出逢いと目覚め -Ⅱ
小さな部屋で、南波さんとトコちゃんがくつろいでいた。
天井が低くて、どことなく窮屈な感じがする。
十代の私には生活様式の変化なんてわからないけれど、ここは古い時代のお部屋なんじゃないだろうか。
私の家にはない、襖や畳がある。かといって日本家屋といった風情でもなく、狭めの部屋にぎちぎちに家具が配置されている。箱形のテレビや、背の高い箪笥。
ブラウン管テレビを骨董品扱いするほど、自分が未来に生きているとも思わない。だけど我が家のリビングでは、薄型テレビを使っている記憶ばかりだし。うちはクローゼットがあるから、大きな箪笥もない。
だから目に映るお部屋は少し古い時代のものか、古い部屋やものを大切に使い続けている場所だ。
襖が静かに――もとより、映像に音はないけれど――開いた。
南波さんの膝の上のトコちゃんが飛び出す。南波さんはゆっくり顔をあげて。
穏やかに、微笑んだ。
襖の向こうから現れた男の人。
南波さんと同じ歳くらいか、少し年上だろうか。足に飛び付いてきたトコちゃんを抱え上げる手の、左手薬指には指輪を嵌めている。その人はトコちゃんを抱くと、目尻を思いきり下げて笑った。
「誰……?」
つぶやいたら、腕の中からトコちゃんが逃げて行った。生き物が腕をすり抜けた感触に、我に返る。
南波さんと新淵さんの顔がはっきり見えて、白昼夢みたいな映像はかき消えた。
「どうしたの、澄香ちゃん」
しきりにまばたきを繰り返した。気遣わしげな南波さんの顔。
「……今、よく分からないものが見えたんです。映像みたいなのが、目の前に」
「本当?」
新淵さんが前のめりになる。いつか見せたような、難しい表情。
「えっと、はい。どこかの古いおうちかな、南波さんと、トコちゃんがいました」
「私?」
「はい。それで、男の人が出てきたんです。トコちゃんが凄くなついてるみたいで。あ、結婚指輪かな、してました。真ん中が、ねじれたようなデザインのやつ」
なんとなく、印象に残っていたのだ。男の人らしい太い指に光る、銀の指輪が。
その言葉に、南波さんはぽかんと口を開けて。
「ええー、なにそれ……」
戸惑うように口にして、ひらりと左手を持ち上げた。
「多分それ、私の旦那だわ」
薬指に指輪。輪を一回ねじったシルバーリング。指輪を嵌めた左手を頬に添えて、南波さんは困惑したように笑った。
「なんでそんなものが、見えたんだろうね?」
「スウちゃん、魔眼持ちなんだよ」
耳慣れない言葉を、新淵さんが口にする。
「なんですか、それ」
心当たりがなかった。言葉にも、不思議な現象にも。
「魔力を宿した目とか、目に魔力を集中させた状態のことを言うの。目や、見ることを通して魔法を使える」
いつもの穏やかな表情から一転して、真剣な表情で新淵さんは語る。
「人や物を見つめることで、魔法をかけるとか。肉眼では見えないほど遠くを、見ることができるとか。未来とか過去とか、普通は目には見えない光景を見るとかね」
魔眼とやらの説明は、何となく理解できるのだけれど。
だけどその魔眼を、私が、持っている?
「スウちゃんは、人の記憶を見ることができるタイプかな」
「そうなの? それって眼鏡屋と一緒じゃないの」
状況がよくわかってもいないのに、また気になることを南波さんが口にした。私が魔眼持ちで、新淵さんも、私と一緒、とは。
「え。私と新淵さんの魔眼? とかって、何か関係あるんですか」
「んー、あるかもしれないし、ないかもしれない。あんまり混乱するようなこと言うと悪いかなと思って、今まで言わなかったけど。僕がスウちゃんに声かけたの、魔力を持ってるって気づいたからなのね。スウちゃんが体調崩しやすかったの、魔力が体の負担になってたからだと思うよ」
「えっ」
そんなこと、全く考えもつかなかった。
当たり前だ。魔法なんて、この世に存在するとも知らなかったんだから。
「体調悪いの、ずっとだったんだよね。だったら僕と逢うずっと前から魔力持ちだったってことだし、魔眼も同じくらいの間、身に秘めてたんだと思うな」
思わず自分の右目瞼に触れる。右目が魔眼だという確証はない。左かもしれないし、両目かもしれない。ただ、利き手である右手を伸ばしただけだ。
「僕が声をかけたことで、スウちゃんが持つ魔力に影響を与えた可能性は、ある。使える能力のタイプが似てしまった可能性もね。なんとも言えないけど」
新淵さんは、小さく息を吐いた。
「僕、スウちゃんに声をかけるべきじゃ、なかったかな」
その言葉は、私の心を刺した。
