光の差す方

 自分が歳を取ってから現れたものは、いつまでも新しいものだと思ってしまう。

 例えば生活に欠かせないものとして根付いたスマートフォン。私にはいつまでも、最先端のツールだという感覚が抜けない。

 交換手を介して会話を繋ぎあった時代から、どんな技術を使っているかもよくわからないけれど、板一枚で遠く離れた人と会話をすることができるようになり。紙とインクと郵便を通さずとも、メッセージのやり取りができるようになり。写真機は魂を抜き取ると恐れていた人々は、手のひらの中に動画カメラまで収めるようになった。

 世界中の情報ですら、手中にある。

 それでもいまだ人間に克服できない課題は山積みで、越えられない病も老いも、死もあるけれど。それでも人は多くの険しい山を上り、谷を越え、打ち勝った困難もある。医学の進歩にしても目覚ましい。

 ただそれでも、古い人間である私のことだから。

 虫歯の治療をするように当たり前に、誰しも視力回復の手術を受けるような時代が来たとしても、眼鏡が一番安全で手軽な道具だと言い続けるのだろう。

 私は視力、悪くないけれど。

 なんにせよ長年生きていると、世の中に対して意識のアップデートというのは一苦労だ。


 抱えたキャリーバッグから、不安げににゃあにゃあと鳴き続ける声が聞こえた。

「はいはいトコちゃん。狭くって嫌だね、ごめんねいい子ね」

 脇に抱えたキャリーバッグ、メッシュ窓の向こうからまあるい目で覗いてくる黒猫のトコ。

 動物を連れ歩く時は、リードやキャリーバッグなどを使って安全に。周囲に気を使うことを忘れずに。

 これも割と、新しい時代の感覚だなと思う。

「もうすぐ着きますからね」

 狭い路地に入って、住宅街を歩く。新しい家がたくさん並んでいるななんて思うけれど、実際この辺りが住宅地として整地されるようになったのは何十年も前のことだ。周囲の家は築数十年と経過した建物が多く、十分に古い部類になる。自分の感覚のほうが追い付いていない。

 だから目的の店の両隣に立つ家も、きっと古い家だ。ただ並んでいるだけで店とは全く関係のない家らしいので、住んでいる人のことも素性も何にも知らないけれど。

 というか、素性なら店の住人が一番謎めいている。

「よかった。店、なかったらどうしようかと思ったわ」

 臙脂の庇がかかった、小さな店。

 崩れてしまったのか、それとも日本語ではないのか。読めない店名ロゴの入ったガラス窓。もはやロゴだけでは何屋だかわからないが、眼鏡屋であるはず。店主が、職種変えでもしていない限りは。窓の向こうに店主の影を確認して、私は入り口に手を掛けた。


