第26話 広がる世界
俺がエンリーに用意して貰ったものは、馬用のブラシと脚立だった。
それを持って来た後で、エンリーがシュタファーさんの車椅子を押して森にやって来る。
「……連れて来たけどさ、本当に危険はないんだろうな?」
「ああ。
……ちょうど始まったようだ。
あれを見てみるといい。」
エンリーとシュタファーさんが木の間から、魔物とベルの様子を伺うと、ベルが横向きに腹ばいになり、そこに魔物が飛び付いていく。
思わず、襲われる!と思ったエンリーとシュタファーさんは、声を漏らしそうになるのを両手で口を塞いで押さえたが、すぐに思っていたのと様子が違うことに気が付いた。
「え……?
アスガルド、あれってさ、ひょっとしてだけど、魔物にお乳をやってない?」
「ああ、その通りだ。」
俺の言葉にシュタファーさんが不思議そうに首を傾げる。
「──ベルは確かにメスですが、……子どもを産んだことはありません。
本当にお乳をやっているのですか?」
俺はシュタファーさんに頷いてみせる。
「俺もそこは、生命の神秘としか言えないが、出産経験のないメス犬が、人間が拾って来た子犬や子猫に、お乳をやる為に母乳が出るようになったと言う事例は、過去にも何度か存在するんだ。」
何年かに一度、前世でもニュースで見たりしたが、こちらの世界でもそうした報告は何度も上がっていた。
「え……?
てことは、あの魔物、あのサイズで子どもなのか!?」
エンリーが大きな声をあげ、ベルがその声にぴくっと体を持ち上げてこちらを見る。
エンリーは慌てて口を押さえたが時すでに遅しだ。
ベルは急に威嚇するようにうなりだした。
その事に驚いた子どもの魔物が、ベルの後ろに隠れるように──笑ってしまうくらい丸見えだが──移動した。
「気付かれてしまったようだし、行こうか。」
俺は脚立と馬用のブラシを持って近付き、エンリーはシュタファーさんの車椅子を押して近付く。
今からそっちに行くぞ、大丈夫だぞ、と、魔物の鳴き声を真似たが、反応がない。
俺は音の高さを変化させて何度もそれを繰り返すと、ある一定の音階で反応を見せた。
その鳴き真似に反応した為、子どもの魔物は大人しくしていたが、見知らぬ人間が魔物に近付くのを見て、ベルが唸り声を上げ、俺に向かって吠え立てる。
犬の鳴き声を真似て安心するよう言うも、ベルは少しも落ち着かなかった。
まあ、無理もないか。
俺はリッチに、ベルが襲いかかって来たら対処するよう指示を出して、魔物の脇に脚立を立てて、馬用のブラシで毛をすき始めた。
「ベルはこの子の母親のつもりなんですよ。
だから毎日お乳をあげに森まで来ていたんです。
この体格だ、いくら飲んでも足りないので、たくさんお乳を出す為に、餌を多く食べるようになったのでしょう。」
俺は毛をすく手をとめずにシュタファーさんに説明をする。
「これはバグズという魔物の子どもなんだが、ちょっと体の一部に問題があって、親がこの子を見捨てたのでしょう。
魔物は弱肉強食だ。
生きる力がないと判断されれば、実の親でも子どもを捨てる。
ベルは何かのタイミングでこの子を見つけて、放っておけなくなってしまったのでしょう。
優しい子だ。」
「……ベルは基本、子どもたちや、人にお願いして、日中森を散歩させて貰っています。
その時に、この子を見つけたということでしょうか?」
「──おそらくは。
紐に繋がれていては、この子にお乳をやることが出来ない。
そうすれば、この子は死んでしまうでしょう。
それで、森に行くのを邪魔されたと思って、吠えたり、牙をむいたりしていたのですよ。
よし、いい感じだ。」
魔物の子どもが大人しくて気持ちよさそうにしていたので、ベルは吠えるのをやめた。
魔物の子どもの周りには、こんもりと抜け毛が山になり、エンリーが見たという、赤い目が見えるようになっていた。
「バグズは小さい頃は特に、大きくなるたびに毛が抜け変わり、徐々に体毛の色を変化させていく。
……本来なら、親が舐めて、毛の抜け変わりを助けるんだが、ベルじゃあ、この巨体を全部舐めて毛を取ってやるなんて出来ないからな、それで、目が埋もれてしまうくらいまで、毛だらけになってしまったんだ。」
いらない毛の抜けたバグズの子どもは、水色の体毛へと変化していた。
「体の一部の問題というのは、何なのですか?」
シュタファーさんが俺に尋ねてくる。
「──それは目です。
小眼球症と言って、生まれつき眼球の大きさが非常に小さいので、この子は目が見えていないのです。
バグズの子どもは、それが他の魔物よりも、おこりやすいんだが、そのせいで毛に埋もれて、はたから見ると、目がないかのようになっていたのですよ。
本来、ここまで毛がのびたからと言って、目の存在がまるで見えなくなることなど、ありえませんからね。」
俺は脚立から降りると、ベルの体を確認した。
「それに、この子は、耳も一部、よく聞こえていないようです。
俺が鳴き真似の声の高さを、段々と下げていったのが分かりますか?