鋭くはない、だけどずしずしと胸を重く叩く。
だって出逢いをなかったものとするなんて、あんまりだ。
もしもの話でも。あの日のことを否定してほしくなんて、ない。
「薄情なこと言うんじゃないあんたは!」
ぺしん、と小気味のいい音がした。南波さんは、新淵さんの背中をぺしぺしとはたく。
「え、なんで薄情者呼ばわりなの。ごく普通の人なら、魔法なんて使わないんだから。開花なんてしない方が、一生、魔力があることなんて知らずに人生やり過ごせるじゃない」
「魔力を持て余して、体に悪影響が出てたんでしょ? それで放っておいたら、可哀想じゃないの」
「魔力を制御する呪具なら、初めて会った時に渡したんだよ。魔力持ちであるだろうことは黙って。それがそのままうまく作用すれば、それで済むと思ったのに」
新淵さんから渡されたものと言えば、レンズだ。あれがどうやら、なにがしかの魔法のアイテムになっていたということだろうか。
「なのに魔眼の能力が、こうやって本格的に発現しちゃうとはね。二度目にスウちゃんがお店に来て、縁ができた時点でもうどうしようもなかったのかな」
「だから、どのみちそういう縁だったんでしょ」
「そうだけどさ。ちょっといろいろ、考えちゃうでしょう」
「まあ、あんたなりに澄花ちゃんを、思いやったんでしょうけど。だから澄花ちゃんも、気に病むことないよ」
「えっと、はい……」
不測の事態や情報を処理するのは、とても苦手だ。戸惑いながら、返事をして。
「大丈夫、です」
重く沈みかけた胸に、深く息を吸い込む。
新淵さんの思いやりとか、南波さんの気遣いとか。知らない魔法の世界を前に、見逃してしまいそうなそれらを何とか掴みながら、私は新淵さんの目を見た。
「私には、魔法とか魔力とか、わかりません。だけどあの日、新淵さんが私を助けてくれたこと。本当に嬉しかったと、思ってます」
お礼の言葉でも、クッキーでも、感謝は伝えたけれど。
想いは何度告げたって、良いだろう。
私がこのお店に来ることを、後悔で塗り潰すようなことは、してほしくないから。
眼鏡越しに合わせた新淵さんの目が、見開いて。
「……そっか。うん、それなら」
よかったかな、とささやくように新淵さんは言った。
新淵さんの広い肩から力が抜けた、ように見えた。
「よしよし」
南波さんはおまけのようにもう一度、新淵さんの背中を叩く。力の抜けた新淵さんの肩が、小さく跳ねた。
「あの、さっきから痛いんだけど」
「おっと、ごめんごめん」
新淵さんの背から離した左手に、指輪が光る。
「南波さん、ご結婚されてるんですね」
左手薬指のそれに気づいていなかった。さっき目にした男の人と揃いのデザインだ。
「五年位前に、先立たれちゃったけどね」
あっさりとした、南波さんの言葉。
そうだ、ひとりものだと。寂しいと、言っていた。
こういう時に、どんな反応をしていいのかがわからない。
「澄花ちゃんには見えたんだ。まだ生きてた頃の、私の旦那」
「多分、ですけど」
「私、旦那と一緒になってからほぼずっと、おんなじところに住んでるんだけど。築五十年越えの、狭い家。古いおうちって言ってたけど、時代が古かったのか、ボロッちくなってたのか、どっちだろ」
「えっと、時代とかはわかりませんけど。南波さんは今とあんまり変わりませんでした。男の人は若くて……南波さんと同じ歳か、少し上くらいで」
「ああ、そう。じゃあそれは昔のことだ。まだ建物も新築で、旦那も若かったんだろうな。あの人は魔法使いじゃなくて、普通に老けたからね」
「普通、に」
歳の取り方に、本来なら普通も何もない。老化現象に差はあっても、年齢の積み重ね方は誰しも一歳ずつだし。同じような生活をしていれば、人間の平均寿命に大きく差はない。
「あ、澄花ちゃんはね。魔力持ちでも私らみたいに非常識に長生きはしないよ、きっと」
安心して、と言う南波さんの説明を、新淵さんが引き継ぐ。
「現在、長命なのは、昔っから生きてるような魔力持ちばかりだからね。魔法や魔力は、もうこの先は時代が進むごとに減退する一方だ。魔法使いの血脈も遺伝子も、そうそう濃くは残っていないから」
話を整理しながら、私は問いかけた。
「私、自分が魔力持ちだなんて、全く知らなくって。両親や祖父母だって、魔法とは全く無縁だと思います。それって、先祖には魔法使いとかがいたかもしれないけど、もう魔法の血脈が途絶えてるってことですか?」
「んー、スウちゃんの魔法が発現してるんだから、正確には途絶えたとは言わないね。ただ、もう忘れられちゃって、現在に生きている人たちが知らないってことなんだろう」
