窓に浮かぶ月 -Ⅰ
こんなもので、本当に良かったんだろうか。
六月下旬のある月曜日、眼鏡屋さんの入り口。
私は今更、自分の選択に迷っている。
道にはもう迷わなかった。銀の足跡は見えなかったけれど、いつもの路地で角を曲がったらお店はあった。
本当に招いてもらっているんだ、と思ったら嬉しくなった。特別な用事はないけれど、いつでも来ていいと言ってもらえたから。
私だって、いくら平日は毎日学校に通ってきているからって、お店に日々通い詰めるなんて非常識だってわかってる。
それに新淵さんが、いつでもお店に来られるようにしてくれると言ってくれたから。それだけで変に焦ったりしなくなったし、通学の度にお店のことばかり気にしてしまうこともなくなった。
何かきっかけができたならその時でもいいし。もしかしたら唐突に逢いたいな、と思うかもしれないから、その時でもいい。
(逢いたい、は。なんか、我ながら恥ずかしい発想だな)
いやでも、馴染みのお店とかがある人って、店員さんと仲良くなって会いに行く感覚の人もいるっていうし。
何となく自分に言い訳をする。というか、今日はきっかけというか、理由があるし。
手に下げた小さな紙袋に目をやる。セロファン包みの透明なひだがのぞいた。
お礼を渡したかったのだ。
先日お店を訪ねた時、手土産一つ持っていなかったことを後悔した。新淵さんはきっと、気を使うことはないと言う気がする。だけど私が新淵さんに感謝しているのは、本当のこと。それに『茶飲み友達』というなら、お菓子の一つでも持参するのは自然な流れだと思う。
そう思って、お渡しするのにぴったりなものを探しまくったのだが。
本当に、こんなもので良かったんだろうか。
いざお店の前まで来てみると、喜んでもらえる品を用意できたのかどうか、すっかり自信が無くなってしまったのだ。
読めない文字らしきものが踊るガラス窓を一瞥する。窓の向こうに、新淵さんの姿は確認できなかった。
「中野さーん」
スマホの画面上に、視線と指を滑らせる。
スクロールすると現れる、おしゃれで美味しそうなお菓子とか、カラフルなギフトボックスとか。どの写真にも、胸の弾むような解説や商品説明が添えられている。魅力はこれでもかと、むしろもうお腹いっぱいですというくらい伝わってくるので、ほとんど飛ばし読みになってしまう。ページを切り替えると、興味のない広告が飛び出してきて気をそがれた。
「中野さんってば」
「はい?」
画面から目を離して顔を上げると、ノンさんたちが席を囲んでいた。ノンさんとマユユさんは、いつものように私の後ろに座るウッチーさんの机に集まってお喋りをしていたようだ。何か用事があって、私の座席を囲むような状態になった、らしい。
「ごめんね、ちょっとスマホに集中してて」
「何、トーク中だった?」
「ううん。ちょっと探し物」
「何か欲しいものでもあるんだ」
相談、してみるのもいいかもしれない。
それくらいのお喋りに付き合ってもらうのは、大丈夫なはず。
「えっと、人に渡す手土産みたいなのを探してるの。お世話になった人がいて、お礼がしたくて」
「友達への誕プレとかじゃなくて?」
「ううん。もっと大人の人だし」
大人っていうか、三百歳越えているらしいんだけど、とは、言えない。とにかく、私みたいな学生よりずっと年上の。
大人の、男の人だ。
「感謝は伝えたいんだけど、高価なものとかだと何か違うし、受け取ってもらえなそうで」
お父さん以外の男の人に、何かを贈ったことなんてない。新淵さんは何を贈っても笑って受け取ってくれそうだけど、何を選んでも『それなり』にしかならない気がしてしまう。
選ぶのは、やっぱり苦手だ。
「だからお菓子とか、お茶うけになりそうなものくらいが良いかなって。だけどコンビニとかで適当に買ったお菓子はもっと違うし……」
「大人にお礼の品って言うと、もうそれは親とかに相談するレベルじゃない?」
マユユさんが首を傾げた。
「習い事の先生とか、親戚とか? それだと親に言った方がいいかもね。お金出してもらえるかもしれないし」
新淵さんや眼鏡屋さんのことは、親にも、誰にも話したことはない。
具合の悪いところを保護してもらったのだ。それが『普通の』出来事だったなら、少なくとも親には話していただろう。それこそ、お礼でも用意しなくちゃと親が言ったかもしれない。
だけどあの日、見た光景は。
不思議な眼鏡屋さんと、その店主さんは。
(私だけの、秘密だ)
「じゃあ、こういうのはどう?」
切り替えるようにノンさんが言った。
「っていうか、中野さんにもあげようと思って呼んだんだよね」
ノンさんは腕に下げていた紙袋から、タッパーを取り出した。青いプラスチックの蓋を、容器から剥がすように開ける。
「わ、クッキー!」
タッパーの中には、様々な形のクッキーが入っていた。凝った作りのクッキーで、きらきらとしたデコレーションが綺麗だった。見るからに美味しそうだ。
「これ、手作りなの?」
「うん。昨日いきなり作りたくなっちゃって。材料あったから作っちゃった」
いっぱい焼いたから食べて、とタッパーを差し出される。私はハートのクッキーを一枚、そっとつまんで口へ運んだ。
「ん、美味しい。すごいねこれ、こんなの手作りできるんだ」
さくっとした歯触りに、バターの香りが豊かだ。デコレーションの部分が砕ける、ぱりぱりとした触感が面白い。
