第5話

 会社まで行く電車に揺られながら、私はひとり都心に吸い込まれていく、寂しい感覚を久々に覚えた。学生の頃、頻繁にそう感じていた。社会人になって少しのころ、今の職場に通うときもそうだった。

 どこまで行っても、田舎者は田舎者ってことかしら。

 そんなことを考えて、頭を振った。自分はムツと、この街でやっていくのだと決めたのだ。都会の女にならなければ。

 出社すると、今日も佐藤さんが早く来ていた。まだ八月だというのに、社長が経理部門の改革に熱心で、今日もコンサル関連でひと言あるのだろう。始業時間となり、朝礼に際して一言あった。

「いつもやってもらっているこのフローなのですが、思い切って省略します。はじめは慣れないかもしれませんが、皆さんも非効率だと感じていたのではないでしょうか」

 二十八歳と若いながら、はっきりと自信に満ちた言い方をしていく佐藤さんに目を輝かせるのは隣の相良(さがら)さんだ。なにせ、佐藤さんは税理士の先生なのである。肩書は立派だし、目鼻立ちも整っているとくれば、もてるのも分かる。

「それではよろしくお願いします」

「ねえ、佐藤さんって独身なのかしら」

「そうだよ」

 きゃあ、とはしゃぐ相良さんに、やめとけ、やめとけと心の中で呟いた。

 朝礼が終わった後、こちらに近づいてくる佐藤さんに苦言を呈しておく。

「正直あの工程がないと、やりにくいんですけど」

「大杉(おおすぎ)はそう言うと思った。これでゆくゆくは残業が減ると思えば、いいだろう?」

 佐藤さんは大学時代の経済学部の先輩だったりする。それほど規模の大きくない大学だったので、学生時代、ちらりと見た気もする。その程度の縁で、私に馴れ馴れしく迫ってきた。二年前、佐藤さんの所属する税理士事務所がH不動産の顧問となったとき、私が経理部に所属していると知ると、OBのよしみだなんだと言って詰め寄って来た。

「私にあまり会えなくなって寂しいですか?」

「実を言うと、その通りなんだ」

「それはそれは残念なことですね」

 一応、会社側からしては、会計部門のコンサルタントとなる人だ。偉い立場の人の前で、へんに緊張してやり取りをするよりは、佐藤さんでいいのかもしれない。

 けれど手を出そうとするのは間違っている。どう考えても見境がない。

「家ではまだ六実と仲良くやっているのかい」

「おかげさまで」

 余計なお世話だ。そして彼がまだムツのことを呼び捨てていることが、なんだか気に食わない。

「ムツは最近、家でずっとぐうたらしていますよ。家事はほとんどしないし、部屋を散らかす天才です」

「まさか」

 そう、彼はムツの綺麗な部分しか知らない。その程度の恋人にしかなれなかった存在なのだ。

「本当のことです。――そろそろ仕事始めるので」

「こんど食事に行こうな」

「考えておきますね」

 佐藤さんはすでにその場から離れかけていたので、私の愛想笑いたっぷりの返事を聞いたか分からない。やれやれ、と心の中で毒づいたのち、今日もいつも通りの仕事に取り掛かる。佐藤さんほどの色狂いになると、もはや夢中になれるものがあって羨ましいという気にすらなる。

 私にも、建物が大好きな頃があったな、と考えた。いまやすっかりアウェイ感に推されてしまっているが、幼い時、始めて見た東京に、恐ろしいまでのあこがれを抱いたことは鮮明に覚えている。

旅行で東京を訪れた高速道路の車窓から遠景を差して、「なんであんな絵を描いてあるの」などと両親に言って笑われたのはご愛敬。

 ともかく、まるで理想を描いた絵のような都会。その印象が強く頭に残って、それにかかわりたいと思った。私はあんな絵が描きたい、と言って両親に相談したのを覚えている。そのころ――小学校四年生から、地元の絵画教室に通った。

 ムツとの出会いは、そこでのことだった。

 ぼんやりと考えごとをしながら仕事をしていると、やはり手元は狂う。正確性が必要な仕事だけに、凡ミスが多く、このままでは上司に叱られそうだ。ああ、ぼんやりと考えるのではなかった。日次業務を済ませるまでは、残業していかないといけないから。

 これだって、立派な仕事。経理業務は企業の血液を送り出すポンプ。そんなこと、分かっているのに、それでもたまに、考えてしまう。

 あの時ムツに出会わないで、私が私自身の才能を信じ続け、実際に建物のデザイン設計をする立場になれていたなら、と。

 しかし、現状に満足していないわけではない。それに家に帰れば、世界で一番推しているイラストレーター――それも恋人――が待っているのだから。


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