出逢いと目覚め -Ⅰ
「もう七月かあ。一年が半分も終わっちゃった。あっという間だね」
窓の向こうを眺めながら、新淵さんは言った。
梅雨はまだ明けない。
朝から灰色だった重たい雲は、午後になると一度、大粒の雨を降らせた。落ち着いたと思ったら、弱い雨と強い雨とを繰り返す。学校を出る頃は微量だった雨も、お店に着いた時にはまた音を立てて降ってきた。
銀色の文字が浮かぶガラス窓に、雨が打ち付ける。濡れた窓と、こもった湿気と。
まるで水槽に閉じ込められてるみたいだった。それでなくてもこの眼鏡屋さんは、時間の流れが店の外とは違うような感じがして、外界から切り離されたようなのに。
「新淵さんでも、一年の早さを感じたりするんですね」
「感じたり、感じなかったりだよ。カレンダーはそれなりに追ってないと、いよいよ時間の感覚をなくしてしまうし。それでも別に構いやしないんだけど」
三百年という永い時を生きる魔法使いの、時を刻む感覚。
丸眼鏡の奥の瞳に、季節が移ろう様がどんな風に映っているかを知ることはできない。もどかしい反面、新淵さんの浮世を離れた雰囲気に魅入られもしてしまう。
「何年、何度経験しようと、毎年この時期は雨続きで滅入るね。早く梅雨が明ければいいのに」
「そうですね。学校行くのも出歩くのも、嫌になっちゃいますし。傘を持ち歩くのもちょっと邪魔で」
入り口の脇に備えられた傘立てには、私の赤い折り畳み傘が差してある。蔦の絡んだ細長い籠みたいなデザインの、アイアン製の傘立てにあるのは私の傘だけ。
新淵さんは、お店にはどうやって来ているんだろうとふと考える。
店舗兼住居という雰囲気ではないし、隣近所に住んでいたとしても、雨の中を傘も差さずに歩くのは厳しいだろう。単に、傘はバックヤードに下げているのかもしれないけど。
「ああ、傘ってなくすよね」
「あ、そうそう。私、よくやらかします」
お店にどうやって来ているのか、どこの辺りに住んでいるのかを聞こうかと頭をよぎった。けれど知らないことは、知らないままでもいいかもしれないとも思う。
新淵さんは不思議な人だ。
彼のことを、もっと知りたいとも思うし。
なにも知らないまま、夢の中で出逢った人みたいなままでいてほしいとも思ってしまう。
「でも、梅雨が明けると暑くなるんだよなあ。スウちゃん、学校来る時とか熱中症に気を付けるんだよ」
「わ、ありがとうございます。気を付けます」
気に掛けてもらったことに、内心で舞い上がる。
「ああでも、学校はもうすぐ夏休みなのか」
「はい。補習とかあるので七月は少し来ますけど、八月は丸々お休みです」
「そっか。じゃあしばらく会えなくなるね。寂しいなあ」
寂しい。
何気なく言ったような、その言葉の意味をしばし考えた。
会えなくなる。夏休みだから。
だから寂しい。
「いえ! 学校なくても、お店には来れますけれど!」
思わず勢い込んで言ってしまった。自分でびっくりして、落ち着けと言い聞かせる。
会えないとか、寂しいとか、新淵さんの言葉にはきっとそこまで深い意味はない。単に、登校しないならお店の近くに来ることがないだろうという考え。夏休みはひと月ほど、学校があったって、ひと月の間にお店を訪ねるのは二、三回がいいところだ。毎日来ているのが途切れるとかじゃないんだから、本心では言うほど寂しくないはず。
「僕はいつだって歓迎するから、夏休みだってなんだって来てくれて構わないけど」
「……はい。行きたいと思ったら、行きます」
血が上った頭を冷やしながら、それだけ答えた。
「お茶、もっと淹れようか」
落ち着こうと口にした紅茶はすっかり空になって、それに気づいた新淵さんが席を立つ。
