賽の河原の物語
歌垣丈太郎
「賽の河原の物語」
歌垣丈太郎
1
マモルたちが住む町は大阪と京都を結ぶ私鉄沿線にあった。
大阪市域の外れに位置するその町は、小さな工場や安普請の住宅が犇めきあって埃っぽい空気に包まれていたが、生活感のあふれる町だった。
たとえば町に熟れたトマトを輪切りにしたような夕陽が沈みはじめると、厚化粧を施した女たちや黒眼鏡をかけた男たちがどこからともなく現れて、梅田方面へ向かう私鉄電車の中へ吸い込まれていく。女たちはたいがいが二流バーのホステスかヒモつきの風俗嬢で、男たちは下っ端の地廻りか客引きの類いだった。彼らが向かう梅田、通称キタの繁華街は六駅も向こうだから決して近いとはいえないが、家賃や物価の安さを差し引きすればそれほど遠くもない。だから夜の仕事に従事する者には虚栄だけで都心のマンションに住むよりもずっと合理的な町だったといえる。
兵庫県西宮市にある私立大学へ通っているマモルが、なぜ大学からはかなり離れたそんな町に住んでいたのかというと、まずはホステスたちと同じで神戸沿線に較べるとアパートの家賃が格段に安かったからということになるだろう。また当時のマモルは大学の近くには住みたくないというある特殊な事情を抱えていた。さらには、二年前からアルバイトをさせてもらっている韓国人のチェさんが経営する段ボール工場がその町にあった、というのも理由の一つにあげられる。
そんなわけでマモルとヒロミはその町の古い二階建てアパートで同棲していた。
毀れかけの木造アパートは各階に四部屋ずつの貸し部屋があり、一階の隅の部屋には家主から委託された五十歳くらいの寡婦の管理人が住んでいる。
大ざっぱな性格の管理人はあまり綺麗好きではないらしく、廊下や共同便所の掃除をしばしば手抜きした。そのかわり、アパートへ出入りする外部の人間や部屋の使用状態などを細かくチェックすることも無かったので、廊下に溜まった土ぼこりとかトイレから流れ出る臭気さえ我慢すればそれほど悪くない住み心地だった。だから賃貸契約書では一人しか住めないことになっている部屋で、マモルがいつのまにかヒロミと同棲するようになっていても、管理人のおばさんはずっと知らぬふりをしてくれている。
マモルとヒロミは、アパートの中央に設置された鉄製の階段を上がった二階の、右から二つ目の部屋に住んでいた。六畳一間に小さな押し入れとコンクリート製の粗末な流し台がついているだけでトイレや浴室の設備は無い。大きめの窓はあるが、人も通れないほど狭い路地の向こうに隣家のモルタル壁がせりあがっているから、見晴らしはまったく望めない。路地は年中じゅくじゅくと湿っぽくて、隠花植物よりもっと病的な色をした雑草やひょろりと背丈だけが伸びた茸の類いが、アパートを蝕むように黒いタールを塗った羽目板へ寄りかかっていた。僅かでも部屋へ陽が射し込むのは年に数日だけだったから、真昼でも電灯を点けないと本が読めなかった。
だからマモルは勉強や読書のために当然のように傘電灯を点ける。
するとヒロミはすぐにそれを消してからこういうのだった。
「わたしが生まれた田舎の家はもっと暗かったんだから」
同棲を始めた頃は、だから少しくらいの暗さは我慢しなさい、といっているのだとマモルは思っていた。ところがヒロミとしばらく暮らしているうち、どうやらそうとばかりはいえないのではないかと気になりはじめていたのである。
たとえば夕食のあとで二人がそろって銭湯へ出かけるときなど、マモルにはそれこそ無駄だと思えるのに、ヒロミは電灯を点けたままで部屋を出る。たまに忘れ物を探して出遅れたマモルのほうが電灯を消したりすると、ヒロミはせっかく履いたサンダルを脱ぎ捨てて部屋へとって返し、あわてて電灯を点け直すのである。真昼の点灯を許さない理由が親譲りの我慢や節約にあるのならそんな無駄をするはずがない、とマモルは思う。
相手のことを何ひとつ知らなかった男と女がいきなり同棲を始めたのだ。ある日、一つでも相手に奇妙な性癖を発見したりすると、それがずっと気になり始めるのはしかたがない。マモルはそれいらい好奇心も手伝ってヒロミを熱心に観察するようになった。けっして意地悪な心から出たものではなく、より深く相手のことを知りたいという情愛から出たものだった。その結果、ヒロミには他にもおかしな性癖や習慣があるということを発見することになる。
ヒロミは、私鉄駅でいえばこの町から一つ京都寄りの駅を降りて五分ほど歩いたところにある大手の化粧品工場で、箱詰めなどをする工員として働いている。入社いらい寄宿していた会社の女子寮を出てマモルとこのアパートで暮らすようになってからは、ひどい雨さえ降らなければ電車より便利な自転車をこいでその工場へ通うようになっていた。島根県の中学校を卒業してすぐの集団就職で大阪へ出てきたヒロミは、その化粧品会社へ勤めてからようやく三回目の冬を迎えたばかりだった。
「ねえ、マモル・・。エルンストという人のこと知ってる?」
洗い終えた下着を窓の外に張ったビニール紐に吊しながらヒロミがいった。
洗濯機はあっても就職して間もないヒロミや貧乏学生のマモルなどにはまだ買えない時代だ。ヒロミは二人分の下着をちびた徳用石鹸を使って、共同便所のそばにある洗い場で寒風にさらされながら洗ってきたばかりだった。
開け放った窓からは冷たい夜気が間断なく部屋へ流れこんでくる。暖房器具といえば電気コタツがあるきりで、それは去年の冬、マモルがチェさんの工場へ休みなく通いつめて貰ったアルバイト料で、延滞して退学勧告寸前だった後期の授業料を大学へ支払ったあと、残ったお金を注ぎ込んでやっと手に入れた代物だった。
そのころマモルはまだヒロミと知り合っていなかった。
マモルはその電気コタツへもぐり込んで、もう何ヵ月も開いたことがない経済学の本を読んでいた。イギリスの高名な経済学者が書いたその本は、近代経済学に革命をもたらした《聖書》といわれるほどの名著で、マモルが通っている私立大学では準教科書のようになっていた。
「え、誰だって・・」
「エルンストよ。画家なんだけど」
「さあ知らないな。その画家がどうかしたの」
マモルはそう答えると生あくびをしながら次のページを繰った。
経済学というよりこれはもう数学に近いじゃないか、とマモルはため息をついた。大学入試のとき、文科系なのにこの私大の経済学部だけが受験科目に数学ⅡBを必修指定していたわけが、マモルには今ごろになって理解できるのだった。
「べつにどうもしないけど会社のお友達に絵の好きな人がいてね。わたしとはすごく仲が良くって、食堂で昼食を摂ったあとはいつも絵の話になるの。しかもそのエルンストという画家の話ばかりに。でもすごく面白いのよ」
「ヒロミは絵が分かるのかい」
「うぅん。ただなんとなくその人の話を聞いているだけ」
「へぇ。それで今日もそのエルンストという画家の話になったわけだ」
「そうなの。でも、何でもよく識っているマモルが知らないくらいだから、そんなに有名じゃないのね、その画家は」
ヒロミはそういいながらやっと窓を閉めた。
部屋は外気ですっかり冷えきってしまって、マモルは背中のあたりにぞくぞくとするような寒気を感じている。だがヒロミはまったく寒さを感じないらしく、たくしあげた黄色いセーターの袖を干し物が終わった後もそのままにしていた。
「有名なのかどうか、ぼくは絵にくわしくないからね」
《聖書》に描かれているデマンドカーブを指でなぞりながらマモルは素っ気なく答えた。それを需要曲線と呼ぶことくらいは知っていたが、その下に書かれた複雑な数式の意味を理解するまでには相当な時間がかかった。こんなことでほんとうに卒業できるのだろうか、とマモルは他人ごとのように考えてしまう。
少しも話に乗ってこないマモルへあてつけるように、ヒロミは小さな押し入れからずるずると布団を引きずり出しはじめた。そうなるとマモルは教科書やノートを抱え、コタツを引きずって部屋の隅へ避難しなければならない。
ヒロミは敷き布団の上に白いシーツを広げながらいった。
「ねえ、マモル・・。明日は会社がお休みだしどこかへ遊びに行こうよ」
ねえ、マモル・・というのは、ヒロミが何かを言い出すときの口ぐせだ。
「どこかって、どこへさ」
ヒロミは週に一度は必ず洗い張りのシーツに取り替える。それもまるで旅館の仲居がやるようにきちんと両膝をそろえて布団の傍へ座り、儀式ばった手つきで丁寧に取り替えるのである。ただヒロミの場合はほとんどが和服の仲居と違ってミニスカートを穿いている。だから白いシーツと剝き出しの丸い膝頭が目に飛び込んでくると、そうでなくとも数式で混乱しているマモルの頭の中はマドラーでかき混ぜたミルクコーヒーのようになってしまう。
「そうね、わたしはやっぱり京都がいいな。嵐山なんか大好き」
京都はマモルとヒロミが知り合って初めてデートしたところだ。
その日のうちに二人は八坂神社のそばにある古びた旅館で休憩をとって抱き合った。初めての交合の痛みに泣き出してしまったヒロミより、旅館の和室にかかっているダブルカーテンの隙間から枕元まで洩れていたまぶしい真昼の光りのほうが、マモルには刺激的だった。
「嵐山はもう何度も行ったじゃないか」
「じゃあ琵琶湖が見たい。大津なんかどうかしら」
「それなら彦根にしよう。大津も悪くないけれどね」
マモルはそういうとついに《聖書》を投げ出して、電気コタツから新しいシーツを敷き終えた布団の中へと、温まったからだを冷やさぬようそっと移動させた。セミダブルほどの大きさのふとんはヒロミが化粧品会社の女子寮で使っていたもので、彼女の数少ない持ち物の中ではとびきりの贅沢品といえたから、ふうわりとして心地よく、からだにもよく馴染んだ。マモルがそれまで使っていた煎餅布団は、ヒロミが同居するようになってからずっと押し入れの奥に積み上げられたままだ。
〈供給は需要によって限定される〉布団にくるまってヒロミを待ちながら、いま投げ捨てたばかりの《聖書》の言葉を思い出して、その通りだな、とマモルは思う。
ベニア板をはり合わせただけのドアに鍵をかけ、マモルがあちこちに脱ぎ散らかした衣類を畳んでから丹念に部屋の隅々まで点検し、傘電灯の二股ソケットに手を伸ばして灯りを豆電球に切り替えたあと、ヒロミはようやく布団をめくってマモルの横へすべり込んできた。就寝する前のこういう手順もヒロミの性癖の一つで、毎日少しも変るところがない。ヒロミが中へ這入ってくると布団は急速に温まる。こんなに冷え込みがきつい冬の夜に、しかも凍えるような水を使って手洗いの洗濯までしたというのに、生れつきなのだろうか、ヒロミのからだは今夜もひどく熱かった。
「マモルは彦根に行ったことあるの」
肩まですっぽり布団をかぶったヒロミが暗い天井をみつめながらたずねた。
「一度きりだけどね」
「ひとりだった?」
「そうさ」
「ほんと」
「うん」
だんだん会話が短くなって、マモルの手がヒロミの胸へ伸びていく。その動きに応えるように左へ寝返りを打ったヒロミの右脚がマモルの大腿部に乗っかってくる。
見あげるとヒロミの胸で大きな目をしたミッキーマウスがマモルを見おろしていた。ヒロミが大好きなディズニー柄のパジャマだ。マモルはミッキーマウスの強い視線を感じながらそのパジャマのボタンを外すと、まだ少女の部分を多分に残していてそれほど大きくないヒロミの乳房を口に含んだ。そしてそのまま右へと反転すると、ヒロミの熱くて柔らかいからだが下になり、それだけでセックスに未熟なマモルは果ててしまいそうになる。交合を始めてもヒロミの息づかいはしばらく静かなままだった。マモルは必死に我慢を続ける。
外は風が出てきたようだ。
窓ガラスがカタカタと鳴りはじめた。強い陽射しが差し込んだり誰かに覗き込まれる心配もないから、カーテンまでも省略している窓ガラス越しに、狭い露地を吹き抜けて行く冬の風が洗濯物を大きく揺らしているのが見える。このぶんだと明日は雪になるかもしれないなとマモルは思った。
ドアの向こうをコトコトと廊下を歩く人の足音がした。
左隣りの部屋に住む若い女が帰ってきたようだ。ポルノ女優のように胸と臀部が大きくて脚の長い女は、管理人のおばさんの話によれば梅田のバーに勤めているホステスだということだった。そのヒール音がドアの開閉音へと変わるころ、ヒロミの息づかいはだんだん荒くなってマモルの背中で何度も爪が立てられた。同時にヒロミのからだは接合部から逃げるようにずり上がっていき、悦びでのけぞった顔の部分が敷き布団からはみ出てしまう。我慢できずにマモルが果ててしまいそうになると、それが分かるのかヒロミは、もう少し待って、というように開いていた両脚をきゅっと締めつけてくる。しかしマモルはそれを二度ばかり我慢するのが精いっぱいで、背中を大きく反らせてウッという呻き声を洩らすと、その声に合わせるようにヒロミのからだも大きく反り返った。
隣室から水道の水を流す音が聞こえた。
しばらくは安全日よ、と教えてくれたヒロミのからだの中へ溜まったものを一気に噴出させながら、マモルはその水音に対して勝ち誇った気分になった。これまでマモルは毎夜のように男を連れ帰ってくる隣の女と、その後に続く聞こえよがしの猥褻な会話や喘ぎ声にさんざん閉口させられてきたのだ。ところが不思議なことに、マモルがヒロミとの同棲生活を始めた頃から隣りの女は一人きりで帰宅することが多くなり、当然ながら気になる会話や物音もしなくなっていた。連れ帰っていたのはいつも同じ男とは限らなかったようだから、別れたとか捨てられたとかいう類いのことでは無さそうだったが、男女の結びつきには何か一定の周期とか巡り合せのようなものがあるのだと、マモルは弛緩したものをヒロミのからだから離しながら考えた。
マモルは布団の上へ腹ばいになってタバコに火を点ける。
ヒロミはそんなマモルを仰向けになったまま見あげている。セックスの直後とは思えないくらいあどけない表情である。何事に対しても潔癖な性格を持つヒロミだが、どういうわけかこの寝タバコには寛容だった。しばしば洗い立てのシーツの上へ灰をこぼしたり、吸いかけのタバコが灰皿から転げ出て畳を焦がすようなことがあっても、ヒロミは少しも文句を言ったりしないのである。
不思議に思ったマモルがあるときそのわけを訊ねると、
「お父さんがタバコを好きだったから」
とヒロミは急に虚ろな目になってぽつりとそう洩らしたことがある。
ヒロミの父親の優作は郷里の島根県出雲市で腕のよい宮大工をしていた。しかしヒロミが小学校へ入ったばかりの頃、ふいに近くの漁港から知り合いの小舟を借り出すと、めずらしくベタ凪ぎだった日本海へ漕ぎ出て行ったまま帰らなかった。優作が日々使っていた家の仕事場には、鑿の彫り跡も鮮やかに〈赴西方浄土〉と彫られた木片が残されており、隠岐の知夫里島に打ち上げられた無人の小舟だけが見つかったのは十日も後のことだったという。
ヒロミはそのときそんな話もした。
マッチの火が消えると、タバコの先の火球だけが暗い部屋の中に浮かんだ。
「ねえ、マモル・・さっきの話なんだけれどね」
ヒロミはその赤い火球を凝っとみつめながらいった。小さな頭と乱れた長い髪は相変わらず敷き布団からはみ出たままである。
「明日の彦根のことかい」
「ううん、エルンストのこと。わたしその人の画集がみてみたいわ」
「それなら借りてきてあげるよ。大学の図書館からね」
「あるかしら」
「あるさ」
「あるといいわね」
「ああ」
短い会話はすぐに途切れてしまった。マモルが二本目のタバコを吸い終わるより前にヒロミは早くも軽い寝息をたてていた。
マモルは、いつものように胸をはだけて寝入ってしまったヒロミのからだを持ちあげると、そっと布団の中へ引き入れてやった。そして壁際まで押し出されていた枕を頭の下にあてがい、ふたたびミッキーマウスの大きな目にみつめられながらパジャマの胸のボタンを一つ一つ丁寧に掛け直してやる。するとマモルはまだ稚さが残っているヒロミの寝顔に新たな性の衝動を覚えて身の置き所がなくなるのだった。
彦根はやはり雪だった。
雪はマモルたちの町にも明け方近くに降ったようだったが、二人がアパートを出る頃には露地裏や家々の屋根に雨あがりのような痕跡を残すだけですっかり溶けてしまっていた。だが彦根の町は見渡すかぎりの雪景色で、歩くたびに足もとでガリガリという音がした。新たに降り積もった雪の量は多くはないが、根雪となって残っていた下層の部分が凍りついているのだろう。昨夜の雪だけではなさそうだった。
明け方まで吹いていた強風に飛ばされてしまったのか、暗灰色の厚い雪雲はすでに東のほうへ去って、彦根城の天守閣の上には澄明な青空がひろがっている。北の方角には雪をいただいた伊吹山脈が眺望され、眼下に広がっている琵琶湖の湖面は沖合でかすかに波立っているものの、入江になって葦が自生している辺りは水面が薄く氷結しているほどに穏やかだ。
「冷えるわね」
ヒロミはそういうとマモルの左手を両腕で胸へつよく抱え込んだ。
ジーンズにセーターとウールのジャンパーを着て、毛糸の長いマフラーを首にぐるぐる巻きにしていたけれど、それでもヒロミは寒そうだった。寒風にさらされながらセーター一枚で洗濯をしていた昨夜までのヒロミとは何処かが違っていた。
幕末に江戸の桜田門外で暗殺された井伊直弼が、大老に抜擢されるまでのあいだを隠棲していたという「埋もれ木の宿」が間近にみえる堀端を、二人はゆっくりとした足取りで歩いている。寒雀たちが南天の木と戯れ、細い枝を弓のようにしならせていた。そのたびに白い雪片が舞い上がって、赤い実とみごとな対比をみせている。だがすっかり凍りついたお城の堀割には水鳥の姿も見えない。マモルたちのほかに城内を歩く人影は無かった。
「山陰はもっと雪が多いじゃないか」
「でもこんなに冷え込んだりしないわ」
「そうだったっけ」
「そうよ」
ヒロミに連れられて出雲へ行ったのはこの冬の初めだった。
母の喜美恵が待っている大社町の実家へは、ヒロミが半日ほど立ち寄っただけで、マモルはついて行かなかった。このさいお母さんへきちんと挨拶をしておきたい、と申し入れたマモルに、そんなつもりであなたを連れて来たんじゃないのだから、とヒロミは言い張って、ついに譲らなかったのだ。それでマモルはしかたなく日御碕の近くにとった安宿で、どんよりと日本海に垂れこめている暗灰色の厚い雲とその雲間から舞い落ちてくる湿った雪を眺めながら、部屋の座卓に並べられた二人分の夕食に手もつけずにヒロミの帰りを待った。
咆哮する冬の荒波の中へせり出した荒けずりな岩盤。日御埼の周辺は海岸段丘と呼ばれる地形になっていて、数万年の浪に洗われて表土をはぎとられた岩盤が海ぞいにえんえんと続いている。そしてひときわ突き出た一つの岩盤の上に、いましも投身自殺をはかろうとして一瞬立ちすくんだ女のような白い灯台がみえる。