「プレゼント、お礼の品だっけ? 手作りってのはどう」
「手作り……」
手の中のクッキーをまじまじと眺めた。まあるく型抜きされた、ほんのり黄色い生地と、輝くようなデコレーション。
「これ、すごくいい」
すこし変わった造形の、手作りクッキー。これならもしかしたら、喜んでもらえるかもしれない。
「でも、私。お菓子作りなんて、ほとんどしたこと無くて」
手作りなんて選択肢、お礼探しを始めてから全く思い付かなかった。お菓子なんて、ホットケーキくらいしか作ったことがない。
「大丈夫、大丈夫。結構簡単だから。レシピ、スマホで検索してみなよ。いくらでもあるから」
待受画面の検索ボックスに、ワードを打ち込む。画像といっしょに、いくつもレシピが出てきた。慣れない私には、難易度が高そうに感じる。だけど丁寧な解説のレシピもあるから、きちんと準備して頑張れば、なんとか。
「ありがとう、
「あー、ノンでいいよー。みんなそう呼んでるし」
「え、あ、その方がいい、のかな?」
私はみんなの顔を、代わる代わる見た。
「っていうか、中野さんもなんか呼び方考えない? いつまでもよそよそしいのもね」
「だねー。どうしよっか」
能登さんがノンさんで、
「中学とか、今までなんて呼ばれてた? 中野……ナカちゃん。名前は澄花だっけ」
呼び方候補を上げてくれる。つい最近、似たようなことがあったような。
「スミカ、ス……」
「な、ナカちゃんで!」
三人が、ちょっとびっくりしたような顔をした。我ながら、勢いがあった気がする。
「ナカちゃんがいい? スミちゃんでもかわいくない?」
「あ、ナカちゃんでも、スミちゃんでも、呼びやすいほうでいい、です」
大声を出したことに、気まずくなりながら答える。
だけど。
(スウちゃんは、ひとりだけ)
その発想に自分で恥ずかしくなって、思わず目を伏せた。
「お母さーん。うちって、お菓子の型ってないの? クッキーとかに使うやつ」
キッチンの戸棚をざっと見まわして、お母さんに尋ねる。我が家にはお菓子作りという文化が存在しないので、期待はしていなかったが。
「にんじんとかに使う抜き型ならあるけど」
お母さんは、お箸やフォークなんかの入った引き出しを開けた。奥の方に無造作に転がった、桜の形をした抜き型を取り出す。
「そういうのじゃなくて、もっと可愛いやつ」
桜は桜で可愛いけれど。出来上がりはきっと、煮物に散らしたにんじんみたいになるに違いない。小さすぎて、今回作りたいクッキーには不向きだろうし。
「なあに、なんかお菓子作るの」
「ちょっとね」
「珍しいこと言いだしちゃって」
理由を聞かれたらどうしようと身構えたが、お母さんは意外なことを言い出した。
「捨てちゃったよ、お菓子の抜き型なんて。せっかく買ってあげたのに、澄花ってば見向きもしなかったんだもの」
「え、前はうちにあったの?」
手作りおやつと言えば、せいぜいホットケーキくらいしか出てこない家だったのに。
「そうだよ。あなた小さい頃、お菓子作りしてみたい、してみたいってうるさく言ったから。だから買ってきたのに、用意したころにはすっかり熱が冷めちゃってて」
恨みがましく言われて、私は記憶を探ったが。
「何それ、全然覚えてない。私、お菓子作りしたがったことなんて、ある?」
まったく思い出せなかった。小さい子がお料理に興味を持つのは珍しくはないだろうから、一時的にそういう気分になったことがあるのだろうか。
「ま、私もお菓子作りなんてやらないから、しつこく誘わなかったけど。なんでだったっけかなあー。アニメの影響だったかなあ、おままごとの延長かなあ」
お母さんは、手の中で桜の抜き型を弄びながら考え込んだ。
「あ、あれよ。絵本!」
「絵本?」
「そう。確か、くまさんがクッキー作りをする絵本。思い出したわ。澄花、その絵本が大好きで。絵本にクッキーの作り方も載ってて。それでだよ、クッキー作りたいって騒いだの」
もう一度記憶を辿るけれど、やっぱり思い出せない。お菓子作りはともかく、そんなに好きな絵本だったなら、記憶に残っていてもいいのに。
「その絵本、うちに残ってないの? 私の本棚にはないと思うけど」
「んー。古い本、結構処分しちゃったしねえ。澄花の本棚にないなら、もうないよ」
良くも悪くも思い切りのいいお母さんは、不要だと判断したら処分が早い。クッキーの抜き型も、勢いのままさっさと捨ててしまったのだろう。そう私が言えば、
「どうせ百円ショップだったし」
と、あっさり。
「そっか、百円ショップにもあるのか。それならお小遣いでも、どうにでもなりそう」
買ってこようと言いおいて、キッチンを後にする。
「お母さんも一緒に作ろっかなー」
「え、いいよ。一人で作るから」
「ええー。お母さんだって、娘とお菓子作りとかしたいもんー」
「一人で作りたいの!」
私が新淵さんにお礼をするためのお菓子だ。一人で作らなきゃ、意味がない気がする。
「スミちゃん。クッキー、彼氏にでもあげるの?」
「いません!」
何を言い出すんだ、この人は!
つい最近までしょっちゅう青い顔をしていた娘に、どうして彼氏ができたと思うんだ!
「じゃあ、好きな男の子」
「お母さん!」
これ以上お母さんに喋らせたら、何を言い出すかわからない。私はつい、威圧するように大声になってしまった。
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