窓に浮かぶ月 -Ⅱ

「ううー……」

 眼鏡屋さんの前で唸る。さほど重くない紙袋が、なんだか重量を増している気がした。

 平日は学校があるから、クッキーを作るなら土日で。手作りのお菓子は日持ちしないから、翌日の学校帰りに渡せるようにと日曜日に決めた。朝から準備して、材料も抜き型も買って。前日までに、時間さえあれば詳細なレシピサイトを色々と検索して、手順をできる限り頭に叩き込んだ。

 クッキーはお菓子作りの初歩みたいだけど、今回作ったのは少し変わり種だったので、ややコツが必要だった。一つ一つの工程をきちんと把握して、それでもキッチンを覗きに来たお母さんに泣きついたりして、それで何とかクッキーを完成させた。

 難しかったけど、楽しかったし。焼きあがった時は、これはいい贈り物になるかもしれないと思ったのに。


(いざ渡すとなると、すごく不安になってきた)

 私と、あとお母さんとお父さんは美味しいと思ったけど、新淵さんの口に合うかまではわからないし。そもそも、甘いものが好きなのかもわからないし。市販品には到底及ばないだろうし。

 というか、手作りって重いんじゃないだろうか。

 型と一緒に、百円ショップで綺麗なラッピングも買ったけど。いっそノンさんみたいにタッパーにでも詰めてきた方が、まだ気軽だったんじゃないだろうか。

 プレッシャーの重さに、思わず入り口ドアにしなだれる。


「スウちゃん?」

 その、しなだれかかったドアが急に開いた。慌てて身を引いて顔を上げる。

「こ、こんにちは」

 ドアを開けた新淵さんに、なんとか姿勢と表情を取り繕って挨拶をした。この程度のプレッシャーに負けそうになるなんて、まだまだ私は弱い。

「いらっしゃい」

 私はうまく持ち直していたのか、それとも挙動不審に見えたのか。どちらにせよ新淵さんはいつもどおり笑顔を浮かべて、快く店に招き入れてくれた。

「最近、ちょっと暑くなってきたね。具合悪くなったりしてない?」

「はい、大丈夫です。最近はずっと調子がいいので」

「なら良かった。僕なんかは年寄りだから、気温の変化はなかなかしんどいものがあるよね」

 そんな風に言うけれど、新淵さんの表情や振る舞いは余裕が感じられた。子どもの私から見て、それは大人の余裕なのかもしれないし、長年生きている人が纏う独特の空気なのかもしれない。

 装いは揃いで仕立てたようなベストとスラックスできちんとしているのに、硬すぎる感じもしない。綺麗な仕立ての洋服がとても馴染んでいる。

 そういうのはすごく、かっこいいと思う。


「うーん、なにかお茶菓子あったかなあ。せっかく来てくれたのに、お茶だけじゃつまんないよね」

 言いながら、新淵さんは店の奥を振り返る。奥には臙脂色のカーテンがかかった出入口らしきものがあって、きっとバックヤードになっているんだろう。緞帳みたいな重たそうなカーテンの裏には、何があるんだろうと想像するけれど。普通のお店みたいに、荷物や給湯設備があるだけかもしれない。

「あの。良かったら、これ」

 私は紙袋を差し出した。覚悟を決めたというより、完全にタイミングだったからという感じだった。

「えっと、助けてもらったお礼を何もしてなかったので。その、お礼のつもりです。美味しいかわかりませんけど」

 思わず早口になる。

「え、なに。お礼なんて別にいいのに」

「気持ちですし、本当に大したものじゃないので。良かったら食べてください」

 差し出した紙袋を受け取ってもらうまで、ずいぶん長く感じた。

「……そう? じゃあせっかくだから」

 いただくね、という言葉とともに、そっと紙袋が私の手から離れていった。ゆるゆると腕を下ろす。

「あ、すごい」

 紙袋の口を開けた時の、新淵さんの第一声。

「これ、スウちゃんが作ったの?」

「そうです……」

 手作りとか、なんだか押しつけがましいものをごめんなさいと思ってしまう反面。『すごい』の一言で、もう気持ちの半分は報われた気がする。


「すごいねえ、ガラスみたいだ」

 新淵さんは、私の焼いた不出来なクッキーをしげしげと眺めた。

 クッキー生地には抜き型で、星とか花とかを形作った穴が抜いてある。その穴にはキャンディーが流し込んであって、色づいて固まったそれはガラスのように透けていた。

「ステンドグラスクッキーって、言うんだそうです」

 私も知らなかったお菓子だし、この前初めて食べたものだ。得意げに話す気にはなれなくて、初めて作ったんですと言い添えた。

「このガラスっぽいのは飴かな。形も色々あるね」

 リボンをほどいたセロハン袋から、新淵さんは次々とクッキーを取り出した。生地はほぼ枠だけで、ほとんど流し込んだキャンディーだけでできた、まあるいクッキーを袋から拾い上げる。

「こうしたくなっちゃうよね」

 新淵さんは、黄色く透けるそれを眼前に掲げた。クッキーの穴をのぞき込む悪戯っぽい仕草に、私は声を弾ませる。

「ガラスみたいなクッキーだから、眼鏡屋さんにぴったりかなあと思ったんです」

 キャンディーをレンズに見立てたような新淵さんの仕草が、自分の狙いと感性に合致したことに感激したのだ。

「私は作らなかったんですけど、実際レシピを探していると、眼鏡のレンズに見立てて作ってる人もいて。だから絶対、このクッキーならぴったりに違いないって」

「ああ、そこまで考えてたんだ」

 思わずまた早口で言ったところを、新淵さんの声で我に返った。

「なるほど、眼鏡屋っぽいか。うん、そうかも」

「えっと……はい」

 急に恥ずかしさがこみ上げた。ステンドグラスクッキーを初めて目にして、それと眼鏡を結びつけるなんて。今にして思うと、あまりにも単純なような、眼鏡屋さんのことばかりに意識が向かいすぎているような、突然自分の深層を暴かれたような気分になってしまった。