海上の闇を引き裂いて霧鐘が響きわたると、灯台からは何十万燭光もの閃光が規則的に発射される。するとその強烈な音と光は境界すら不分明に接している海と空のどちらへともなく吸い込まれて行く。そういう光景を安宿の窓から凝っとみつめていると、白い灯台は沖合はるかを航行する船舶の指針であるとともに、黄泉の世界でさ迷っている霊魂たちへ送られる此岸からの信号のようにも思えてくる。出雲地方には天界と地界を自由に往来する神々たちの神話がいくつも伝わっているが、その背景には、冬期に限らず数多くの日に厚い雲が垂れ下がり、天と地の隔絶をほとんど意識させないこの地方独自の風土が関係しているのではないかとマモルは感じたものだ。
ヒロミは幼いころ、この日御碕灯台が大好きだったという。
高さ四十四㍍の石造り灯台から発射される紅白の互光は遠く四十㎞先の海上にまで達するといわれている。小学校へ入学したばかりのヒロミは、父の優作が漕ぎ出した小舟が隠岐の知夫里島でみつかったという報せをうけた夜、日御碕までの寂しい海岸通りを古ぼけた自転車を漕いで、妖怪のように立ちはだかる浜松に怯えもせずに走らせ続けた。そして千年を経た古木の根っこのような灯台の台座へうずくまり、小さな膝を抱えながら夜の海をみつめていると、父の人魂のような光の束が別れを惜しむようにゆっくりと頭上を飛び越えて、墨汁を流したような日本海の闇の中へ消えていったのだというヒロミの話を思い出し、マモルはとうとうヒロミの帰りを待ちきれなくなって宿を飛び出して行ったのだった。
「きれいだわ、甍に積もった雪が」
城郭を見あげてヒロミがつぶやいた。
澄明な冬の陽光に映えているお城の甍や雪よりも、のけぞったヒロミのみずみずしい顎の線のほうがずっと美しい、とマモルは思う。
「でもこわい」
「何がさ」
「白すぎるのよ、雪が。雪はあんなに白くないのに」
そういったヒロミはほんとうに怖がっているようだった。
ヒロミの胸の中へ強く抱え込まれたマモルの左手に、はっきりと動悸の昂まりが伝わってきた。天守閣の甍に積もった雪は、澄んだ陽光を受けて幾重にも白いカーブを描きながら、その延長線上にある湖の真ん中に向かってなだれ落ちていた。
「それに琵琶湖だって静かすぎるわ。いくら湖だといってもこんなに広いんだから、水面が少しくらい波立っていてもいいはずなのに。変だわこの風景」
「そうかな。よく晴れていて風もないんだから、こんなものじゃないの」
そのときマモルにはヒロミの感じていることが分からなかった。
山陰の雪と海を見てきたヒロミには、雲ひとつない青空の下で白く輝く乾いた雪や、プールのように穏やかな湖水のたたずまいは、確かに怖いほど美しくて見慣れない景色だったに違いない。マモルはその時はそう推測するのが精いっぱいだった。
それくらいこの日の彦根の町は美しく、琵琶湖は穏やかだった。
ところで『近江國與地志略』には次のような記述がある。
《夫以は、近江國、旧淡海の國と号す。旧事記に出たり。衆山東西に岐れ、中に大水を湛え、殆も海のごとく水淡し。故に名づく。或いは佐々浪の國といふ。(中略)ささは少しきなり。此の湖の浪少なくして、大海の浪のごとくあらざるのいひなり》
淡海が湖に近いという意味の近江と名付けられたのは天智天皇が大津へ遷都されてからだ。遠江の国と対置されたのである。
大津や彦根の辺りから眺める琵琶湖はまさにこの『輿地志略』にある通りである。だが琵琶湖に立つ浪が常に〈ささなみ〉であるという記述は間違いだ。すでに大正時代の調査によって、琵琶湖には海と同じような潮流が存在することが発見されているし、冬季にはいわゆる三角浪が発生することだってよく知られている。それは比良八荒という名で呼ばれ、春先におこなわれる八講の頃に吹く突風は、ことに激しい浪を湖上にたぎらせるのだ。
この比良八荒には、その昔、タライの舟を漕いで夜ごと恋しい修業僧のもとへ通っていた若い娘が、たった一つの目印にしていた比良明神の灯りを心変わりしたその修行僧の手で掻き消されてしまったために、夜の湖上をあてどもなくさ迷ったあげく突風にあおられて湖底に沈んだ恨みの風と浪でもある、という悲しい言い伝えが残されている。また琵琶湖の北方に位置している竹生島や葛籠尾崎の辺りは水深が百メートルにも達するといわれ、こういった比良の八講荒れの時季には漁民の遭難だって数多くあったのである。
「からだがすっかり冷えてしまったね。町へ下りて暖かいものでも食べようよ」
立ったまま凍りついたようなヒロミを促してマモルは歩きだした。
ヒロミはそれでもなお何度か後ろを振り返って静かな湖上へ視線を投げかけていた。マモルは爪先と腰骨に痺れるような冷たさを感じていた。溶けかけの雪に濡れたズック靴がまるで鋳型のように固まって足を締めつけてくる。
「ねえ、マモル・・」
ヒロミがそういったきり急に顔を伏せた。
いつもならそのあとにすぐ続く言葉がなかなかヒロミの口から出てこない。しかし寒さに気を取られていたマモルはしばらくそのことに気づかなかった。
「どうしたんだよ、急に黙り込んじゃって。それに凄く寒そうでいつものヒロミらしくないじゃないか」
ようやく気づいたマモルがそう催促してもヒロミはまだ黙りこくっていた。
木々の間に彦根市庁舎の建物が見え始める辺りまできたとき、ヒロミはそれまで自分の胸に抱え込んでいたマモルの左腕を引き離すと、いきなり真正面へ回り込み、くるりとこちらを向き直っていった。
「ねえ、マモル・・。わたしを捨てたってかまわないよ」
マモルは思いもかけなかった言葉に、えっ、と驚いてヒロミの顔を覗き込んだ。
ヒロミはいつのまにか大きな目に涙を溜めていた。その一粒がぐるぐる巻きのマフラーに落ちるのを見たマモルはもっと慌ててしまった。
「なに言っているんだよ。捨てたりなんかするわけがないじゃないか」
とりあえずそう答えてはみたものの、マモルにはさっぱりわけがわからない。頭の中が予想もしなかった問題を突きつけられた受験生のようにパニック状態にある。
「うーん、どう言ったらいいのかな。いまのぼくは学生だから確かに生活力が無い。それどころかヒロミに助けられている部分もある。だけどもう少し我慢してくれよ。あと一年もすれば大学を卒業できるし、会社へ勤めて働くこともできるんだ。そうなればヒロミに可愛い服やアクセサリーの一つも買ってやれる。あのぼろアパートだってすぐに出られると思うよ」
おそらく答えにはなっていないだろうと感じながらも、マモルは自分が日ごろからいちばん気にしていることを早口でまくしたてた。
「ありがとう、マモル。でもわたし、そんな日は来ないような気がするの」
かぼそい声でそういうと、ヒロミは新たな涙を溢れさせた。
ふたたび視線を伏せたヒロミを見て、捨てられるのはヒロミではなく自分のほうなのではないか、とマモルは不安になった。だから必死で同じ答えを繰り返した。
「いや来るさ、きっと来る。二人で今みたいに頑張っていればそういう日がきっと来るよ。もう少しの辛抱じゃないか」
ヒロミはマフラーで涙を拭うと下を向いたまましばらく考えこんでいた。
今日は三つ編みにした髪の先が心の揺曳を映すように胸もとで揺れている。落とした視線の行き着くところに、暮れのボーナスでヒロミが買ってくれたお揃いのズック靴が向き合っている。
「そうね、来るかもしれないわね」
ようやく顔を上げたヒロミは意外に思えるくらいあっさりと前言を取り消した。だがその声にいつものような張りは無かった。
「今日のヒロミはどうかしているよ。おかしなことばかり言っている」
「わたし、馬鹿だし何も識らないから。それに田舎の中学校しか出ていないし、マモルのお嫁さんになんかなれっこないんじゃないかと思ったの」
小指の爪を噛みながらヒロミが寂しそうにいった。
「そんなことない。ヒロミはぼくが知っているどんな女性よりも賢いよ。それにぼくたちに学歴なんて関係ない。こんなに好きなんだから」
警戒心の強い小動物へ近寄るようにマモルはそういってヒロミとの間隔を狭めた。
「わたしもマモルが死ぬほど好き」
「だったら、どうしてそんな哀しいことを言うんだ」
「分からないわ。分からないけどそんな予感がしたの」
「そうだ。正式な結婚式はいっぱいお金がたまってから立派なやつをやることにして、その前にぼくたち籍を入れようよ」
白い息を吐きながらマモルがそう宣言すると、涙を流した直後だからなのだろう、ヒロミは熱っぽい目で凝っと彼をみつめながらいった。
「それはいいの。そんなことはマモルが大学を卒業して立派な会社へ就職してからのほうが嬉しいから。それにわたしはまだ十七歳なんだし」
結婚や入籍は立派な会社へ就職してからのほうが嬉しい、といったヒロミの言葉に、マモルは一瞬たじろいだ。いや返す言葉がみつからなかった。
マモルはこれまで、生い立ちや物の考え方など彼のことならどんな些細なことでも知りたがるヒロミに、ずいぶん悩まされてきた。時には煩わしく思うことすらあった。それでもマモルはできるだけ秘密を持たないようにしてきたし、何ごとにも真摯に応え、打ち明けてきたつもりだ。だがそんなマモルにも一つだけヒロミに隠していることがあった。そしてその秘密は、立派な会社へ就職するためには間違いなく障害となるもので、卒業すら危うくしているほど重大なものだったのである。
2
そのころ東京で始まった大学紛争はまたたく間に全国へ広がり、マモルたち関西の私立大学まで巻き込んでいよいよ激しさを増していた。
戦後まもなくに生まれたマモルたちの世代は、一九六○年に安保闘争が起きたときはせいぜい中学生に過ぎなかったから、闘争の目的や意味するところが理解できなかった。しかし一九六八年に始まったこの大学紛争は、戦後二十年の間に急ごしらえで仕立て上げられた欺瞞いっぱいの民主主義に対して、新しい価値観に立ったマモルたちの世代が突きつけた疑問の噴出であり、直截的な怒りの表現と行動だった。
大学自治を死守する、という旗じるしの下に結集した学生たちは、自治とは名ばかりの大学の現状を招いた悪の根源がどこにあるのかを本能的に感じ取っていた。わが国で初めて生まれたその日から民主教育と称するものを受けてきたこの世代は、敗戦のゆえに否応なく受け入れた戦前世代が都合よく解釈した日本的な民主主義の誤った方向性に、いちはやく気づいていたのである。
マモルは忘れない。
中学生のころ、授業中はアメリカ的民主主義の重要性を説いていた社会科教師が、体育祭などで日の丸の掲揚があったり「君が代」が流れたりすると、戦後十余年を経たその時ですら無意識に直立不動になり、最敬礼の姿勢をとっていたことを。予科練習生のまま終戦を迎えたというその教師は中でもいちばんの若手だったから、なおさら許せない思いがした。マモルたちの世代は多かれ少なかれそういう教師から民主教育なるものを受けてきたのである。
ただマモルは最初から大学紛争のただ中にいたわけではなかった。
国立大学への進学に拘って一年間の浪人をしたが、初志を果たせずに私立大学へ入学せざるをえなかったマモルは、実家の窮状や我を通した自分への意地もあって、親からの仕送りを断っていた。だから授業料や生活費のすべては奨学金とアルバイトで賄わねばならない。ただ前期と後期に支払う私学の授業料だけはさすがにきつく、マモルは事務局へ四回に分けての支払いを申し入れた。困惑した事務局は経済学部長の判断にゲタを預けたので、ねばり強い交渉のすえに、その私大では初めての特例を認めさせたほどだった。
そういう学生生活を送っていたマモルは、ともすればアルバイトのために必須の講義すら欠席しがちだったから、初期の闘争に乗り遅れてしまった。
それでも長期のアルバイトを終えて大学に戻り、紛争の現状とその意味の深さに共感すると、持ち前の反骨心が頭をもたげてきて、あっという間にその渦中へ飛び込んでしまっていた。いらいマモルたちは自治の確立を求めて大学側と闘い、真の民主主義とはどういうものなのかを世間へ問いかけてきたのだ。またその回答を引き出すためにはあえてストライキを打ち、学内にはバリケードを築いて警官隊と衝突することすら辞さなかった。
ところがしばらくすると、大学紛争は複雑な様相を呈しはじめて、マモルたちが予期しなかった方向へ突進するようになる。あくまでも大学の改革を求めて闘ってきたマモルたちは、現実政治や思想に深く関わって急速に過激化するセクトとは共闘できなくなり、新たな戦術と方向性を打ち立てる時期を迎えていたのである。
さらに大学紛争は、幾つものセクトが闘争と思想の主導権を握ろうとして過激化し、仲間同志で醜い抗争と対立を始めるようになっていた。マモルたち穏健派はそこでついに彼らとの訣別を決めた。そして彼らに占拠された大学構内を一時的に離れて、独自の闘争の道を模索するようになっていたのである。
だが過激派はそういう穏健派をただ批判するだけでなく、力でその動きを封じ込めようと躍起になっていた。だからマモルたちのグループは彼らの追究を逃れて転々とアジトを変えてきたのだが、じつを言うとそのアジトの一つがいまヒロミと住んでいるアパートの別の一室にあったのである。しかもそれは二階の左端、つまりマモルたちの部屋とはバー勤めの女性の部屋を挟むだけ、という至近にあったのだ。
ちょうど三ヶ月前に開かれた集会で、マモルが何気なくアパートに空部屋ができたことを洩らしてしまったのがきっかけとなり、何度か訪ねて来たことがあって事情によく通じていたグループのリーダーが強引にアジトの一つとして契約してしまったのだ。権利金が雀の涙ほどで家賃も安かったこと、また寡婦の管理人がお人好しで何事にも大雑把な性格だったことや、大学からはかなり離れていて過激派に見つかりにくい、という点などが主要な決め手になった。
マモルがたった一つヒロミに明かしていない秘密というのはそういうことだった。
それから数日後のことだ。
マモルは依然として封鎖状態が続いている大学の図書館へ過激派の眼を偸んで密かに潜り込むと、床に散乱しきった書籍の山の中からマックス・エルンストの画集をようやく探しあて、アパートへ持ち帰った。
すでに午後六時を過ぎていたので、いつもなら五時には工場勤めを終えて、私鉄一駅の距離を自転車をこいで先に帰宅しているはずのヒロミが、どういうわけか部屋にいなかった。それでマモルは所在なくコタツの中へ足を投げ入れると、仰向けになってしばらくエルンストの画集をながめた。しかし奇妙な絵ばかりの羅列に辟易すると、そっと廊下へ出て左端にある部屋の前に立ち、周囲や階下に人影が無いのをしっかり確かめてから、持っていた鍵でドアを開けて中を覗いてみた。部屋はこの前の会合で使った状態のままになっていて、足の踏み場もないくらいゴミや紙片が散乱している。マモルはそのとき闘わされた熱い議論を思い返しながら、しばらくその部屋の真ん中へ座り込んでぼんやりと時を過ごした。
ほどなく二人の部屋の方角から木製のドアを開け閉めする軋み音が聞こえてきた。ヒロミがようやく工場から帰ってきたようだ。しかしマモルはすぐには立ち上がらないで、書きかけのまま反故になったアジビラを読み直したり、インスタントラーメンの空き袋やスープが残った紙カップを片づけたりで時間を費やしてから、仕事を終えた空巣が逃げ出すように周辺を窺いながらヒロミの待つ部屋へ戻った。
「あらお帰りなさい。先に帰っていたんでしょう。どこへ行っていたの」
電気コタツの横に膝をついていたヒロミはそういってマモルを見上げた。
食卓を兼ねたコタツの上には、工場からの帰り道に買ってきたのだろう、包装紙を剥がしたばかりの寿司が皿の上に並んでいる。
「まだまだ閉鎖が続いて授業も再開されそうにないからね。またチェさんの工場へアルバイトを頼みに行っていたんだ。大学へも様子を見に行ったけどね」
マモルはジャンパーを脱ぎながらそう答えた。
嘘ではない。その日、マモルは確かにチェさんのところへ行った。ただし大学の図書館へ潜り込むよりずっと前の昼どきのことだ。
在日韓国人のチェさんはこの町で段ボールの製造工場をやっている。二人が住んでいるアパートから徒歩で十五分ほどの淀川の堤防下にその工場はあった。マモルは二年ほど前にアルバイトの募集広告を通じてチェさんと知り合ったのだが、二人は年齢では親子ほどの開きがあるうえ、趣味や好みなど何ひとつとして話が通じる点がないというのに、どういうわけか最初からひどくウマがあった。そのチェさんはマモルが頼み込めばいつだってアルバイトをさせてくれたのだ。
「あら、そう。チェさんの軽トラックとは昨日も会社の帰りに国道ですれ違ったわ。あの人ったらハンドルから両手を離してわたしに手を振るのよ。あぶなくって」
「ふぅーん。彼、そんなことは言ってなかったなあ」
「またお世話になるの」
「うん。そうしようと思っている」
マモルはそう答えながら電気コタツを見おろした。
いつだったかヒロミが駅前にある雑貨店のバーゲンセールで買った二枚きりの洋皿には太巻とにぎり寿司が並んでいた。
「ごめんね、帰りが遅くなっちゃって。仕事のきりが悪いから二時間ほど残業してくれないかって、工場の主任さんから頼まれたものだから。きょうはお給料日だからもっと早く帰りたかったんだけど・・。だから夕食もこんなのになっちゃった」
ヒロミはなぜか少し口ごもりながらそんな言い訳をした。
「すごいじゃないか。にぎり寿司なんてひさしぶりだね」
ひどい空腹を感じていたマモルは感激してそのまま座り込もうと中腰になりかけた。だが途中で親に叱られた子どものようにぺろりと舌を出すと、踵を返してコンクリートの流し台へかけ寄り、石鹸を手と顔に擦り込んでごしごしと洗いはじめた。冬の水道水は肌を刺すように冷たい。
ヒロミはその横で知らんぷりをして沸き上がった湯を薬缶から急須に注いでいる。
外出から帰ったときや食事の前にはかならず手と顔を洗い、うがいを励行するという子どもですら嫌がるような規則をこしらえたのは、ほかでもないヒロミなのだ。ただずっと続けてみるとこの規則もそれほど悪くない、とマモルは近ごろ思うようになっている。ともかくモヤッていた頭の中がすっきりするし、冷たい水で脳みそが刺激されて食欲がぐんとわいてくるのだ。
「さて何から食べようかな」
食卓へ戻ったマモルはコタツに足を入れて舌なめずりをした。
朝食のときに残った味噌汁をガステーブルで温めていたヒロミが、木製のお椀を一つだけ捧げてやっと対面の席に腰をおろすと、お預けをくっていた犬のようにマモルは寿司へ手を伸ばした。ヒロミはそんなマモルを凝っとみつめている。
「マモルはあれからにぎり寿司が好きになったのね」
手づかみでにぎり寿司をいくつか食べ終えたころ、ヒロミがぽつんとつぶやいた。
マモルは次の一つをまた口に運びながら満足そうに答えた。
「そうだね。海辺で育ったヒロミと違って、ぼくは大阪の生まれでもかなり山の中だったからね。小さい頃は魚といえば干物か塩鯖くらいなもので、美味しくはなかったし、すっかり辟易していたから、これまで魚料理と聞くと端から敬遠してきた。でもヒロミと行った出雲で漁れたての魚の刺身をこわごわ食べてから、こんなに魚って美味しかったんだと見なおしてしまったんだよ」
「わたしは大阪へ来てからお魚が食べられなくなったわ。マモルとは反対ね」
「何といっても栄螺のお造りがすごかった。つぼ焼きくらいは食べたことがあったけれど、生のまま食べるなんて初めてだったものなあ」