「ありがとうございます。いただきます」
お茶請けは菓子盆に盛られた、とりどりのお菓子だった。キャンディー包みの一口チョコレートとか、シンプルなバタークッキーとか、小さなチーズクラッカーとか。新淵さんがテーブルに用意してくれたお菓子のあまりの飾り気のなさに、席に着いた時は力が抜けた。気楽に手を伸ばして、チョコレートを口に放り込む。
「美味しいよね、それ」
「はい。好きです」
私はと言えば、さすがに毎回手作りはできないけれど、あまりつまらないものは持っていきたくなくて。それで最初は、ショッピングモールの食品フロアに入店する洋菓子店で、個別売りの焼き菓子をいくつか選んで持って行った。
『気を使わなくていいよ』と言ってくれた新淵さんは、学生の私が張り込んだ手土産を持参することに心苦しさを感じたし、困りもしたのだろう。それで安価で、どこでも手に入るお菓子を用意してくれるようになった。だから今では、私もせいぜいコンビニのお菓子を持参するくらいなのだった。凝ってみたくなった時は、また作ってみてもいいし。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
湯気の立ち上るティーカップを受け取る。白いシンプルなティーセットの一揃えは来客用ということだけど、最近はあまり出番がなかったらしい。私ばかりが図々しく押しかけているのだろうかと思いながら、熱い紅茶をすすった。
お互い淹れたての紅茶を口にして、しばし沈黙が生まれる。
と、静かになったところに。
カアと一声、カラスの声が響いた。
「あれ」
新淵さんが顔を上げた。店の外、かなり近いところから続けて鳴き声が聞こえる。
「使い魔さん?」
鳴き声の判別なんてつかないけれど、このお店のそばにいるなら新淵さんのカラスではないだろうか。私をお店まで導いてくれたあのカラスは、確か使い魔と呼ばれていたはず。
「雨だから、お店に入れてほしいのかな」
「いや、あの子はほとんど野生と変わらない過ごし方をするからなあ。雨なら雨で、木陰やら軒下に入るはずだけど」
ティーカップを置いて、新淵さんは再び席を立ちあがった。
「なんだろね、あの子は」
「あの、使い魔さんは何て名前なんですか」
そういえば、新淵さんが『あの子』とか『お前』とか呼ぶのしか聞いたことがないので、名前を知らない。
「言ってなかったっけ」
「うーん、聞いていないと思います」
「
「ビャクヤ?」
「白い夜ね」
響きと漢字を当てはめて、思い浮かべる。知らない言葉ではない。
「確か、ずっと日が沈まないことを言うんでしたっけ。外国でそういう現象が起こる地域があって」
「そう、それ」
新淵さんの使い魔、というよりは、一般的なカラスの姿を想像する。
「カラスって、真っ黒で夜っぽいですけど。でも、黒い羽毛なのにあえて白い夜なんですか?」
「うん。カラスを使い魔にして、真っ先に夜をイメージしたんだけど。でもちょっと安直だし、いっそ真逆に白ってつけたら、面白いかなって」
新淵さんの解説に、私は思わず笑った。
「やっぱり変かな」
「いえ。その、私、お店の名前を『銀の月眼鏡店』ってして、ちょっと少女趣味っぽくて申し訳ないかなあって思ってたんですけど。だけど白夜も、なかなか、その、ロマンチックかなと」
おかしさ半分、安堵半分で笑った私を見た新淵さんは、小さく首を傾ける。
「そうかな。我ながら、ひねくれた名づけだと思ったけどな」
そのひねくれた名の持ち主は、相変わらず鳴き続けている。誰かを呼ぶような鳴き声に、新淵さんが扉に手を掛けると。
「あんたんとこの使い魔うるっさいんだけど眼鏡屋ぁ!」
