第2話

 私にすがりついたまま、ムツはひとしきりぐずった。こういうとき、どうしようもなくいとしい気持ちが、脳から発しておなかに沈み込んでいく。それだけでご飯を食べなくても大丈夫なぐらいのぼせあがってしまいそうだが、

「食べたら、ちょっと楽になるよ」

「ん」

「だからちょっとだけ離れて、ご飯作れないから」

「……」

「待っててね」

 リビングに料理を広げていく。やはり、まるで絵は進んでいなかったし、ビールの缶が開く音もしなかった。ムツにしては珍しい。私が料理を作っている間も、何もせずぼんやりと悲しみに暮れていたのだろうか。

 私が手を合わせたことになど気づかずに、もそもそと作ってあげた料理を頬張り始めた。リスのように頬が膨らんで、すらりとした輪郭が崩れてしまっている。まぶたも腫れていた。泣き疲れたか、ずっと口を開こうとしないで、時折目をこすりながら、黙々と食事をする。

「目、あんまりかかないようにしなよ」

「……ん」

 なおも寂しげな雰囲気を漂わせながら、料理を黙々と食べている。なんといっても、ムツはまだ二十歳なのだ。私が二十六だから、小学校に上がるころにはまだ母親のおっぱいを吸っていたことになる。――自分の中でこの例えをしたことを後悔した。四捨五入して三十代――墓穴を掘った。

 ――ともかく、あれだけお母さんは嫌いだ、って言ってたのにね……。

「ごちそうさま」

「……ごちそうさま」

「……お皿の片付けくらいしてね……って、自分でしてる、えらい」

 本当に、めっきりやる気がそがれてしまっている。背中からもわもわと膨れ上がるような覇気が、今日はまったく見えない。

「……お葬式にはいくんだよね?」

 ふきんで拭いた後のからっぽの食卓を囲んで、おずおずと切り出した。

「来いって言われてる……」

 気が進まなさそうに言うが、本当は行くか行かないか悩んでいる様子だった。

「行ったほうがいいよ。絶対後で後悔するから」

「うん……」

「――それにきっと、家族も心配してると思うし。結局こっち来てから一度も帰省してないじゃん」

「分かってる」

 やや強い口調で、ムツ。

「分かってるからさ、なんか、会った途端に色々くずれちゃいそうで」

「どういう意味?」

「生活とか、夢とか、そういうもの全部放り出して、自分が田舎に引きこもってしまわないか、不安なんだ。家に帰れだとか、そういうことを言われて、断り切れる自信がないんだ」

 私はしばらく茫然としてしまった。

 今確かに、私の中でのムツのイメージが壊れた。絵に関して圧倒的な自信を持った超人、そう考えていたのに。しかし、彼女も人の子なのだ、親が死ねば悲しい。その事実に――彼女の人間くささが、たまらなく愛おしくなった。またひとつ、私にさらけ出される、ムツの弱いところ――。

「――分かった、私も一緒に行く」

「えっでも、仕事があるでしょ? だめだよサボっちゃ」

「何でそういうところだけ真面目なの……決めたから」

 私は葬儀の日にちを聞いて、会社は有休をとるとムツに伝えた。そして、意気消沈しているムツに向かって、

「決まりね。私がいたら、安心でしょ」

 なお辛気くさい顔をしているムツが、とても可哀想になった。ふと、彼女を笑わせたくなった。今は辛さに心を折られないように、してあげるべきだ。

「――じゃあ、この話はいったんおしまいにしよ」

「そんなの、言われたってできないよ……」

「無理にでも、考えないようにしたほうがいいこともあるんだよ。ほら、ビール飲も?」

 ムツが好きなメーカーのビールを差し出しても、うんともすんとも言わない。お節介かな、と心配しながらも、目の前でふたりの分の缶を開けてしまった。

「お酒! お酒飲む!」

「ふふっ、素直でよろしい。いつも私言ってるでしょ、力抜かなきゃいけないときは、しっかり抜いてって」

「いいから早くお酒ー」

「私もそうなんだから。佐藤さんに叱られて落ち込んで、駄目になりそうなときは、全部お酒の力で解決してるんだからね」

 そこでようやく、唇の端だけで笑ってくれた。

「すっきりするんだな、それで次の日も頭痛で頭割れそうになって、佐藤さんの話なんてまるで入ってこないし楽ちん楽ちん」

「頭痛かったら仕事に集中できないじゃん、まあ佐藤は話聞いてなかろうが気づかないだろうけど」

 バレた? とばかりに舌を見せておいて、私はビールの缶を手に持った。

「私たちの未来に乾杯!」

「……ぷっ、なんでこんな時にそんな音頭取るわけ?」

 つんと澄ました唇からこぼれる、あははは、と快活な笑い声のギャップ。

「今日、やっと笑顔が見れた……」

「えっなになに、どうしたの真剣な顔して、エリ、ちょっ、――」

 不意をついて。

 缶に口をつける前に、ムツにキスをした。

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