銀のしるべ -Ⅱ

「え、え。そんな、そんな」

 走ったけれど、空を行くものに敵うはずもなく。ハンカチを握りしめて呆然とするしかなかった。

 唯一の、繋がりだったかもしれないのに。

 涙に視界がにじんだ。俯いて、取り返せないものの大きさに動けないでいると。


「……え」

 路地に点々と浮かぶ、銀の光があった。

 松葉を散らしたような足跡が、路地に続いていく。それはぼんやりと光を放っていた。

 銀色の足跡を辿っていく。カラスはすぐに飛び立ってしまったし、鳥が長い距離を歩き続けるわけもないだろうから、こんなにも長く続く足跡は何かの間違いのような気もするが。

 他にすがるものもないし。

 何よりも、光の道しるべは美しかった。

 地面に星を落っことしたか、妖精の粉でも散らしたか。

 足跡が、角を曲がる。

 いつもなら、そこから先にたどり着けないけれど。


「あったぁ……」

 臙脂色、布製の庇。窓ガラスの崩れたロゴ。

 ようやく見つけた、不思議な眼鏡屋さん。

 カア、とお店の屋根の上でカラスが鳴いた。

「あっ」

 首をかしげて、カラスがこっちを見ている。

「レンズ返してよー。大切なものなんだから」

 カラスはレンズをくわえていなかった。鳴いたのだから、嘴を開いたのだろう。目を凝らしてカラスの足元を確認するがよく見えない。もしどこかで落としてきていたら、どうしよう。

 カラスはこっちの懇願などまるで無視しているのか、それとも何か返事のつもりなのか、立て続けにカアカアと鳴いた。

 カラスに気を取られて手を掛けることもしなかった扉が、かちゃりと音を立てる。

「なに、騒がしい。ずいぶん鳴くな」

 内開きの扉の影、覗いた姿。

 カラスを見上げていた頭をゆっくり下げたら、視線がぶつかった。

 丸眼鏡の奥、色素の薄い瞳。

「おや、ま」

 驚いたように丸眼鏡さんは言った。私はと言えば、声こそ出なかったけれど。

 逢えた。

 歓声とともに、そこまでの言葉は出かかっていた。


「いたっ!」

 こん、と固い音を立てて、額に小さな衝撃が走る。屋根を見上げるほどではないけれど、背の高い丸眼鏡さんに合わせて上向いていた顔に何かが落ちてきた。

「レンズ?」

 額から滑り落ちたそれを、丸眼鏡さんがキャッチした。

「あ、それ。その、カラスに盗られちゃって。はあー、良かったよー。返ってきたあー」

 私の言葉に、丸眼鏡さんは入り口から身を乗り出した。狭い入り口で不意に接近して、どきりとしてしまう。丸眼鏡さんは身をよじるようにして、屋根の上をのぞいた。

「お前ね、なんのつもりだ。いっちょ前にカラスらしく、光物に目がくらんだと言うつもりじゃないだろうね」

 カラスに向かって、ずいぶんと親し気な口ぶりだった。カラスも返事をするように鳴き返す。

「なんにせよ、主人の意向を聞かずに勝手をするんじゃない。あと、人様のものを盗らないの」

 主人ということは、まさかカラスを飼っているのだろうか。飼育している人が、世の中にいないわけではなさそうだけれど。

「はい、これ」

「あ、ありがとうございます」

 丸眼鏡さんがレンズを返してくれた。もう一度これを手渡してもらえることがあるなんて、思ってもみなくて。しばらく胸元で、そっと握りしめていた。

「ごめんね、うちの使い魔が」

 ものすごく、魔法っぽい単語を聞いた気がする。そうだここは、魔法の眼鏡屋さんなんだから。


「カラスを追っかけてたら、ここまで来たの?」

「あ、えっと。ちょっと、違くて。追いかけてたには追いかけてたんですけど、すぐに飛んで行っちゃって。追いかけたのは、足跡です。頂いたレンズ越しに見たら、銀色に光った足跡がお店の方まで伸びてるのが、見えたから」