私は家系を遡ってみたことなんてない。それらしい人たちに行きつくところまで遡れる気もしないし、遡れたところで、きっと気づきもしないんだろう。
「今の人は知らないくらい、魔法の血も力も薄まってる。ここ五、六十年で生まれた人たちは、魔力持ちとして生まれたとしても普通の人間と変わらない。スウちゃんみたいに体調が振り回されたりとかはあるだろうし、何かのきっかけで魔法の力が発現するってケースも稀にはあるだろうけど。それでも気づかないままってことの方が多いと思うな」
だけど私は、魔法の世界の一端を知ってしまった。魔眼とやらを使えるように、なったかは知らないけれど。経験は、した。
「私の旦那は魔力は持ってなかったし、魔法について何にも知らなかったけど。でも五十年以上連れ添ってくれたよ」
自分の腕へ帰ってきたトコちゃんを抱きながら、南波さんがつぶやく。
「生きていく時間が、違ってもさ」
南波さんが笑って口にする言葉は、胸に迫る寂しさがあった。
「だから子どもも、できなかったしね。こっから先、独りの人生がまた長いわ」
まるで幼い子どもをあやすように、南波さんはトコちゃんの背を撫でた。
「いや、もう少しの間は独りと一匹かな。そういえば、動物の記憶って見えるのかね。トコちゃん、お父さんのこと覚えてますかねえ」
お父さん、とはきっと旦那さんのことだ。
おとうさんという響きがなんだか温かく染みてしまって、私は思わず言っていた。
「試してみましょうか。あ、でも、ただ見るだけでいいのかな。どうしよう、やり方なんて……」
「ああ、ごめんごめん。いいの、言ってみただけだから。澄花ちゃん、良い子だね」
ねえ、と南波さんはトコちゃんに同意を求めた。トコちゃんの金の瞳を見ても、なにもわからない。
「あの。私が見た、旦那さん」
だから幻でもなんでも、私は見たままを言うことしかできないけど。
「すごく優しそうに、笑ってましたよ」
それでもあの光景が、南波さんに寄り添ってくれれば良いと願う。
「うん、そっか。久々に、旦那の思い出に浸れそうだわ。ありがとうね、澄花ちゃん」
南波さんは穏やかに笑った。記憶を見透かしたのだという、あの時見た光景の中の南波さんと、同じように。
「なんだかいっぱい色んなこと話しちゃって、ごめんね」
南波さんが帰った後、新淵さんは新しい飲み物を淹れなおしてくれた。甘いお茶菓子がたくさんあるけれど、マグカップにたっぷりのココア。
ティーセットとは別に用意された大きなマグカップに口をつけて、チョコレートの甘さに息をついた。
「色々と、びっくりはしましたし、まだよくわかりませんけど。ゆっくり考えていければ、良いかなって思います」
「うん。何でも言ってね」
新淵さんとこうしてたくさん話せるのなら、色んなことをゆっくりと知っていきたい。
「今回、初めて魔眼が使えたのは、初対面の南波のことを知りたいって思ったことがきっかけじゃないかな。これから先、同じような場面では魔眼が発動することもあるかもしれない。変わったことや戸惑うことがあったら言ってね、相談に乗るから」
「はい。ありがとうございます」
不安がないわけじゃないけど、新淵さんが気遣ってくれて少し心強い。
「お。雨、止んだかな」
窓の外に目をやると、灰色の雲が切れて白い光が降りてきていた。窓を濡らす水滴が光って、久しぶりの太陽に目が眩みそうになる。
天気も時間もちょうどいい頃合いというところで、私は眼鏡屋さんを後にする。
「お邪魔しました」
「またおいで」
静かに閉じられる扉を少しだけ見つめて、私は水たまりをよけながら踏み出した。
知りたいって、思ったから。
もっと本気で知りたいと思ったら、新淵さんの記憶ものぞけたりするのだろうか。
なんとなく邪な考えな気がして頭を振ると、その頭上からカアという声が降ってきた。
「あ、白夜……だっけ」
雨露の光る木の上に、一匹のカラスが留まっていた。カラスの区別なんてつかないけれど、こちらをじっと見つめているから、新淵さんの使い魔である白夜ではないかと判断する。
「白夜……
カラスは答えない。
「白ちゃんは長い間、新淵さんのこと見てきてるんだよね。今までの新淵さんのこととか思い出とか、記憶にない?」
黒い羽毛に紛れても、こちらを見つめる目がはっきりとわかる。
その目とどれだけ見つめあっても、使い魔の記憶をのぞき見ることはできなかった。
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