ナオヤ・クラシマに、会ったのだ。
ヨシコンヌ
ナオヤ・クラシマに、会ったのだ。
「この掌の木片にどんな夢を見るか。
いいんだ、別に。
わからないのだろ?」
仰向けのままで薄ら笑いながら、
ぼそぼそと呟いている彼は
明らかに酔っ払っていた。
倉島直哉だ、とすぐにわかった。
この大学のシンボルである樹齢云十年の桜舞い散る中庭に、
陽の光の下で銀色に鈍く光る
でっかい鳥籠のインスタレーションを創った、
誰もが羨む才能を背負った、
あの、
ナオヤクラシマだ、とわかった。
真夜中、ほとんど人気のない構内の片隅にある古びた木製ベンチの上で、彼はひっくり返っていた。
ペラペラでぐっしゃぐしゃなトレンチコートにボッサボサの髪の毛で横たわる彼の足元横には、その小汚い姿とは不釣り合いなほど美しいGlobe Trotterの紺色のスーツケースが堂々と佇んでいた。
白い街灯がスポットライトみたいに彼とベンチとスーツケースを照らしていて、スーツケースはまるで、秘密が詰まっているのですよ、と言わんばかりの様子でしっとりとした艶を放っていた。
持ち主よりもずっと色っぽかった。
暗闇に浮き上がっている彼らを見て、なんだか前衛っぽいお芝居を見ているようだな、と思った。
前衛っぽいって何だと云われると、いまいち答えられないが。
課題がうまくまとまらずにこの時間になってしまった。
…嘘だ。
考え込んでいるうちに寝てしまっただけだ。
ここは、都内某所にある美大である。
新聞紙を敷いた床の上で寝っ転がりながら、課題について考えていたのだった。サークルの部室には今日は誰もおらず(最近はいつも必ず誰かいるのに珍しい)、部長に「今日は自由に創作してよし。」の許可をもらったので、部室の机と椅子を壁に寄せて、床いっぱいに新聞紙を敷き、色とりどりの紙粘土や素材が違うピカピカ光る固い紙や、ビーズやガラスの欠片を広げて、いつものように作業を始めていた。
創っていくほどに集中していく、はずだった。
途中まで作っては、色の取り合わせに気持ち悪くなって、壊し、また作っては、納得がいかなくなって、壊し、作り込みが行き過ぎて戻れなくなって、壊し、を繰り返しているうちに、手を動かすことをやめてしまった。
iphoneで結構な音量で音楽を掛けていたのだが、音の何もかもが急に耳障りになり、iphone自体の電源を落として、素材だらけの新聞紙の上で大の字になってみた。
窓から見える空は淡いサーモンピンクと濃い群青のグラデーションの組み合わせで、「ああ。ああいう色合わせで人の心を動かしたいのに、なんで全然できないのだろう。」とぼんやり思いながら、目を閉じた。
目が覚めたら、とっぷり日が暮れていて、思わず、
「タイムリープか」
と独り言を云ってしまった。
硬い床のせいで、身体中が痛くて、起き上がってから首と肩を回して、溜息をついた。外に立っている街灯のおかげで薄明るい部屋で、しばらくぼうっとしてから、ゆっくり立ち上がり、手探りで電気をつけた。
蛍光灯の白い光の下で、床に広がっている素材が全部、急につまらないものに見えた。
また、溜息をついてから、だらだらと片付けた。
部室を出て、中庭が見える廊下を通った時、何気なく中庭の方を見たら、でっかい銀色の鳥籠がライティングされ、鈍く光っていた。傍に立っている桜の大樹は八分咲で、鳥籠の大きさと相まって、異空間がそこに現出していた。桜が咲く時期の短い間だけ、このインスタレーションはライティングされるのだった。その近くで、大きなカメラを持った一人がずっと撮影をしているのが見えた。廊下の窓を開け、両肘をついて、インスタレーションを眺め、響くシャッター音を聞いていた。
