第13話

 私の恐れていた言葉。予想はしていたが、予想以上に重くおなかにのしかかってくるその重み。心は悲鳴を上げていて、とうに涙など頬を何度もつたっていた。

「そんな、いやだよ」

「私の仕事はどこでもできるし、しばらくはお父さんのそばにいてあげたいと思ってる」

「そんな、私は、私はそんな意志の弱いムツは好きじゃないよ」

「初めから、たまたま東京のほうが利便性がいいってだけだったじゃんか。たぶん私は、帰らなきゃいけない。お父さんがそれで安心するのなら、そうする」

 もう視界がぐちゃぐちゃだ。何もかも嘘であったらいい。

「今生の別れってわけじゃないし、もちろんたまに会いに来るから安心してよ」

 けれど、ムツの口から出るのは、あくまで現実的な言葉。そう、この先もただ私と「事実」を重ねていきたくて、それが当たり前と思っている風に。

「最近外出が多いのは」

 私は思わず尋ねていた。

「そのための準備をしていたの?」

「半分当たり。仕事関係の人と会ったりとか。惜しまれてるけど、仕方ないねって」

「そこまで話を進めておいて、私には隠していたの?」

 はじめてムツはすこしたじろいだ。

「……絶対止めると思ったから」

「そうだよ。止めるよ。やだ、そんなのやだ! 折角一緒に暮らして、こんなに好きになれたのに」

「そこまで、二人の暮らしに執着する必要もないんじゃない?」

ふっと笑って、とげがない言い方を装って。

私はムツに、突き放されたのだ。

さっきからのおなかの重みは、煮えたぎる熱さに変わった。なぜだろう、執着、という言葉をムツから聞くことが、まるで恥辱を受けているかのように感じた。

――私を田舎から連れ出してくれたときも、そう……大事なときは、いっつもエリが私を引っ張ってくれるよね。

つい先日言ってくれた言葉すら、深いところで飲み込んでしまったがゆえに抜けにくい魚の骨のように私をちりちりと痛めつける。のどが渇いていがいがして、声を発する気分ではなかった。

 ムツはそのあと、私の布団には入ってこなかった。少しずつ崩れていく、いつも通り――私は、なぜかふと、部屋の隅によけておいてある段ボールが気になった。子供のころ私が書き散らした、ピンクの表紙のスケッチブックたち――

 そうだ、あの時だって。

私が高校二年のころだから、ムツは小学校五年生のときのことだ。深くは覚えていないが、私が絵に執着をしていることを、軽くなじるような態度をとられたことがある。直接言われたわけではなかったけど、彼女は私より絵がうまい自分を誇りに思って、それを見せつけるような節があった。

 たしかに昔のことだ。子供心からすればそのようなものと納得もしていたはずだった。しかし、その出来事自体を覚えているということが、心のどこかで根に持っている部分があるのだと思う。

 そう――やはり私は絵が描きたかった。絵で食べていきたかったんだ。そう考えてしまったとたん暗い方向にどんどんと考えが巡りはじめる。

 ムツは私の心を、いい意味でも、悪い意味でも、落ち着かなくさせる存在だ――

 頭の中の、黒い感情の交錯には、歯止めが利かなくなってくる。

私は私の日常を守りたい。私の日常にはムツの存在が不可欠だ。

そんなのはわかっている。けれど、私に近い距離だからこそ、私を置いていくような態度に、大きな痛みを覚える。では私の望む日常とは、平穏とは別の感覚なのだろうか?

 鬱屈した感情がムツを責めるほど、かつて東京でひとり営んでいた退屈な「生活」は、彼女の存在にがらりと塗り替えられてしまったのだということを思い知る。

 どうか、私を苦しめないでほしい――

 そのような祈りなど、久々に一人で眠るベッドの上では無に等しかった。

 一週間後、ムツは実家に帰っていった。


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