第8話
電車の車窓から見たのでは分からなかったが、絵画教室の鮮やかだった黄色の外壁は、黒くくすんだ色になっていた。全く想像をしていなかったわけではないが、不安が頭によぎったし、ムツに――もう絵画教室が閉まっている可能性があると相談をしてもいた。私が教室に入ったとき、確か先生は還暦を迎えていたはずだ――。
接近して、入り口の扉に張り出された、色あせたラミネート紙を見て、その予感は当たっていたのだと思い知った。
「やっぱり当たるよね、エリの悪い予感って」
「あんまり嬉しいことじゃないけどね……」
ムツが教室を卒業したのが中学を終えた六年前で、張り紙によるとこの教室は五年前に閉められたことになる。長いこと教室で教えている様子がないが、ムツとすれ違いのように先生は引退されたのだった。
しかし、まだ会える希望はある。
「ムツ、もうちょっと歩ける?」
「お家まで行くって?」
「そうだよ」
はあはあと言いながら胸を上下させているムツは、もう一つ大きく息を吐いた。
「別に疲れて息が切れるのはいいよ、でもエリの運転にだけは付き合いたくなかった」
「うるさいな、行くよ」
一度、私の実家に帰って、車を使わせてもらえば、先生の家まで行って少し挨拶をして、帰ってくれば時間的にはお通夜に間に合う。
本当は、両親に顔を見せることに抵抗がある。二十代も後半となると、もう地元の友達は結婚をし出すのが普通になっている。女一人、東京に出るのは寂しいだろうね、東京に遊びに行くからね、高校を卒業するころ、そんな風に何度も言われたが誰一人、一度も来なかった。地元で根付いて暮らすことの居心地の良さに浸ったのだろう。もしくはそれ以外の生き方が、はじめから視野にない。
もちろん彼女らの生き方を否定するつもりはない。田舎に骨をうずめるのも立派な生き方だと思う。
問題は、その傾向が両親には非常に強いということで、私は小言を言われるのがいやで帰省を渋っているのだった。
「できれば顔を合わせたくなかったんだけどな、親と」
「せっかく帰って来たんだから、顔ぐらい見せときなって、親不孝だよ」
「ムツに言われたくないなあ」
急に帰っても母親は怒らないだろうか。どうでもいいといっていいような不安が、なぜかこみあげてきた。
「ちょっと薬局に寄っていこ」
「なんで?」
「酔い止めがほしいから」
「ムツ、怒るよ」
あはは、と笑うムツに、実は内心救われる思いだった。両親との関係など気にしなくてもいいものだと思えたから。
住宅地の戸建ての実家に着いて、インターホンを押して、
「えり子です」
「ヤッホー六実でーす。ご無沙汰してます」
と告げると、え、二人ともなんで帰ってきてるの、と言いながら、ちょっと今は家に人を入れられないわ、ああ部屋が汚いから、と慌てている母に、懐かしいせわしなさを感じ取った。ほっこりした。
「大丈夫、外で時間つぶしてくる。車の鍵だけ貸してくれない?」
そう言って玄関まで私だけで鍵を取りに行った。
母親は正月から、少しやせただろうか。また、頭に白髪が増えたような気がする。着実に年を取っていく親。
「なんか疲れてない?」
「私市内の卓球クラブを始めたのよ、その帰りで、もうくたくたなの」
つい笑ってしまった。家族と言うのは、やはり心配をしたり、些細な変化に気づいたりして、それを通して様々にあたたかな気持ちを膨らませてくれるものだ。そしてムツと、ほかの誰でもないムツと、私はそういう関係になりたいんだと思いを強くした。
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