二人の母と暮らす男

増田朋美

二人の母と暮らす男

二人の母と暮らす男

春らしく、暖かくて、過ごしやすい日がやってきた。これでやっと、寒い日々から解放された野かなあと思っていたら、又何か問題が勃発する。生きているということは、その繰り返しである。まあ、それが面白いというのなら、いいのだが、、、。大概の人は、そんなことは出来はしないのである。

問題を抱えた人が多数集まる製鉄所では、時々、大きな事件が起こってしまうこともあるのだが、大体は誰かが耐えることが出来れば乗り切れることもある、と思われる事件ばかりだった。

今日も製鉄所の外では、小鳥が恋ダンスをしているというのだが、製鉄所の中では、とても深刻な問題が起きていたのだった。

「あーあ、又たくあん一切れと、お茶いっぱいか。それでおしまいにしないで、他にも食べるもんを食べてくれないかなあ。せめて、小鉢ひとつは空っぽにしてもらいたい。このままだと、たくあんすら食べなくなるような気がしちゃう。」

と、杉ちゃんは、せき込んでいる水穂さんを困った顔で見た。

「ほんとですね。どうしたら、食べるようになるんでしょう。雑炊も食べないし、スープも食べない。食べないから、自動的に体力もつかなくなって、余計にせき込んで辛い思いをする。水穂さんの場合

その悪循環ですよ。」

ジョチさんも、大きなため息をつくほど、水穂さんはこの何日も、食事をしていないのである。お茶を飲むことはするにはするのだが、後はたくあん一切れしか食べないのであった。

「このままだと、悪化して行く一方で、回復の見込みはありませんね。どんないい医者に見せたとしたって、ご飯を食べて体力をつけようという気にならないと、回復はしませんよ。人間食べることが商売だと思って生活しなくちゃ。水穂さんのような、病気の人なら、なおさらです。」

「ほんとだほんとだ。生きることは食べることと言っている哲学者もいるんだからな。」

杉ちゃんがそういうと、水穂さんの口もとから、赤い液体が漏れてきた。そばにいた花村さんが、その赤いものをティッシュペーパーでふき取ったので、畳は汚さずに済んだのであるが。

「ほら、食べないからそういうことになる。そうなる前に、ご飯を食べて体力をつけることが必要なんだけどな。」

と、杉ちゃんは大きなため息をついた。

「まあ、仕方ないと言えばしかたないですけどね。出身身分のせいで適切な治療も受けさせて貰えないっていうんだったら、誰でも落ち込みますよね。」

花村さんが水穂さんの体をさすってやりながら、そういうことを言った。

と、同時に、利用者の一人が、理事長さん郵便を持ってきましたと言って、一枚の封筒を持ってきた。

「はい、ありがとうございます。ずいぶん大きな郵便ですが、誰が持ってきたんでしょうかね。」

ジョチさんは、郵便を受け取って、宛先を確認してみた。誰だろうとおもったら、亀山弁蔵と書いてあった。

「ああ、弁蔵さんですね。」

ジョチさんは急いで封を破って、読んでみる。

「何々、ああなるほど。亀山旅館の改修工事が終わったそうで、これですべての部屋をお客さんに解放できるそうです。もちろん、以前のように転地療養も受け付けているので、誰でも来てくださいと書いてありますね。」

手紙を送ったのは、間違いなく亀山弁蔵さんであった。同時に手紙だけでなく、パンフレットも入っていた。真新しい建物になった亀山旅館は、あまり大規模な旅館ではないものの、バリアーフリー対策として、段差なしで浴室にはいることができるなど工夫がされていた。

「何だか僕たちにぜひ来てほしいと言っているみたいだね。弁蔵さん。」

と、杉ちゃんがつぶやく。

「そうですね。まあ、旅館もなかなか経営不振なところが多いでしょうから、生き残っていくために、工夫をしているんでしょうね。高級ホテルとか、旅館ばかりではなく、障害のある人もない人もお泊りできるという路線で、弁蔵さんたちは、頑張っているのでしょう。寿子さんが、あんな事件を起して、亀山旅館の信用はがた落ちしたんですから、それを回復させるのは大変なんですよ。」