「わたしはこちらのお好み焼きに感動しちゃったな。お値段が安いってこともあるけど、出雲から出てきたころ、外で食べるものと言えばそればかりだったわ」
湯飲みを口もとに運びながらヒロミがいった。
マモルはそのときようやく、ヒロミが寿司にまったく手をつけていないことに気づいた。そういえば味噌汁の椀も一つだけでヒロミの分がない。
「何か食べてきたの?」
そうマモルが訊ねると、ヒロミは小さくかぶりを振ってそれを否定し、またお茶を少し飲んだ。
「今日はあまり食欲がないの。なぜだか分からないんだけれど」
「体調が良くないのなら生ものは食あたりするといけないけれど、太巻きくらいは食べられるんじゃないの」
「うん、もう少しあとでね。でもわたしは一切れか二切れでいいから、あとはみんなマモルが食べちゃってくれないかな」
「変だな」
「変じゃないわ、べつに」
「残業で疲れたのかな」
「そうかもしれない」
「そういえばあまり顔色がよくないよ」
ヒロミはこれまで一度も化粧をしたことがなかった。と言うより化粧品会社に勤めていながら肌クリームだけで口紅すら持っていなかった。だからいつも素肌のままなので顔色の変化がすぐに読み取れるのだ。その顔色が確かに今日はひどく沈んでいる。からだも何となく気怠るそうだ。寿司を頬ばり続けている鈍感なマモルにもそれくらいのことは分かるのだった。
「じゃあ今夜は銭湯へ行くのはやめにして早く寝ようよ。外はすごく寒そうだし」
「それはダメ。別に病気じゃないんだし、お風呂へは行くわ。マモルが行きたくないもんだからそんなことを言うんでしょ」
むりやり元気を取り戻したような声でヒロミがそう答えた。
そのとき、別に病気じゃないんだし、というヒロミの言い回しが何となくひっかかったが、銭湯へ行きたくないという本心を見抜かれたことで、マモルはあわてた。
どんな日も入浴は欠かさない、というのもヒロミの生活信条の一つなのだった。
「ヒロミにはかなわないな」
「ほら、やっぱり図星だったんだ」
「そうだよ。その通りだよ。行くよ、行けばいいんだろ」
マモルは閉口してそういった。その言い方にべつだんの棘はなかったはずだが、ヒロミはまたしても元気なく黙り込んでしまった。
それが気になったマモルは無駄なフォローをした。
「そんなに怒らないでくれよ。何でもヒロミの言う通りにするからさ」
さすがに寿司へ伸ばす手を休めてマモルは下からそっとヒロミの顔を窺った。だが覗き込まれたヒロミはその視線から逃げるように顔を背けると、そろそろと上体を捩ってコンクリートの流し台を見ながらいった。
「ねえ、マモル・・」
またヒロミの口癖が出た。彦根のことがあっただけにマモルは身構えてしまう。
「ねえ、マモル。わたしとの生活、ほんとうは窮屈なんじゃない」
「そんなこと無いよ。どうしてさ」
「なんとなくそう感じるの」
「大阪の端っこで生まれたぼくは、交通が不便だったので高校へ入学した時から親元を離れて一人暮しだったから、どうしても生活が自堕落になってしまっている。でもそのままでいいとは思っちゃいない。だからヒロミのきちんとした性格でそんなぼくをどしどし変えてくれたらいいんだよ」
「わたしにはマモルが必死で合わせてくれているのが分かるの。最初はそれが嬉しかったけれど、だんだんマモルが可哀そうだなって思うようになってきた」
「ぼくだってほんとうに嫌なことならやらないよ。自堕落さがすっかりからだに染みついているから、正直いうと、ときどき面倒に思うことはあるけれどね」
「そう思ったら無理に合わせようとしないでね。わたし怒ったりしないから」
「分かった。これからはそうするよ」
マモルは海苔の切れ端が貼りついた指先をみつめながらそう答えた。
「わたしと一緒に住むようになってからマモルはずいぶん変わったんじゃないかと思うわ。それで良かったのかなって考えると不安になってしまうの」
ヒロミはそういうとまたコンクリートの流し台のほうを振り返った。
「良かったのさ、もちろん。だってヒロミと暮らすようになってから、大学を卒業しようという意欲がまた湧いてきたんだから。それまでのぼくは、仲間たちがみんなそう考えているように、いまや企業の労働力供給機関に成り下がっている大学なんか卒業しなくてもよいし、就職なんかするものか、と考えていた。だけど中学校を出ただけなのに、一人でちゃんと生きているヒロミを見て、自分が恥ずかしくなった。こんなことをしている場合じゃないと思った。ぼくたちが自ら追い込んでしまった大学閉鎖だけど、今では一日も早くこの闘争が終わってほしいと願っているんだ」
「わたしにはマモルたちの世界のことは分からない。同じようにわたしの世界にもマモルには分からない部分があるのよ」
「なら分かり合えるようにお互いが努力すればいいじゃないか」
「そんなの無理よ。それに分かり合ったから良いというものでもないし」
ヒロミは珍しく突き放すようにきっぱりとそう言い切った。
そしてコタツの中へ両手をさし入れると寒そうに背中をまるめた。すると水色のヘアバンドからこぼれた長い髪が卵型の顔に艶めかしい縞模様をつくった。小づくりだがはっきりしたヒロミの目鼻立ちは、とりたてて特徴が無いままによくまとまっている。その顔から稚さが抜け去る頃にはきっと美人になるに違いない、とマモルは冷めかけた味噌汁を啜りながら暢気にヒロミをみつめ続けていた。だからこの時もまたマモルは、男女の相互理解の必要性をきっぱりと否定したり、急に寒がりになったヒロミの変わりように気がつかなかった。
マモルの視線を避けるようにまたふっと横を向いたヒロミの目が、さっきマモルが仰向けになって眺めたあと放り出したままになっていた画集にとまった。
「あらエルンストの画集じゃない。あのときの話を覚えていてくれただけじゃなく、ほんとうに借りてきてくれたのね。ありがとうマモル」
そういってヒロミはからだをゆっくり斜めに倒すと画集を拾いあげた。
それはからだのどこかを庇ってでもいるようなぎこちない動作だった。マモルはちょっとした違和感を持ったが、それも一瞬のことで、さかんに喜んでいるヒロミに向かって誇らしげにいった。
「図書館はまだましなほうでね、あとはひどい状態だったよ。廊下や教室の窓ガラスなんかまともなものは一枚もないし、大学名物のポプラの木が何本も切り倒されていたりしてね。あちこちに無残な姿で転がっているんだ。校舎への入り口はどこも過激派が持ち出した机や椅子やロッカーで完全に封鎖されていたよ」
「そんなところに行って危険じゃなかったの」
「そりゃ危ないさ、とくにぼくたちは・・」
そういいかけてからマモルはあわてて言葉を呑み込んだ。
「嬉しい、すごく嬉しい」
エルンストの画集を胸に抱き締めて、ヒロミは、嬉しい、を連発した。
子供のように喜んでいるヒロミの姿を見て、ほんとうは怖かったのだけれど勇気をふりしぼって構内へ潜り込んだだけの価値はあったと、マモルのほうも芯から嬉しくなってくる。
「あとで一緒に見ようね」
「さっきちょっと見たけどあまり好きじゃないな、そういう絵は」
「そんなこと言わないでお願いだから一緒に見てよ。あとでわたしが思いっきりサービスしてあげるから」
「おかしな取引だな。きょうは残業で疲れているんだろう。それにそろそろ危険日じゃないのか」
「だいじょうぶ」
「どうしてそんなこと言えるのさ」
「本人がはっきりそう言っているんだから信用しなさいよ」
「それはまあそうだけど」
やっと頬に赤みがさしてきたヒロミは太巻に手を伸ばして一切れだけ口に入れた。
「お風呂へ行くのはやっぱりいや?」
「ううん、行きたくなった」
「現金ね、マモルは」
そういってヒロミは笑った。帰宅してから初めて見る笑顔だった。
食べ残した寿司と洋皿を片づけながら、ヒロミは低い声で歌を口ずさみはじめた。
√カラスなぜ鳴くのカラスは山に
かわいい七つの子があるからよ・・
ヒロミが煎れ直してくれたお茶を飲みながらぼんやりその歌を聞いていると、まだ記憶も新しい出雲の立久恵峡の風景がマモルの脳裏によみがえってきた。
あのとき、日御埼や出雲大社を訪れたあとで、二人は大社湾へ注ぐ神戸川の上流にあるその景勝地に立ち寄った。川の両岸にえんえんと連なる高い岩壁は、風化と水食でさまざまに造形された奇岩怪石でいろどられて、山陰の耶馬渓と呼ばれるほどみごとな峡谷美を生み出していた。日がな野鳥の声が木霊している立久恵峡は、むかしは修験道の行場だったり、真言宗の七堂伽藍があったりしたようだ。その名残りなのだろう。岩壁の一部に抱かれるように立ち並んでいた五百羅漢の姿は、息を呑むような感動とともにマモルの目にいまも深く焼きついている。
「羅漢さまの中には必ず現世の知り合いや亡くなった人の顔があるのよ」
岩壁の前に佇んだヒロミはそういったあと、見上げたり見おろしたりしながら一つ一つ丹念に羅漢の顔を改めはじめた。そしてようやくその中に西方浄土へ赴いた父親の顔をみつけたのか、長いあいだその羅漢に向かって手を合わせていた。そのあとでいきなりこの歌を歌い出したのである。
√カラスなぜ鳴くの・・・
乾いたヒロミの声は静かな峡谷に反響して谺した。
自然にできた岩棚や奥行きのある窪みに無数の群れをつくっている羅漢たちは、あたかもヒロミの歌声に耳を傾けているかのように優しげな表情で二人を見おろしていた。だからマモルは、この歌はきっと幼くして死別した父と娘を結ぶ想い出の歌であり、最愛の父へ捧げる祈りの一つなのだろうと思ったのだ。
ヒロミはいまコンクリートの流し台に向かって、手のひらが痺れるような冷たい水道水を浴びながら洗い物をしている。ヒロミはまたあの時と同じように父親の優作を思い出しているのだろうか。それともこの歌は、いまや父親に代わる愛の対象となった自分に対して捧げられているのだろうか、と残りのお茶を少しずつ啜りながらマモルは考え続けた。
だがなぜかマモルにはそのどちらでもないような気がしてならないのだ。
マモルは暖かいコタツから重い腰を上げると、部屋の中をうろうろして銭湯へ出かける準備をはじめた。冷えたジャンパーにふたたび腕を通すと、それでも気分がきりっと引き締まって、マモルの中の怠惰な部分が逃げ去っていくのがわかる。狭い玄関の三和土の上でサンダルを突っかけて待っていると、ヒロミはいつものようにぐるりと部屋の中を見まわしたあと、傘電灯を点けたままにして、洗面具や着替えの下着が入った布の手提げ袋ごとぶつかるようにマモルに抱きついてきた。
よろめいたマモルの足もとでお揃いのズック靴が裏返しになった。
「なぜか自分がばらばらにされたような気持になるね。それに心のどこかに潜んでいる不安がどんどんかきたてられるような気がする」
最後の一本になったタバコを惜しそうに揉み消しながらマモルがいった。
二人は布団の上に腹ばいになってエルンストの画集に見入っている。いつも待たされてばかりなのに、銭湯の暖簾をくぐって外の通りへ出てみると、ヒロミは街灯が途切れた薄暗い電柱の陰でもう待っていた。だからマモルのからだはゆったりと浸かった湯のぬくもりをほとんど逃さずにふとんの中まで持ち込んでいる。
「夢だわ。わたしの見る夢とそっくり」
『水没』という画題のついた絵を見て、ヒロミが深いため息をついた。
「ヒロミはこんな夢をみているの」
ため息につられてマモルはその絵を改めて覗き込んだ。
画面は夜だ。校舎のような建物で囲まれた空間にプールのような方形の水溜まりがある。波立ちも無く静かな水面。画の右寄りには水着姿の女の下半身が両足を揃えて逆立ちになっており、上半身は完全に水没している。水面の真ん中には満月のような白い影が映じており、上寄りの黒い雲が数条たなびく空には時計の針が四時四十分を指して浮かび、下寄りの飛込み台のようなところには手の無い棒状の男がこちらを向いて突っ立っている。女が水没していることに気づいているのかいないのか、棒男は彼女に背を向けて左前方からくる明かりのほうへ視線を向けている。影だけが正確に右後方へ伸びていた。エルンストの『水没』はそんな絵だった。
「どの絵もわたしの夢に出てくるシーンと似ているけれど、この絵なんかはほんとうにそっくり。何度も見た夢だからよく覚えているの」
「それならヒロミはどこかでこの絵を見たことがあるんじゃないの」
「恥ずかしいけれどエルンストだけじゃなくて画集なんかを見るのは初めてだし、展覧会なんかへも一度も行ったことがないの。だからこれまでにこんな絵を見る機会なんて無かったわ」
「それなら不思議だね」
「そうね」
なおも熱心に見入っているヒロミの横顔を頬杖をつきながら眺めているうちに、銭湯から持ち帰った心地よいぬくもりがマモルの瞼を重くしはじめた。
まどろみの中でマモルもまた夢をみた。
だがマモルが見る夢はいつもヘルメットを被った学生に追いまくられる夢だった。
マモルは逃げる。負傷でもしているのか重い足を引きずって死にもの狂いで逃げる。そして何かに躓いて無様に転がったマモルの下半身へ、ロッカーのようなものが倒れかかってきて身動きができなくなる。それでも何とかそれを撥ね退け、擦り抜けようともがくマモルに、追いすがった学生が手に持った角材を振りおろす・・・。
「ごめんね、マモル。ごめんね」
布団の中から聞こえてきたヒロミの声で、マモルは恐怖の極致にあった夢から解放され、同時に浅いまどろみからもしっかりと目覚めた。気がつくと、マモルの腹の上にいつのまにかもぐり込んだヒロミの頭部があって、これまでのような熱い手がマモルの下半身をまさぐっていた。
3
その日、マモルはアパートの左端の部屋で仲間たちと久しぶりの会合を持った。
グループの行動方針会議は昼過ぎから始まったが、激しい議論を重ねれば重ねるほど、ますます混迷の度合を深めていくばかりだった。
大学の民主化という所期の目的を忘れてセクト間の内紛に明け暮れている闘争の現状や、日に日に暴力化していき交渉の場を持つことすら拒否している過激派のあり方に対しては、グループの誰もが反対の意志を表明した。だが、それらの問題をどのような方法で解決すればよいのかとなると様々に意見が岐れて、糸口すら見出せない無力感に襲われてしまうのだった。
ただ我々がやらなくて誰が大学の現状を救えるのかという悲壮な使命感だけが、えんえんと続く出口も糸口も無い議論を支えていた。ともかく何とか過激派を排除して大学当局との団交の場を実現すること、そのためにはこれまで敵と見做してきた警察力に頼ることすらも辞さないという結論に達したとき、マモルたちは結論が出たという安堵感よりむしろ強い挫折感のほうを感じた。こんな妥協にしか辿り着けない状況に追い込んだのは他でもない自分たちだったからだ。
夕刻になって集会は終わった。
集まっていた十数名の仲間たちは、一人、二人、と目立たないようにアパートを出て行く。マモルとリーダーの二人は全員の姿が見えなくなるのを見届けてから、手早く部屋に施錠してアパートの階段を降りた。外はもう薄暗くなっていて、腕時計を見ると午後五時を少し過ぎていた。そろそろヒロミが化粧品工場から戻ってくる時刻だったが、それまでに集会が終わってくれたというほっとした気分も手伝って、マモルは最寄りの私鉄駅までリーダーを送っていくことにした。ゆっくり歩いても十分とはかからない距離に駅はある。
出した結論が誰にとっても虚しいものだっただけに、心の底には切ない澱のようなものが溜まっている。二人は住宅地や商店街を黙りこくったまま歩き続け、駅に着くとそのまま言葉も交わさずに改札口で手を振って別れた。リーダーはホームの陰に消えるまで一度もマモルのほうを振り返らなかった。その寂しげだった後姿をマモルはいまだに忘れることができないでいる。
マモルは駅の売店に立ち寄ってしばらく週刊誌を拾い読みしたあと、ポケットの小銭を数えてタバコと使い捨てライターを買った。そして苛々した気分を鎮めるようにタバコの封を切ると、ホームへ入線してくる耳障りな電車のブレーキ音を背中で受けとめながら、引き出した一本に火を点けて深々と煙を吸い込んだ。
久しぶりに肺の奥まで沁み込んだタバコは、あまりに刺激が強くてマモルの意識を一瞬くらくらと遠のかせた。しかし駅前を西に伸びている商店街の向こうから、いきなり耳へ飛び込んできた救急車のサイレン音で、朦朧としていたマモルの意識はたちまち覚醒した。すると、なぜかマモルの脳裏にエルンストの絵が次々と浮かんだあとで、わけの分からない不安が襲ってきた。マモルはその不安に追い立てられるように吸いかけのタバコを投げ出して走り出していた。
マモルの不安は的中した。
出かける前は誰もいなかったアパートの前に数えきれないくらいの人が集まっており、二階のほうを指さしながら何やら囁き合っていた。いま到着したばかりだと思われるパトカーが薄暗がりの中で血の色をした回転灯をせわしげに回している。
マモルは群集の何人かを突き飛ばしながらアパートの中へ駆け込んだ。
「あんた、あんた、どこへ行ってはったんや。えらいことでっせ。あんたとこのお客さんがな、いまさっき階段から転げ落ちはったんや」
目ざとくマモルの姿を見つけた管理人のおばさんがそう叫びながら走り寄ってきた。おばさんが言う〈お客さん〉がヒロミを指していることは明らかだった。
「いったい何が起こったのですか」
そう訊ねるマモルの声は震えている。
「わてにも何が何だかさっぱり分からへんのやけど、幌のついた小型トラックで乗りつけてきた五・六人の若いもんが、いきなりアパートの二階へ駆けあがって行ったと思うたら、ほら、あの左端の部屋のドアを蹴破って目茶苦茶にしていきよったんや。たまたま住人が留守やったんは不幸中の幸いやったけど、ほんの五分間くらいのことで、わてが警察を呼んだころにはとっくに逃げてしもうてたわ」
「それでヒロミはなぜ階段から・・」
「あんたとこのお客さんがどっかから帰ってきて階段を上がりはるのと、あいつらがパトカーのサイレン音に気がついて慌てて逃げ去るのと、まあ運が悪いことにもろにぶつかってしもうてな。そのうちの一人にでも突き飛ばされたんか、振り回してた鉄パイプに足もとでも掬われはったんか、そこはわてにもよう見えんかったんやけど、これまた運悪く階段を上がりきる寸前に倒されて、そのまま下まで転げ落ちはったんや。悪いけど助けに行く間なんか無かった・・」
「それでヒロミはいまどこにいるんですか」
さらに長々と解説を続けそうなおばさんの両肩を掴んでマモルは急き立てた。
「失神してはった上に脚から血を流したはりましたからなあ。警察が来てからわてがすぐに救急車を呼びましたんや。いまさっき乗せて出て行ったばかりですわ。行先を訊ねたら、たぶんK病院へ担ぎ込むことになるやろ、と消防士はんが言うてはったさかい、あんたも早う行ったり」
「おばさん、ありがとう」
その言葉を言い切らないうちにマモルは走り出していた。
アパートの前の群衆を再びかき分けて、K病院までの近道になる暗い路地へ駈け込むと、不覚にもどっと涙があふれてきた。