ナオヤクラシマがフランス語の授業中に、口を開けて寝ているのを見たことがある。私は大学1年で、ナオヤクラシマはその時点で5年生であった。誰も彼を起こさなかった。教授もだ。あの時、彼はこれの制作をしていたのだと後から知った。
ナオヤクラシマは有名だった。
何の賞かは忘れたが、大学2年の時に注目されるような大きな賞を取り、彼の背景がとある大企業の何たらCEOの第2夫人の息子だったことがその注目度を加速度的に上げていた。私は当時を知らないので、どのくらい大学構内が騒然となったかは見当もつかないが、サークルの部長(彼はナオヤクラシマと現在も同学年であるという奇特な存在である。)は、あまりにもひどい追っかけからナオヤクラシマを我が部室に匿ったことがある、と今も自慢している。
「お前のその弁当は何だ。ガパオライス?」
部室で一人で自作弁当を食べようとしていたら、背後から急に声を掛けられて、ものすごくびっくりしたことがある。
ナオヤクラシマとのファーストコンタクトだった。
部室の鍵を部長が6割の確率で失くす為、私は勝手にスペアキーを作り、適当な時間に部室に出入りし、便利に使っていた。部室を独り占めしたい時は中から鍵を掛けてしまえばいい。その時も鍵を閉めてから弁当を広げていた。タイ料理屋でバイトを始めてから、自作弁当のほとんどがタイ料理になった。覚えるのが楽しくて仕方なかったので、自分でもどんどん作っていたのである。誰も入って来ない空間でゆっくり自作弁当をいただくのが私の至福の時間であった。さぁ食べようという時に、背後から声を掛けられた。大声を上げてしまった。
「そんな声出すなよ!こっちがびっくりするだろうが!」
「いやいや、どう考えてもびっくりするのはこっちですが?!」
と、思わず云い返した。
自分でもなかなかの瞬発力だったと思う。
ナオヤクラシマが一瞬たじろいだのを見ることができた。
聞けば、鍵は部長に借りたものをそのままくすねて自分のものにし、たまに一人になりたい時に勝手にここに来ることがあるという。学食前にある弁当販売で唐揚げ弁当を買い、食べる場所がなかったので、ここに来たそうだ。
「ところで、それはガパオライスか。」
「そうっすね、ガパオライスです。」
「よし。交換しよう。」
「え。いやです。」
何回かの攻防戦後も、ナオヤクラシマは決して引かなかった。
「交換してくれたら、お前の名前を覚えてやろう。」
何云ってんだ、と思わなかったと云ったら嘘になる。ほんと、こいつ何云ってんだと思ったし、よく見たら羽織っているコートがぐっしゃぐしゃのシワシワだな、と思った。
そして、なぜかそのぐっしゃぐしゃのシワシワに気付いた時、心が動かされたのである。
私のお手製ガパオライスは、ナオヤクラシマの胃の腑に落ちた。
「名前は、覚えたぞ。」
そう云って、ナオヤクラシマは去って行った。
あれから、2年だ。
ナオヤクラシマとはその後一度も会っていなかった。
ベンチで横たわっている彼の右手には、平たくて透明な四角い瓶が握られていて、多分、iichicoだろう、とわかった。ワンカップ大関でも、アサヒスーパードライでも、ワインボトルでもなく、iichicoなんだな、ナオヤクラシマは、iichicoってところが笑えるな、とニヤつきながら、その横を通り過ぎた。
「お前のそのスカートはなんだ。まるでボロ切れだな。」
その台詞めいた一言が自分に向けられたものだと気付くのに、少し時間がかかった。
