生活のスケッチ
綾上すみ
第1話
冷蔵庫の中に缶ビールがないことぐらいでギャーギャーわめいているだろうなあ、と帰りの電車を待つホームで考える。熱帯夜のぬるい風が体にまとわりついて、もう成人になってからムツは、すっかりアルコールの虜。居間のクマのかわいいクッション、あとはスマートフォンかパソコン。今の六実(むつみ)にはそれくらいしか興味がないように見える。少なくとも、現実に見えているものに関しては。
彼女の空想はすべてを飲み込むほどの力を持っていた。そのエネルギーが私の瞳をムツにひきつけたのは、もはや運命なのだ。小さなころからずっと、私は彼女の世界にくぎ付け。
だからオフィスを出た後の、夏のけだるい帰宅も、苦にならない。ムツが家にいてくれるから。
――ちょっと面倒くさいところはあるけれど、ね。
彼女がおそらく一日中ずっといたおかげで、アパートの中は冷えた空気が満ちていた。部屋着で寝そべってスマホを眺めているその横顔の、きりっとした顎のラインが美しくて、何度も目でなぞってしまう。このものぐさな、成人して間もない子を、私は好きになって久しい。
――あ、左耳のピアス、色だけ替えたんだ――確かに青よりは赤のほうが、ムツに似合ってる。
玄関から暑さを引きずってきたからだろう、私の帰りに気づいた様子のムツ。さわやかに笑いながら形のいい唇を尖らせ、
「ねえー、冷蔵庫にビールないんですけど」
憎たらしく言った。あまりにも予想通りな答えで、私はうんざりと言う風に肩をすくめてみせ、
「ムツ、いくらでも外に出る時間あるでしょって、いつも言ってるじゃん」
「いやいや、無理だよこんな、熱帯のコンクリートジャングル」
「毎日毎日その熱帯で、こうして夜まで働いてるほうの身にもなってよ……そんなにおなか出しちゃだめでしょ、冷房つけてるんだから」
「うちにお金はいれてるじゃん、好きに過ごすくらい許してよ」
「パートナーへの配慮はないの? はぁ……」
街中を歩けば誰しもが振り向くであろう、正統派の美人の六実は、実際生粋のインドア派。休みの日は一歩も家を出ないことがほとんど。そして家でしていることと言えば、アルコールを浴びるか、クマのクッションに寝そべって漫画を読んでいるか――私は目線を彼女の作業机へとやる。
「一応、仕事もしてたんだよ」
それかもしくは、絵を描いている。ただもうひたすらに。パソコンのディスプレイは、仕事道具であるイラスト制作ソフトを映していた。
「今日ははかどったから、ちょっとくらい甘えたっていいじゃん。だからビールぅ」
そのイラストの進捗をみて、私は目をみはった。まるでできていない。それでもムツは自信満々そうにしている。
――ムツは変なところが意地っ張りなのだ。甘えたいときには甘えればいいのに。
「わかった、わかったから。そろそろ自分の身づくろいぐらい自分でしてよ、まったく……」
そう言いながら、手に提げていたコンビニの袋を置いた。缶がテーブルに当たるからんという音を聞いた途端、ムツは白い歯を見せてくる。
「さすがエリ、最高、大好き」
「はいはい」
ムツのほうを見ないで返事をした。顔がにやけているのを見られないために。態度がでかいのは結局、私がムツを甘やかしているからなのかもしれない。
それから台所に立った。ムツはビールを飲む気が変わったのか、ビニール袋の中身には目をくれずに作業机にかじりついているらしい。彼女にとっては絵を描くことが、もはや生活の一部になっている。確かに仕事として請けているというのはあるが、寝る、食べる、と言った生活習慣の一部に、絵を描くことが組み込まれているかのようだ。昔から絵が大好きなことは知っていたが、ここまで絵に集中できるのだとは、同居を始めるまで知らなかった。
まあ、それくらいでもなければ、大見得を切って北陸の親元から離れてくることはないんだろうけど。
二人分の料理を作りながらムツのことを考えていると、ふと気づいた風を装って、
「というか、外に出ないんなら、ピアスなんてわざわざ替えなくてもいいでしょ。誰にも見られないのに」
口に出してやる。返事がしばらくなかったので聞こえてないのか、まあいいか、と思っていると、
「気づいてくれてたんだね。うれしい」
そっと私のそばに近づいてきていたのか、その声は近くで聞こえた。というか、ほぼ耳元。
腰に腕が伸びてきて、私のお腹の前で組まれた。そっと、けれどすがるように。
「……エリに見てもらいたかったからさ」
恋人同士になったはいいが、基本的にムツは、自分から私にかまってもらおうとしない。しかしたまに、こういうとてもいじらしいことをしてくれる。私は料理の手を止めてムツのほうを向く。
「何か、あったの」
意地っ張りで、人を頼ることを知らない、けれどとても寂しがりな私のパートナーに向けて、口を開いた。ムツはわなわなと唇を震わせる。涙がしずくとなって床に落ちた。
「あのね……実家から電話があったの。お母さんが亡くなったって」
それから泣き止むまで、涙を流すムツをあやしていた。
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