「あ、あの。なんか馬鹿みたいな発想で、その、すみません」

 すぐ謝るのも、悪い癖。だけどさんざん考えた末に手作りのクッキーを選択したのが良かったのか、また自信がなくなってしまった。

「なんで謝るの」

 おどけるような仕草で、新淵さんはクッキーを目元にかざした。眼鏡の縁に指をかけて、レンズを持ち上げる時みたいに。

「馬鹿みたい?」

 いつもの丸眼鏡のレンズと、キャンディーでできたガラスとが重なる。

 私は熱っぽくなってしまった頭を振った。

「ありがとう」

 新淵さんがクッキーをかじった。キャンディーがぱきん、と割れる。

「美味しいよ」

 新淵さんの指先が、私の焼いたクッキーを選び取って、食べてくれて。美味しいと言ってくれて。

 それだけで、もう。このクッキーはお礼の品だったのに、私の方が満たされてしまった。


「ん、これ家の形してる」

 なんだかぼんやりしてしまっていて、新淵さんの声に遅れて反応した。長い指につままれたクッキーの形を確認する。

 三角屋根に煙突がついた形のクッキーは、四角く窓が切り取られている。水色のキャンディーを流し込んで、ガラスに見立てていた。

「窓ガラスに見立てるなんて、ぴったりだもんね。綺麗、綺麗」

 新淵さんは、キャンディーでできた窓を光にかざすようにした。クッキーで透かし見る向こうには、本物の窓ガラス。

「そういえば。このお店の名前って、なんていうんですか?」

 金色のロゴらしきものがある窓を見やって、私は尋ねた。

「うん?」

「窓に書いてある、のかな。金色の、文字だと思ったんですけど。お店の名前なのかなって思うけど、崩れてるというか」

 金色の塗料で何か書かれているのは確かだ。配置と雰囲気からして文字だと思うのだが、意味を読み取れる部分は一か所としてなかった。

「ああ。あれね。うん、確かに店名が書いてあったんだけど」

 クッキーの窓を嚙み砕きながら、新淵さんが言う。


「忘れちゃったんだよね。お店の名前」

「へ?」

 予想していなかった答えに、間抜けな声を上げる。

「この店って、存在を知ってる人しか来られないから。だから看板掲げて宣伝するでもないし、電話帳に名前載せてもらうとかでもないし」

 今の子に電話帳はぴんと来ないかな、と挟んで新淵さんは続けた。

「来る客もさ、『眼鏡屋』とか『新淵の店』としか呼ばないから。僕もだんだんどうでもよくなっちゃって」

「そういう、ものですか……?」

「あの文字、魔法でぱぱっと書いたんだけど。必要としなくなったら、魔法が解けちゃったんだか読めなくなっちゃった」

 そりゃあ、スマホで店名を検索されたりするわけじゃないだろうけど。でも。

 それってなんだか、すごく寂しくないか。


「名前は、大事だと思いますよ」

「じゃあスウちゃんつけてみる?」

 いつもみたいにのんびりした口調で、気軽に言われた。

「え? いやいや、そんな大事なもの」

 私は頭を振る。

 世の中のお店は、わかりやすいものなら創業者の名前をかぶせたり、土地の名前を借りたりする。

 私が眼鏡を買ったお店をはじめ、ショッピングモールとかに入居するバラエティ豊かなお店は、外国語とかで凝った名前がついていて。 

 どのお店にも、きっと想いのたっぷりこもった名前がついている。私に込められるものなんて、そんなものは……。

「おや」

 自分なら、と思わず想像を巡らせていたら、ふと新淵さんが声を上げた。新淵さんの視線の先には、金色の文字が躍るガラス窓。

「え……」


 窓の表面では、本当に文字が踊るように動いていた。煤けた金の塗料はひび割れるように崩れて、ガラス窓の上に散らばりながらきらきら輝いた。いつか見た星屑みたいだ。

 きらきらは集まって線になり、形を作ると。

 輝く文字の列になった。

「……『銀の月眼鏡店』?」

「うわー!!」

 新淵さんが読み上げたガラスの文字に、私は大声を上げる。

 ちょっと、ちょっと待って、それは!

「これ、スウちゃんが考えた名前?」

「いや違うんです違わないですけど!ちょっと考えただけで、お店の名前なんてそんな、そんな大それたこと!」

 混乱して、わけのわからないことになる。

 だって、そんな。半分夢見てるような名前。御伽噺だったら可愛げがあるかもしれないけど、いろんな意味でやたらめったらきらきらしてるような名前!

「恥ずかしすぎる……」

 顔を覆った。想像がそのまま浮かび上がってくるなんて、頭の中をさらけ出すようなものじゃないか。


「銀の月、ね」

「読み上げないでください……」

「なんで? 良いじゃない、気に入ったよ」

 そろそろと顔を上げる。指の隙からは、いつもの笑顔が見えた。

「この店の名前は『銀の月眼鏡店』ね」

 金色をしていた文字は、ゆっくりと銀色へと変化していく。新淵さんの丸眼鏡より、少しだけ渋い色。

「当分は忘れないよ」

 その言葉に、私は茹った頭でゆっくりとうなずいた。

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