第47話 愛花と福乃

 机の上に置いてあったスマートフォンが軽快な音楽を流しだす。どうやら、もう1時間経ったらしい。集中していると時間が早く過ぎるものだな、と私芥川愛花あくたがわいとはなは改めて感じる。

 私が過労で倒れて、病院からシェアハウスに戻ってきた時にいくつか決めごとを作った。

 そのうちのひとつが、休憩は1時間から2時間ごとに取ること、と言うものだった。

 筆が走って、たまにこの時間を忘れることもあるが、その時は後の休憩を長めに取ることにしている。

 休憩の重要性は、過労で倒れる前に知ってたはずだったが、力を入れすぎるあまり重要性を忘れてしまっていた。今後は、忙しい時でも、いや忙しい時こそ休憩を取って、効率的かつ無理をしないようにしなければ。

 スマートフォンを操作して音楽を止めて、椅子いすから立ち上がり、ストレッチを始める。あ、今肩がパキっていった。

 休憩ついでのストレッチをしていると、部屋のドアがノックされる。私が返事をすると、お盆にティーカップを載せたこのシェアハウスの住人、花咲福乃はなさきさちのが入ってきた。

愛花いとはなさん、休憩しましょう。紅茶を持ってきましたから」

「あれ、いつもコーヒーなのに珍しいわね」

「もう夜ですから、カフェインが入っていない方がいいかと思って探したんですけど、カフェインレスのコーヒーが見当たらなくって……」

「なるほどね。ありがとう、そこまで気を使ってくれて」

 福乃さちのちゃんは、「いえいえ」と少し照れた様子だ。

 福乃ちゃんは相変わらず細かな気配りができる子だなぁ。

 優しい福乃ちゃんの好意を無駄にしないためにも、椅子に座って紅茶が冷めないうちにいただくとしよう。

「それで、愛花さん。どうですか、進捗は?」

「いい感じね。先日、あずさ先生にも見てもらったし、さらにいい作品になると思うわ」

「なら良かったです。でも、手直し作業をしすぎると、訳分からないことにもなりかねないので、気をつけてくださいね? あと、頑張りすぎないこと!」

「うん。ありがとう、お母さん」

「私、年下ですよ!?」

 あ、あまりの温かい気づかいに母の愛に包まれた気分になってしまった。

 いけないいけない。紅茶を飲んで落ち着こう。ああ、この紅茶も程よい温かさでまた優しさに包まれる……。

 私がゆるみきっていると、福乃ちゃんはくすりと笑う。

「愛花さんって、見てると面白いですよね」

「え? そう?」

「はい、コロコロ表情が変わって、和やかな雰囲気になります。頑張っている様子を見ると、私も頑張ろうって思えますし」

「そうなんだ。でも、頑張りすぎないようにしないとね。梓先生にも言われたし」

「そう、ですね……」

 ん? なんだか、福乃ちゃんの元気がなくなったような……?

 見てみると、福乃ちゃんは床に視線を落としていて、表情もどこか暗い。これが、福乃ちゃんの姉である幸音ちゃんならすぐに異変が分かるのだろうけど。

「福乃ちゃん?」

「あ、すいません。考え事しちゃって」

「……私でよければ話、聞くよ? それとも幸音ゆきねちゃんの方がいい?」

「いえ、お姉ちゃんには話しにくいことなんです。ですから、愛花さん、その……」

 私が黙って頷くと、福乃ちゃんは話し始める。

「今回、愛花さんが倒れた時、皆さんはもちろん、私も心配しました。でも、私は、少しだけうらやましいとも思ったんです」

「羨ましい……?」

「はい。だって、私には、そこまで本気になれる夢がないから」

 ……私は、今までの福乃ちゃんと過ごした日々を思い返す。確かに、幸音ちゃんの夢は聞いたことがあるが、福乃ちゃんのそういった話は、一切耳にした記憶がない。

「ここに住んでいる皆さんは、すごいと思います。夢を持って、そのために頑張ることができている。私には、何もないんです。昔から、なりたいものも、やりたいこともなかった。大学だって、お姉ちゃんと同じ大学をなんとなく選んだだけで。私には……夢の見つけ方が分からない」

 こんな時、私には何ができるだろう。

 しっかりしていて、人と真摯しんしに向かい合えている福乃ちゃん。そんな彼女の大好きな姉にも言えなかった、本音。ここで、優しいから学校の先生が向いてるとか言うのは簡単だけど、そうじゃない気がする。

 ……少しの沈黙の後、私は口を開いた。

「福乃ちゃん。夢って案外、そのあたりに転がっているものなんだよ」

「へ?」

「私が漫画家になりたいと思ったのは、もちろん漫画が好きだから。でも、漫画が好きになったのは、偶然新聞で4コマ漫画を見たからなんだ」

 私は、椅子から立ち上がって、福乃ちゃんの手を掴む。

「大丈夫。ふとした瞬間に、きっかけって訪れるものだよ。焦らずに行こうよ。きっと、福乃ちゃんが心から頑張りたいものは見つかるよ」

「……はいっ!」

 福乃ちゃんにいつもの笑顔が戻る。

 ……今回は、ちゃんと先輩できたかな?

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