第6話

 仕事を終えるともう午後八時だった。おずおずと人事課に有休の申請用紙を提出して、会社の最寄り駅に向かう足は、なんだか重い。

『早く帰ってきて』

 ムツは、かわいらしくも一抹の不安を抱かせるLINEを何通もよこしていた。

『はいはい』

 と適当にあしらう風を装っているものの、気が気でなかった。ムツは一人泣いていただろう。私だって、会社に行く前に彼女に付き添っていてあげなければという気になっていたのだ。

 電車待ちをしながら、温風が顔に吹きかかるのをうっとうしく思った。都会の、濁った風だ。私の大切な恋人の悲しみなど知らず、色々な喧噪を引き連れて吹く風は、なんだかセンチメンタルな気分を覚えさせる。

「ムツ、帰ったよ」

 ムツは荷造りをしていた。案外、けろりとしている。

「ごめんね、何回もLINEしちゃって。ピアスを外したはいいけど、ケースがどこかへ行っちゃってさ……」

「それだけ?」

「それだけ」

「なんだ、なぁんだ」

 疲れがのしかかるのと同時に気が抜けて、どっと音を立てて座布団に腰を下ろした。

「心配した? 残念、六実は一晩寝ると色々忘れちゃうタチなのです」

 それはそうなのだが、今回の件に関しては特別だと思っていた。

「人を心配させといて……」

「そんなことより、これ見て、これ……段ボールに部屋のもの、適当に詰め込んで引っ越してきたんだけどさ」

「いや、適当に詰めちゃだめでしょ、汚れたり壊れたりしちゃうじゃない」

「今はお説教はいいんだって。とにかく見てよ」

 勢い込むムツに少しうっとうしさを覚えながら、漁っている段ボールの中身をのぞき込む。

「懐かしくない?」

 それは、スケッチブックの束だった。見覚えがある、かわいらしいピンクの表紙。丁寧に輪ゴムでまとめられていて、年月順に並んでいる。私の記憶は一瞬で昔を懐かしむモードへと引っ張られた。

「ムツのお母さん、昔から体は弱かったよね」

 小さいころ、ムツの家に遊びに行かせてもらう約束が、頻繁に彼女の母親の体調不良で流れてしまったことがある。そういうときには、外の公園にスケッチブックを持っていき、一緒に絵を描いて過ごしたのだった。

 それが、目の前のこれだった。一体どこへやったのか、不思議に思っていたのだが、ムツが持っていたのか。

「まあ確かにそうだったよね。いつもお家来てもらえなくてごめんね」

「昔のことだし。それに、公園でスケッチするの、凄く楽しかったよ」

「それならよかった……」

 うきうきした気分で、私はスケッチブックを開いてみた。確かピンクのスケッチブックを使いだしたのは、中学校ごろのことだった。そうだ、六つ下のムツの小学校入学にあたって、ランドセルの色とお揃いにしようと決まって、これにしたんだ。

 何を描いたかまで、よく覚えていなかったので、ある意味新鮮な気持ちでそれを見ることにした。ムツの、いちばん古いスケッチから。

「うわ、下手くそ」

「まあまあ、昔のやつだからね」

 ムツは少し恥ずかしそうに頭を掻いた。同じ年、同じ月の、私の名前が書かれたブックも開いてみる。当たり前だが、この頃はさすがに私のほうが絵が上手かったんだな、と思った。その優越感に浸っていられたのも、数年のことだったけれど。

 スケッチブックの束を飛ばし飛ばしに見ていくうち、少しずつ二人の画力の差が狭まってくるのに気づいていた。もちろん書いた当時も分かっていたが、こうして年月を置いてみると、その差がいっそう歴然と胸に迫った。私が十八歳になったときのスケッチなど比べると、もはや完全に力が逆転していた。

 ――進路という壁に立ち向かうときに、私を阻んだ壁が二つ。数学と、絵の才能だった。

 どちらも建築の道に進むには、私には向いていなかった。少なくとも、高校三年生の時にそう悟らされた。

 あまりに近く、あまりに凄すぎる才能によって。

 ある意味、ムツの才能が、私の可能性をへし折ったともいえるのだった。

「絵画教室、どうなってるのかもうわからないけど、一回寄ってみようか」

 私はその提案に、素直にうなずくことができなかった。

「なんか私が先生に怒られてばっかりだったこと、思いだしちゃいそう」

「昔のことだからいいじゃんかー。私も先生に、もう一回挨拶しておきたいし」

 これ以上断り続けることは、強情なムツの手前無理そうだったので、仕方なく立ち寄ることにした。

「分かった。ちょっと寄るだけだよ」

「うん!」

 そうしてしばらく、ムツは自分のスケッチブックを興味深そうに眺めていた。

「私もここから始まったんだなって、なんか懐かしくなったよ」

 感慨深そうにそう呟いたころには、一時間たっていたので、

「思い出に浸るのはいいけど、荷造りは済んだの?」

「バレた?」

「はあ……かわいらしく舌を出してもいけません」

「えぇーめんどくさーい。整理とか、そういうの苦手だから」

 その後も強情に荷造りをしようとしないので、結局私が二人分のキャリーバッグの中身を満たすことになった。この子は本当に仕方ないな、と思いながらも、少しだけ感じていた嫉妬の思いが消えていることに気づいた。

 ムツにも欠点があることに落ち着いていた。なんだか胸が暖かくなっていた。

 これからも、お互いに補い合って生きていけばいいさ、と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る