角材や鉄パイプを片手に迫ってくるヘルメット姿の学生たち。怯えたように立ち竦んだところを突き飛ばされ、無惨にも階段を転げ落ちていくヒロミの小さなからだ。マモルがこれまで幾度となく夢にみてきた光景と同じようなことが、マモルにではなくまさかヒロミの身に起こるなんて想像もできなかった。これはきっと匿しごとをしていた自分に罰があたったのだ。湧き上がってくる後悔の念とヒロミへの謝罪の思いがやむことなくマモルの胸を締めつけた。
「ごめんよ、ヒロミ。許してくれ、ヒロミ・・・」
病院への道を走り続けながらマモルは呆けたように何度もその言葉を繰り返した。
「きみが決めなくてこのさい誰が決めるというのかね」
当直医が大きな声で叱りつけた。カンファレンス室で説明を受けたばかりのマモルの頭の中は混乱しきっていた。
「どうしても助けられないのですか」
「くどいね、きみも。ぼくに何度おなじことを言わせるんだ。それはぼくだって助けられるものなら、どんなことをしてでも助けたいよ」
命に別状はなかったが、ヒロミは救急用の堅いベッドの上でいまも昏々と眠っている。だが、そのヒロミが妊娠している、とマモルをこの室に呼んだ当直医は告げたのである。マモルは余りのことに茫然とした。それだけではない。階段から転落した際に受けた打撲と衝撃でヒロミは下血していま流産の寸前にあり、胎児はまず助からないだけでなくこのまま放置すれば母体にまで重大な危険が及ぶ、というのが当直医の下した診断だった。そして当直医は駆けつけてきたばかりのマモルに対して人工流産の早期承諾を求めてきたのだった。
「聞けば結婚していなくてもきみたちは実質的に夫婦のようだし、きみはこの子の父親であることをはっきり認めている。また妊婦のお母さんは遠方に住んでおられて今すぐには連絡がつかないという。まして妊婦本人はいま判断能力など到底持てない状態にあるんだよ。だから同棲者であるきみにはこの場で決断すべき義務と責任がある、とぼくは言っているんだ」
当直医はやや声を落としてまた同じ言葉を繰り返した。
決して悪い医者だとは思わないが、うんざりした表情にはやはり職業的な冷たさが垣い間みえる。それが一縷の望みまでをずたずたにしてしまい、マモルはついに搾り出すような声で答えてしまった。
「分かりました。承諾します。だからヒロミだけはきっと助けて下さい」
「いまならそれは約束できる」
きっぱりとそう応えた当直医はほっとして立ちあがった。
当直医はすぐさま看護婦(士)を呼んでてきぱきと指示を飛ばしはじめた。治療方針が決まればマニュアルは動き出す。マニュアルが動き出せば患者の家族はその埒外へと追いやられてしまう。すでにマモルの居場所はどこにも無かった。
術後に聞かされたヒロミの病状は、外傷は軽微で打撲も腰を強打した程度だったから、流産の処置が終わればたぶん数日後には退院できるだろうということだった。しかし意識が戻ってから流産の事実を知らされたヒロミは、その後のすべての治療を拒んで泣き続け、いますぐ自殺しかねないほどの錯乱状態に陥った。そのためにマモルは病院へ頼み込んで個室の手配をしてもらい、夜も昼も付き添ってヒロミから目を離さないようにしなければならなかった。思いも寄らなかった事故とはいえ、その遠因はマモルが作ったのだ。どんなに謝っても赦されるものではなかったが、マモルにはヒロミの傍で手を握り続けることでしか贖罪の方法が無かった。
五日後に、マモルはヒロミの担当医師から呼び出しを受けて、流産後の経過と外傷や打撲の治癒は至って順調であること、したがってこのまま入院を続ける必要性はすでに無くなっていること、などを聞かされた。
ただ担当医師の説明はそれだけでは終わらなかった。
「転落事故が直接の原因と考えられるものはいまご説明したような経過なんですがね。ただ一つだけ気になる症状があるんですよ。あなたも気づいておられると思いますが、患者の精神状態が非常に不安定になっています。それが流産のショックによるものなのか、転落の衝撃によるものか私には判断がつきませんが、ともかく余り良くありません。当病院には精神科が無いのでそれ以上のことは言えませんが、信頼できる専門病院をご紹介しますから、そこへ転院されることをお勧めします」
担当医師は慇懃な口調でそういってからカルテを閉じた。
言われるまでもない、とっくにその覚悟はできているんだ、とマモルは心の中で叫びながら、丸椅子に横座りした担当医師の四角い顔をぐっと見すえた。
「せっかくですがそれはお断わりします。患者はこのままぼくが家に連れて帰ります。ほんとうにお世話になりました」
きっぱりと断ったマモルの迫力に気圧されたのか、所見や指示を無視されたことに自尊心を傷つけられたのか、担当医師はくるりと丸椅子を回してデスクに向き合うと、早くも次の患者のカルテに目を通しながら「分かりました、それではお大事に」と答えたきり二度と振り返らなかった。
マモルはとりあえずヒロミを病院に残したままチェさんのところへ給料の前借りを頼みに行った。チェさんはシャッターを上げると寒風が吹き抜ける工場だというのに、禿げあがった広い額に大きな汗の粒を浮かべながら頻りにプレス機を動かしていた。だがその手を止めてしばらくマモルの話を黙って聞き続けていたチェさんは、いきなり工場の騒音に負けないような大声を張り上げると、それぞれ作業中だった三人の職工へ指示を飛ばした。
「おーい、みんな。今日の仕事はもう終わりや。帰ってもええで」
まだ昼過ぎだったから職工たちは怪訝な顔で二人を見ながら帰っていった。
チェさんはそれを待っていたようにプレス機のスイッチを切った。すべての機械が止まっていきなり静かになった工場の段ボールの山へ二人並んで腰をおろすと、マモルはこの五日間の出来事をもう一度整理してチェさんへ詳しく話して聞かせた。チェさんはいつものように、そのあいだ一言も口を挟むことなく、ただ黙ってマモルの話を聞くだけだった。
そしてマモルが話し終えると、節くれだったごつい指をこれから殴り合いでも始めるかのようにぽきぽきと折りながら、ぼそっとつぶやいた。
「歳は離れているけどわしらは友達や。よう来てくれたなあ。ほんまに嬉しいよ」
だがそういったチェさんの顔は少しも嬉しそうではなかった。
マモルより何倍も悲しそうな目をして、すでに関節の音がしなくなった指をひたすら折り続けながら言葉を継いだ。
「ヒロミちゃんは確か出雲の生まれやと言うてたな。出雲はわしらが生まれた国にいちばん近い。そやから前から親戚みたいな気がしてたんや。いやいや、こんなことを言うたら怒り出す人もおるけどなあ」
「出雲と朝鮮半島は陸続きみたいなものですものね」
「そうや。出雲だけやないで。日本と朝鮮は近くて遠い国と言うんかな。わしがいまここで段ボール工場をやってるみたいに、昔からいろいろあったんよ」
チェさんは、昔からいろいろあったんよ、という部分に深い思い入れを込めていったけれど、そこであっさりとその話を打ち切った。
そして休憩所を兼ねた小さな事務所へマモルを連れていくと、ペンキの剥げた手提げ金庫からくしゃくしゃになった千円札の束を取り出して、数えもしないで手渡してくれた。守はそのお金でヒロミの退院手続きをした。
ヒロミは会社の健保組合に加入していたから心配していたほどの費用はかからなかった。残ったお金で療養をかねてどこか温泉へでも連れていってやろう、とマモルは思った。大学紛争のことや仲間たちのこと、また卒業のことすらもすでに頭の中には無かった。だからようやく事件を知って駆けつけてくれたリーダーからカンパの申し入れを受けても、それを頑なに辞退すると、マモルは荷台に座布団をくくりつけただけの自転車へヒロミを乗せて二人きりでアパートの部屋へ帰った。
住み慣れた部屋に戻ったからか、懐かしい布団の匂いに触れたからなのか、ヒロミはそれから安心したように何時間も眠り続けた。マモルも五日間の看病でたまった睡眠不足と疲労が一気に襲ってきて、ヒロミと暮らすようになってから一度も使ったことがない煎餅布団を押入れから引きずり出すと、ヒロミが眠っている布団に重なるくらいぴったりと敷き詰めて、着替えもしないままその中へもぐりこんだ。
暖まった布団の中にやがて異様な臭気が漂ってきた。長いあいだ使わなかった煎餅布団のかび臭さと、五日間も風呂に入っていない自分の体臭で息苦しくなりながら、それでもマモルは睡魔には勝てずに眠りの中へ落ちていった。
そしてマモルはまた夢を見た。
だが今度の夢は過激派に追いかけられる夢ではない。
マモルは夢の中で朝靄がかかった河原を歩いていた。足もとには角のとれた大小の丸い石が無数にころがり、流れが早くて流量も多い川水が水面に突き出た岩を咬んでいる。遥か上流には中国の桂林を描いた墨絵のような山々が雨に煙ったようにぼんやり浮かんでいる。重い足を引きずりながら歩き続けていると、いきなり河原の幅が狭くなって、頭の上から覆い被さってくるような高い断崖に行きあたった。断崖の正面下半分には暗い洞穴が大きな口を開いており、変わらず奔騰し続けている川水はその中へ吸い込まれるように伸びている。
マモルは端から引き返すという選択肢を奪われた木偶のように洞穴の中へふらふらと迷い込んでいった。やがて洞穴の暗さに目が慣れてくると、さっき見た桂林の風景をごく小さくしたようなシルエットが、狭い河原にぼんやりと浮かび上がった。よく見るとそれらは大小の石を積み上げた塔である。林立する石の塔の合間を縫いながらマモルはさらに川の流れを奥へと遡った。しかし踏み外した小石の一つに足を掬われてしまい、よろめきながら宙を空しく掻いた手が堪えきれずに石の塔の尖端を払う格好になった。すると他愛もなくその塔は崩れて、転がり落ちた大小の石が、カラカラカラン、と乾いた音を洞内に響かせた。
その音に驚いてマモルは夢から醒めた。
脳髄に鉛を埋め込まれたように、頭が重く、ずきずきと痛んだ。からだは熱っぽくて、喉はひからびている。そのうえ悪寒と気怠さが全身を包んでいて、しばらく身動きができない。状況が分からないまま煎餅布団を被って凝っとしていると、ふたたび幻聴のように、カラカラカラン、という音が聞こえてきた。そのときマモルはようやくその音の正体に思い当たった。そして金縛り状態だった四肢に力を漲らせて布団を跳ねのけると、自分の推測が正しかったのを見届けようと部屋の一点に目を凝らした。そこにはやはりコンクリートの流し台に向かって、汚れた食器を手にしきりと洗剤を擦り込んでいるヒロミの後ろ姿があった。
「ばかなことをするんじゃないよ、ヒロミ。そんなのはぼくがやるから」
マモルは擦れ声のままでそう叫んでいた。
四肢にはいつもの感覚が戻ってきつつある。しかし起き上がろうとすると、たちまち後頭部に鈍い痛みが走って、思わず顔を顰めてしまった。
「やっと目が覚めたのね。死んでしまったのかと心配したわ」
そういったヒロミは振り返ってマモルを見おろしている。
「ごめんねマモル。わたしのほうこそ心配をかけてしまって。何日も寝ないで看病してくれたんだからすごく疲れたでしょう、いいからもうしばらくそのまま眠っていて。すぐに夕食の支度をするから」
「夕食なんかどうでもいいよ。ヒロミのほうこそまだ寝ていなくちゃ」
「マモルもお医者さんから聞いてくれたでしょ、もう大丈夫だって。もともと病気じゃ無かったんだし、いつまでも寝てなんかいられないわ」
ヒロミがそう答えたとき、工場からの帰りが遅くなり、寿司を買って帰った夜に、病気じゃないんだからお風呂には行くわ、といった言葉の意味がマモルにもようやく理解できた。そしてそのとき男の鈍感さは時に罪深さを伴うのだということを初めて知った。それにしてもヒロミはいつから自分の妊娠を知っていたのだろう。
「ほんとうにいいの」
「うん。もうだいじょうぶ。それは病院で長いこと寝たきりだったから、少しは足もとがふらつくけれど、そのほかはなんでもないから」
「食欲はあるかな」
「ちょっとだけね」
「お風呂は入れるかな」
「入りたい」
「じゃあ、まず銭湯へ行って、それからヒロミの好きなお好み焼きを食べよう」
「そうね、そうしようか」
「白状するとね。ぼくもヒロミが入院していたあいだ一度も銭湯へ行ってないんだ。もう五日にもなるよね。さすがに気持が悪くなってきた」
「わたしもそう。実を言うと真っ先にお風呂へ入りたかったの」
二人はそういい合って笑った。
それほど以前のことではないはずなのに、こんなふうに笑ったのはいつだったのか。マモルにもヒロミにもしばらく思い出せない。
いつもより多い着替えの衣服が入った袋を抱えて銭湯への夜道を歩く。
アパートを出るとき、部屋の内部をぐるりと見まわしたあと、傘電灯を点けたまま三和土の上で待っているマモルにしがみついてきたヒロミは、これまでと少しも変わらなかったから、だんだん以前と同じ精神状態に戻りつつあったのだと思う。だが転落事故と人工流産という大きな石を投げ込まれたヒロミの心は、ちょうど池面に張った氷にぽっかり空いてしまった丸い穴のように、ようやく水面の波紋が消えてふたたび薄い氷が張りかけた状態にあるのに過ぎないのだということを、マモルはいま誰よりも強く、傷ましく感じている。
「寒くない?」
「うん、寒くない」
その答えとは裏腹にヒロミは寒そうにマモルのほうへからだを擦り寄せてきた。こんなに寒がりではなかったはずなのにとマモルはまた思ってしまう。
「妊娠してるってこと、どうしてぼくに教えなかったの」
マモルがそう訊ねると、ヒロミのからだがぴくっと震えるのが分かった。
だがヒロミは何も答えなかった。
「堕ろせと言うと思ったんだ」
ヒロミはなおも黙りこくっている。
街灯が途絶えると軒灯も消えた暗くて古い家並みが続く。そのうちの一軒の庭先からいきなり黒いかたまりが二人の目の前へ転げ出てきた。全身の毛がささくれだって、毛の色や模様の見分けすらつかないくらい汚れた野良犬だった。しかも左の前脚の半分が千切れて無い。やや遅れて、野良犬を追い払う中年女性の怒声が広い庭園の奥から聞こえてきた。竹箒ででもぶたれたか、下駄ぐらいは投げつけられたのだろう。狼狽して逃げ去る犬は何度か転びながらやっと路地まで辿り着き、そこでようやく体勢を立て直すと、残る三本の脚を器用に使いながらぴょんぴょんと跳ねるように横切っていった。
「可哀そうね」とヒロミがつぶやいた。
「でも生きている」とマモルが答える。
「そうね、生きているものね」そういうなりヒロミからふっと力が脱けた。
だがヒロミは脱けた力を取り戻そうとでもするかのようにすぐに冷たい夜気を胸の中へ吸い込んだ。ヒロミはいま、誰にも分からない、誰も助けることのできない、何ものかと戦っているのだ。ぴったりとからだを密着させているヒロミの胸が、マモルの腕の中で以前よりも固くなり、しかも大きくなったように感じられた。
僅かな期間だったけれどヒロミは確かにあの子の母だったのだ。
「わたし生みたかった」
暗い空を見あげてぽつりとヒロミがいった。
「ぼくだって生んでほしかった」
「マモルはやさしいからきっとそう言うと思った。だから言えなかった」
「分からないな、そんなの」
「分からなくたっていいの。だからといってマモルが嫌いになったりもしない」
「どうするつもりだったの」
「工場で働けなくなったら出雲の母のところへ帰って生むつもりだった」
「どうして出雲へ帰らなければいけないんだ。ぼくのそばでなぜ生めない」
「さっきも言ったでしょう。わたしが妊娠していることを知ったらマモルはきっと大学をやめて働くと言い出すわ。それは厭。なのに、わたしはマモルの赤ちゃんを、いま生みたいと思ったの。そんなこと出来っこないのに、どうしてもあの子が生みたかった。だからわたしが出雲へ帰るのがいちばんいいと」
「ぼくが卒業するまで出雲で待っているつもりだったのか」
「それから先のことは考えなかった」
「どうして」
「考えたって仕方がないもの」
「そんなにぼくのことが信用できないの」
「そうじゃないわ。いまは生んじゃいけないということが分かっていながら、わたしは自分のわがままで生むのよ。だから先のことは考えなかった」
「何もかもぼくが悪いんだ。自分のことだけに精いっぱいで最も大事な事に気づかなかったぼくがいけない。こんなにヒロミが苦しむのはぼくのせいだ」
「違うわ。知り合ってすぐ京都で抱かれたときから、わたしはきっとこの人に捨てられるんだと覚悟していたの。だって大学生と付き合っていた会社の女の子たちはみんなそうだったし、それでも構わないと思っていた。それなのにマモルはこんなわたしをすぐ捨てるどころか、ぼくのアパートで一緒に暮らそう、と言ってくれた。そして一緒に暮らすようになってからは本当にわたしを大切にしてくれた。そのうえ二人の赤ちゃんまで授かったのよ。わたし、どれほど嬉しかったか」
「でもその子はぼくが死なせてしまった」
「あれは避けられない事故だったのよ。マモルのせいなんかじゃないわ」
ほんとうに避けられない事故だったのか。いやそうではないとマモルは思う。だから、これまで以上にあのことはヒロミに隠し続けなくてはならない。
「それにぼくが流産を決めたんだ」
「わたしを助けるにはそうするしか方法がなかったんでしょう」
「医学的に言えばそうかも知れない。けれどもぼくたちの赤ちゃんを、あの子を助けるために、何もしてやれなかった自分が悔しい」
「ありがとう、マモル。あの子はきっとマモルのその言葉に感謝していると思うわ。もちろんわたしもね」
ふわりふわりとタンポポの種子のような雪片が舞いはじめた。
細い路地が終わると、大通りとは名ばかりで雑然と店舗が立ち並ぶだけの、この町いちばんの商店街に出る。だがこの時刻になると、半ば閉じたカーテンの隙間から照明がこぼれる薬屋と、くすんだ赤提灯が風に揺れるお好み焼き屋が開いているだけで、ひっそりと静まり返っている。その薬屋の角を曲がってまた細い路地へ踏み込んだところに通いなれた銭湯がある。紺地に[男][女]と白赤で染め抜いた暖簾がほぼ一週間ぶりの二人には妙になつかしくて新鮮に映った。
マモルとヒロミは暖簾の前でちょっと立ちどまり、頷き合ってから左右に別れた。
4
唇のあたりに異変を感じてマモルは眠りから目覚めた。
冷たい吸盤のようなものが口を塞いでいる。やがて口の中に冷たい液体がぱっと広がった。その液体が気管支に痞えて咳き込みそうになったマモルは、唇を塞いでいるものを振り払おうとして両腕を持ち上げた。しかしからだ全体が緊縛されたように自由がきかない。苛立ちながら重い瞼をひらいてみると、真上から被いかぶさるようにしてあどけなく笑っているヒロミの小さな顔があった。
ヒロミの唇が精液のような白い液体に濡れてつややかに光っている。
「もう起きて、マモル。とっても良いお天気よ」
パジャマ姿のヒロミがそういってガラス窓のほうを指さした。
ガラス窓の向こうに見えるのは相変わらず汚い隣家のモルタル壁だけだったが、わずかな露地の隙間に射し込んでいる陽光は確かに昨日までとは違う輝きに満ちている。長かった冬もそろそろ終わるのだ、と気怠い意識の中でマモルは思った。冬が終わると二人で初めて迎えるヒロミの十八歳の誕生日がやってくる。
