第33話 好き嫌い

 さて、どうしたものか。

 私芥川愛花あくたがわいとはなは、住んでいるシェアハウスの自分用の部屋で腕を組んで仁王におう立ちしていた。

 目の前には、普段漫画を描くための机にパソコン。

 そして――そのパソコンにつながれたペンタブレット上でうごめいている少し大きめのクモ。

 私は、つい先ほどまでクモがいるペンタブレットで意気揚々いきようようと漫画を描いていたのだ。

 それがどうだ。トイレから帰ってきたらクモがいるではないか。

 いや、殺虫剤を使って退治すればいい、と思う方もいるだろう。

 だが、それはできない。

 なぜなら、クモがいるペンタブレットの真横には、コーヒーの入ったマグカップが鎮座ちんざしているからだ。

 たかがコーヒーくらいれなおせばいい……のだが、それもあまりしたくない。

 なぜなら、淹れたコーヒーはネットで買った結構いい値段のするコーヒーなのだ。

 先日、難しいと言われている大学の講義の中間テストを無事に乗り越えた記念で買ったもので、かなり美味しい。

 そのお高いコーヒーの数少ない残りが、クモの近くにある。

 殺虫剤なんて使えば、コーヒーがダメになるのは確実。

 だが、こうして悩んでいる間にもクモがマグカップの中へと消えていく可能性もある。

 他の人を頼ろうにも、現在虫が触れる人間は全員外出中だ。

 どうする……?

 泣く泣くコーヒーを諦めるしかないのかのか?

 と、その時。

「てでーまー」

 こ、この声は……!

「ひばり!」

「うお!? なんだ!? 敵襲てきしゅうか!?」

 部屋から飛び出してきた私を見て、虫が触れる人間の一人――藤原ふじわらひばりはかなりおどろいた様子だった。


「ありがとうございました、ひばり様」

「いや、そこまで頭下げられるほどのことしてないって……」

 深々と頭を下げる私を見て、ひばりは少しひいていた。

 あの後、ひばりは例のクモをティッシュでつかんで外に出してくれた。

 私としては、かなりの恩を感じることなのだが、ひばりはそうでもないらしい。

「つーか、愛花いとはなだって子供の頃は虫触れたんじゃないのか?」

「子供の頃の私がおかしかっただけよ」

 即答する私に対して、ひばりは「お、おう」とうろたえていた。

「まぁ、虫はもういいや。それよりも愛花。ほれ」

 ひばりはコンビニの袋をこちらに渡してきた。

 ……えっと、これはなんだ?

「お前、忘れてるのか? 帰りに昼飯買ってきてくれ、って頼んできたじゃないか」

「……あ」

 そうだ。すっかり忘れてた。

 家にお昼ご飯にピンとくるものがなくて、ひばりに頼んでたんだった。

 クモ騒動そうどうのせいで頭から抜けていた。

 ……ひばりがあきれているのが、目で分かる。

 私は何でもないようなふりをして、そそくさとお昼ご飯の準備を始める。

 どれどれ、この麻婆丼がひばりので、私がサラダとサンドイッチか。

 ひばりが電子レンジでお弁当を温めている間に、私は自分の部屋から無事に生き残ったコーヒー君を持ってくる。

 準備が整ったので、それぞれ席に着く。

 では。

「「いただきます」」

 きちんと挨拶をして、サラダのふたを取る。

 って、これ……。

「あのーひばり?」

「ん? どした?」

「ミニトマト、食べてもらっていい?」

「あ、そういや愛花いとはなはトマトダメだったな」

 ひばりの言う通り、私はトマトが苦手だ。

 火を通してソースにしたり、ケチャップにしたものなら食べられるのだが、生のトマトは食べられない。

 一度、「このトマトはマジでうまいから大丈夫やって!」と、このシェアハウスの住人である花咲幸音はなさきゆきねに強制的に食べさせられた、“本当に美味しいトマト”も普通に無理だった。

 全く。誰がトマトを生で食べるなんてことを生み出したのやら……。

 ひばりは、スプーンでミニトマトをすくい上げ、口に放り込む。

「ひっふぁしふぁれだ」

「何言ってるか分からんわよ」

 その言葉にひばりは、咀嚼そしゃくしていたミニトマトを飲み込むと改めて話し出す。

「よく子供の頃は、好き嫌いせずに食べろーなんて言われてたけど、別に好き嫌いしても大きくはなれるよな」

「ふふ、学校の先生がよく言ってたけど、全然問題なかったわね」

 まぁ、学校の先生の場合は、食べ物を残さないように教育するのも仕事だ。だから、好き嫌いするなって言っていたんだろう。

「大人のほうが好き嫌いなんて激しいよな。あたしは、ブロッコリー無理だし」

 そういえば、食感が苦手……なんて言ってたな。

 私としては、トマトよりも全然美味おいしいが。

「でも、本当は好き嫌いしない方がいいんでしょうね。栄養バランス的にも」

「別に今はサプリメントなんかもあるから、無理しないでもいい気がするけどな。あたしは、どちらかというと……生産者さんに申し訳ない」

「それは……そうね」

 自分が丹精たんせい込めて作ったものを食べてもらえない、となると生産者はどう思うのだろう?

 きっと悲しい気持ちになるはずだ。

 美味しいのに。あんなに時間をかけたのに。

 私も時間をかけて描いた漫画を適当に読まれると、切なくなる。

 ……これからは、少し無理して食べてみようかな?

 なんて、考えていた時。

「ま、生産者さんも捨てられるにはれてるだろうけどな」

 と、ひばりがさらりと言った。

 思わず、お笑い芸人のように椅子いすからずり落ちそうになる。

「だってよ。規格外の製品やら動物に食べられてたとかで、廃棄品ってかなりあるだろ。いちいちなげいてたら心が持たないんじゃね? それに生産者さんも好き嫌いあるだろうし」

 い、いや、そうかもしれないけど、何も感じてない、ってことはないんじゃ……!

「本当に全部食べれて、食材に罪悪感を感じる人なんて、一握ひとにぎりってことだな」

「私たちの中で言うと、幸音ゆきねちゃんかしら?」

 そう、幸音ちゃんは特に好き嫌いはなかったはずだ。

「いや、あいつ、種なしの梅干し苦手だぞ。種ありはまだ食えるらしいけど」

「……ん? 普通は、種ありのほうが食べるの面倒で嫌だってなりそうだけど」

「なんか、種なしのしわくちゃ加減が脳みそみたいで無理らしい」

 ……見えなくはない、のか?

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