「丹澤美穂子、お前に云ってんだよ。」
無視するにはワンテンポ遅かった。
仕方なく、振り向く。
ナオヤクラシマはベンチで仰向けに伸びたまま、頭を少し逆さまにして、こちらをじっと見ていた。
「頭に血、のぼらないすか?クラシマさん。」
「ほっとけ。」
ナオヤクラシマは頭を元に戻した。
「名前、本当に覚えてたなんて、意外っすね。」
「なんだその物云いは。腹立たしい。歳かわんないだろ。」
「一緒にしないでくださいよ。自分のがずっと下っす。」
「あっそ。」
「ていうか、クラシマさん、本当はいくつなんすか?とっくに卒業してるはずじゃないんすか?」
ナオヤクラシマは機嫌を損ねたらしく、しばらく黙っていた。次の言葉がなかなか出て来ないので、
「クラシマさん、風邪引くっすよ。いくらなんでもまだ4月入ったばかりですから。結構冷えますよ、外だと。自分、帰ります。」
と、背を向けようとした。
「お前、今まで何してた。」
ナオヤクラシマは会話を続ける気になったらしく、こちらを見ずにそう云った。
「はぁ。課題やってましたけど。」
寝ていたとは、云えなかった。どこか悔しいような気がしたからだ。
「どうせ箸にも棒にも引っかからねぇようなもん創ってんだろ。」
「クラシマさん、絡み酒っすか?ウザいっすよ。」
図星を突かれたと認めたくなくて抵抗してみたが、ナオヤクラシマには何の効果も無く、
「丹澤ぁ、お前、チョコレート好きか?」
と脈絡無く聞かれることとなった。
「何すか、急に。酔ってんです?」
「何でもいいから答えろよ。俺は、好きだ。何なら、大好きだ!」
「はぁ。で?」
ナオヤクラシマは両足を急に垂直に上げ、勢いよく下ろし、身体全体を起こした。目を閉じて左手の人差し指を立てて揺らしながら、
「チョコはチョコでもー、食えないチョコってなーんだー?」
と云った。
「…帰りますけど。」
ナオヤクラシマは左手で一回顔を撫で、深く溜息をつき、コートのポケットから何かを取り出した。
その何かをしっかりと握った左手を頭の上まで持ち上げ、しばらく静止していた。
浮き上がった手の甲の血管を眺めていると、不意に
「やる。」
と云って、はらり、と力なく大きな掌を広げた。
からん、と乾いた音を立てて、何かが転がり落ちた。
四角い黒っぽいかけらがアスファルトの上に落ちていた。
近づいて拾い上げてみる。
木片だった。
3cm×4cm程度のその木片は、きれいな焦げ茶色をしていた。
滑らかな表面のそれは、よく見ると、ちょっと囓られた跡のあるチョコレートのひとかけらを模したストラップだった。裏を返すと、とても小さな蟻の彫り物がしてあり、カリグラフィーのイタリック体でN・Kとも彫ってあった。金色の組紐が付いている。
「かわいい。」
よく出来ているそれに思わずそう云うと、
「嗚呼!お前もか、ブルータス…。」
と、左手とiichicoで顔を覆い、芝居めいた口調でナオヤクラシマは嘆いた。
「お前って云うのやめてくれませんか。口調が芝居がかりすぎてて、思うよりずっと奇人変人の類っすね、クラシマさん。これ、クラシマさんが作ったんですか?」
ナオヤクラシマは左手とiichicoで顔を覆ったまま、
「そのカワイイアイディアの方を取るんだ。近しい人もさ。
傍に置くにはでかいものばっかり作るからさ、俺。
そんなもん、イミテーションにすぎねぇのにさぁ。
しかも人真似に手を加えたもんだってのに。
世界には認められそうだってのに、
好きな女に認められないってのは、どういうことだ?