と、ジョチさんはパンフレットを眺めながら、そういうことを言った。

「そうですか。その旅館は何処にあるんですか?」

いきなり花村さんが聞いた。

「ええ、奥大井の接岨峡温泉というところです。まあ、金谷駅から、大井川鉄道で千頭駅へ行き、そこから井川線で接岨峡温泉駅へ行くという、何とも不自由な交通手段を使う所にあります。」

ジョチさんが答えると、

「接岨峡温泉ですか。比較的近いですね。接阻峡は、自然が沢山ありますし、あまり大規模な観光地ではありませんので、観光客もあまりいませんよね。そこから招待状が来たのなら、是非使わせて挙げるべきでしょう。それなら、直ぐに行きましょう。接阻峡温泉へ直ぐに予約を取りましょうか。」

と、花村さんは、即答した。

「いつまでも同じ環境でいては、確かに悪化してしまうかもしれません。かといって、病院にはいることは、絶対できないことは分かっています。だったら、こういう招待状を利用してしまうのが手っ取り早い。水穂さんには、この製鉄所以外に来てくれと言ってくれている場所があるんですから。」

「花村さん、決断するの早いね。そういうことなら、この暇人に任せてくれや。僕も水穂さんと一緒に、奥大井に行く。」

杉ちゃんが急いで言った。

「そうですね。杉ちゃんでは大変なようであれば、私も一緒に同行しますよ。一週間から二週間ほど、弁蔵さんのところに滞在させて貰うことにしましょう。」

花村さんはにこやかに笑って、じゃあ予約を取りましょうねと言って、タブレットをとった。ジョチさんもそれが良いと言って、二人で予約を決めてしまった。まだ目をさましていた水穂さんと、杉ちゃんは、また奥大井に行くんですか、と顔を見合わせていた。

話しはトントンと決まり、弁蔵さんの経営する亀山旅館に、杉ちゃんと水穂さん、そして花村さんが滞在させて貰うことになった。翌日、三人は直ぐ出発した。取りあえず、富士駅までは、小園さんが電車で送り届けた。三人は駅員に手伝ってもらいながら、電車に乗り込んでいった。小一時間程度、電車に乗って金谷駅へ。そして、大井川鉄道のホームに移動して、古ぼけた気動車で一時間ほどのり、千頭駅に到着する。そのあとは、アプト式と言われる井川線に乗り換えて、山ばかりの風景を眺めながら、接岨峡温泉駅へ到着した。まだ春と言っても、標高が高い場所なので、風が冷たく寒かった。

接岨峡温泉駅の待合室で、三人が待っていると、

「お待たせいたしました。よろしくお願いします。」

と言いながら、悪い足を引きずり引きずり、亀山弁蔵さんがやってくる。

「お久しぶりだな。弁蔵さん。何年ぶりだろ。」

杉ちゃんが言うと、弁蔵さんはそれを言うなら、数か月ですよと言った。それよりも、水穂さんがげっそりと痩せているのをみて、驚いているようである。直接口に出して言っているわけではないけれど、やっぱり驚くことだと思われた。花村さんが、初めましてと言って自己紹介すると、弁蔵さんは、急いで亀山旅館の亀山弁蔵ですと名乗った。

「じゃあ、水穂さん行きましょうか。亀山旅館は、駅のそばなので、直ぐに歩いて行けますよ。」

と言って、弁蔵さんは、駅の待合室を出て、亀山旅館に向って歩いていった。確かに駅の直ぐ近くにある小さな建物が亀山旅館であったが、水穂さんの足で歩くと、何分もかかってしまうような気がした。ようやく亀山旅館と書かれた看板のある建物が見えてきたときは、水穂さんはもう疲れた顔をしていた。