「なんだい、これは」
手の甲でくちびるを拭いながらマモルは訊ねた。
「牛乳。ゆうべアルバイトの帰りに牛乳屋さんへ頼んできたって言ってたじゃない。今朝はじめて届いたのよ。配達の人のカタカタというビンの音でわたし目が覚めてしまっちゃった」
なるほどヒロミの左手には汗をかいた白い牛乳ビンが握られていた。
あれからだんだん食が細っていくヒロミのために、昨日、チェさんのダンボール工場でのアルバイトを終えて帰る道すがら、通りかかった牛乳販売店へ今朝からの配達を頼んできたことをマモルはようやく思い出した。すると目覚めたばかりで知覚を失っていた舌の付け根に、じんわりと牛乳の香ばしい味が感じられてきた。
「もうすこし飲まない?」
「いいよ。ヒロミが飲まなくちゃ」
「そうね。マモルからの心のこもったプレゼントだものね」
ヒロミはビンの底を持ちあげて美味しそうに白い牛乳を飲み下した。
そんなヒロミの肉づきが落ちてしまって尖ったように見える顎の線がマモルには気にかかる。ヒロミは入院して三日目に化粧品会社へ当分の間の休職届けを出していた。むろんマモルが代わりに会社へ届けに行ったのだが、几帳面で頑張り屋だった彼女が自らすすんで休職届けを書いたこと自体が、受けた心の傷の深さを伝えていてたまらなく辛かった。
この数日、マモルはまた、必ずしも平静を取り戻したとはいえないヒロミを部屋に残して、チェさんのダンボール工場へアルバイトに行っている。できることならずっと傍にいてやりたかったが、いつ完治するかも分からない病状を考えると、まずは退院の際にチェさんから借りたお金を返済しなければならないし、先々に備えて少しでも貯金をしておこうと決めたからだ。自転車の荷台に乗せてアパートへ戻ったその日にヒロミから預かった郵便貯金通帳には、頑張り屋の上に締まり屋でもある彼女がおよそ三年の間に月々きちんと残してきたお金があった。だがマモルにはとてもそれを使う気になれなかったのである。
だがいまのヒロミにはそんなマモルの考えが理解できない。
自分を捨てて何処かへ行ってしまうとでも思うのだろうか、アルバイトに出かけようとすると不安に怯えていつもマモルを手こずらせるし、部屋に一人きりでいると食事を摂るどころか果物の一切れすら食べようとしないのだ。そのうえ夜になると、とてもセックスなどできるからだではないというのに、どうしていつものようにわたしを抱いてくれないの、といってマモルにしがみつき、その胸を叩いていきなり泣き出したりする。ヒロミがなぜそんな言動をとるのかが痛いほど分かるだけに、ささやかな希みにすら答えてやれない現状が悲しい。
からになった牛乳ビンを両手でパジャマの胸に抱きながらヒロミがいった。
「ねえ、マモル・・。わたしこの何日か同じ夢ばかり見るの」
「ゆうべはどんな夢だった?」
マモルはまだふとんの中で腹ばいになったまま顔だけを出している。ヒロミはそのそばで横座りになって頼りなげにゆらゆら揺れている。
「カガのクケドの夢のようなの」
「カガのクケド。なんだいそれは」
「わたしの生まれた出雲の、大社よりちょっと東寄りの加賀というところにある、日本海に面した断崖にある洞窟の名前なの。クケドというのは潜り戸のことよ」
「どうしてそれが加賀の潜戸だってわかるの」
「行ったこともあるけどわたしの赤ちゃんが教えてくれた」
そういったヒロミの目がふっと宙に浮いた。日を追うごとにその回数が多くなっていく。
「日本海へ向かって切り立った断崖にね、ぽっかりと空いた大きな洞穴があるの。それが加賀の潜戸。その中へ入るとね、石を積んだ塔がたくさんあって、お地蔵さまがいらっしゃる賽の河原があるのよ。そこは亡くなった子供たちが行くところなんだって。だから潜戸の中はいつも子供たちの霊でいっぱいなの」
ヒロミはまるで「七つの子」を歌うようにそういった。
「ふぅん。ぼくも賽の河原と呼ばれるところが日本のあちこちに在るという話は聞いたことがあるよ」
マモルは汗ばむほど暖かい布団の中からヒロミを見あげて応えた。だがどこか遠くを見ているヒロミはその声が耳に入らないのか無心に話し続ける。
「だから加賀の潜戸は、亡くした子供の霊を供養するためにその親たちが集まるところでもあるんだって、いつだったか大社の母が教えてくれたことがあるの。わたしには三つ歳上の兄がいたらしいのよね。でも生れつき心臓が悪くてたった二歳にもならないうちに死んじゃったんだって。だから母はその兄に会いたくて加賀の潜戸へよくお参りに行ったわ。わたしを連れていってくれたのは二回きりだったけどね。そういう哀しい親たちが、子供の代わりに積んでやった河原の石と玩具や絵本や菓子などのお供え物が、薄暗い洞窟にいっぱい並んでいたのを、わたし、今でもはっきり覚えている。これは昔からの言い伝えなんだけど、子供たちが夜通し遊んだあとなのかしら、海からお陽さまが昇ってくるころに潜戸の中へ入ると、賽の河原には小さな足跡がいっぱい残っていると言われているの。その加賀の潜戸にわたしたちの赤ちゃんがいて、会いに来て、ってしきりに訴えていたのよ」
「そうか。ぼくたちの子はそんなところにいるのか」
マモルは少しも驚かなかった。むしろ真剣にヒロミの夢を分析していた。
最近のヒロミが見る夢はすべて生んでやれなかった顔もない赤ん坊のことに収斂している。だからその夢の意味するところの一つ一つを突きつめていけば、必ずやヒロミを救い出すための手がかりになるはずだ、とマモルは固く信じているのだった。
「それならすぐ会いに行こうよ、その加賀の潜戸まで。あの子はきっとぼくたちが来るのを待っている。だからヒロミの夢に出てきたんだよ」
ヒロミが見た風景とは少し異なるけれど、マモルも以前に同じような夢を見ている。できるならそのことを教えてやりたかった。しかし今はあの子をヒロミだけに独占させてやるのだ、と決心してマモルはそれを諦めた。
「えっ、ほんとうに連れて行ってくれるの? でもアルバイトはどうするの」
宙をみつめていた瞳がマモルの口もとに縋るようにからみついた。
ヒロミの瞳は打って変わって薄膜をはがしたように輝きを増している。思いもかけずささやかな希みが叶うことになってよほど嬉しかったのだろう。だがマモルには、わが子のことだけに収斂されているはずの意識の片すみで、それでもアルバイトのことを気にしてくれるヒロミがいじらしかった。
「そんなことは心配しなくてもいいよ。いまから電話をかけて二三日休ませてほしいってチェさんに頼んでみるから。だってあの子の居るところが分かったんだろう。これ以上待たせたら可哀そうだ。すぐに支度をして出かけようよ」
「うん。会いたいな、早くあの子に。きっと待っているものね。でも・・」
「どうかしたの」
「わたし、あの子のこと分かるかしら。だって一度も顔を見てないんだもの。マモルは見たんでしょ、あの子の顔を」
「ぼくだって見ていないよ。医者が見せてくれなかった」
「そう、マモルも知らないのか。困ったわね。どうすればいいのかな」
「大丈夫さ。きっとあの子のほうがぼくたちの顔を知っているんだよ。だって夢の中でヒロミに何かを訴えていたんだろう」
「そう。暗い洞窟のお地蔵さまの蔭から、確かに子どもの声がわたしに向かってこう言ったわ。カガのクケドに会いに来て・・って」
「それならあの子は間違いなくヒロミのことを知っている。心配いらないよ」
「そうね、大丈夫だよね」
ヒロミは湧き上りかけた不安からやっと解き放たれて、明確なかたちは持たないけれど踏みしめがいのある足がかりを掴んだようだった。
マモルはそれが空に浮かぶ雲のように危ういものでなく、せめて池に張る分厚い氷のようであってほしいと願った。そして自らの足でその氷の上に立って、ヒロミが確かな意志と希望で救いを求めてきたとき、今度こそマモルはしっかりとヒロミを受けとめてやらなくてはならないと思う。
マモルとヒロミはその夜遅く、出雲行きの急行に乗った。
もっと早く出発したかったのだが、出雲へ夕刻に着く列車では意味がなかったし、何日も宿に泊まるお金の余裕も無かった。ただ退院の時にチェさんから前借りしたお金の残りがあったので、せめてヒロミだけでも寝台を取ってやろうと思ったが、ヒロミが厭だと言い張ったのでそれも節約した。チェさんは、マモルがアルバイトを休む勝手を詫びると、電話の向こうでただ、うん、うん、と応えるだけだった。
京都駅を出発した列車は初めのうちは急行らしい走りをしていたが、深夜に近くなると一人も乗降客の無い駅に何度も停車したり、駅どころか人家の灯りすら見えない山中の暗やみに休止したりして、なかなか寝つけないマモルを苛立たせた。
二人が乗った車両はもともと乗客が少なかった。それでも京都駅を出るときは十数人の客が乗っていたはずだ。ところが綾部の辺りを過ぎた頃に車内を見回してみると、いつのまにか乗客は後方にある隅の座席で眠りこけているくたびれた背広姿の男だけになっていた。先の尖ったエナメル靴を脱ぎ散らかした男の足もとには、読み終えてくしゃくしゃになったスポーツ紙と、食べ終えてこれは几帳面に紐を掛け直した駅弁の包みが、その男の存在を誇示するかのように転がっていた。
マモルとヒロミは進行方向に向かって横並びで座り、対面の空席へ両足を投げ出したまま肩をぴったり寄せ合っている。
スチームのきいた車内は暖かかった。ヒロミは微睡んではまた目を覚ますということの繰り返しで、薄いクッションに布を貼っただけの硬い木製の座席と軌道の歪みから不規則に横揺れする車両のせいもあって、マモルと同様にぐっすりとは寝つけないようだった。入院してから後ろで束ねるようになった長い髪の先を左肩から胸へ流し、やや仰向きかげんに窓枠と座席のあいだに頭をもたせかけている。病院のベッドで意識を取り戻したあと、担当医師から流産の事実を告げられた時のように、すっかり血の気を失って放心したような顔をしていた。そんな顔を見ていると、やはりヒロミにはどれほど厭がっても寝台を取ってやるべきだった、とマモルは今さらながら後悔した。またこれがヒロミを救う最善の方法だと確信したからだとはいうものの、すべてにおいて弱り切っているヒロミをこんな旅行へ連れ出してしまった自分の迂闊さを腹立たしく思わざるをえなかった。
急行はほとんど周囲に灯りが見えない山の中を走り続けている。
だから車窓には、時おり通過する無人駅の僅かな灯りと踏切の赤信号のほかは、いつも二人の姿が映っているだけだ。トンネルを走り抜けるときの轟音だけが単調な夜行にわずかなアクセントをつけている。その轟音に驚いて何度目かの微睡みから目覚めたヒロミは、窓ぎわに置いてあった駅売りのお茶に手を伸ばすとほんの少しだけ口に含んだ。せっかく用意してやった駅弁にも、缶ジュースにも、ヒロミはまったく手をつけていなかった。
「マモルはすこしも眠らないのね」
お茶のフタをくるくると捩って閉じながらヒロミがいった。
「昂奮しているのかな。なんだか目が冴えてしまって睡くならないんだ。ヒロミはそんなこと気にしないでぐっすりお休みよ」
「いまどのあたりなの」
「八鹿を過ぎてかなり経っているから、そろそろ豊岡あたりじゃないかな」
「まだそんなところを走っているの」
「だって松江に着くのは朝だからね、そんなものさ。でも、もうすぐ日本海へ出るはずだよ。もっともこんな暗やみでは何も見えないと思うけど」
「出雲じゃなくて松江で降りるのね」
「うん。潜戸へは松江からバスが出ているって駅員が教えてくれた」
「ふーん、そうなの」
ヒロミは意外な顔をしてマモルを見つめた。
おなじ島根県でもヒロミが生まれた大社と加賀とでは50㎞は離れている。母親に連れられて行ったのが何歳のときで、どんなルートを取ったのかは聞いていなかったが、中学校を終えるまでしか大社にいなかったヒロミが、加賀の潜戸までの交通を覚えていなかったとしても別に不思議ではない。だがほんとうに覚えていないのだろうか、とマモルは考え込んでしまう。もしわざとそういう記憶を消し去っているのだとしたら、また自分でも意識しないままに流産した子供のこと以外のすべてを忘れ去り、思い出すことすら頑なに拒絶しているのだとしたら、ヒロミは今まさしくエルンストの絵にあった水没する女の状態にあると言えるのだ。
マモルは上半身を水中へ没して逆立ち状態にある女の姿を思い出しながら、しばらく我慢していたタバコを胸のポケットから取り出した。
何も見えない車窓を眺めていたヒロミが、紫煙をふかしはじめたマモルの肩へふたたび頭をもたせかけてきた。さらさらする長い髪の毛に包まれたこの小さな頭の中で、ヒロミはいま何と戦い、何に呑み込まれようとしているのだろう、どんなことをしてもそれが知りたい、と思いながらマモルはタバコの苦みを噛みしめた。
眠っているものだと思っていたヒロミが目を閉じたまま語りかけてきた。
「ねえ、マモル・・。何かお話をして」
「お話ってどんな」
「マモルのふるさとの話。そう、前にも話してくれたお地蔵さまの話がいい」
「うーん、あの話か」
ヒロミと知り合った頃、どこかでそんな話をしたように思う。だがあの頃とはまるで状況が違うだけにマモルはあまり気がすすまなかった。
過去の記憶が一つでも甦ってくれたことは嬉しい。しかし、ヒロミがなぜそんな話だけを思い出したのかと考えると素直に喜んでばかりはいられなかった。その話をすることが今よりもっと深くヒロミを水没させることだってありえたからだ。
だがヒロミは早くもあどけない顔をして耳をすませていた。そういう不幸な結果を招かないことを心で念じながらマモルはゆっくりと話し始めた。
「昔々のことだけど、ぼくが生まれた村はどこも貧しかった。重い年貢を取り立てられ、たび重なる旱魃や冷害で村人は餓死寸前の日々を送っていた。そんなある日、通りかかった旅の女が一軒の農家へ物乞いをした。妊っていてお産も近そうなのにまだこれから長い旅を続けるのだという。農家の人は心から同情したけれど、自分たちが食べるものすら無いわけだから他人に恵んでやれるわけがない。だけどその女が哀れでならなかったそうだ」
マモルはそこで一息ついてタバコを揉み消した。
「そのとき、農家の人がふと庭先を見あげると、古い柿の木に実がたった一つ、晩秋の夕陽を浴びて赤く光っている。それだって大切な食糧だけど生まれてくる赤子のことを思うと哀れで、農家の人はそれを竹竿で取って女に与えてやった。すると女は熟れ切った柿の実に頬ずりをして喜び、何度も何度も礼を言うと、振り返りながら峠のほうへ歩いていった。夕陽を受けて旅を続けていく女の背後には重い荷物を引きずるような長い影が伸びていたそうだ」
ヒロミの瞳が生気を取り戻してきらきらと輝きはじめた。ヒロミは話の途中から座席に横座りになってマモルの顔をみつめている。あまりにもはっきりした変わりようにマモルのほうがかえって不安になってしまう。
「村人が行き倒れになっている旅の女を見つけたのは翌日のことだった。隣り村を見おろせる峠の頂きで血の滲むくらい唇を噛みしめた女は、赤い柿の実をしっかりと両手で握っていたそうだ。村人たちは女が行きたかった場所は知らなかったけれど、その辺りではいちばん眺めのよい峠の頂きにねんごろに遺骸を葬ってやった。するとその墓のそばから生え出した柿の木が年を経るごとにどんどん増えて、峠のあちこちで赤い実を熟れさせるようになった。それいらい村はどんなひどい天災に見舞われても、豊かに実ってくれる柿の実のおかげで餓死する者を出さずに済んだそうだ。だから村人たちは女が遺してくれた恩返しに感謝し、ついに目的地へ辿り着けないまま逝った母子の菩提を弔ってやろうと、女の墓の横にお地蔵さまをお祀りするようになった。やさしい顔をしたそのお地蔵さまは、それから柿の木地蔵と呼ばれるようになって、小さな子供を守ってくださる有り難いお地蔵さまになったということだ」
ヒロミはうんうんと頷きながら嬉しそうに聞いていた。そして話が終わると駅売りのお茶をキャップに注いで、お疲れさま、と言うように差し出した。マモルはしゃべり続けてひからびた喉へそのお茶を一気に流し込んだ。
「お地蔵さまはやっぱり子どもを守って下さるのね」
うわずった声でヒロミがつぶやいた。
「そうだよ。お地蔵さまは母親の安産や生まれた子どもの健康を守ってくださるだけじゃない。不幸にして死んでしまった子どもたちにはあの世で親代わりになってくださるんだ」
「あの子も守って下さるかしら」
「もちろんさ。あの子はこの世の空気を一度も吸うことなく、親の顔さえ知らずに逝ってしまった不幸な子だもの。真っ先に守ってくださるよ」
そう答えながら、マモルはようやくヒロミの心の在り処に触れたような気がした。まだそれはほんの一部に過ぎないけれど絶対にこの手がかりを逃がすまいと思う。
「ヒロミは水子地蔵というのを知ってる?」
「よくは知らない」
「水子というのはね、流産や中絶で不幸にも生んでやれなかった赤ん坊のことを言うんだ。母親の胎内で安心しきっている子が、親の身勝手や不注意でこの世に生まれ出ることなく、突然、闇から闇へ葬られてしまうことがある。そんな悲しい水子たちの霊は行くところにも行けずにあの世で彷徨い続けているそうだ」
「やはりそうなんだ。わたしも不注意からあの子を死なせてしまった」
「あんな理不尽な事故や思いもかけなかった不注意は誰にだってあるさ。親の身勝手はいけないけれどね」
「その水子たちをあの世で助けて下さるのが水子地蔵さまなのね」
水面から半ば沈みかかっていたヒロミはマモルの話で浮上のきっかけをえたようだった。マモルは掴んだ手がかりの確かさにいよいよ自信を深めた。
「そうなんだ。ヒロミも言っていたように、お地蔵さまは賽の河原で迷っている子どもたちを救ってくださる。そればかりか賽の河原へすら辿り着けないで冥界を彷徨っている可哀想な水子たちを守ってくださると信じられているんだ」
「ふぅん」
「お地蔵さまはきっと子供が好きなんだよ。いや、もしかするとお地蔵さまにも幼いうちに亡くした子どもがあったのかもしれない」
「加賀の潜戸にもその水子地蔵さまがきっといらっしゃるわね」
「もちろんさ。だってあの子は夢の中でお地蔵さまのかげから、会いにきて、とヒロミに言ったんだろう。そのかたが水子地蔵さまなんだよ」
「良かったわ。あの子にはそんな素晴らしい親代わりがあったなんて」
ヒロミは何かが少しふっきれたようにマモルの手を握った。
亡くした子を思う熱い血の鼓動が二人の間を通い合った。退院のあと真っ先に銭湯へ行ったあの日の夜のように、取り合った手と手が、密着したからだとからだが、やがて男と女の異なる夢と思いを結ぶ絆となっていく。
「ねえ、マモル。一緒に歌をうたおうよ」
「どんな」
「七つの子・・」
「向こうで人が寝ているんだよ。びっくりして起きたりしないかな」
「だいじょうぶだよ。ちいさな声でうたえばいいんだから」
ヒロミはそういうと低い声で勝手に口ずさみはじめた。
マモルの肩にもたせかけているヒロミの柔らかな左の頬が、歌の進行につれて背中に負った赤ん坊の心臓のようにひくひくとうごめいている。