「あー、魔力の痕跡をばらまいたんだな、あの子は。まったく、狙ってやったんだか……」

 不可思議な言葉の並びが、ふと途切れた。

「でもレンズは、あの子が盗ってっちゃったよね。足跡の道筋、記憶したの?」

「いえ。レンズが無くっても、足跡は見えたので」

「裸眼で?」

 顔つきが、わずかに厳しくなった、気がする。

「眼鏡はかけてますけど……」

「あーうん、眼鏡はかけてるよね裸眼じゃないよね、でもそれ普通の視力矯正用だよね。あーそう。そうかあ、そうかあ……」

 こめかみに指を添えて、悩まし気な表情になる丸眼鏡さん。なにか、まずかったのだろうか。

 お店に来ては、いけなかったのだろうか。

「あの」

「ああ。ごめんね、色々聞いて。気にしないでくれるといいな」

 緊張を解いたように、丸眼鏡さんは笑う。

「眼鏡、新しくしたんだね。良かった」

「はい。変えたほうがいいよって、勧めてもらったから。あの時は、ありがとうございました」

 ようやくお礼が言えた。

 そのためだけとは、言わないけれど。

 ずいぶんと救われたんですと。あれから、結構うまくやれてますって、ちゃんと伝えたいと思っていた。

「いえいえ、何も。綺麗な色だね、可愛い可愛い」


(かわ、いい) 

 軽い口ぶりで繰り返された、その言葉。

 可愛い。

 眼鏡が、色が。

 ただそれだけ。いや、お世辞か、それどころか会話のつなぎでしかないのかもしれないけれど。

(褒められ慣れてないから、破壊力がすごい……)

 ましてほとんど見知らぬ男の人なんて。クラスの子たちに褒められるよりも威力がある。


「学校の帰りだよね。近いんだっけ」

 さらりと会話が切り替わる。店先で長話もなんだから、と店の中へと促された。

 再び、足を踏み入れる。

 窓際に並んで日の光に輝くレンズ、高級そうな凝った造りの椅子。

 初めて来たときほどの感動はないけれど、間違いなく同じ場所だという嬉しさに胸が鳴った。

「役所の先にある高校です」

「ああ、あそこ。学生がいっぱい歩いてるのは見るけど、女の子の制服なんて気にしてないしなあ。それにここは、市役所通りから外れてるから」

「そうですね。普通、こっちの方まで歩いてくる生徒はいないです」

「もしかして、ここを探したりした?」

 率直に聞かれて、言葉に詰まる。

 

 あの日、お店から出た直後は。

 まるで夢のような出来事で、夢のままでもいいと思っていた。

 時々道を外れて、不思議な時間の名残を感じて。

 だけどなんとなくもう一度、お店の存在を確かめたくなって、訪ねてきたら見つけられなかった。

 途中までは確かに道があって、でもなくなって。

 自分の記憶が信じられなくなって、それでも手の中にはお月様みたいなレンズがあって。

 戸惑いながらぐるぐる迷い歩いていたら、その時にはもう、眼鏡屋さんの存在を諦められなくなっていた。

「……探してました」

「そっか。なかなか見つけられなかったよね。悪いことしちゃったな」

「いえ。きっと、特殊な場所だとは、思ってましたから」

「うん。ちょっと、まあ、変わったお店なので。来客が珍しいんだよ」

 首を傾けて、私の顔を少しのぞき込むようにして眼鏡屋さんは問う。

「何か困ったことがあった?」

 困ったこと。

 問われて、考えを巡らせる。

 だけど今は、そんなに悩ましいことはなかった。むしろ最近は順調ですと、伝えたいくらいだった。


「特に、何も」

「そう。何か店に用事があるのかと思った」 

 それはそうだろう。わざわざ探してまでお店を訪ねてきたと聞いたら、誰だって必要があってのことだと考える。

「すみません、お客さんでもないのに」

 そもそも私は、一度だってこのお店でお買い物をしてはいないのだ。具合の悪いところを好意で助けてもらって、無償でレンズを頂いて。今日だって、別に買い求めるものがあるわけではない。魔法の眼鏡にどんな力や効果があるかは知れないが、きっと気軽に手に入れるものでもないだろう。