「ああ、なるほどね。純和風の別館を建てたのか。」

と、杉ちゃんが言う通り、亀山旅館と書かれた建物の隣に小さな家のような建物がたっている。それがパンフレットに書かれた、増築した離れなのだろう。

「ええ、でも、離れは団体様のために建てたもので、杉ちゃんたちは、本館にお泊りいただきます。」

と弁蔵さんは亀山旅館の入り口から中に入って、エレベーターで二階に上がった。二階には、松の間、竹の間、梅の間と三部屋が儲けられていた。弁蔵さんは松の間のドアを開けて、お部屋へどうぞといった。

「六時にお夕飯を持ってきますから、ゆっくりおくつろぎください。」

と、弁蔵さんは三人を部屋にはいらせた。花村さんが、水穂さんを休ませたいと言うと、弁蔵さんは、布団を押し入れから出して、水穂さんを横にならせた。

「富士に比べたら、本当に何もないところだな。目の前は、湖と、森ばっかり。車の音も聞こえないし、ショッピングモールのようなものもないし、レストランもない。ないない尽くしだ。でも、ここは、のんびりしていて、時間がたつのが遅くなりそうだな。」

杉ちゃんは、部屋の窓から外の風景を眺めながら言った。

「他にも、お泊りになっているお客さんはいるんでしょうか。」

と、花村さんが言った。

「隣の部屋から何も聞こえてこないので、一寸心配になってしまいますね。」

「まあ確かに、亀山旅館に来る奴は、訳ありの奴ばっかだからな。隣の音が聞こえてこないのも仕方ないよ。」

杉ちゃんはカラカラとわらった。とりあえず、その日は、弁蔵さんたちが出してくれたそばをたべて、文字通り、ゆっくりしていたのであった。昼間、音の何もしない部屋で、しずかに眠ることが出来た水穂さんは、茶碗に一杯だけだけどそばを口にしてくれた。

その翌日。杉ちゃんたちはいつも通りの時間に起きた。弁蔵さんが、持ってきてくれた朝食を、杉ちゃんたちはこれはうまいなと言いながら、完食した。水穂さんも、みそ汁を一杯だけ飲んだ。食事をして、水穂さんは憚りに行く以外布団で寝ていたが、せき込むこともなく、静かに寝ていた。

「水穂さん大分調子がよさそうですね。」

朝食を食べ終えた後、花村さんが言った。

「こっちに来て、せき込むこともしなくなりましたね。ここは静かな場所ですし、周りを走っているうるさい車もないし、あるとしたら、井川線が走っている程度でしょう。」

「ほんとだほんとだ。受験生だったら、勉強がはかどるだろうな。」

と、杉ちゃんが言うほど、奥大井では何もかもがたいへん静かだった。

「静かだし、車もほどんど走ってなくて空気はいいし、うまいもんはあるし、同和地区がどうのというひともいない。そんな所だから、水穂さんも気持ちが楽なんだろ。」

と、杉ちゃんが言った。

「そうでしょうね。じゃあ水穂さん、山を散策してみましょうか。と言っても、一時間も行きませんよ。

布団でずっと寝ていたら、退屈で仕方ないでしょうしね。」

花村さんが、部屋のクローゼットを開けて、丹前を取り出した。杉ちゃんは、連絡係として、亀山旅館に残った。水穂さんに丹前を着てもらい、弁蔵さんの許可を貰って、亀山旅館の外に出た。と言っても、ほかに観光名所がある場所ではないので、ただ、ひたすら森の中を歩くだけの事である。道路はアスファルトで舗装されてはいたが、ほかに民家は数件しかなく、あるとしたら、温泉旅館か、接岨峡温泉会館という、公共の温泉施設くらいなものであった。水穂さんと花村さんが、その施設の前を通りかかると、小さな公園のようなスペースがあった。ここで少し休んでいきましょうかと花村さんが言って、水穂さんをその中にあるベンチに座らせた。

「綺麗ですね、今バラが見ごろなのでしょうか。」

というほど、その場所にはバラが沢山植えられている。多分、観光客のために、個人的につくってあるスペースなのだろうが、逆を言えばそれ以外、観光客を呼べるような場所は何もないのだった。