説明してみろ、丹澤ぁ!」
と云った。
近しい、とか、好きな女、とか、ナオヤクラシマの口から飛び出した言葉に、なぜかこちらが恥ずかしくなった。そして、そう云わせる相手が一体どんな女なのかが気になった。訊いてみたい気もしたが、そこまで親しくはないので、代わりに思っていたことを云った。
「いや、自分、もしでっかい庭とか家とか、そういうのを手に入れることができたらの話ですけど、それができたら中庭にある銀の鳥籠貰いたいですけど。あの、そこ、比べるとこすかね?」
ナオヤクラシマは左手とiichicoを顔から少しずらして、こちらを訝しげにじっと見て黙っていた。
目が合ったが、云うことも見つからないので、黙って見返した。目を反らすと、どことなく負ける気がしたので、瞬きしながらも視線がずれないように気をつけた。
ナオヤクラシマはまた左手とiichicoで顔を覆って、深呼吸してから、急に立ち上がった。
「あーあほらし。帰ろ。」
「人に絡んできといてなんなんすか、クラシマさん。」
ナオヤクラシマはこちらの非難を完全に無視して立ち上がり、iichicoをポケットにしまってから大きく伸びをした。
動物っぽい動きだな、と思った。大きな猫のようだ。
コートのポケットに両手を突っ込んで、ナオヤクラシマはこちらを見ずに早口で云った。
「丹澤、お前の創るもんは細々しすぎているし、お前の色が出なさ過ぎたり、いい加減なもんも結構混ざっているくせに、時々びっくりするくらい繊細っていうか惹きつけられるもんが含まれてることがある。去年の学祭に出してたのとか、良かった。俺はそういうのを見んのが好きだ。合評で何云われてるかは知らねぇけど。それにしても…。」
「…なんすか。」
ナオヤクラシマは急にこちらを向いた。そして、つかつかと近寄ってきたかと思うと、いきなり、思い切り、頭を叩かれた。
「ったぁっ!痛い!」
「丹澤!お前!嬉しそうな顔すんじゃねぇ!」
「うれしいっすもん!しかたないっすよ!痛いな、もう!」
「それにしても、お前のあの箱庭的創造物の出来の均一感のなさはなんなんだ!いくつ創っても同じくらい魂込めろっつーんだよ!」
ナオヤクラシマは溜息をついて歩き始め、
「迷ったら終わりなんだよ。創り直せばいいだろ。媚びてるとこっちにはわかんだよ。がんがんに伝わってくんだよ。気持ち悪りぃんだよ。」
と云った。
私はしばらく動かずに、先を行くシワだらけのコートの背中を眺めてから、呼びかけた。
「クラシマさん、トロッター忘れてますよ。」
ナオヤクラシマは立ち止まり、背中を丸めて回れ右をして、私の横を通り過ぎ、紺のGlobe Trotterのところへ戻った。
「…スーツケースひとつ選ぶのに、三日かかっちまった。」
ナオヤクラシマは呟くようにそう云って、Globe Trotterを引きながら、再び歩き出した。その引き方があまりにもぎこちない様子なので、なんだか生活力とか常識力とかそういった生きる術みたいなものを全く持ち合わせていないんじゃなかろうか、この人は、と思ってしまった。先を行く彼は、くしゃみを一つして、鼻を啜りながら歩いていく。向かう方向が同じなので、その後ろから付いていく。
Globe Trotterの車輪がごろごろと低い音を響かせている。大学の古い図書館の傍の、ちょっとした桜並木になっているその下を通り過ぎる。等間隔の街灯は規則的にナオヤクラシマを闇に浮かび上がらせる。少しだけ散る桜の花びらが、裾の長いシワシワのトレンチコートが、トレンチコートのベルトが引きずられそうにだらしなく下がっている様が、彼の背中をより舞台上の人っぽく見せていた。規則的に繰り返される、闇に浮かび上がる背中を見ていたら、ナオヤクラシマはひとりなんだろうなぁ、と思った。
ひとりで何処かへ行って、
ひとりで何かを摑み取ろうと踠いて、
ひとりでご飯を食べて、
ひとりでシャワーを浴びて(お風呂には浸からなさそう)、
ひとりで眠って、
ひとりで。
