銀のしるべ -Ⅰ

「行ってきまーす」

 キッチンで洗い物をするお母さんに声をかけて、玄関を飛び出した。

夢みたいな経験をしたのに、私の朝はいつものように始まり、毎日はあまり大きな変化もなく過ぎていく。

 庭で花に水やりをしているご近所さん。

 ゴミ捨て場のカラスとか、全然ロマンチックじゃない。


 腕時計にちらりと目をやった。電車遅延とか気分が悪くなるとか、不足の事態やトラブルに弱い私は余裕をもって家を出る。だから慌てることはない。順調に学校へ向かうことができれば、だけど。

 ずっと不安が付きまとっていた通学路、けれど最近は体調に振り回されることはほとんどなくなったし、学校にも慣れてきた。駅に向かってゆっくりと歩く。

梅雨の気配を感じつつある今の気候に乱れる人も多いようだけど、私は春先よりよっぽど調子がいい。


 あの人に、あのお店に出逢ってから。

 春の私は、どうしようもなく深いところに落ちていた。

 ままならない自分自身の心と体をもて余して、春の大型連休が明けたその頃は、再開した学校へ足を運ぶのがやっとという状態だった。

 そんな時に出逢った。

 不思議な、月みたいな男の人。

 真ん丸のお月さまみたいなレンズを、二つ並べた丸眼鏡をかけていた。

 私の不調を見抜いて、眼鏡屋さんにつれていってくれて。

 不思議なレンズで、広い世界を見せてくれた。

 あれから何度か、あの眼鏡屋さんを探しているけど。不思議なことにお店があったはずの場所を何度探しても、再びお店にたどり着けることはなかった。


「……おはよう」

 カラスに声掛けしてやると、ゴミを漁らなくなったり悪さをしなくなったりすると聞いたことがある。

 私の至近距離でうろちょろしていた黒い鳥が、首をかしげた。

 毎日は、ロマンチックじゃないかもしれないけれど。

 それでも変わったこともある、と思う。


 駅について、ホームに滑り込んできた電車に乗り込んだ。電車も各駅停車を選ぶとか、ちゃんと工夫をすれば押し潰されるようなことはない。大丈夫、今の私はちゃんと余裕がある。

(もう一度、会えると良いなあ)

電車に揺られながら、再会を思い描く。

私はポケットに忍ばせた、小さな丸い月を握りしめた。


 おはよう、と教室のあちこちで交わされる挨拶。

自分の席に向かいながら教室中に挨拶するような子もいれば、机に鞄を置いたところで、周りの席の子に声をかける子もいる。黙って席に着いたけれど、仲のいい子と顔を合わせれば明るく喋り出す子も。

 私はと言えば、黙って席について、そのまま。

 誰かが挨拶をしてくれて、慌てて返事をしようとした頃には相手はもう去っている、なんてことが、ずっと続いていたけれど。

 大丈夫、これくらい。

 ポケットの中の、ひやりとしたガラスの感触。

 大丈夫。学校の教室なんて、宇宙の恐ろしいほどの広大さに比べれば、小さなものだから。

 たとえその小ささが不自由なのだとしても、相手は声が届く距離にいる。


「おはよう」

 すぐ後ろの席でおしゃべりしていた子たちに挨拶をする。一瞬、お喋りをやめたその子たちに、話を遮ったのはまずかったかと冷や汗が浮かんだが。

「おはよー、中野なかのさん」

 三人のクラスメイトは、明るい声で返事をしてくれた。

「中野さん、最近は具合よさそうだね」

 返事だけではなく、続いたお喋りに私は体ごと後ろを向いた。

「あ、うん。学校、慣れてきたから」

「あー、やっぱりあんまり慣れてなかったんだ。なんか話しかけようにもさ、具合悪そうだし緊張してるみたいな感じがするしで、声かけづらかったんだよね」

「え、ああ、ごめんね」

 新しい場所に馴染むのに時間がかかる私は、体調を崩しやすくなるのに加えて、なかなか周囲への緊張を解くことのできない人間だった。だから気が付けば、クラスの輪から外れている。ずっとそういう生徒だった。

