第9話
先生の家は住宅街の角にある、白く瀟洒な二階建てだった。車を走らせ先生の家にたどり着いて、目を回しているムツと一緒に玄関先に立つ。
玄関先のガーデニングはほとんどあの頃のまま。しかし、どこか寂しい雰囲気がある。私は少しだけ不安を覚えていた。絵画教室を引退したという先生。どこか身体を悪くしたのかもしれない。恐る恐るインターホンを押し、声を出した。
「どうも、昔教室に通っていたえり子です。六実も一緒に連れてきました」
「おお、なつかしい……帰ってきているんですね。ちょっと待っててください、玄関まで出ますから」
昔と変わらない、澄んだ低い声が返ってきて、胸騒ぎが一気に収まった。
しばらくして玄関から先生が出てくると、もう色々と思い出があふれてしまって、涙がにじんだ。
以前より背が縮んだだろうか。そして頭の白いものもずいぶん増えた。それでもその細い瞳に見える、どこか少年のような無垢さだけは変わっていなかった。それだけで、安心できた。先生はまだまだ健在だ。
「お久しぶりです、澤(さわ)先生」
「ご無沙汰でーす」
軽い調子で挨拶をするムツだがしかし、彼女が先生と直接会うのは、絵画教室を辞めていった十二歳のころだから、約八年ぶりのはずだ。
「ムツ。お世話になったんだから、もっと礼儀正しくしなさいよ、ただでさえあんな辞め方をしていったのに……」
「何だっけ、忘れちゃった」
ムツ、忘れたとは言わせない。小学校六年生で、生徒のレベルが低いと罵って辞めていったのだ。寂しそうに眉をひそめた澤先生の表情を私はいまだに覚えているのだ。
「なんのことでしょうか」
「先生、ムツは最後の日、ひどいことを言って出ていきましたよね?」
「そんなこともありましたね……」
「そんなこともあった気がする、いや忘れたけど……ていうかまだ酔ってるっぽいんだけど」
空を見上げてしばし考え、やっぱり覚えていないといわんばかりに首をかしげるムツにイラッとしたが、先生の手前なんとか抑えた。
「はぁ……先生の優しさに感謝しなさいよ。……私の運転、そんなに下手くそ?」
「うん、もはや才能だよ」
「うるさいなあ……」
「ははは、元気で何よりです。久しぶりですね。本当に……立派になりました、二人とも」
先生は私たちを居間まで招き入れた。家の中の雰囲気は、記憶のものとさして変わっていない。奥さんが、言われずともお茶の支度をしようとするのを止めて、
「私が招いた客人だ、私が世話をする」
と、とても素敵なことを言った。奥さんはそれを聞いて微笑み、座布団を用意して、
「ごめんなさいね、最近はお客さんもあまり来ないから、散らかっていて」
調度品のどこにもほこりが見えないくらい綺麗な居間だった。私たちは落ち着かないながら差し出された座布団に座った。
「二人とも、元気そうで……六実ちゃんも、久しぶりね」
「はい……おかげさまで」
「いえいえ、貴方は貴方自身で道を作っていったのよ」
奥さんが答える。そのまなざしは、ムツにも寛容だった。
「ほら、お茶ですよ」
澤先生自らが煎茶を入れて持ってきてくれる。
「六実さん、貴方はイラストレーターとして活躍していると聞きましたよ」
「あっ、ご存知でしたか」
ムツは照れ臭そうに頭を掻いた。
「私は何もしてあげられませんでしたし、縁も薄いですからね」
「まあ、そうですね」
「ちょっとムツ、そんな失礼な言い方ないんじゃない」
「だってそうじゃん」
「六実ちゃんのいう通りですよ。六実ちゃんがもし、ずっと絵画教室に残っていたら、今の活躍もなかったはずです。私はポップアートを教えることはできませんでしたし……」
先生の謙遜の言葉に、うなずいては失礼だと思ったものの、それは確かに事実だった。
「でも……」
「それに六実ちゃんがあのまま教室を続けていたら、えり子ちゃんの心も折れてしまったかもしれませんでしたし……」
私ははっとした。当時はムツへの嫉妬めいた思いを、先生に隠し通していたつもりだった。それも御見通しだったというのか。
「でもね、六実ちゃんが別格なだけでしたよ。えり子ちゃんも、絵で食べられるだけの才能はあったと思っているんです」
驚きの言葉を発されて、私は先生のほうを見た。その様子がおかしかったのか、奥さんがすこし笑ってから、
「そんなに驚くことじゃないわ。主人が手塩にかけて育てた子なんですもの、自信を持ってほしかったわ」
「そうですかね……私もいまやただのOLですし」
澤先生は少しだけ険しい表情をしたので、襟を正して聞いた。
「いや、ね……自分でそのセンスに自信が持てなかったら、多分途中で折れてしまうだろう。そう思っていたんです。だから、あえて私から言うのはやめていたんですよ……もちろん、言外にえり子ちゃんを評価しているつもりでしたが、やはりもう少ししっかりほめてあげるべきだったかもしれません」
「そんな、やめてください。先生は何も悪くないですよ」
「私が開いた絵画教室の中で、私自身もそろそろ引退しようと思っていたんです。おそらく最後にプロになれる子だと思っていたんですよ?」
先生は途端に、飼い主に構ってくれない老犬のような寂しい表情を見せた。自信のなさそうな姿で――その姿は私が小学校の時のことを思い出させた。
「最後にプロになったのは、私でしたね、はは」
ムツのそんな冗談めかした発言などはほとんど耳を通り抜けて、私はこの表情をしていたころの先生との思い出が頭の隅からポンポンと出てくる。
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