第10話

 小学校のころ、町が十年に一度の豪雨に見舞われたときのことを思い出した。学校から下校する途中、私の住んでいる地域に避難指示が出て、その時先生の家を、初めて訪れた。

 その時、広い広い部屋に通された。そこに入った瞬間、私は驚きで飛び跳ねてしまった。

先生が若いころに描いた作品が、ずらりと並んでいたのだ。それぞれをすべて覚えているわけではないが、どれも独特の雰囲気で、新たな価値観を創造しようという野心が垣間見えた。

――どうしても、未練があって、捨てられないんですよね。

そんなことを言っていたような気がする。

「……どうして、絵画教室をたたもうと思ったんですか?」

「いや、特にこれといった理由は思い浮かばないんですが、しいて言うなら」

 先生は私をしっかりと見つめていった。

「私は私の人生を楽しもうと思ったからです。飾らない、妻との暮らしを、これからは大切にしたいと考えていましたし。そして、そういう姿は六実さん、あなたから教わったんですよ」

先生の言わんとすることを、どれだけつかめたかはわからない。

 けれど帰り際、気づいてしまった。先生の画廊だった部屋はすでに開け放たれていて、もう中には何もないということに。

 先生の言わんとしていることを、一ミリもつかめていないのかもしれない。どれだけ考えても、すべて見当違いになるのなら、詮索をしないほうがいい。


 車に乗り込むなりムツは顔色を悪くした。それは酔いだけのせいではなくて、飛び出してきた実家に戻る後ろめたさと戦っているのだろう。

 とはいえ、久しぶりに顔を合わせる娘を見て、ムツのお父さんのほうが嫌な思いをするはずもない。

「なんかさ、変だよね」

 ムツが改まってそう言った。

「なにが?」

「いや今更なんだけどさ、人が死ぬときにみんなで集まる伝統とかさ、そういうの」

「はあ……いやいやでも来てるじゃん、ムツ」

「いやそうなんだけどさ、それに、実のお母さんだから世話になってるんだけど」

 私は母の訃報に涙したムツの表情を思い出した。あの脆い泣き顔。

「やっぱりさ、そういうのって前もって集まってやっておくべきなんじゃないかなって思うんだよね」

「あー、でも最近生前葬とか、やるところもあるじゃん?」

「それもそうか。時代の流れだねー」

 ムツはさして興味がなさそうに、うんと伸びをした。時代の流れ、その先端を行く東京に暮らす私たち二人。

 もう一度実家に帰って、お通夜にはまだ少し時間があったので、うちに上がってゆっくりするように母が勧めた。

「そう言えばムツちゃんは、本業のイラストレーターなのよね、すごいわね! それに引き換えて、うちの娘のなんと地味なことか」

 新しもの好きが幸いしてか、ポップアートを手掛けるムツと母は波長が合うようだった。小さなころでもよく、話を弾ませていたのを憶えている。

 よそ向きに身内のことを卑下する家族のことは、あまり好きではなかった。それが私の挫折を掘り返すようなことであったから、なおさらむかっときた。

「でも私にとってエリ子ちゃんは唯一無二の存在です」

「そう言ってくれてうれしい、これからもエリ子をよろしく頼むわね」

 それは私のセリフだ、と思うのだが、母が代弁してくれるなら別にどうでもいい。

「私がムツの世話してあげてるの、忘れないでよ」

「うるさいなあ、私だって一人暮らししてた時期あったんだからね」

「まあまあ、独り身で寂しいエリ子のほうが世話になっているかもしれないわ」

 母の言葉の柔和さの裏に、少しの皮肉が見える。そろそろ身を固めるように、という昨日のメール。……簡単に言ってくれるけど、私が好きなのは――

 本心の通りを口に出せない自分に腹が立つ。

 ――私はムツと、一生一緒にいたい。

 そんな想いを打ち明けられる日は、果たして来るだろうか。


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