この子はおそらく、若い女性や子どもの声のような、高い音を聞くことが出来ません。
バグズのメスの鳴き声はとても高い。
きっとこの子は、母親に何を言われているのかも聞き取れず、訳がわからないまま、一人ぼっちになってしまったのでしょう。」
シュタファーさんが、なんてこと、という表情で、両手で口元をおさえる。
「見えない世界で、匂いと音だけを頼りに、小さな子どもが一人ぼっちにされる。
その恐怖は、人も動物も魔物も同じだ。
きっとベルが出会ったばかりの頃は、怯えて、近付くものにやたらと噛み付いていたことでしょう。
ベルの体に、一部毛のない部分が何箇所かありました。おそらくバグズの子どもがやったのでしょう。
本気じゃなかったとは思うが、それでも犬よりは噛む力が強いですからね。」
「そういえば、血が滲んでいた事が何度か……。どこかに引っ掛けたのだとばかり思っておりました。」
「それでもベルは、この子のことを諦めなかった。
強くて優しい、立派な母親ですよ。
コイツもすっかり、ベルのことを母親だと思っているようです。」
「ベル……。」
シュタファーさんは、近寄って来たベルを誇らしげに撫でた。
「──私はこの魔物の子を、どうしてやったらよいでしょうか?」
「声が聞き取れませんから、子どもたちには近付けないほうがよいでしょう。バグズが怖がると思いますからね。
ですが、訓練すれば、一緒に散歩したり、番犬代わりにすることも出来ますよ。
バグズは犬の魔物です。都市や国によっては、門番と共にすえているところもありますからね。
この子の世界を広げてやって下さい。
もしシュタファーさんさえよろしければ、ですが。」
「もちろんですわ。
私には、この子たちを引き離すような真似なんて、出来そうもありませんもの。」
シュタファーさんは優しく微笑んだ。
バグズの子どもはチャイムと名付けられ、毎日少しずつ、シュタファーさんとエンリーとベルと共に、色々な場所へ散歩に出かけるようになった。
俺も最初は訓練に付き合った。初めは鳴いて怖がってばかりいたが、匂いをかぎ、足で目の前のものを確認しながら、少しずつ世界を広げていったチャイムは、すっかり外に出るのが大好きになっていった。
バグズの抜け毛は、スパイダーシルク程ではないが、キレイで手触りのいい布が作れる為、売り物になる。
月イチで毛が抜け替わるたび、チャイムの餌代にプラスして、ほんの少し孤児院の経営に回せる程度のお金が入ってくるようにもなった。
甘えん坊のチャイムは、今ではすっかりシュタファーさんにもエンリーにも懐いている。
「おい、こら、チャイム!重いって!
ほら、舐めるな!」
チャイムに懐かれて、エンリーも嬉しそうだ。
「やれやれ。
ベルだけじゃなく、お前もすっかり、魔物にやられちまったな。」
「──ん?」
笑う俺に、エンリーは不思議そうな顔をするのだった。
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