「やだなあ、謝ることじゃないって」

 ほかの子も、同意するように笑う。

「慣れたんなら、良かったじゃん」

「うん」

 私も笑いながら頷いた。

 本当はまだ、少し緊張するのだけど。それでもささやかな光が、私の胸とポケットにあるから。


「そういえば中野さん、眼鏡変えたよね」

「あっ、うん。連休明けて、少しあとくらいかな」

 思わずブリッジに触れて、眼鏡を押し上げた。

 少しだけ厚みを増したレンズと、明るくなった世界。

 ずっと合っていなかった眼鏡。

 それを丸眼鏡さんに指摘されて、ようやく眼科に行く気持ちになれた。

 あの眼鏡屋さんの品は魔法の眼鏡で、不思議な視力検査が、実際の視力矯正の役に立つことはなかったけれど。それでも私が新しい眼鏡を作る、きっかけになったのだから。丸眼鏡さんも、眼科医さんやショッピングモールの店員さんと同じだけの、お仕事をしてくれた人だと思っている。対価は、払えなかったけれど。


「よく気付いたね。家族以外で、初めてかも」

「だって、前の眼鏡のフレームは黒? 茶色? かなんか、地味な感じだったのに。新しいのは、ずいぶん思い切った色になったからさ」

 新しい眼鏡は、赤いメタルフレーム。

 お母さんに選んでもらったんじゃなくて、自分で選んだ眼鏡だ。明るい色なんて浮かれてるみたいって、ずっと思っていたけれど。

 白い照明の光を弾いて並ぶ眼鏡の中で、赤い色が鮮やかだった。

 セルフレームの太い縁の赤を選ぶ勇気は出なかったし、満月のような真円のレンズはやっぱり似合いそうもなかった。それでも細いメタルフレームで作られた赤い縁取りは綺麗で、楕円のレンズを華やかに彩っていた。

 今にして思えば、あの人のお店も臙脂色の庇が印象的で、それが頭の中に残っていた気がする。

「似合わない、かな」

 臙脂よりももっと明るい、林檎みたいな赤色。明るい方が、前を向ける気がしたから。


「ううん、似合うよー」

 お世辞だとしても嬉しい。ずっと苦痛だった視力検査も、今回はずいぶんと肩の力を抜いて受けることができたから、眼鏡を選ぶのも少しだけ楽しかった。ちゃんと自分に合った眼鏡を、探すことができた。

「私も中学までは眼鏡だったんだよねー」

 ずっと裸眼だと思っていたクラスメイトが明かした内容に、ほかの二人は驚いた声を上げた。

「えーっ、ウッチー眼鏡だったんだ」

「想像できなーい。マユユは目、悪くないんだっけ」

「私はねー。ノンも?」

 盛り上がる三人がお互いを呼び合う。親し気なあだ名だった。

 高校に入ってから、私はあだ名で呼び合うほど親しくなった人はいない。

(これから、これから)

 前へ進むのは一歩ずつ。体と心の調子だって、悪くないんだから。


「中野さんは、コンタクトにしないの?」

 ウッチーさんが、おそらくコンタクトレンズを装着した目で見つめてくる。

「慣れると楽だよー、コンタクトも。視界切れないし、イメチェンになるし」

 その選択肢を、考えなかったわけではなかった。だけど新しいものへの拒否反応が強い私は、コンタクトレンズという手段を選べなかったのだ。

 今なら、思い切った選択をしてみるのもいいかもしれないけど。

「しばらくは眼鏡でいいかな。好きだから」

 不思議な世界へと繋がっている気がするから。

 だからしばらくは、この少し不自由だけど手放せない道具に、愛着を持ってみようと思う。


 新しい眼鏡は視界良好で、ノートをとるのも苦痛じゃなくなった。

 無理して使い続けていた眼鏡が、いかに負担をかけていたか。一番前の席にしてもらっていても黒板の文字がぼやけるから、ノートを取りそこなうこともしばしばだった。ノートを借りられるほど親しい子もいなくって、余計なことで心を重くして。授業ごとに疲れて仕方なかったが、今では六時間の勉強を終えても疲労は少なかった。