雨音に負けない大声が飛び込んできた。声とともに勢いをつけて開いた扉にぶつからないよう、新淵さんはぎりぎりで身をかわす。
「なんだ、君か」
どうりであの子がうるさいわけだ、と新淵さん。来客を中に招き入れると、白夜の鳴き声が止んだ。
「あのカラス、トコちゃんにいっつも喧嘩売るんだから」
怖かったねえと、肩から下げた大きな鞄に何やら話しかけている。
(女のひと)
やってきたのは女性客。眼鏡屋さんの顧客なのか、新淵さんの個人的なお客様なのかは知れない。
「え。あの子、とびかかったりした?」
「私たちに向かって、鳴き喚いただけだけど。でも、カラスって子猫とか襲うから」
「……まあ、相性はよくないんだろうけど。実際に怪我させられたとかじゃなければ、あんまり悪く言わないであげてくれるかな」
「でも、こっちは傘で手もふさがってるしさあ。反撃できないじゃない」
ぶつくさと言い募りながら、女性は手にしていた傘を、巻かないまま傘立てに突っ込もうとした。けれど私の傘に気づいて、手を止め、こちらを向く。
「……あらま」
瞬いてから、女性は赤い傘の持ち主である私を凝視する。
「そういえば、若い女の子ひっかけたって言ってたっけ」
「だから君は、そういう言い方を」
「ああ、ごめんごめん。失礼な言い方だわね、こんなかわいらしい女の子に対して」
「僕にもね」
女性はまっすぐにこちらに向かってきた。
すらりとした細い人だけど、足取りは妙に力強い。歩くたびに、ハイヒールがコツコツと硬い音を立てた。
「どうも、はじめまして」
「……はじめまして」
思わず、少し身を引いてしまった。初対面の人と話すのは、得意じゃない。
「私もうっすらとしか聞いてないんだけど。最近、眼鏡屋のお客になったんだって?」
「あ、えーっと……。なにも買い物してないので、お客さんとは、違うのかもしれないんですけど。でも、よくお店には、入れてもらってます」
「そうなの? まあ、魔法がらみの人間関係なんて、深く詮索するもんでもないから。何でもいいけど」
魔法がらみ、なのだろうか。確かに、不思議な経験をさせてもらってるけれど。
というか、つまりはこの人も魔法がらみのお知り合い、でいいのか。
「制服着てるってことは、高校生かな。学校に行ってるんだから、私らみたいに年齢不詳ってわけでもなさそうだね」
「はあ」
戸惑って、生返事になってしまった。
けれど、私らみたいにってことは。
「っていうか、女子高生が得体のしれない男のところに出入りしてるとか、おばちゃん心配になっちゃうわあ」
「
勢いづいた女性の言葉を、新淵さんが遮る。
怒っているのではなく呆れているような声音は、相手をよく知った上でたしなめるような響きがあった。
「スウちゃん、困ってるよ」
「スウちゃんって。本当は何ちゃんよ」
「中野澄花ちゃん」
思わず、変な声が出る一歩手前だった。新淵さんによる、フルネームに『ちゃん』付け呼びもなかなかの破壊力だったので。
「澄花、でスウちゃんね。うーん、スウちゃんだとなんか昔のアイドルの名前みたいだから、澄花ちゃんでいい?」
「僕のセンスが昔だと言いたいんでしょうかね、君は」
「そんなことは、ないです。スウちゃんって呼んでもらえるの、あの、好きですし」
最後は思い切って言ったつもりだけど、声は小さくなってしまった。
女性はまた瞬きをして、私を見つめて。
「じゃあ、私もやっぱりスウちゃんて呼ぼうか?」
弾む声で聞いてきた。ずいぶんと面白そうに。
「あ、えと。その、澄花で……何でも、いいです」
何でもは、良くないけど。うまく言葉にできなくて、そんな風に言ってしまう。
「やっぱり澄花ちゃんって呼ぼうっと」