でも、誰かを好きになっているみたいだし、寂しくはないのか。それとも、好きになる程、ひとりだと思うのだろうか。
そんな事を考えていたら、なんだか少し、優しいような悲しいような気持ちになって、足を早めて横に並んでみた。
ナオヤクラシマはこちらをチラッと横目で見たが、何も云わなかった。
「どっか行くんすか?」
「ん。イタリア。」
「イタリア…。」
「そう。」
「イタリア、のどこです?」
「ミラノ?」
「なんで疑問系なんです?ミラノか。あ、今、あれ、やってますよ。なんだっけ?」
「サローネ・デル・モービレ?」
「それ!あ、もしかして、クラシマさん、それに?」
「そう。」
サローネ・デル・モービレは家具とデザインの国際見本市だ。学生の身分でそういうところに行くのは、よほど本気の人間か、仮にも美術に関わっているのだから、というかなりスノビッシュなぼんぼん(女子が行くのは大概が本気な気がする。)のどちらかだと思っていた。自分が行けないので、羨ましさと相まった偏見かもしれない。現代美術アーティストまっしぐらで切実な作品作りをするナオヤクラシマが、日常生活に関わるプロダクトを作る事に根ざした市で何を得てくるのか、興味が湧いた。
ミラノの街を歩くナオヤクラシマを想像してみた。石畳の道や石造りの建物の間をひとりで歩いていそうな彼は、浮いている感じが少しもないように思えた。そうか。日本にいるから、あんなにぎこちなく見えるのか。ヨーロッパの空気の方がナオヤクラシマには合っているのかも。
もう、帰ってこないかもしれないな。それは、ちょっと寂しいような。
「もし吉岡徳仁に会えたら、サインもらってきてください。本渡すんで。握手ができたら、その手を洗わずに帰国して、自分と握手して下さい。」
ナオヤクラシマは眉間に皺を寄せてこちらを見た。
「気持ち悪りぃな、なんだそりゃ。てか、誰だそりゃ。」
「大好きなんす。プロダクトデザイナーです。毎年椅子出してるんすよ。」
「椅子?ああ、わかった。こないだ資生堂ギャラリーで見たわ。あれだ。水槽の中に沈んでる、何かの結晶でできた椅子とか作ってる、眼鏡の、おっさん。」
「そんな云い方…。おっさん…。」
ナオヤクラシマは、確かにあれは綺麗だったな、と云った。
あの椅子の題名は『venus』というのだ、とはなんとなく気恥ずかしくて云えなかった。代わりに、Globe Trotterを褒めてみた。
「そのトロッター新調したんすか?かっこいいっすね。」
「ん。」
ナオヤクラシマは、少し考えるように黙ってから、
「ほんとはやっすいスーツケースでも全然気にしなかったんだけど、なんかの本でイタリアは貴族社会で、その考え方が根強いから日本人は莫迦にされるって読んで、なめられちゃいけねぇと思ってトロッターにした。」
とゆっくり云った。
「クラシマさん、やることが金持ちくさいすね。てか、クラシマさんでもそんなこと考えるんすね。」
ナオヤクラシマは突然笑い出して、
「金持ちくさいって、お前。よく平気で俺に向かってそんなこと云えたね。誰もが云いたそうで云わなかった俺の金銭事情への一言を。」
と云った。一通り笑い終わった後、可笑しそうに溜息をついて
「まぁ、俺は本当に勤労学生じゃないしな。ほら、やっぱり、でっかい企業の社長息子だしね、一応ね。」
と、また笑った。
「お前の俺への興味の程度がよーくわかった。」
ナオヤクラシマはしかたねぇなこいつ、というのが手に取るようにわかる顔をして私を見た。不意に思い出して、云った。
「イタリア人は靴を見て判断するらしいすよ。」
「…そうなの?」
ナオヤクラシマはちょっと情けない顔をした。なにその笑える顔、と思った。
「じゃあ、現地でいい靴買うわ。向こうのがいっぱいあるだろうしな。」
「やっぱり金持くさいすね。」
「不自由したことねぇもん。しかたねぇだろ。」
そして、情けない顔のまま、恨めしそうに私を見て続けた。
「金持くさいとか云ってるお前だって、ヨーロッパ旅行とかしたことあるクチだろ。」