「よーっす眼鏡屋ぁ、生きてるかー」

 キャリーバッグに幅を取られて、つっかえるように入り口を潜った。窓際の陳列台の前で作業をしていた店主が振り返る。

「おや珍しい。お久しぶり」

 こちらが明るく挨拶をしても、眼鏡屋は調子を合わせることもなくのんびりと言う。外見の若さのわりに、古めかしいデザインの銀縁丸眼鏡が不思議なほど馴染む男だ。

「久しぶりって程かね。四、五年ぶりってとこでしょ」

「十分久しぶりでしょう」

「私らにとって、五年が長いかね」

 陳列台に並ぶレンズに眼鏡。どうやら彼は、眼鏡屋のままであるらしい。

「そこそこ経ったよ。だって君、少し老けた」

 見た目だけならあまり歳の変わらない私に対して、悪気のない顔で眼鏡屋が言うから。

「女になんてこと言うの、あんたは」

 わざと盛大に顔をしかめて、言い返した。

「君、老けたがってたじゃない」

「一人で老けたって、楽しかないよ」

 キャリーバックを、店のど真ん中にあるテーブルに置く。

「ま、順調に老け始めたよ。おかげ様で」

 肩が軽くなって、小さく息をつく。

「私は百二十年生きて、ようやくってところだけど。あんたは変わらないね」

 三百年は長いね、と半ば本気で同情を込めて言えば。

「まあ、魔法使いに生まれた醍醐味と、不幸みたいなもんでしょう」

 やっぱり何でもないような顔をして。私たち長命の魔法使いの悲哀について、眼鏡屋は語るのだった。


「で、今日はどういった用件で」

 眼鏡屋はキャリーバッグのメッシュ窓を覗いた。小さく続く鳴き声に、ずいぶん鳴くね、と漏らす。

「視力検査、お願いしたくって」

「なに、君もいよいよ老眼でも始まったの」

「おあいにく様。私はまだ、視力の方は健全ですうー」

 キャリーバッグの入り口を開口する。トコちゃんはバッグの隅でじっと固まっているので、しばらくそっとしておくことにした。

「僕はここ数年で、老眼鏡のお世話になるようになったよ。長寿に振り回されるような体だと、いきなり老け込むところがあったり、なかったりで、予測がつかない」

「老いたのは、魔眼の能力?」

 魔力を宿した眼球。能力は様々で、未来や過去を見通すとか、見つめた相手に魔法をかけるとか、色々。

 眼鏡屋は、いわゆるその魔眼持ちだ。

「それとも、純粋に視力が衰えたの?」

「視力の方」

 本気で肩を落としてため息を吐く姿は、外見年齢よりも老け込んで見えて思わず笑ってしまった。

「ご愁傷さま」

「下手に長生きなんて、するもんじゃないね」

 眼鏡屋は世間話のような軽さで言う。彼の顔に乗った、純粋な視力矯正用と思われる眼鏡を眺めた。


「その眼鏡、自分で仕立てたやつ?」

「そう」

「ただの老眼鏡なら自前で用意しなくったって、そこら辺でいくらでも買えるだろうに。今時は昔じゃ考えられないくらい、種類があるんだから」

 言外にたまには外に出ろと、この引きこもり老人に突きつけたのだが。

「ずっと丸眼鏡だから、これが一番馴染むんだよ。我ながら似合うと思う」

 わかっているのか流しているのか、彼に私の言葉は特に響いたようではなかった。

「まあ、あんたにはその古くさい眼鏡が一番、様になるか」

「古い人間だからね」

 その言葉に、歳を取った人間の会話は自虐のような応酬が続くなと、そんなことを考えるのだった。


「で。君の視力検査じゃないなら、なんなの」

 そもそも君なら普通の眼科でしょう、と眼鏡屋は言った。

 彼の眼鏡や視力検査は魔法に関わる症状や能力に特化しているので、魔眼持ちではない私には必要のないものだ。

「トコちゃんの眼を診てほしいんだ」

 そっとキャリーバッグに手を差し入れる。ふわふわの毛並みが触れてそのまま抱き上げると、トコちゃんは鳴くのをやめた。

常闇とこやみの?」

「……また懐かしい呼び方を」

 恥ずかしさに背筋がそわそわする。

 トコちゃんの本名は常闇という。私が黒猫の彼を迎えてすぐの頃に与えた名だ。

「使い魔に与える名としては、トコより相応しい気がするけどね。まあ、それぞれの感性だから、君の好きに呼べば良いけど」

 黒い毛並みが闇のようで。魔女の使い魔の名として相応しい暗さで。

 そう思って常闇と名付けたのだ。思春期の少年少女がチョイスしそうな、カッコつけた名前を。

「仕方ないじゃない。旦那がトコちゃんって呼ぶのが、うつっちゃったんだから」

 かわいい子には、トコちゃんのが相応しいです。

 そう言って、私は使い魔の柔らかな毛並みを撫でた。


「あんたのとこの使い魔が、いないみたいでよかったわ。トコちゃんと相性が悪いんですものねえー」

 抱きかかえたトコちゃんと目を合わせる。思わず赤ん坊をあやすような声音になることと、その気色悪さに自覚はあるが気にしないでおく。多分、みんな動物とか赤ちゃんに対しては、こんな風になるに違いないから。

「あの子は店の中までは、あんまり入ってこないよ。君こそ、ずいぶん大袈裟な鞄に常闇を入れてるじゃないか。使い魔なんだから、命令でもしておけば勝手についてくるだろうに」

「あのですね、眼鏡屋さん。昨今では動物を放し飼いにしたり、リードやキャリーで誘導せずに連れ歩くのは非常識なんですよ。世間の常識をアップデートしなさいな」

「そういうものですか」

 訪ねておきながら、さして興味もなさそうで。三百年という月日のせいで世間の変化に追いつかないのか、それとも単に、昨今の動物飼育事情をアップデートする気がないだけなのかは、よくわからないけれど。


