第3話
絵描きとしての能力の代償、と言っていいのか、ムツには生活能力が欠如している。ムツが上京したい話を切り出した時、私もちょうど帰省していてその場にいたのだが、いまだにそれを告げた時の母親の、心配そうな顔が目に浮かぶようだった。
「それでさぁ。こっちが請けたはいいもののぉ、向こうがきゅうにじょーけんつけてきてさぁー……」
すでにろれつが怪しくなっている。そう、ムツは酒好きの割に、弱い方だ。私と同じくらいしか飲んでいないのに、この酔っぱらいようだった。
「大変だったね」
「そう、分かってくれるかぁ! さすがエリ。滅多に注文つけてこないお客さんだったし、びっくりしちゃってさぁー」
もちろんだが、私はその相手を知らない。
「佐藤さんの真逆タイプだ」
「そう! まさにそんな感じ。必要最低限のことしか言わないくせに、気に入らないところはめちゃくちゃに言うタイプでさぁ、参っちゃうよね」
「佐藤さんのほうがまだましな感じ?」
「あいつはあいつで気持ち悪いけど」
即答するムツが面白くて、私は口に含んだビールを吹き出しそうになった。
「いやだって、無理っしょー。エリに気がないって知った瞬間、こっちに矛先向けてくるんだもん」
「惚気話も相当聞かされた気がするけどね」
「そんなことは、わすれたぁー!」
完全に面倒な酔い方をしているが、しゅんとされているよりは何十倍もましだった。
「私でも、憶えてるよ、こっちが嫌がってるのに別れようとしてくれない佐藤に、びしっと言ってくれたよね……」
すっかり据わっていたムツの目が、心なしか昔をなつかしむような光を放った。
「私を田舎から連れ出してくれたときも、そう……大事なときは、いっつもムツが私を引っ張ってくれるよね」
「あはは、そうかも」
茶化すように言って、口元を缶で隠した。うれしさににやけていることを、悟られないために。
なにかしらあってムツの機嫌が悪いとき、どれだけ両親、特に母親の反対を食らったか、しょっちゅう聞かされた。好きの反対は無関心というし、本当に反りが合わない、苦手と言うわけではなかったのだろう。しかし、ムツの親への愚痴は辛辣だった。
幼馴染だから、彼女の母親とも何度も顔を合わせている。ムツの母は、絵で食べていくことに特に反対をしているようだった。
ムツは高校生のころから口癖のように、絵で食べられる、と言い続けていた上に、実際そうなのだった。
当時十九歳だった彼女はすでに、若手で力を認められているイラストレーターだった。外注の仕事もかなり波に乗っていたし、企業案件をいくつか抱えていた。たまに上京して、即売会で同人誌を売ると一瞬で新刊がはけていった。
しかし、どうしても北陸の田舎では、活動に限界があった。それで、母親に上京したいとムツは伝えた。ちょうどお盆休みのころのことで、私も帰省して同席していた。
「あんたそんな、東京に行くって生活していけるの?」
ムツの母親は強い声でそう言った。その時ムツは心底うるさそうに顔をしかめていた。
「真剣に話を聞きなさい。仕事が上手くいかなくて誰も世話をしてくれなかったら、あんた、のたれ死ぬってことなのよ」
北陸の田舎町の感覚で言えば当たり前の考えだったし、私も大学に通うために東京へ出てきたとき、心配しすぎではないかと思うぐらい両親にお節介を焼かれた覚えがある。
「分かってるよ」
「あと、家事できないでしょあんた、家のことはちっともしないし、それに絵で食べていくなんてね……」
「東京には私もいますし、私がちょっとぐらいなら家事を手伝えます」
少しむっとして私が言った。母親の説教が始まりそうだったので、ムツがいたたまれなくなって口をはさんだのだ。
「そんな、エリちゃんに迷惑をかけるわけには」
そのときはまだ、彼女と恋仲だったわけではない。それほど強い感情も働いていなかった気がするが、なんとなく一人の生活が寂しい気もしていた。
なにより、自分は案外、押すときは押すタイプなのだ。
「私は迷惑だとは思わないので。本当に家事が苦手なら、私の家でルームシェアします。それでも、ムツには東京の環境を味わってほしいんです」
その言葉が決め手となった。それなら、大丈夫なのかしら……と、なおも心配そうにする母親に対して、私は言った。
「大丈夫です。ムツは本当にすごい才能を持ってるんで。一人でやっていけます」
本人の前で言うのも照れくさかったし、事実私は赤面すらしていただろうと思う。頭はぼうっとしていただろうが、決意に唇を引き結んだムツの表情がいまだに目に焼き付いている。
そうしてエリの状況生活が始まった……のだが、やはりといっていいのか、生活面が堕落し続けた。
それで、本人は断り続けていたが、粘り強い説得で私の家に居候させた。
大学に通うため上京してきたとき、母親の好意で都内に広めのマンションを借りた。社会人生活が始まり始めはやりくりが苦しくなったが、そのまま住んでいて、よかった。
そのときは、今――こんな優しい気持ちを抱けるほどまでに嬉しいことになるとは思ってもみなかったけれど。
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