「はぁ。そっすね。貧乏旅行でしたけど、一度だけ。パリに行きました。夏に。」
「やっぱりな。俺は一週間前にパスポートを初めて手にしたばかりだ。」
「え!?」
「驚くなよ。傷つくだろ。」
「すいません。」
「謝るなよ。余計傷つくだろ。」
大学の構内は広い。ようやく東門の階段のところまで来た。ナオヤクラシマはGlobe Trotterの持ち手を左手で持ち、階段を降り始めた。
「家族旅行で海外ってなーんか空々しくて。嘘っぽくなりそうで行けなくてな。結局、海外経験バージンのままここまで来ちまった。」
「そうすか。バージン…。」
「繰り返すなよ。恥ずかしいだろ。」
東門は明治時代の西洋建築の再現で、赤い煉瓦で壮麗に建てられている。暗闇の中でライトアップされたその門は、なんだか新しく綺麗すぎて東京という大都会の真ん中でかなり浮いて見えた。階段は東門の中を潜るように作られていて、幅がかなり広い。天井も高くドーム型になっているためか、音の反響がすごい。
「まぁ何云ったって、ほんとは全部建前でな。変に意地になってたり、いつもはほったらかされてるってこと忘れて母親が楽しそうにすんの見るのに苛々してたりしたからな。行かんかったんだ。英語も全然、もうほんっとにぜんっぜん出来ねぇし。そういうの親に見られんの恥ずかしいだろ。向こうはペラペラなのに。」
ナオヤクラシマは、階段の中央に設置してある黒い装飾手摺にGlobe Trotterの柄の部分(しまわずに出しっぱなしのままだった。)をぶつけては割と派手な音を立てて階段を降りていた。音に紛れさせながらならなんでも話せると判断したのかもしれない。その後ろから少し離れて、一段一段ゆっくりついていった。
「クラシマさん、出発いつです?」
「明日。」
「え!?」
思いの外響き渡る声に、自分で自分の驚き度合いを測ることができた。
「そっか、ネットでは4日からスタートとか書いてあった気が。あれ?2日後じゃないっすか!?」
ナオヤクラシマはちらりとこちらを振り返ってから、
「…丹澤、詳しいな…。俺は前山教授のかつての教え子に薦められるまで、そんなものが開催されてることすら知らなかったのに。」
と静かに云って、また階段を降り始めた。
「ああ…。クラシマさん、そういうの結構疎そうですもんね。自分はただのミーハーです。吉岡徳仁が好きだから、行きたいと思ってただけです。」
「行きたいなら、行きゃいいだろ。」
「お金ないんで。」
ナオヤクラシマは踊り場に一旦Globe Trotterを置いて溜息をついた。そして、4段ほど上にいるこちらを見上げた。
「あのな、丹澤。金云々じゃねぇの、そういうのは。本当にお前に必要であれば絶対行けんだよ。どんなに遠いと思ったことでも、もう腹の底から魂絞ってやってれば、いろんな流れが見えてきて、その流れに乗って辿り着けんだよ。なんでか、分かんねぇけど。」
ああ、これだからこの人はナオヤクラシマなんだな。
帰国子女の友達が吉岡徳仁の記事の載ったJapan Timesを持ってきてくれたことがあった。同じ紙面に、彼はいたのだ。物凄く小さなスペースではあったが、名前が見出しになってしまうような、そんな注目のされ方をしていた。
その理由が、きっと、ここにある。
「クラシマさん、そんなこと云って。友達いないんじゃないすか?」
本当は胸の内で感動していることを悟られたくなくて、悔しくて、そう云った。
「なんだよ。わかるだろ、丹澤。俺の云ってる事、通じたろ。」
「わかんないすよ。」
「だからお前はダメなんだよ。」
「ほんと、友達いないんじゃないすか?クラシマさん。」
ナオヤクラシマは私の憎まれ口を完全に無視して、こちらに背を向けて再び階段を降り始めた。
また、背中だ。全くたくましくなくて、細い背中。でも、真ん中の骨だけは意外としっかりしていそうな、背中。
魂を絞ったら、何色なのだろうか。
眺めていたら、そういう疑問が浮かんだ。