そのときようやくマモルは気がついた。化粧品工場の帰りに寿司を買ってきた夜から、ヒロミはこの歌を父の優作やマモルにではなく、思いがけず授かった最愛の子に聴かせ続けていたのだということに。そしてまたもや自分の鈍感さを呪った。鈍感さは相手を傷つけるだけでなく、しばしば許しがたい罪を犯してしまうのだ。
マモルは歌詞の中ほどから歌のあとを追った。
二人は歌い終えるとしばらく黙りこんだ。そっと目を瞑るとマモルの脳裏に、櫓も櫂も捨て去った小舟に乗って悠々と波間を漂っている優作の姿や、日本と朝鮮のあいだには昔からいろいろあったんよと言って目を伏せたチェさんの顔や、振り向きもしないで駅の改札を抜けていったリーダーの後ろ姿が、次々と浮かんでは消えた。
「ねえ、マモル・・。わたし変わったと思わない」
やがてヒロミは眉間に皺を寄せていった。
眉間の皺よりも微妙な質問だったが、もうマモルは驚いたり迷ったりしなかった。
そのとき夜行列車は、前方に近づいてきた大きな灯りと一人だけの駅員に迎えられて、寒々とした深夜の豊岡駅へすべりこんでいった。
「変わったね、すごく変わった。これまでのヒロミとは別人みたいだ」
きっぱりとそういうと、マモルは危うい試みへと踏み出していった。
「やっぱり。だから怖かったの。きっとマモルはこんなふうに変わったわたしが嫌いになると思ったから」
「ぼくが以前のままだったら嫌いになったかもしれないね。でもヒロミは忘れているよ。ぼくだってヒロミと同じように変わったっていうことを」
「えっ、マモルも変わったの」
「ひどいな。分からない」
「うん、分からない」
「じゃあ、変わるのはやめにしておこうかな」
「あっダメ、駄目。わたし、きっと見つけるからそのままでいて」
「まあいいか。加賀の潜戸でぼくたちの赤ん坊が見つかれば、ヒロミにもぼくのどこが変わったかが分かるはずだから」
そういった後でマモルはしっかりとヒロミのからだを抱きしめた。
長い停車を続けていた夜行列車が豊岡駅を離れていく。速度があがると座席から転げ落ちそうになるくらいのひどい横揺れに耐えながら、二人はあの町の汚れたアパートの部屋にいるときのようにぴったりとからだを重ねあわせた。
「もうすぐ日本海ね」
額にかかったほつれ毛を掻きあげながらヒロミがいった。
「ほら。これまでのように車輪の音がこもらなくなっただろう。山間部を抜けて海に近づいている証拠だよ」
マモルは車窓に映ったヒロミの痩せた項をみつめている。そしてもう一度エルンストの『水没』の絵を、車窓をカンバスに見立ててゆっくりと描きあげた。
水没していく女に背を向けて前方からの光に目を奪われている棒男。
それは男というものの本質をみごとに突いている。ヒロミはその棒男に死んだ父の優作とマモルの姿を見たのではないか。一人娘をこよなく愛しながら何の躊躇いもないように自死をえらんでしまった優作と、きみを必ず幸せにすると誓いながら絶望的で独善的な大学闘争から離れられなかったマモル。ヒロミが心から愛し、愛されていると信じてきた男の心の中には、恐ろしいまでの無関心と独り善がりのロマンが住み着いていたのである。ヒロミはこれまでその観念に脅かされ続けてきたのだ。
これから先も棒男の部分は捨てられないかも知れない、だが少なくとも水没していくヒロミに気づかないような男にだけはなるまい、とマモルは骨ばったヒロミの手が砕けるほど握り締めながら思う。そしていつの日かヒロミが丸々とした赤ん坊をその胸に抱き、いまより二倍は大きくなった乳房をその口に含ませながら「七つの子」の歌を聴かせてやれる日まで、どんなことをしても支え続けてやらねばならないと思う。なぜならあの子は水子地蔵が救ってくださるとしても、ヒロミを救ってやれるのはマモルの他に誰もいないのだから。
列車はようやく白みはじめた日本海に沿ってごうごうと走り続ける。
加賀の潜戸まではまだ遠かった。
5
大学紛争が悲劇的な結末で終息してしまうと、マモルは深い脱力感に襲われながらもまだ望みが残っている卒業をめざして、不足している単位の取得と卒業論文の完成に専念した。
ヒロミの病状は依然として思わしくなかった。
ただ『わたしのために卒業を諦めるようなことだけはしないでね』というのがヒロミの口癖だったから、留年などをして絶対に哀しませたくなかったのだ。
出雲から母の喜美江がアパートを訪ねてきて通院治療中だったヒロミの様子を確かめた後、しばらく大社町の実家に娘を引き取りたい、と申し出てきたとき、マモルが素直に同意したのも、まずはヒロミの希み通り卒業と就職を決めることが先決だと考えたからだった。大社町へ帰ったヒロミは生まれ故郷の空気に触れて少しずつ快方へ向かっているという。雪深い山陰の冬が過ぎて、日御埼の経島でウミネコが産卵を始めるころに喜美江がくれた手紙には、ヒロミは一人で稲佐浜のあたりを散歩したり、出雲市内へ買物に出かけたりするまでになっている、と喜びいっぱいに書かれていた。だからマモルは安心して勉強に打ち込むことができたし、ぎりぎりの線だったがともかく大学を卒業することが出来たのである。
マモルは翌年の春、某新聞社系の広告代理店へ就職した。
覚悟はしていたけれど、やはり学生運動に関わっていたという前歴に加え及第点ぎりぎりの成績がハンデになって、商社や銀行などの一流企業を目ざすことは最初から諦めなければならなかった。だがこの広告代理店はそういう前歴や成績の良否にあまり拘らなかったようである。だからその年に入社したマモルたち十三人の新人は誰もがその脛に何らかの傷を持っているか、一癖のありそうな若者ばかりだった。
一カ月の研修期間が終わると、マモルは希望した制作部ではなく営業部へ配属されて不満だったが、しかたなく案内広告や記事下広告を取るために市内の受け持ち地域を駆けずり回った。面識もアポも無いクライアントをしらみつぶしに訪問するこの営業手法は、あまり成果は上がらないが新人に粘りと度胸を身につけさせてくれる。疲れ果てて帰社すると、営業部はいつも先輩たちの怒鳴り声が飛び交っていた。同僚との会話すら成り立たないほどの喧騒ぶりだから、マモルはしばらく電話をかけたり取ったりするのが怖かった。受話器をぴったり耳へ押しあててもなお相手の声がなかなか聴き取れない。初めて取ってきた三行足らずの案内広告を新聞社へ電話送稿するときなど、デスクの下へ潜り込んで相手の声に耳をそばだてながら、先輩たちに負けないほどの大声で原稿を送らねばならなかった。
日本経済にかつてない高度成長が定着しつつある一方で、公害や消費者運動という言葉が生まれようとしていた時代だった。
ヒロミがまた入院した、という報せが入ったのは七月の終りだった。
喜美江からの電話によると、ヒロミはいきなり高熱を発して倒れたのだが、入院後に落ち着きを取り戻したのでいまあらゆる検査をしてその原因を検べている、ということだった。マモルは三月の新人研修を終えた直後に、就職の報告をかねて大社町を訪れていた。だがそれからもう四ヵ月が経つというのに、手紙の一通すら書き送っていなかった。企業というものは社員にある種のストイックさを強いる側面があるし、人間的な感情を麻痺させたり、磨滅させる魔力のようなものを持っている。マモルはいつの間にかそういうものに呑み込まれている自分を知って愕然とした。
まもなくお盆休みという時期になったが、その広告代理店には一斉休暇という制度が無く、所属する部課の単位で各々が夏休みを調整する慣わしだった。そうなると新入社員のマモルが真っ先に休暇を申請するわけにはいかない。先輩たちが次々に取る休暇を横目で睨んでいるうちにお盆も過ぎてしまった。もはや遠慮している場合ではないと思い始めたころ、たまたま突然の出張命令が出て休暇を先に延ばさざるをえなくなった課長が、これじゃ子供の夏休みが終ってしまうよ、とこぼしながらもその権利を譲ってくれたので、遅めの帰省客や海水浴客でまだ混み合っていて座席を予約できなかった夜行列車に、ようやく飛び乗ることができたのである。
立ち詰めだった夜行列車は鳥取駅を過ぎた辺りで座れるようになり、マモルはようやく手足を伸ばして微睡むことができた。しかし大阪駅からかけた公衆電話に、不得要領な言葉を繰り返すだけだった喜美恵のことが気にかかっていたから、脈絡の無い奇妙な短い夢の連続に魘されるだけの微睡みは、かえってマモルを疲れさせた。そして翌朝早くに着いた出雲駅から路線バスに乗り継いで、海べりにある白い病院へ辿り着いたのは、ちょうど午前八時頃のことだった。
二階にある病室のドアを引くと、開け放った窓から廊下へ強い風が吹き抜けていった。病院の周囲には水田が広がっており、大社湾を渡ってきた潮風が穂のつきかかった稲田を大きく波打たせたあと、青く色づきながら病室へとなだれこんでくる。止むこと無くカーテンを揺らすその風は決して涼しくはないけれど、かすかな潮の香りと青い稲田の朝露を含んでいるせいか、深呼吸をしたくなるくらい清々しかった。
背を向けて病人を介護していた喜美恵が人の気配を感じて振り返った。
そのからだ越しに窓際のベッドに横たわるヒロミの横顔がちらと見えた。
「これはマモルさん。遠いところをすまんことで。さぞお疲れになったでしょう」
喜美江は地味な柄のエプロンで手を揉みながらマモルを迎えた。マモルは電話をかけたとき、病院には朝早くに着く、と報せていた。
「もっと早く来るべきだったのに遅くなりました。ヒロミの様子はどうですか」
マモルはショルダーバッグを肩から降ろしながらたずねた。
すると喜美江はヒロミの様子が見えるようにあわてて壁ぎわへ身体をずらせた。ヒロミは眠っているようだ。ベッドに横たわっているからだはまるで空に浮かんだ小さな飛行船のようで、窓から吹きつける風にいまにも攫われてしまいそうだった。
「ヒロミは朝食を少し摂っていま眠ったばかりなんです。この子にはあなたが来られることはまだ言っておりません。無理をなさっているのですから、もしお来しになれんかったら落胆すると思い、お顔を見るまでは言わないでおこうと」
「ぼくが入った会社には決まった夏休みが無いんです。お盆も過ぎたのにどうして見舞いに来てくれないのかと不審に思っておられたでしょうね」
「とんでもありません。マモルさんは働いておられるんですからお休みは大事になさらんといけません。皆さんは海や山へお出かけだというのに、こんなところまで何日も費やしておいでになるのはもうこれきりになさってください」
「これきりだなんて。そんなことはできませんよ」
マモルがちょっと気色ばむと、喜美恵はお茶の仕度をしながら話を続けた。
「ヒロミはこの病院で静かに過ごしています。しばらく高熱が続いたせいでちょっと記憶が薄れているそうで、申し上げにくいのですが、時々あなたのことも思い出せなくなるときがあるようなのです。看護婦さんの話では、気分が好いときはこんなお地蔵さまの絵を書いたり、窓枠にもたれてぼんやり東南の空を眺めていることがあるそうです。マモルさんがいる大阪はだいたいあちらの方角だと、意識がしっかりしているときに教えてやったのを覚えているのでしょうか」
喜美江が目で示した小さなローテーブルの上には三本の2B鉛筆と消しゴムが転がっており、その横にみごとなタッチで画用紙に描かれた絵が何枚も積み上げられていた。それを見たマモルは、ヒロミはこんなに絵が上手だったのかという驚きよりも、そんなことすら知らなかった自分に衝撃を受けた。
「あとでゆっくり見てやってくださいな。どうしてこんな絵ばかりを描くのか、わたしにはさっぱり分からんのですが」
喜美恵はそういって首を傾げると、渋茶の入った湯呑みを手盆で差し出した。
まだ四十歳を幾つか過ぎたばかりだと聞いているのに、喜美恵の手と顔は潮風にさらされて哀れなほどささくれだっている。小柄なからだつきと卵型の顔の輪郭は母娘であるだけによく似ているが、尖った高い鼻筋と一重瞼の切れ長な目は喜美恵だけのもので、取り立てて特徴の無いヒロミとは異なっている。ヒロミの目鼻立ちはむしろ父親の優作のほうに似ているのかもしれない、とマモルは思った。
夫の優作が変死を遂げてから、喜美江は近くの漁協へ勤めるようになっていた。その行き帰りに自転車を走らせてこの病院へ立ち寄るのだという。寡婦の頑張りでなんとか守ってきた大社町の家は、ヒロミの入院費用を捻出し、病院のそばでアパートを借りるために手放していた。
大社湾に沿った断崖の横腹を穿って桟道のような県道がくねくねと伸びている。その県道を海側へ逸れて、前転びしそうな急な坂道を下った入江の村に、ヒロミと喜美恵の家はあった。防風林に囲まれて肩を寄せ合う家々はどうひいき目にみても裕福とは言えなかったが、ヒロミの家も優秀な宮大工の父がいたにしてはみすぼらしく、玄関の引き戸の建てつけなどもひどく悪かった。優作が使っていた仕事場を含めても三つしかない部屋は、鬱蒼と枝を張った防風林のせいでいつも薄暗かったが、それでも日中は電灯を点けないというのがヒロミの家の習慣だった。だがこの母娘はその家へ二度と帰ることはない。マモルにとってもすでに無縁な存在になっていた。
ヒロミは初めての給料でマモルが買ってやった赤い花柄のパジャマを着ていた。手のひらを力なく拡げたまま投げ出している左腕には、スタンドに吊された二本の薬瓶から点滴の管が伸びている。四ヶ月前に会った時とは異なって、半袖のパジャマから伸びたかぼそい腕や肉付きが落ちてさらに小づくりになった顔は、まだ十九歳だというのに肌の輝きを失っていて、明るい夏の日ざしを頑なに拒絶しているようだった。ちょっと顰めた広めの額で油気の無い前髪が窓からの風に揺れている。マモルは、もしかするとヒロミはこのまま一度も化粧をすることなく死んでしまうのではないか、と残酷な想像をしてしまった。
「ところで、いったいヒロミのどこが悪いのかよく分からないということですが、入院して一ヵ月も経つというのにまだ病名すら決まらないなんて変じゃないですか。そんなことは考えられません。お母さんはほんとうにご存知ないんですか」
マモルは渋茶を一気に喉へ流し込んだあと強い口調でいった。
喜美恵はベッドの脇にしゃがみこんで、アパートから持参したらしい洗濯物を小さな木製ロッカーの中へ仕舞い込んでいた。マモルの詰問にその肩がまるで叱られた子どものようにぴくりと竦んだ。
「これまでの強迫神経症がさらにひどくなり頭痛や発熱が頻発するようになっているそうです。それと、さっきも言いましたように、しばらく高熱が続いたせいで部分的な記憶喪失にも罹っていると先生はおっしゃっています」
「強迫神経症がぶりかえしたというのは分かりますが、以前のヒロミは頭痛や発熱が起きるということなどなかった。まして記憶喪失なんて。だからぼくはその原因をお訊きしているのです。医者が患者の母親に病名を隠す理由など無いわけですから、失礼ですがお母さん、あなたが隠しておられるとしか思えない」
「それ以上のことは知りません。それにこの子の病気はきっとわたしが治してみせます。マモルさん、心配はいりませんよ。あと半年もすればきっと元気になりますから。そのときはまたヒロミを大阪へ連れて帰ってやってくださいね」
しゃがんだままの喜美江の肩がそういいながらも小刻みに震えていた。
そのとき、手もとが狂ったのかロッカーから小さなブリキの薬罐が転がり出て大きな音を立てた。喜美江は急いでその薬罐を拾い上げるとロッカーの中へもう一度押し込もうとしたが、無理に押し込んだために横の紙包みが破れて乾いた木の葉がぱらぱらと足もとに散らばり、窓からの風にあおられて病室の床に舞った。
狼狽えて床をはいずり回る喜美江を手助けしようと、マモルは何枚かの木の葉を拾い集めた。乾燥した大ぶりの葉はくるくると内側にカールしているが、引き伸ばしてみると意外なほど強い弾力性があって、ごわごわとした表面には太い葉脈がくっきりと浮かんでいる。それが枇杷の葉であることは葉の形状や手触りでマモルにもすぐ分かった。
「枇杷の葉を煎じて飲むとからだの中の悪いものを引き出してくれる、と教えてくれる人がおりましてね。それであちこちから頂いた枇杷の葉を何日も天日で干して、お茶の葉がわりに使って飲ませているのです。あまり色もつかないし匂いや味も無いから、白湯だと思ってヒロミも飲んでくれます。それに枇杷の葉には・・」
喜美江は聞きもしないのにくどくどと枇杷の葉の煎じ茶が持っているという効能を説明した。だがその話からヒロミの真の病名を知る手がかりは掴めなかった。
「ところですまんことですが、わたしはそろそろ漁協へ行かねばなりません。帰りにまた寄りますから今夜はアパートに泊まってくださいな。この病院のすぐ近くにあるんです。狭いところですが二間ありますから気がねはいりません」
「いや、ここは個室ですし付き添い用のベッドもあります。わがままを言ってすみませんが、病室に泊まれるよう病院の許可を取ってもらえないでしょうか。しばらくぶりですからこのままヒロミの傍にいてやりたいのです」
「すまんことで。そうしてやっていただければこの子もどんなに心強いことか。それなら漁協の帰りに何かお夜食でも買ってきましょう。そうそう、マモルさんは握り寿司が大の好物だとヒロミから聞いておりましたが」
「ええ。でもそんな心配はしないでください。自分で適当に食べますから」
「適当にやると言われても病院の近くには気の利いた飲食店などありません。病院の地下に職員用を兼ねた食堂がありますが、これが美味しくないうえに夕刻過ぎには閉まってしまいます。ですからどうか遠慮しないでわたしに任せて下さい。こんな田舎なので満足していただけるようなものはありませんが、海が近いぶん魚介は新鮮で美味しいはずですから」
「そうですか。ではお任せします」
「それからヒロミは食事を摂るのを嫌がりますが少しでも食べさせてやってくださいな。マモルさんが勧めてくだされば食べるような気がします。ただあなたのことを思い出すまでに少し時間がかかるかも知れません。でもヒロミは決して薄情で忘れているのではないのです。どうかそれは分かってやってくださいね」
「分かっていますよ。どうしてもヒロミが思い出せないのなら、ぼくたち、もう一度はじめからやり直せばいいんですから」
「あいすまんことで。なにぶんよろしくお願いします」
あいすまんことで、を何度も繰り返して喜美江は病室を出て行きかけた。ところがドアを開けたところで不意に立ち止まると、手提げの大きな布袋を格子縞のモンペにからませながら、ひどく大事な忘れ物でもしたようにあたふたと戻ってきた。
「それから、この子がお水を欲しがりましたらポットに入っているお茶を飲ませてやってくださいね。いえ、欲しがらなくても時々すすめてやってくださいな。さっきご説明した枇杷茶が入っていますから」
喜美江は哀願するようにそう言い残すと、今度は前よりも急ぎ足で病室を出て行った。そのあとにかすかな潮の香りが残った。