愉快そうに言って、女性は新淵さんの肩を叩く。
「かわいらしいお嬢さんだからね、扱いには十分気を付けてあげなさいよねえ」
そうして、男は狼だとか慎めだとか、謎のフレーズを口ずさむ。昔のアイドルの歌、らしい。
「私は南波
「で、今日は何の用事?」
あっという間に自分のペースに私たちを巻き込んだ南波さんに、新淵さんは冷静に尋ねた。
「んー。単純に、遊びに。この間久々に会ってから、やっぱりたまにはお仲間同士、交流を持つべきだよねと思ってさ」
南波さんはティーセットでいっぱいになったテーブルを避けて、さっきまで新淵さんが座っていた椅子の上に鞄を置く。
「まあ、トコちゃんの病院に行ったついでなんだけどね」
南波さんが鞄のジッパーを開けた。大きく開いた口を思わずのぞき込むと、鞄の奥に固まる毛玉と二つの目が見えた。
「猫ちゃん!」
つい大きな声が出てしまった。だって鞄の中身が黒猫だなんて、あまりにも魅力的だったから。
「ああ、大きな声出してごめんね。怖いよねえ可愛いねえ」
「スウちゃん、猫好きなんだ」
「猫も犬も、動物は好きです。うちでは飼ってないんですけど……はあ、可愛い」
声が浮ついてしまうのが恥ずかしい。それでも可愛らしい黒猫に、心が溶かされていくのを止められない。
「可愛いでしょ、トコちゃんって言うの」
「常闇ちゃんね」
「それはいいんだよ眼鏡屋」
新淵さんの言葉を冷たく遮りながらも、南波さんはトコちゃんには甘く声をかけた。
「出てくるかなー? お姉ちゃんがいるよー」
南波さんはそっとトコちゃんを抱いた。ゆっくりと、私の腕へとトコちゃんを預ける。
生き物の温かさと、ふわふわとした毛並み。
「……可愛い」
うっとりと息を吐いた。もふもふとした手触りは、なんて癒されるんだろう。
「おとなしいねえ、トコちゃん。澄花ちゃん、気に入られたのかも」
「動物に好かれるのかな。スウちゃんのこと、白夜が店まで連れてきたし」
「あらま。あのカラス、そんなことしたんだ。お客を連れてきてやろうと思ったのかね。主人が引きこもって、一人寂しそうだから」
寂しい。新淵さんが。
南波さんの何気ない言葉に、私が思わず瞬きをしたのは。新淵さんの知らない一面を、のぞき見ようとしたからかもしれない。
新淵さんの泰然とした佇まい。出番のなかったティーセット。躊躇いなく口にする、自身の老い。
――しばらく会えなくなるね。
――寂しいなあ。
私という、目新しい客。
「寂しそうに見えるものかね」
新淵さんは小さく首を捻る。
それは使い魔の目から見た、いや、ただの南波さんの想像に過ぎないのかもしれないけれど。
私には、わからないのかもしれないけれど。
「どうかね、知らんけど。ま、とにかく私ら長生き同士、仲良くやっていこうじゃないの。ほら、私たちってひとりもの同士じゃない。あ、ひとりと一匹か。なんにせよお互い寂しい身だし」
南波さんもどうやら、規格外に永く生きている人らしい。だから親交を温めているのかもしれない。
ひとりもの同士、ということに。寂しい身である、ということに。深い意味があったりは、しちゃうんだろうか。
もどかしい。
新淵さんと南波さんが過ごしてきた時間は、当たり前の時間を生きる私から見たら、気が遠くなるほど。
積み重なる二人の永い生を、過去を。私が知るのは困難だろう。
(それでも)
見えないものを見ようとする目が、目蓋を閉じて、開いて。
網膜が目の前に立つ南波さんの姿を映した、はずが。
南波さんの輪郭がぼやけて、溶ける。
私の目に、目の前の景色とは違うものが映った。
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