「クラシマさん、魂、そんなに毎日絞って、干からびたりしないんすか?」
魂を絞ったら、どんな味がするのだろうか。
右の掌を広げて、貰った木製のチョコレートをじっと見てみた。それから、口まで持っていって囓ってみた。
かつっという軽い音がした。
「なにやってんだよ。」
ナオヤクラシマは呆れた顔で口を開けて、こちらを見上げていた。
「いや、甘いのかな、と思って。」
「なに?ばかなの?」
階段が終わるまで、あと数段だ。
「干からびたら、どうしたらいいのかな、と思って。」
「干からびた事、あんの?」
「ないすけど。」
「じゃあ干からびるまでやれ。」
「クラシマさんだったら、どうするのかなっていう単なる興味です。」
「知らねぇよ。干からびたことなんかねぇもん。」
ナオヤクラシマは最後の一段を降りた。
東門前に面した道路には何台も車が行き交っていた。左手側に東京タワーが見えた。夜中の車の多さにいつも、ここは本当に都会なんだなぁ、と思う。今もそう思った。ナオヤクラシマは道路に身を乗り出して、黄色にオレンジの帯が引かれた車体のタクシーを停めた。見送ろうと突っ立っていると、なんと送ってやる、と云われた。手持ちの財布の中身と徒歩30分という時間とを考えて、ありがたくその申し出を受けることにした。家に着くまでの10分間、ナオヤクラシマも私も一言も話さなかった。タクシーの中ではずっと、落ち着いた声で話す男性パーソナリティーのラジオ番組が小さな音でかかっていた。降車際、ナオヤクラシマに例に食えないチョコレートを返そうか、と差し出すと、その掌を押し戻された。
「やるって云っただろ。」
「はぁ。そうすか。ありがとうございます。」
更に、それをやるから今日の事はみんな忘れろ、と云われた。モノが残ったら忘れるってのは難しいんすよ、と云うと、ふんっと顔を背けられた。車を降りて、ドアが閉まってから、ナオヤクラシマに窓を開けるようにとノックで催促した。窓を開けたナオヤクラシマは厭そうに顔を出す。左手をその顔の前に差し出した。
「なんだよ。」
「握手、してください。」
「は?」
「少しクラシマさんの才能を吸い取ります。それから、自分の落ちこぼれ能力、分けたげます。」
「いらん。あほか。」
「じゃ、とにかく自分と握手してその手を洗わないで吉岡徳仁と…。」
ナオヤクラシマは窓を閉め始めた。
「痛いっす、クラシマさん。」
「誰にもやらん。やってたまるか。」
「そうすか。」
窓の隙間から手を抜いた。
「いってらっしゃい。」
ナオヤクラシマは黙ってじっとこちらを見上げてから、窓をきっちりと閉めて、前に向き直った。そして、こちらを向かないまま、右手を一振りだけした。
タクシーは走り出した。
テールランプが二つ先の角を曲がるまで見ていた。
帰ってくるのだろうか、と、また思った。
帰ってこなくても、なんでもいいな、ナオヤクラシマだから、とも。
握った右の掌の中にある木片がわずかにあたたかいような気がして、手を開いて眺めてみた。
『この掌の木片にどんな夢を見るか?』
ナオヤクラシマがベンチで呟いていた言葉を思い出した。
「かわいい。」
もう一度、木片を見て、そう口に出した。
その域を脱しない自分の夢の範疇に軽く絶望して、木片を握り直してポケットにしまった。
星も月もない真っ暗な空を見上げて一度深呼吸をしたら、絶望が少し、身体から出ていった。
自分の中にしかない夢を表現し続けることしか、私には出来ないのだ、きっと。
でも、それは、他の誰にも見る事は出来ない、自分だけの夢だ。
自分だけの、そこが重要なのだ。
次に会うまでには、もう少しマシなものが創れるようになっているといい。
そう思ったら、涙が出てきた。
「倉島直哉の孤高なる魂の為。」
ひとり嘯いて、少しだけ、泣いた。
ナオヤ・クラシマに、会ったのだ。 ヨシコンヌ @hanamame-and-yoshico
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