「水穂さん大丈夫ですか?」

と、花村さんが聞くと、水穂さんはええとだけ言った。しばらくすると、風が吹いてきた。と言っても都会にあるビル風とか、そういうものではない。山道ならではの自然の風である。こんなおだやかな風があっただろうかと思われるほど、接阻峡の風はおだやかだった。

水穂さんが、足元を見ると、小さな子供用の麦わら帽子が落ちていた。水穂さんはそれを拾い上げた。帽子の中を見てみると、山本芳樹と書いてある。誰が落としたのかなと思って、公園の入り口を見てみると、ひとりの少年が、そこにいた。年恰好は、まだ小学校の低学年くらいのちいさな子供だった。まだまだあどけなさが残ってもいい年頃だったが、彼にはそういう雰囲気はなく、何だか悲しそうな雰囲気をしている少年だった。

「あの、これは、きみの帽子かな?」

水穂さんが聞くと、

「おじさんありがとう。」

と彼は言った。水穂さんがベンチから立ち上がって、少年に帽子を渡すと少年はそこでやっと笑ってくれた。

「あなたが、山本芳樹さんというのですか?」

と花村さんが言うと、

「今は違う。今は井上。」

と少年は答えた。ということは親御さんの都合でそうなったのだろうか。

「それならば、この帽子に描かれている名前を書き直さなければいけないですね。」

と花村さんが言うと、少年ははいと言った。

「きみほんとはいくつ?」

水穂さんが聞くと、

「六歳。小学校一年生。」

と彼は答える。

「どこの学校に通っているの?」

水穂さんがまた聞くと、

「静岡市。」

と彼は答えた。

「静岡市何ですね。それではどうして奥大井に来たんですか?どなたかご家族と一緒に来たんですか?ひとりで来たわけではありませんよね?」

花村さんがそう聞くと、

「お母さん。」

と、芳樹君は答える。でも、その言い方は本当のお母さんを指しているような言い方ではなかった。お母さんとは名ばかりで、別の人物のことを指しているような、そんなことを連想させる口調だった。

「お母さんじゃないんだね。親戚のおばさんとかそういうひとかな?」

と、水穂さんがいうと、

「お母さんだよ。」

彼は答えた。

「無理しなくていいんですよ。お母さんは別の人でしょう。そして、その麦わら帽子を買ってくれたのが、本当のお母さんでしょう?」

水穂さんがそういうと彼は、まさしくその通りという顔をした。小さな子供だから、まだごまかすすべを知らないのだろう。

「本当のお母さんに会いたいの?」

と、水穂さんがまた聞くと、

「ううん、会いたくない。」

と芳樹君は答える。でもそれは何処か無理があって、隠しきれない本音が見え隠れしていた。

「無理しなくていいんですよ。子供が本当の親御さんに会いたいと思うのは、ある意味では当たり前の事ですからね。」

花村さんがそういうと、芳樹君は、

「でも、お母さんは僕の事捨てて、、、。」

と言って泣き始めた。水穂さんも花村さんも、六歳の少年が抱えるには重たすぎる事情を知って、何だかその子がかわいそうになった。

「芳樹君。ここにいたんだ。さんざんさがしたのよ。良かったわ、直ぐにみつかって。」

不意に、前方から、女性がひとり走ってやってきた。多分、彼女が事実上芳樹君のお母さんということになるんだろうが、それにしては年が若すぎていて、おかしいと思われても、不思議ではなかった。

「すみません、御迷惑をおかけしました。私が目を離したすきに何処かへ行ってしまったんです。本当に申しわけありません。」

といって女性は、花村さんたちに頭を下げた。

「いいえ。大丈夫ですよ。それよりあなたは、芳樹君の母親ですか?」

と花村さんが聞いた。

「ええ、事実上はそういうことになっております。」

彼女はそう答える。

「それに、私が母親になった以上、この子をもとの家庭にもどすわけには行きません。そんなことをしたら、命が助からなかったかもしれないんです。それでは、彼がかわいそうでしょう。そうならないように、私が責任を持つ必要があります。」