「ただ、もう一度ここに来てみたかっただけなんです。ごめんなさい」

 自分の図々しさに恥ずかしくなった。先日のお礼は言えたけど、そのつもりでお店を探していたなら、手土産を持ってくるとかもっとやりようがあったはずだ。

「縁があったって、ことかなあ」

 丸眼鏡さんはのんびりと言った。

「そういうことも、あるんでしょう。魔法って、影響しあうものだし」

 一人、納得したような様子にどう答えていいかわからない。

「なんにせよ。困り事がないようなら、何より」

「はい……。すみません、本当に何もないのに」

 謝ることないのに、と言ってくれる。だけどもはや、このまま長居をするのだって失礼じゃないか。


「何もなくても、たまには遊びにおいで。店にはたどり着けるようにしておくから」

 顔を上げる。相変わらず人のいい笑顔を、丸眼鏡さんは浮かべていた。

「でも、私。お店の顧客でもないし。この先も、このお店で買い物や用事ができるかなんて、わからないのに」

「うん。そもそも眼鏡って、そう頻繁に買い替えるものでもないしね。でも良いんだよ。学校も近いし、寄り道でもしたくなったらおいでよ」

 そんな、コンビニやファストフード店じゃあるまいし。

 戸惑う私に、丸眼鏡さんは続けた。

「このお店、あんまりお客さん来ないから。それに僕も長く生きすぎちゃって、今更、新しい出会いもなにもなくって。あれだね、老人の世間話に付き合うみたいな。茶飲み友達?」

 そういえば以前、ありえないくらいに長く生きているようなことを言っていた気がする。いまだにちょっと、信じられないけれど。

「あ、でも。これって若い娘さんにちょっかいかけてるみたいで、良くないのかな。これだから常識のアップデートができてないとか言われるんだな」

「そんな風には、思いませんけど……」

「そう? じゃあ気が向いたら、いらっしゃい」

 笑顔でそう、言ってくれるから。

 良いんだろうか、ここに来ても。


「そうだ。名前を聞いても、大丈夫かな」

 名前、私の。私もずっと心の中で、『丸眼鏡さん』なんて呼んでいるけれど。

「いや、先に名乗るのが礼儀だね。僕は新淵流生しんぶちりゅうせい

「リュウセイ? 流れ星のですか」

「ううん。流れて生きる」

 流れて、生きる。

 それを聞いて、なんとなく、本当の名前じゃないかもしれないな、なんて思う。

 そういうことだって、あるかもしれない。だってとっても、長生きなのだし。

「私は、中野澄花すみかって言います」

「スミカ……」

 なにかを考える風な新淵さんを見て、私も漢字を教えたほうがいいのだろうかと口を開くと。


「じゃあスウちゃんだね」

「はい?!」

 そんな呼ばれ方はしたことがない。

 ちょっとその呼び方は、かわいすぎるんじゃないだろうか。いやいや、可愛いとかうぬぼれが過ぎる。混乱する私をよそに、新淵さんは大真面目な顔つきで首をひねった。

「うーん、ちょっと馴れ馴れしいかな」

「いいえ!」

 自分でもびっくりするくらいの勢いで言ってしまった。

 いやだって、スウちゃんなんて呼び方、今までしてもらったことないけど。ないから、だから。

「馴れ馴れしいとか、思わないです」

 距離は近いと思うけど。せっかくもう一度、お近づきになれたわけだし。

「そう? じゃあスウちゃんで」

 カア、と屋根の上でカラスが鳴いた。

 レンズを盗られたときは本当にショックだったけれど、あの子の銀色の足跡がここまで導いてくれた。

 流れ落ちた星を追いかけるようにして。私はもう一度、お月様みたいな人がいる眼鏡屋さんに足を踏み入れたのだった。



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