「それにね、この子。もう目が見えないの」

 トコちゃんがまた一声、鳴いた。こんな甘えたようなそぶりを見せるようになったのは、老いて視力が衰えた頃からだった。

「ああ、それで甘やかしてるの。しかしそれは、動物病院に連れて行くべきなんじゃないの。老猫の眼病だとか視力なんて、僕には検査できない」

 眼鏡屋が獣医でないことは重々承知だ。使い魔の専門医でもない。

「トコちゃんの視力、魔力で補正してみたんだ。だからあんたに頼んでるんだよ」

 眼鏡屋が瞬いた。

「治癒魔法の類を、常闇の目に施したってこと?」

「それもやった。あと、疑似的に魔眼を再現するやり方で、眼球に魔力を集中させる方法、あるでしょ。千里眼とはいかなくても、遠距離のものを視界に捉える魔法を、トコちゃんの目を対象に使って……」

「ずいぶんと、諦めの悪いことをするね」

 説明を遮って、眼鏡屋に言われる。

「猫って、視力が駄目になっても他の感覚で補えるんじゃなかった」

 まさしく眼鏡屋の言う通りだと、痛感しながら。

「それでもさ。やれることがあるうちは、さ」

 何かしてやりたいという心は、抑えられなかったのだ。

「まあ、いいよ。それなら確かに僕の出る幕だしね」

 調べるまでなら、と言いながら、眼鏡屋は壁際まで歩を進めた。定位置に張られた視力検査表の前に立つ。


「あれ」

 縦に長い視力検査表。表の下部に魔法陣が書き込んである、魔法の検査表だ。表には視力を測るための、小さな図形や絵が並ぶのだが。

「ねえ、これ直近で使ったの?」

 大体いつもその部分は白紙で、使う時に眼鏡屋が魔力を込めると絵が浮かび上がってくる仕様のはずだ。だけど今は、小さな星だとか月の絵が並んでいる。

「ああ、半月くらい前にね。消しちゃってもよかったんだけど、ちょっと珍しいお客さんで、僕も久々に楽しかったから」

「へえ。私にも珍しいって言ったくせに、もっと久々のお客さんだったとか?」

「ううん、初めてのお客さんだった」

「今時、この店に新規客ねえ」

 魔法使いが減りつつある今、確かに珍しいかもしれない。

「僕から声をかけたんだけど。女の子でね、高校生かな」

「えっ。いい年して、若い女の子を店に連れ込んだの? 何それ、やーらしい」

「君、それずいぶん失礼だからね。今時は男に対しても、その手のからかいはよろしくないんじゃなかったっけ」

 確かに、最近は通用しない軽口も増えた。良いことなのだろうけれど、意識のアプデというのは、なかなかに難しい。

「わーるかったよ。でもあんたも大概、私に失礼な発言連発したからおあいこってことで。ま、あんたがこの店に人を入れたってんなら、何かしら事情があるんでしょ」


 この、魔法の眼鏡店に招き入れられた女の子。

 どんな子だろう、私が逢うことがあるかはわからない。再びここを訪れるかも。

「縁があれば、また逢うこともあるでしょう。さて、常闇は落ち着いてるかな」

 眼鏡屋が検査表に触れた。

 五本の指先が撫でた紙の上で、もともと書かれていた星や月の図柄が散らばり、ただの粒になる。まるで砂をかき回しているようだった。眼鏡屋の指先に吸い寄せられるように、尾を引く砂粒の集まり。そのうちに小さな粒は、十分に魔力を得たとでもいうように魔法使いの指先を離れ、検査表の上をてんで好き勝手に動き回った。

「あ、ねえ。眼鏡貸してよ」

 私は陳列台に並ぶ眼鏡に手を伸ばした。眼鏡屋が検査表から目を離して、ちらりとこちらを見る。

「ケースの左側に並んでるのが弱め。右に向かうにつれ、強くなるから」

 魔法の眼鏡は、肉眼では見えない魔法を見るためのもの。レンズに込められた魔力が強いか弱いかで、見え方や目にかかる負担が変わるのだそうだ。普通の眼鏡に、度数の強弱があるように。