この香りは漁協で多くの魚介類に囲まれている喜美江が残していったものなのか、それとも窓から流れ込んでくる青い海風が運んできたものなのか。マモルは椅子に座ってそんなことをぼんやり考えながら、久しぶりに見るヒロミの寝顔をみつめていた。大阪の薄汚れたアパートで同棲していた頃、ヒロミはとても寝つきが良くて布団の中へ入るとすぐ先に眠ってしまったから、マモルはいつもあとにとり残されてあどけない寝顔に見入ることが多かった。
あれからもう一年以上が経っていた。
ヒロミは母体を護るための人工流産のショックによって心の平衡を失った。そのヒロミがしばしば見る不思議な夢の中に幽かな手がかりをみつけて、二人はこの島根半島の突端にある加賀の潜戸まで来たことがある。そのときヒロミは、死んだあの子が加賀の潜戸にいてわたしたちたちを呼んでいる、とマモルに告げた。また、あの子は賽の河原のお地蔵さまの陰でわたしたちが会いに来るのを待っている、ともいった。その言葉の通り、ヒロミは加賀の潜戸で夢に見たお地蔵さまへ向かって差し出した両腕の中にぼぅと白く光る我が子の輪郭を抱き締めて、何度も何度も頬摺りを繰り返した。ヒロミはそのとき夢の中で、会いにきて、と訴えたあの子に会えたばかりか、しっかりと自分自身を取り戻したはずだった。
だが二人で初めて迎えたヒロミの十八歳の誕生日が過ぎて、例年より遅かった桜の花が散り終わった頃から、ヒロミはまた以前にも増して奇妙な夢を見るようになり、その夢の中に引きずり込まれていくようになった。それでマモルは喜美江と電話で相談をして嫌がるヒロミを大阪の精神科病院へ入院させた。そして四ヵ月あまりの治療を終えたあと、喜美江はどうにか退院許可が出たヒロミを連れて、秋風が吹きはじめる大社町へ帰っていったのである。
「・・して遊ぼうね」
そのとき、ヒロミが白っぽく変色した唇をかすかに歪めて寝言をいった。
言葉がはっきり聞き取れないのは唇が乾いているからだろうと考えて、マモルはベッドの手すりに干してあったガーゼにたっぷり水を含ませてから、時間をかけてヒロミの唇を湿してやった。ヒロミは少し顔を顰めたが、それで目を覚ますわけでもなく、またいつものあどけない表情に戻って寝入ってしまった。
マモルはまた所在なくカーテンを引いて病室の窓の下を眺めた。
植栽してまだ間もない樫の若木が、根方をドーナツ状の土盛りで固められて、病院の周りを取り巻いているようだった。この若木たちが二階にあるこの病室の窓にまで達して、夏には爽やかな葉かげと涼風をもたらし、冬には海から吹きつける雪と風を遮ってくれるようになるのは、いつのことなのだろうとマモルは考える。ヒロミが退院したあとに次の患者が入室し、そのまた次の入院患者や救急患者が何度となく入退院を繰り返してから、この樫の若木はようやくその葉かげを二階の窓に映ずるのだろうが、果たしてこのさき何人の患者が全快して日々慣れ親しんだこの木に別れを惜しむことができるのだろう。
「誰かいるの。お母さんなの」
かぼそい声がマモルのジーンズの腰骨の辺りで聞こえた。
吃驚して見おろすと、ヒロミの視線が宙を彷徨っている。見ひらいた目は窶れたせいで顔立ちの微妙なバランスを失って、異様なほど大きく感じられた。
「目が覚めたみたいだね。よく眠っていたけど気分はどう?」
マモルはカーテンを元に引き戻しながら話しかけた。
なかなか焦点が定まらないのか、ヒロミの瞳は何度か瞬きを繰り返しつつ、窓からの明るい陽射しを浴びたマモルのシルエットを追いかけている。マモルはヒロミの視線が捉えやすそうな角度と距離をはかってゆっくり立ち位置を移動してやった。
「マモル、マモルじゃない。驚いたわ。あなたがどうしてここにいるの」
「へぇ、ぼくのことが分かるんだ。部分的な記憶喪失に陥っているから、ぼくを思い出すのには時間がかかるとお母さんが言っていたけど、ひと目みただけで分かってくれるなんて感激だな。大阪からさっき着いたばかりなんだよ」
「ふーん。わざわざわたしを見舞いに来てくれたの」
「もちろんじゃないか」
「それはありがとう。でも今日は伸子が一緒じゃないのね」
「えっ、伸子って」
「なに言ってるの。わたしの仲良しの上原伸子じゃない。伸子とはいつも化粧品工場の昼休みにお弁当を食べながらいろんな話をしたわ。マモルも知っているように、あの子、絵が大好きでしょ。だからいつも絵の話ばかりだった。エルンストだとかキリコだとか。話し出したらとまらなかったわ」
そういえば何時だったかヒロミはそんな話をしたあとで、どうしてもエルンストの画集を見たいと言い出したことがあった。
マモルはただただヒロミの喜ぶ顔が見たくて紛争の最中にあった大学の構内へもぐりこみ、時計台の下にある図書館のフロアへ際限もなく散らばった書籍の中からその画集を奇跡的に見つけ出し、こっそりアパートまで持ち帰ったものだ。しかしマックス・エルンストという画家のことを教えてくれた親友が上原伸子という名前だというのはいま初めて聞くことなのだ。
「その上原伸子がどうしてぼくと一緒に来なければいけないの」
「だってマモルと伸子は恋人同志じゃない。わたしはあなたたちのデートに何度も付き合わされて、いつもあてられ通しだったんだから」
ヒロミはうんうんと一人で勝手に頷きながら自信ありげにそういった。
ヒロミは視界に入るもののすべてをその中へ吸い込んでしまいそうなほど大きくて澄んだ瞳でマモルの顔を凝っと見据えている。その瞳の奥で狐火のような白い炎がちろちろと燃えているのを見つけて、マモルは観念した。
「うーん、そうだったかな。いや伸子はね、工場が忙しくて休みを取れないんだ。ぼくは学生だから夏休みを利用してぶらっと山陰へ旅行へ出かけたんだけど、出雲まできてふとヒロミのことを思い出したからこの病院へ立ち寄ってみたんだよ」
「へぇ、そうなんだ。わたしなんかのことを思い出してくれてありがとう。そうだ、マモルはもうすぐ大学を卒業するのね。就職先はみつかったの」
「まあね」
「よかったわ。伸子、きっと大喜びしているでしょうね。だって伸子はずっとマモルが就職して、早く結婚してくれる日を待っていたんだもの」
そういったとたんヒロミはいきなり涙ぐんだ。
ヒロミの頭の中では、過ぎ去った時間の経過と出来事が大きく狂っているばかりか、マモルと伸子の恋人がくるりと入れ替わっていた。マモルは上原伸子という女性にはこれまで会ったことがなかったし、絵が好きな親友なのだということ以外は何も聞かされていなかったから、言うまでもなく彼女にどんな恋人がいたのかなど分からない。いや、そもそも伸子には恋人などいなかったのかも知れないのだ。だがこの際そんなことはどちらでもよい。恋人が就職する日を誰よりも待ち望んでいたのは他でもないヒロミ自身だったのだから。
「ヒロミにも大学生の恋人がいたじゃないか。会社の寮を出てその人と同棲しているという話だったけど、彼だってもう就職が決まっている頃だよ」
「わたしに恋人がいて、同棲していた・・?。そうだったかな。わたしもそんな気がする時があるんだけどどうしても思い出せないの」
呑み込んだ涙を喉につまらせながらヒロミが答えた。
とたんに目頭が熱くなってきたマモルは、ヒロミから顔を背けて円筒形のスツールの上に座り込んだ。そして、もうこんな話はお終いにしようよ、と宣言するようにローテーブルの上に重ねられた画用紙の束を取り上げた。しかし不覚にも覗き込んだ鉛筆画の上へ睫毛を伝った涙の一粒が落ちてしまった。
「ヒロミがこんないい絵を描くなんて知らなかったよ。見直しちゃったな。羅漢の一体一体が生きていて、まるでこちらに話しかけてくるようだ」
画用紙を次々にめくりながらマモルは感嘆の声を上げた。決してお世辞ではない。マモルに絵画のすべてが分かるわけではないが、鉛筆だけを使って描かれた濃淡表現が、まるで水墨画の没骨法を熟知しているかのようにみごとな出来栄えだった。
「マモルにはどうしてそれが羅漢さまだって分かるの」
ヒロミは自分で枕を持ち上げてやや上体をずり上げながら、まだ濡れたままの目で不思議そうに訊ねた。ふっと頭に浮かんだ小さな疑問が、思いがけず人の記憶を覚醒させることだってある。マモルはそんな期待を籠めながら力強く答えた。
「そりゃ分かるさ」
「でもお母さんはお地蔵さまだって言ったわ」
「お地蔵さまなら宝珠とか錫杖を持っているはずだろう。だけどこの仏さまたちはそんなものを持っていない。それにどれもが個性的で顔つきやからだつきが違う。ぼくには分かるよ。これはきっと立久恵峡の五百羅漢に違いないって」
「マモルは立久恵峡の五百羅漢さままで知っているの」
「もちろんだよ。二年前の冬と去年の春に二度もヒロミと見たじゃないか」
「五百羅漢さまをわたしと一緒に見た?」
「そうさ。二年前の冬には、羅漢たちの中に死んだお父さんの顔をみつけてヒロミは泣いた。加賀の潜戸へ行った帰りの去年の春には、羅漢の一つが抱いている赤ん坊を見てきみはまた泣いた。ぼくがそんなことを忘れるわけないじゃないか」
「えっ、わたしはマモルと一緒に加賀の潜戸へも行ったことがあるっていうの。ほんとうに? 立久恵峡だけじゃなくって・・」
ヒロミはそういうと視線をふっと宙に浮かせた。
それは、どこか別の世界へ引き込まれたり、その世界から脱け出してくるときに、ヒロミが見せる仕草だった。いまヒロミは何かを思い出しかけている。乳白色に漂っている霧の中に何かが見え始めている。だがいまのヒロミにとって果たしてそれが望ましいことなのかと考えると、マモルにも答えが出てこないのだった。マモルがこのまま上原伸子の恋人であり続けるほうが、そして二人の過去をこのまま濃い霧の中に閉じ籠めておくほうが、ヒロミにとっては幸せなのではないかとも自問してみる。すると、恐らくはヒロミが穏やかな心境で描き上げたであろう羅漢絵の一枚一枚が、海風に揺れる病室のカーテンのようにマモルの心を揺さぶり続けて、やはり逡巡という出口の無い迷路へ追い込まれてしまうのだった。
丁寧に描かれた羅漢たちは立像もあれば座像もあり、泣いている顔もあれば笑っている顔もある。赤子を抱いているのもあれば、頭上に瓢をかざしているのもあり、両手を広げているのもあれば、瞑目して祈りを結んでいるのもある。それらの羅漢たちはどれもまろやかな体躯にたっぷりと喜怒哀楽の表情や生活感を滲ませており、この世に生きとし生ける人間が暮らす日々の姿そのままのように感じられるのだが、よく見ればやはりどこかが違っている。それは、俗世間の塵埃にまみれながらただ閉所でもがいているだけの人間とは異なって、羅漢たちの姿にはいわゆる悟りの世界につながる宇宙の広がりが感じられるからなのだ。
三十枚ほどの羅漢の絵のあとに一枚だけ地蔵の絵があった。
その絵を見たとたん、マモルはやはりこのまま上原伸子の恋人でいることに耐えられなくなった。そして昂奮を抑えきれずにまくしたてていた。
「ほらね。この絵は加賀の潜戸の賽の河原におられたお地蔵さまじゃないか。あれはヒロミが十八歳の誕生日を迎えようとしていた頃のことだった。夜行列車で松江駅に着いたぼくたちは、そのままバスに乗って加賀へ向かった。潜戸は加賀港の東に突き出た潜戸鼻の先端にあったから、小さな舟に乗って渡らなければならなかった。三月の海は波が高いから、渡し船の船頭はかなり嫌がったけれど、深いわけがあってわざわざ大阪から来たのだから、というぼくの必死の説得で仕方なく舟を出してくれた。港を出て桂島の辺りを過ぎると、西の方角には防波堤のような馬島が浮かんでいた。そしてなおも波に揉まれながら潜戸鼻へ近づくと、目の前に松や雑木の生い茂った断崖が迫ってきて、その下に大きな洞窟がぽっかりと口をひらいていた。ぼくたちが乗った小さな舟は吸い込まれるように湿っぽいその洞窟の中へすべり込んだ。湿った洞窟の中には、萎れかけた供花や、まだ新しい菓子袋や、手垢にまみれた人形なんかが、薄暗闇の岩礁の上に散らばっているのが見えた。小石を積みあげた塔も無数に立ちあがっていた。間違いないよ。この絵はその賽の河原にいらして、ずっとぼくたちの子供を守って下さっているお地蔵さまだ」
マモルはそういいながらも、いっぽうでひりひりとした心の痛みを感じていた。
このまま自分が真実を話し続ければヒロミをますます苦しめることになるかもしれない。だがそれでも彼は話をやめるわけにはいかなかった。ここでやめたら二度と自分の手にヒロミを取り戻すことなどできないような気がしたのだ。
「ヒロミは一年ちょっと前に不幸な事故に遭って流産をした。それからきみは一度も顔を見ることなく死なせてしまったあの子のことしか何も考えられなくなった。そしてこの絵に描かれたお地蔵さまの蔭から、加賀の潜戸へ会いに来てほしい、と訴えているあの子の声を夢の中で聞いて、どうしても会いに行きたいのだ、と言った。だからぼくたちは加賀の潜戸まで行ったんだよ」
「マモルは死んだわたしの赤ちゃんのことまで知っている。どうしてなの」
「死んだ赤ちゃんはヒロミとぼくの子どもだからさ」
「わたしとマモルの子・・」
「そうさ。いまも言ったように、ぼくたちは加賀の潜戸へ行った。そしてそこであの子に会うことができた。ぼくは今でも固くそう信じているよ。だってお地蔵さまの前へ差し出したきみの両手の中でボウと光りながら浮かんだ嬰児の姿かたちを、ぼくは間違いなくこの目で見たんだから。きみはその子をそっと抱きしめると何度も何度も頬ずりをした。洞窟の中に谺している波の音が、まるでぼくたちのために賽の河原へ集まってくれた子ども達のどよめきのように感じられ、無数の水子の霊があの子とぼくたちの再会を心から祝福してくれているようだった」
「マモルは伸子の恋人なのに、わたしと一緒に潜戸のお地蔵さまや立久恵峡の羅漢さまを見たと言う。そればかりか死んだあの子はマモルとわたしの子どもだって言うの。どうして? だったらわたしはいったい誰なの」
「きみはヒロミだよ。そしてぼくはきみの恋人で伸子の恋人なんかじゃない」
「分からない、わたしには分からない」
ヒロミの乾いた涙のあとをまた新たな白い涙がつたわった。
だが、嫌々をしているヒロミの顔には、理解できないことへの焦燥より、むしろ見えてきつつあるものへの畏怖が浮かんでいた。もしかするとヒロミはこの町に帰ってからの一年間、ひたすらマモルを忘れようとしてきたのかもしれない。そしてその辛さ以外の何物でもない必死の願いは、いきなり襲ってきた原因不明の高熱に魘されるうち、ついに叶えられてしまったのではないだろうか。だとすればヒロミは自分の意思でマモルを忘れてしまったことになる。
「もういいんだよ、ヒロミ。こんな話をしてきみを混乱させてしまったぼくが悪かった。もうやめにしよう」
マモルはさすがに強い負い目を感じながらそういわざるをえなかった。
なぜならそれは、たまにしか会いにこない男がその間に心変わりした女のほうを一方的に責めているようなものだったからだ。
「回診です」
そのとき、いきなり病室のドアが開くと、ひどく痩せた背の高い看護婦が入ってきた。ノックする音が聞こえ無かったので、マモルはまるで自分のほうが闖入者であるかのように思えて身構えた。看護婦は暗い顔立ちと猫背のせいで少し老けて見えるが、緩みのないからだの線や皮膚の張りからして、まだ二十代を過ぎていないと思われた。続いてその背後から主治医と思われる男性医師がのっそりと現われて、彼女が差し出したカルテを鷹揚な仕草で受け取った。三十歳半ばと推測される医師は、医学生の頃にフットボールでもしていたのだろう、大きめの白衣を着ているというのに隠しきれないくらい筋骨が逞しい。上背はそれほど高くないのだが、肩幅や胸の厚さは痩せている看護婦の二倍はありそうだった。
「お見舞いのかたですか」
看護婦は医療器具を載せたワゴンを音も無く引き寄せながら訊ねた。
「そうです」
「申し訳ありませんが、しばらく病室の外でお待ちいただけませんでしょうか。いまから主治医の先生の回診がはじまりますから」
看護婦が続けてそういうと「いや、きみ、いいんだよ」と主治医は幅広の肩を揺すりながらやんわりその言葉を否定した。
「マモルくんですね。ヒロミくんのお母さんから先程うかがいました。大阪からお見舞いとはさぞお疲れのことでしょう。このままいてくれて構いませんよ」
「ありがとうございます。でも先生、やはりぼくは外で待っています」
「そうですか。では回診はあと一時間ほどで終わりますから、それからぼくの診察室まで来てくれませんか。あなたには是非ともお話をしておきたいことがあります。あっ、失礼。ぼくはヒロミくんの主治医で倉持といいます」
「分かりました。ぼくも先生にお訊ねしたいことがありますから」
ヒロミの主治医が倉持という名前であることはベッドに架かっていた認識票を見てすでに知っていた。だがその倉持医師が是非とも話しておきたいことがあるのだという。おそらく漁協への勤めに出る前に、喜美江が病室への宿泊許可とともに彼に頼み込んでいったのだろうと思うと、マモルはその話の中味を推測して暗澹たる気持ちになった。それに倉持医師が精神科ではなく外科の医師だということも意外だった。
「やあヒロミくん、気分はどうかな。よかったじゃないかマモルくんが来てくれて。さていつもの回診の時間だからね、ちょっとこっちを向いてくれるかな。あれあれ、涙なんか流してどうしたんだ。そうか、嬉し涙というやつだな」
体躯に似合わないやさしい声で倉持医師はヒロミに話しかけている。
その声を背中で聞きながらマモルはゆっくりと病室を出た。そしてしばらく面会フロアで煙草をふかしているうち、急にむかつくほどの空腹感に襲われてしまったマモルは、地階にあると喜美恵から聞いていた食堂へと向かった。二階のエレベーターホールにはすでに浴衣を着た初老の男性患者と付き添いの女性が待っていた。男性患者は手術をしたばかりなのか、髪の毛を剃った頭部に大きな絆創膏を貼っており、浴衣の裾をはだけたまま女性の肩へ寄りかかっている。同じくらいの年令で小柄な女性のほうは何とかからだ全体を使って男性を支えている。労わりに満ちたまなざしからして男性の妻に違いなく、すべての仕草が重ねてきた夫婦の年輪を感じさせた。
エレベーターは三基あったが、三人は間もなく上階から静かに降りてきた右端の一基に揃って乗り込んだ。それはひどく大きなエレベーターで、中にはすでに二人の看護婦と白布で覆われた移動ベッドが乗っていた。そのために内部は身動きもできないくらい窮屈になった。
「一階ですか、地階ですか」
看護婦の一人がやや非難がましい表情で訊ねてきた。
マモルはその表情を見てようやく気がついた。なるほどこれは移動ベッドや医療器具などの搬送専用で、患者や見舞い客用のエレベーターではなかった。
「すみません地階をお願いします」
小さくなってマモルが答えると、夫婦らしき二人も続いて頷き返し、看護婦は返事も返さずに一階を通過するボタンを押し続けた。そして地階に着くなり、もう一人の看護婦とともにガラガラとエレベーターから移動ベッドを押し出すと、肩をいからせながら右手に伸びる廊下の奥へ消えていった。しばらくするとその方角から重い鉄の扉が閉まるドーンという音が廊下を伝わってきた。