軽い足取りで帰り道につく。


 学校がある地域は、市役所や消防署などの公共施設がある落ちついたエリアだ。家からだと電車で四駅ほど。

 市役所の中の大きな図書館や児童館には、小さいころに何度か連れて来てもらっている。小学校に上がってからは、学校の図書室ばかり使ってほとんど訪れなくなっていたけれど。

(見えるって、だいじ)

 ずっと気が重かった通学路だけど、ちゃんと顔を上げて歩けば綺麗で整った雰囲気の場所だし。自分が全く知らない場所でもなかった。

 駅まで続く市役所通りは、車道と歩道の間を隔てる柵がなくて、学生たちは気を付けていても広がって歩きがちになってしまう。

 思わず周りが見えなくなるような、楽しそうにしている生徒たちを見ているのがなんだか辛かった頃。あと、具合が悪くなった時とか。そういう時、あえて市役所通りを一本外れた路地を歩いたりした。

 今は、つらくはないけれど。

 もう一度、会えればいいなと思いながら、今日も道を一本外れる。


 しゃがみこんでしまったのは、ここ。

 歩道脇のおうちに並んだ、花の植木鉢が綺麗だ。しんどさに崩れたあの時も、視界の端にぼんやりとオレンジの色彩が揺れていた。季節が変わって今は青い紫陽花が見事だけど、あれは何の花だったのだろう。

 丸眼鏡さんが声をかけてくれたところ。住宅街へ向かう路地に入っては、いつもここで立ち止まる。

 眼鏡屋さんがあった筈の方角、いつもと変わらず、もう見慣れてしまった家々が並んでいた。お店があった場所までは複雑な道のりではなく、再び訪れるのはそう難しくないと思ったのに。

 あと一つ角を曲がれば眼鏡屋さんというところで、必ず道を失ってしまう。角を曲がってもお店はないし、あたりをどれだけ探しても、目的の場所にはたどり着けない。スマホの地図アプリで探せるものでもなくて、結局再訪を諦めることになってしまう。

「なんで見つからないかなあ」

 やっぱりあそこは、魔法のお店なのだろうか。丸眼鏡さんに導かれてしかたどり着けない、秘密の場所。

 ポケットの中を探った。四つ折りのハンカチを開くと、丸いレンズがある。細い金属に縁どられた、検眼レンズだ。

 お店を訪れたときに、丸眼鏡さんがくれたもの。

 少しひんやりとする小さなガラスレンズに触れていると、心が落ち着くような気がして。今では私のお守りのようになっている。

 

 見えたり、しないだろうか。

 金属の縁にくっついたでっぱりをつまんで、ルーペのようにして検眼レンズをのぞき込んだ。レンズ越しに、お店につながっているはずの路地を見つめる。

 ひょこ、と、路地に黒い小さな影が踊り出た。

 

 カラスだ。

 と、と、と、と跳ねるように路地を歩くカラスの足取りをなんとなく眺める。カラスの跳ねた後に、点々と残る小さな足跡。

「……光ってる?」

 乾いたアスファルトの地面に、カラスの足跡がはっきり残っている。水たまりでも歩いてきたのかなと思うけれど、濡れて残る跡ではない気がした。

 雨や露よりもなお美しく、カラスの足跡は銀色に輝いていた。

(レンズのせい?)

 瞬いて、レンズを眼前から離そうとした瞬間。

「あっ」

 カラスがぶわりと羽を広げたと思うと、目の前に飛び込んできた。思わず目をつぶって、顔をそらした次には。

 手にしていたレンズが、なくなっていた。

「嘘!」

 離れて着地したカラスが、嘴にレンズをくわえていた。

「え。嘘、やだ」

 ととと、とカラスが歩を速めた。再び羽を大きく広げて。

「駄目、返して!」

 手を伸ばしても全く届かず、カラスはあっという間に飛び去ってしまった。

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