「そうなると、彼のお母さんは何処にいるんですか?」

と、水穂さんが小さい声で聞いた。

「ええ。この子に対して暴力をふるった事で、今裁判にかけられています。」

女性はきっぱりと答えた。それは幾ら子供が本当のお母さんに会いたいと主張しても絶対に渡さないという決意に満ちた言い方だった。

「これ以上、本当のお母さんと一緒にさせたら、彼のほうが危なかったんです。日常的に体罰をくわえていたばかりか、挙句の果てに、食事も十分にさせてなかったんですよ。そんな母親のもとにもどすことなんてできるわけないじゃありませんか。今でこそ、情緒が安定しないので、ここで療養させたりしていますけど、私は、私のそばにいた方が、安全で気持ちよく過ごせるってことを、分かってもらいたいんです。」

つまりこういう事だ。本当のお母さんは別にいて、彼女から、ひどい虐待でも受けていたのだろう。それがエスカレートしたら、間違いなく芳樹君の命も危ないと、警察や医療関係者が判断したのかもしれなかった。其れで、この若い女性が、彼をひきとって育てているのだ。

「でも、お母さんのそばに居たいと思っている彼の気持ちも考えてあげてください。彼が、麦わら帽子の名前を変更しないのは、お母さんのことを忘れたくないという気持ちもあるんだと思います。」

水穂さんがそういうと、

「ええ。でも、母親は私です。確かに、実の子ではないかもしれないけど、実の母親は母親になる資格はありません。」

と、彼女は言った。それを芳樹君が申し訳なさそうに見つめている。自分のせいで大人が争っているのを、理論では分からなくても、直感的に感じ取っているのだろうか。やっぱり、六歳の少年には、二人の母がいるということは、難しい事であった。

「でも、私には養育義務というのがあります。今はこの子の保護者は私何です。操作しないでください。」

という彼女は、麦わら帽子を持った芳樹君を引き連れて、公園を出て行ってしまった。一寸かわいそうな子供だなと水穂さんも、花村さんもそれを黙って見つめていた。

その翌日。水穂さんは、また外へ出た。今度は旅館の経営者の弁蔵さんが一緒だった。水穂さんが亀山旅館の入り口から出てくると、また麦わら帽子をかぶった少年がにこやかに笑ってやってきた。

「あら、芳樹君どうしたの?お母さんは?」

と弁蔵さんが言うと、

「おじさん遊ぼうよ。」

と言って、水穂さんの手を引っ張った。水穂さんは芳樹君に手を引っ張られて、けもの道のような道を歩かされる羽目になった。弁蔵さんが追いつくと、芳樹君は森の中で、大きな大木の下で、水穂さんの耳元で何かしゃべっている。

「どうしたの芳樹君。勝手におじさんを連れ出して。何を話していたの?」

と、弁蔵さんが注意すると、水穂さんは困った顔をした。芳樹君がだれにも他言しないでといったという。

「おじさん、このことはだれにもしゃべらないでね。僕とおじさんだけの秘密ね。」

と、芳樹君はにこやかに笑っていうのだった。流石に、本人の前で秘密を漏らしてはいけなかったので、水穂さんはそれ以上何も言わなかった。ちょうどその時、芳樹!何をやっているの!と言いながらあの女性がまたやってくる。彼女は水穂さんを見て、

「本当にすみません。失礼なことをしてしまいまして。」

と、頭を下げてお詫びし、芳樹君にもう帰ろうと言って無理やり帰ってしまった。

「かわいそうな子供ですが、何処かで見切りをつけて、彼女を本当のお母さんだと思ってくれるといいんですけどね。前のお母さんはとにかく体罰がひどかったと聞いています。でも、優しいところもあったようで。芳樹君はそれが忘れられないんでしょう。」

