綺麗な指。

 壊れやすいガラスレンズに触れる指先は、同じだけ繊細なんじゃないかと思う。私のものよりもしっかりしているけれど、それでも彼の指は細く、長い。

(まって)

 服の胸元をぎゅっとつかむ。さっきまでレンズがあったところ。

 多分、レンズは素肌に触れていなかったと思うけれど。そういう問題じゃなくて。いや、そういう問題だろうか。

(まって、むり)

 やめてくれの待ってじゃない。嫌悪感の無理じゃない。

 多分、心臓が持たない。

 レンズに触れる指先が、レンズのあった胸元に、届いてしまいそうだなんて。

(ばかじゃないの)

 なんでこんな恥ずかしすぎる想像をしてしまったのだろう。死んでしまう。

 長い指が魔法をかける。長いのは、そもそも手が大きいから。

 男の人の手がこんなにも大きいことを、初めて知った気がする。

 小さい頃はお父さん、どころか、お母さんだって、大人の手はみんな大きいと思っていたけれど。

 私の手は今でも小さいし、新淵さんの手は、ずっと大きい。


「よし、おしまい」

 新淵さんの手元の光が収まる。最後にもう一度拭き上げたレンズを、新淵さんは私の手の中に返した。

「ありがとう、ございます」

 私の手のひらにレンズを置く時、指先が触れた。思わず手を引っ込めそうになるのを留めて、何でもないような顔でお礼を言った、つもりだけど、新淵さんの目にどう映ったかまではわからない。

 受け取ったそれを、もう一度首にかけるかどうかを一瞬悩んで。バッグにしまい込んだら不自然かなと思いなおし、また胸元に下げる。洋服の外側にレンズを出して、だけど。

「……本当に大丈夫? なんだかぼうっとしてるけど」

 顔をのぞき込むようにされて、私は慌てて無言でうなずいた。

 丸眼鏡の奥の瞳が、私の顔を心配そうに見つめてくる。

 魔眼は、見つめることで魔法をかけるものがあるというけれど、多分それは本当のことだし。

 指先ひとつでも、私は存分に魔法にかけられてしまったのだろう。

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