 私は魔力を保有しているから、弱めの眼鏡で事足りた。

「このあたり?」

 左端手前の眼鏡を手に取る。折りたたまれたつるを開いて、慣れない道具を装着した。

 二枚のガラス越しに、トコちゃんの視線が向かう中空を見つめる。


 魔法の粒が弾けた。

 淡く光った無数の粒は、その輝きに輪郭がぼやけてわずかに膨らんだように見えた。それがシャボン玉のように弾け、また別の光を生んだ。生まれた青い光は、悠々と宙を舞った。

 魚だ。

 光が弾ける様は、まるで卵から魚が孵るようだった。

 生まれた光の魚たちは、鮮やかな青、赤、黄。透けるような美しい尾とひれを揺らして泳いでいる。

 私は息を飲んで、美しい光景に見入るばかりだった。実際には、息は止まっていたのかもしれない。

 だってここは眼鏡屋ではなくて、海の中だ。一面青くて、自由に魚たちが泳いでいて。見上げれば、地上から届くゆらゆらした白い光があんなにも綺麗で、愛おしい。

 トコちゃんも私と同じく固まって、地上から差す光をじっと見つめていた。


「はい、検査おしまい」

 眼鏡屋の声が響いて、水圧で耳に蓋をされていたような感覚が一気に無くなる。本当に止まっていたのかももうわからないが、思いっきり息を吸い込んだ。肺に新鮮な空気を送り込んで、吐く。

「……ほんと、あんたの魔法には毎回、圧倒されますわ」

 世界がもっと魔法で構築されていたのなら、天下も取るのかもしれないな。そんなことを思ってしまう。

 眼鏡を外して、完全に魔法の世界から離脱した。壁の検査表には、頭を様々な方向に向けた、小さな魚の絵が並んでいた。

「びっくりしたねえ、トコちゃん」

 温かい体を抱きしめる。黒い毛並みも私の体も、一切濡れていないのだった。


「常闇、見えてないね」

 眼鏡屋の断言に、私は目を伏せた。トコちゃんの匂いを嗅ぎながら、諦めきれなかった心が落ちていくのを、何とか宥める。

「駄目だった?」

「目が魚を全然追いかけてなかった。あの魚は魔力そのものだから、常闇が魔法で目を補強していてそれが功を奏していたなら、追いかけてたはずだけどね」

「少しでも、見えないの」

「少なくとも、常闇の目に魔力は働いてないよ。色ごとに魔力の強弱をつけていたんだけど、一番魔力の強い青い魚でさえ見えてなかった」

 トコちゃんが、じっと私を見つめる。見えていないから、顔を上げているだけだろうか。それとも匂い、声、感触。


「仕方ないね、トコちゃん」

 この子も、もうずいぶん長く生きた。普通の猫の四倍くらいだろうか。私が使い魔として使役したせいなのか、それとも常識外れに長命の猫だから、使い魔として取引されていたのかはわからないけれど。

「ありがとね、眼鏡屋。すっきりしたわ」

「いいえ。労わってやりなよ」

 眼鏡屋の長い指が、トコちゃんの喉元を掻いた。

「ねえ、使い魔の専門医とか知らない?」

「知らないなあ。みんな鬼籍に入ったか、連絡取れなくなった。最後に存在を確認したのは六十年ぐらい前かも」

「それ、私がトコちゃんお迎えした時期と同じくらいじゃないの。あの時期が使い魔を迎える、最後のチャンスだったのかもねー」

 それも仕方がないんだろう。

 この眼鏡屋とだって、いつまで縁を繋いでいられるかは分かったものじゃないんだし。

 トコちゃんをキャリーバックへと入れる。しばらく不安気に鳴いていたけれど、声をかけ続けていたら次第に落ち着いて体を丸めた。そっとバッグを担いで、出口へと向かう。

「じゃあ、また。くたばるその時までは、どうぞよろしく」

「よろしく」

 お互い、手をひらりと軽く振るような仕草をして別れた。

 店を出て、振り返る。

 不思議な眼鏡屋が、いきなり消え失せることはなかったけれど。

 たまには顔を出さないとな、そう思いながら、私は帰り路についた。

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