と、弁蔵さんが言った。

「彼もそういうところからよく体調を崩してましてね。それでお母さんと一緒に、この奥大井に静養にくるんですよ。」

「そうですか。僕は何とも言えませんが、、、。」

と水穂さんは少しせき込みながら言った。弁蔵さんが水穂さん急いで戻りましょうと言って、二人は亀山旅館に帰ってきた。

「おい、何処へ行ってきたんだよ。」

松の間に戻ると着物を縫っていた杉ちゃんが、一寸心配そうに言った。

「ええ、ちょっと、近くの森を歩いてきました。」

弁蔵さんがそういうと、

「それ、違うよなあ?何かわけがあったんだろ?昨日あったことは花村さんに聞いている。なんでも、変な子供がやってきて、水穂さんを誘い出したことは知っているよ。」

と、杉ちゃんはいった。

「何だか、馬鹿にしてるよな。」

杉ちゃんは、はあとため息をついた。

「それより、相変わらず白い顔をしているんだったら、寝た方がいいよ。」

水穂さんは杉ちゃんにそういわれて、ごめんなさいと言って布団に横になった。

そして、その次の日の明け方の事である。水穂さんがまたせき込みだした。杉ちゃんと花村さんが起きてみると、枕の一部が赤く染まっているのが見えた。とりあえず、弁蔵さんに来てもらって、近くに病院というものはないかと尋ねたが、そのような物は千頭駅近くまでいかないとないと弁蔵さんは答える。とりあえず始発の電車を待つことにしたが、薬を飲ませても水穂さんのせき込む回数は、減少しなかった。

「おじさん。今日も一緒に来てくれるかな?」

亀山旅館の玄関先で、水穂さんを呼んでいる芳樹君の声が聞こえてきた。ここでは女中をほとんど雇っておらずいるとしたら、調理員程度だ。なのでそういう応対も、弁蔵さんがしなければならない。子供というものは何をするか分からないというが、杉ちゃんたちがどうしようか、と言っている間に、芳樹君は、水穂さんがいる部屋を探し当て、ふすまをがらりと開けてしまった。水穂さんがせき込んでいる音と、弁蔵さんたちがしていることを見て、子供らしく少年は怖くなってしまったようで、日が付いたように泣き出してしまった。

「何をやっているの!こんな所まで来て!」

怒りに怒った顔をした女性が、また部屋に入ってきた。芳樹君がお母さんであるけれど、お母さんと呼べない女性だった。彼女は苦しんでいる水穂さんを見て、

「私が、車で連れていきます。」

と水穂さんの体をよいしょと持ち上げて、どんどん部屋を出て行ってしまった。杉ちゃんがちょっと待て!と言っても、聞くことはなかった。多分そのまま、千頭駅近くの病院まで行ってしまったのだろう。「ということは、水穂さんの身分もばれちまうかな。」

と、杉ちゃんは、つぶやく。

「身分って何?」

と、泣きながら少年が聞いた。

「ええ、優しいおじさんは、同和地区と呼ばれる所に住んでいて、みんなからいじめられなければならなかったんです。」

と、花村さんが言うと、少年はさらに涙をこぼして泣き出した。長い長い時間だった。杉ちゃんの方は、こうなっても仕方ないと思っていたのか、着物を縫う作業を開始してしまうし、弁蔵さんと花村さんは、もしもの事があったらどうするかについて話し合っていた。しばらくすると、ふすまがバンと

開いて、女性が戻ってきた。

「医者があまりにあきれた態度をとるので、私、薬だけもらって帰ってきました。こんな身分の人を、うちで見るわけにはいかないなんて、ひどいものです。私は、許しませんわ!」

女性は薬で眠っている水穂さんをそっと布団に寝かせた。

「とりあえず、もう落ち着いたから大丈夫だということだけしてもらいました。全く、世のなかはひどいことを平気でする人がいるものですね!」

花村さんはまあまあ落ち着いてくださいといった。

「そういう気持ちがあるなら大丈夫だ。お前さんはきっとこいつを強い奴に育てられる。」

杉ちゃんが針を動かしながらデカい声で言った。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

二人の母と暮らす男 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る