「おまえ見たか」
「ええ」
「俺もあんなふうになるのかな」
「何を言ってるの。あなたの手術は成功したのよ。先生がそう仰ってたでしょう」
「そうだったな」
「あたりまえでしょう」
ひそひそと交わす夫婦の会話を聞いて、マモルはあっと声を上げそうになった。
そうか、あの移動ベッドには死体が横たわっていたのだ。死者が人体の輪郭をほとんど感じさせないくらい痩せこけていたためか、それとも看護婦の突っけんどんな態度と乗るべきエレベーターを間違えた引け目で心が臆していたからか、ともかくマモルはあの白布の下に死体が横たわっているなどとは全く想像もしなかった。だがこの夫婦は、お互いに目配せすら交わしていないというのに、揃って同じものを見ていたのだ。夫のほうは重病人のようだったから神経が研ぎ澄まされてもいただろう。だが健康そうな妻でさえも夫にいささかも劣らないくらいの鋭敏な感覚を持ち合わせていた。だからこそ二人には同じものが見えたのだ。マモルは自分だけが死体の存在に気づかなかったという迂闊さより、そのことのほうに強い衝撃を受けた。この夫婦のように自分たち二人は、いや、この妻のようにぼくは、果たしてヒロミと同じものが見えるのだろうか、と自問してみると身の竦むような思いがするのだった。
夫婦は夫のリハビリのために院内を散歩しているらしく、人気の余り無い食堂を入り口からちょっと覗いただけで何も食べずにまた引き返していった。
ガランとした食堂のテーブルに向かいながら、マモルはセルフサービスで運んできた出雲蕎麦には箸もつけないで、血が滲むほど強く唇を噛み締め続けた。どんぶりを持ち上げられないくらい熱かった蕎麦は、マモルがようやく箸をつけた頃には冷たくなっていて、口の中で何の歯応えもなくぶすぶすと崩れていった。
6
「そこにいるのはマモルじゃないの。どうしたの。いつ来てくれたの」
ぐっすり眠っていたはずのヒロミが透き通った声を夜の病室に響かせた。
マモルは吃驚して危うくウイスキーの小瓶を手から落としそうになった。ヒロミは三日前に眠りから覚めたときと同じように、マモルじゃないの、といった。だが言葉は同じでも何かが違っていた。だからマモルは出かかった声をぐっと飲み込んだ。
夜勤の若い看護婦が残り僅かになった点滴を取り替えていったあと、マモルは補助ベッドからそっと起きあがって、ウイスキーの小瓶をラッパ飲みしようとしていた。病室に寝泊まりしてヒロミを看護しはじめてからすでに三日が経っている。その間、ヒロミの状態は何も変わらなかった。だからマモルは今も上原伸子の恋人でしかなく、その落胆と疲労から目が冴えて眠れなくなっていた。それで夜行列車へ飛び乗る前に京都駅の売店で買い求め、ショルダーバッグの奥に押し込んだままになっていたウィスキーを、睡眠薬がわりにこっそり飲みはじめていたのだ。
「ねえ、マモル・・。わたし大阪へ帰りたい。あのアパートへ帰りたいな」
マモルはヒロミが次に発したその言葉に少し胸が躍るのを感じた。
アームライトの灯りを受けた花瓶のかすみ草が、枇杷の葉や洗濯物を詰め込んだ木製ロッカーの上でぴりぴりと震えている。大社湾の方角にもう何年も見たことがないような美しい夕陽が沈んでからすでに数時間が経っていた。消灯時間はもう過ぎている。病院全体が薄闇と静寂の中にすっぽりと呑み込まれていた。
〈ねえ、マモル・・〉といったあと少し間を置くのはヒロミの癖だった。だがマモルはそれでもヒロミが正気を取り戻していることにまだ気づかなかった。
「あれ、目を覚ましたのかい。点滴が切れちゃったからね。いま看護婦さんを呼んで取り替えてもらったばかりなんだ。頭は痛くない?」
「うん、痛くない」
「それは良かった。何だかすごく気分が良さそうじゃないか」
「いつ来てくれたの」
「三日前の朝だよ」
「そう・・」
するとヒロミは言葉に詰まってしばらく考え込んだ。
三日前に来たことはすでに知っているはずなのに、と不審に思いながらマモルはウイスキーのキャップをくるくると閉じてヒロミの様子を凝っと窺った。すると思いがけなく二人の視線がベッドの上でぶつかった。マモルはさりげなく視線を逸らそうとしたが、ヒロミのあの大きな瞳から逃れることなどできなかった。よく見るとヒロミの瞳は澄みきっていて、ちろちろとしたあの狐火のような白い炎は消えている。
「ねえ、マモル・・」
「なに」
「わたし、大阪へ帰りたい」
ヒロミはまた同じ言葉を繰り返した。そのときになってマモルはようやくヒロミの変化に気がついた。ヒロミにとって大阪は仕事を得るためにだけ仕方なく移り住んだ異郷である。しかも身と心をぼろぼろにされた憎むべき土地だったはずだ。それなのにそんな大阪へ帰りたいと二度もいったのだ。
もしかすると、という期待を込めてマモルは補助ベッドに座りなおした。
「そうだね。そろそろ帰らなきゃね。みんなヒロミの帰りを待っているんだよ。チェさんだって、管理人のおばさんだって。それに上原伸子さんもね」
「えっ。マモルはどうして伸子を知ってるの」
「うーん。だってヒロミが言ってたじゃないか、伸子さんは会社の仲良しで、いつも一緒にお弁当を食べながら絵の話をするんだって」
「そうだったかな。でも名前までは言わなかったと思うけど」
ヒロミは過去を、自分を、いま確実に取り戻している。マモルはそう確信した。なぜなら、ヒロミは確かに親友の名前を一度も口にしたことなど無かったからだ。
いつだったか、ヒロミが伸子のことやエルンストの話をはじめたとき、マモルは何気なく訊ねてみたことがあった。
《ふぅん。工員さんの中にもすごく絵に詳しい人がいるんだね。ぼくも少しその子に興味あるな。頭が良さそうだしね。なんていう名前なの、その友だちは》
するとヒロミは急に青ざめて黙り込んでしまったのだ。たぶんマモルが上原伸子に関心を示したことで嫉妬したのだろう。しかしただそれだけのことだったし、べつに恨みがましいようなことも口にしなかったけれど、マモルは感じるところがあってそれから二度と名前を訊ねないようにしていた。
マモルは嬉しくなってボトルを握る手をふるわせた。ヒロミは枕に頭をうずめて、そんなマモルを不思議そうに見あげている。十九歳になったいまも幼さが残っている顔は二年前と少しも変わらない。
大社湾の向こうへ美しい夕陽が沈む前に、ヒロミはそれほど嫌がることもなく夕食を少し多めに摂った。そのあとマモルは看護婦詰所でもらった蒸しタオルでヒロミの顔や首筋や背中や胸を念入りに拭ってやった。この病室へ泊まり込んで日夜看護するようになってからというもの、銭湯が好きで何より清潔好きだったヒロミのために、三度の食事を終える度ごとにその作業を繰り返していたのだ。そのお蔭なのか、ヒロミの顔や肌は以前のような艶やかさを取り戻しつつあったし、三日前とは比較にならないほどの張りと生気を漲らせるようになっていた。小づくりの顔はとり立てて特徴は無いけれど品よくまとまっている。凝っと見つめられるとその中に吸い込まれてしまう大きな瞳と、キスすると和風料理に添えられた生麩のような感触がする半びらきの口唇が、マモルはたまらなく好きだった。ピンクの貝殻のような耳朶と、小ウサギが蹲ったような鼻梁と、のけぞったときの尖った顎の線はもっと好きだった。
「お母さんはもう帰ったの」
ベッドから上半身を少し持ちあげて辺りを見回しながらヒロミが訊ねた。
「うん、七時過ぎにね」
「そう。いまは何時ころなのかな」
「九時を少し過ぎたところだよ」
「ちゃんと夕食は済ませたの」
「ぼくかい? ぼくはアパートからお母さんが持ってきてくれた夜食をさっき食べ終えたところさ。漁協で買ってきたと言ってたけど、今日も新鮮な魚が食べきれないくらい折り箱に積め込んであった。とても美味しかったよ」
「マモルはお酒を飲むようになったんだ・・」
ヒロミはマモルの手に握られたウイスキーボトルに視線を落としていった。
広めの額にはかすかな縦皺が寄っている。それは潔癖性で几帳面なヒロミが自堕落なマモルを批難するときに見せる表情だった。今夜は寒いからと銭湯へ行くのを嫌がったり、朝と夜の二度の歯磨きを怠ったり、帰宅した後や食事の前に手を洗わなかったり、昼の日中に部屋の電灯を点け放しにしたり、アルバイトのために大事な大学の講義をさぼったりしたとき、ヒロミはいつもそんな表情をした。
マモルはヒロミと同棲している間、ときどき煙草は吸ったけれど酒は飲まなかった。もちろん酒が嫌いでも飲めないわけでもない。アルバイト収入で生活費と学費を賄っていたマモルには、酒を飲めるほどの経済的な余裕が無かっただけのことだ。だからそういうマモルの日常が記憶に残っていて、すでに社会人になっていることを知らないヒロミには、病室でウイスキーボトルを握っている彼の姿はきっと異様に映っただろうし、非難に値するものだったはずだ。
「夜行列車の中で飲むつもりで買ったのがそのままショルダーバッグの中に残っていたんだ。病院の人にみつかったらこっぴどく叱られるだろうな」
「そんな簡易ベッドの上じゃ眠れなかったんでしょう」
ところがヒロミは額に縦皺を寄せたまま気遣うようにそういった。非難とは真逆の労わりに満ちたその声にマモルはかえって慌ててしまった。
「いや、そういうわけじゃないんだ」
「ごめんね。マモルに迷惑をかけるのも、もう少しだから許してね」
「もう少しって?」
「うーん、それはね」
そういうとヒロミはやっと表情をゆるめて病室の天井を見あげた。
「もう少ししたら、わたし、ここを退院してマモルのいる大阪へ帰るわ。そのときは迷惑をかけたぶん、いっぱいお返しをするから許してねってこと」
「相変わらず余計な心配をするんだね、ヒロミは」
「マモルだって就職したばかりで大変でしょう。そんなに長くはお休みを取れないだろうし。わたしは大丈夫だから早く大阪へ帰ってよね」
そういうとヒロミは両肘を支えにしてベッドの上に起きあがろうとした。
マモルは驚いた。三日前とは違って何とヒロミは既にマモルが就職していることまで知っているではないか。嬉しさに駆られたマモルが慌てて立ち上がり、ベッドのヒロミを助け起こそうとすると、すでに彼女が大きく腕を動かしていたために点滴のチューブが引っ張られ、二本の薬瓶がけたたましい音を立ててぶつかった。その音に驚いて起きあがるのを途中で止めたヒロミの背中を、マモルはしっかりと両手で受けとめてやる。手のひらの上に乗っかったヒロミのからだは三日前よりもずっと弾力があって重く感じられた。人間のからだが僅か三日間でそれほど大きく変わるはずはないはずだから、それは恐らくヒロミが自分という存在を取り戻し、体内に気力と活力を蘇らせた結果なのだろう。精神はこんなにも肉体を統御できるのか、とマモルは感動せずにはいられなかった。
そして三日前に聞いた倉持医師の信念は間違っていないのかもしれないと思った。
「そんなふうにいろいろ気を遣い過ぎるから病気になってしまうんだ。せめて病院にいるときくらいのんびりしなくちゃ。倉持先生もそう言っていたよ」
「なんだ、マモルはもう倉持先生に会ってくれていたんだ。それでどんな説明があったの。だってお母さんは何にも教えてくれないから」
「この病院へ着いた日にすぐ詳しい説明を受けたよ。お母さんが、二人は大阪で夫婦同然に暮らしている仲なんだからほんとうのことを話してやってほしい、と頼んでくれたらしいんだ。だからこれから言うぼくの話をよく聴くんだ。いいね、ヒロミ」
「うん、分かったわ」
ヒロミはそう答えるとベッドの上ですっと背筋を伸ばした。
そして自由がきく右手のほうを差し出すと、背から離れたマモルの手の中に預けた。ヒロミの手は元気だったあの頃のようにひどく熱っぽかった。
「病名は強迫神経症というんだ。それはもう聞いているよね。この病気はね、ヒロミのように潔癖な性格の人が罹りやすいんだけど、強いショックや思い込みがきっかけで急に悪化することもあるらしい。ヒロミは階段からの転落事故やそれに伴う人工流産という強いショックを受けたうえ、そのあとはずっと死なせてしまったあの子に強い執着心を持ち続けてきた。その執着心が頭の中で凝り固まっているからしばしば発熱や頭痛が起きるんだ。だからあの子のことを忘れない限りこの病気は治らない、というのが倉持先生の診断なんだよ。ぼくもそう思う。だからこんなことを言うのは辛いけど、あえて言うよ。いまもぼくが好きでいてくれるのなら、そして前のようにぼくと一緒に大阪で暮したいと思うのなら、あの子のことは忘れるんだ。それしか二人が幸せになれる道は無い・・」
倉持医師の名を借りてマモルは自らが信じている処方箋をヒロミに伝えた。だがヒロミは押し黙ったままマモルの眉間を射抜くような視線でみつめている。
二人の間に長い沈黙があった。
時として巫女的な直感力を発揮するヒロミが、これまで聞かされてきた強迫神経症などという病名をそのまま信じてくれるとは思えなかった。それでも聡明なヒロミは、マモルがいま自分に対して何を訴え、何を求めているのかを覚った筈だ。死なせたあの子には済まないと思うけれど、マモルはもう一度ヒロミを自分だけのものにしたかった。古ぼけたアパートの傘電灯の下で、その日にあった出来事や、幼いころの思い出や、次の日曜日の予定について話し合いたかった。隣室の女が立てる水音や廊下に響く住人の足音を気にしながら、相変わらず稚拙なセックスを繰り返し、そのまま寝入ってしまうヒロミへパジャマを着せてやりながらあどけない寝顔にいとおしさを感じてみたかった。そしてこれまでずっと隠し続けてきた大学紛争への関わりが、マモルには挫折感と虚しさだけを残し、ヒロミには苦しみだけを残す結果に終わったことを心から謝罪して、これから再開する二人の生活について夜が明けるまで語り合いたかった。
だがマモルのそんなささやかな望みは、この病院へ着いたその日のうちに、倉持医師の説明によってあっけなく打ち砕かれていたのである。
診察室を訪ねたマモルに倉持医師は写真を示してこういった。
「これは患者の頭部を撮ったものです。よく見て下さいね。いや、よく見なくてもマモルくんにだってすぐ異常が分かるはずです。医師のぼくですらこんな大きな脳腫瘍を見るのはきわめて珍しいんだから。精神科だったからとはいえ大阪の病院が気づかなかったところをみると、この腫瘍はその後の僅か一年余りでこんなにも肥大したと考えられます。腫瘍は発生のメカニズムが今もって明らかでなく、発育や増殖の速度も症例によってまちまちで、必ずしも経過時間と比例しません。ですから短い期間でも急速に大きくなることがありますし、その間に顕著な症状が発現しなければ、こういう状態になるまで発見できないこともあるのです」
「・・」
写真に映ったヒロミの頭部は外見と変わらず小さかった。それだけに肥大した腫瘍は誰の目にもすぐ分かる。濃淡の陰影でかたちづくられた脳の姿はまるで月面写真を見ているようだった。
「これは膠芽細胞腫という組織学的には非常に悪性の部類に入る腫瘍で、大脳の脳梁を介した左右の半球に蝶のかたちをして広がっています。いわゆるバタフライ・パターンと呼ばれるものなのですが、この一カ月余りの間にも猛烈な勢いで増殖しており、すでに手がつけられない状態なのです。膠芽細胞腫の場合、手術をしても助かる確率は8%に過ぎません。それもこれよりずっと良好な状態の場合に限ります。医師としてこんなことを言うのはほんとうに辛いのですが、正直なところもうぼくの手には負えません。おそらく日本一の名医が執刀しても手術が成功する確率はほぼゼロに近いでしょう。あとは化学療法で腫瘍の増殖や生長を止めて、異常細胞の死滅を待つしか方法は無いのですが、残念ながらその治療効果もあまり期待できません。ただ不思議なことに膠芽腫は手術をしなくても、したときと同じくらいの生存率が認められていますから、まったく希望がないという訳でもないのです。こんなことを言っても気休めにしか聞こえないでしょうが」
「それではヒロミはこの病院で死を待つばかりだとおっしゃるのですか」
言葉にはトゲがあったがマモルはできるだけ柔らかな声で訊ねた。
診察室の窓の外にはヒロミの病室から見下ろした樫の苗木が一列に並んでいて、倉持医師の分厚い肩の向こうで瑞々しい葉を風にそよがせている。マモルは膠芽細胞腫という病名を聞くのは初めてだったが、倉持医師が説明してくれた内容を十分に理解することができたし、話の途中もそのあとも驚くほど冷静でいられた。
「そうは言っていません」
倉持医師は語気を強めて否定すると、ちょっと憤慨した表情になって話を続けた。
「病院は医科学の力で人の命が生まれるのを助けたり、失われるのを防いだりするところですが、同時にまたそれが可能かどうかを見極めるところでもあります。そしてどのような処置をしても医科学の力が及ばないと分かったとき、患者が死を迎えるまでの苦痛を和らげるところでもあるのです。まことに冷たい言い方になりますが、病院にも医師にも奇跡を起こす力などありません。また患者やご家族にそれを期待してもらっては困るのです。ですからもし病院で奇跡が起きたとすれば、それは医科学や医師の力によるものではなく、患者自身の生命力がもたらしたものだとぼくは思っています。ぼくが言ったのはそういう意味なんです」
「言葉が過ぎました。謝ります」
「いや気にしないで下さい。私はマモルくんにではなく、こういう患者を前にしたときの自分と医科学の無力さに腹を立てているだけですから」
「つまり、ヒロミに生きようという強い意志が生まれたら奇跡が起こるかもしれない、と先生はおっしゃるのですね」
「よく言われるように、もうダメだと諦めるより、あくまで生に執着するほうが一日でも長く生きられます。一日長く生きればそれだけ治癒や奇跡が起きる確率も高くなります。まあ医師が口にするようなことではありませんがね」
「よく分かりました。ヒロミの母もこのことは聞いているんですね」
「もちろんです。成功率がゼロに近くても手術を望まれるご家族もありますが、ヒロミくんのお母さんは手術を択ばれませんでした。助かる見込みがほとんど無いのに僅か十九歳の無垢なからだをメスで切り刻むのは忍びないとおっしゃって」
「それで先生の診断では、ヒロミは・・」
マモルはそう言いかけたがあとが続かなかった。
どうしても口にできない言葉というものがあるのだ、ということをマモルはそのとき初めて知った。同時にそれまでどうにか保っていた冷静さも何処かへ消え失せてしまっていた。そしてきわめて当然のことではあったが、マモルよりも倉持医師のほうが何倍も冷静だった。
「今日かも知れません。ぼくにはそうとしか言いようがない」
予想できた答えだったけれど、その宣告はマモルを遠心分離器の中へ放り込んだ。
全速で回り出したぶーんという機械音とともに、骨から肉が剝れていくような強烈な痛みを全身に感じた。脳みそが後悔や呵責とともに頭蓋へ叩きつけられた。
ヒロミをこの町へ帰したのはやはり間違いだった。どんなことをしても、どんな結果を招こうとも、自分の傍に居させてやるべきだった。卒業や就職などは大学紛争に加わった時点でとっくに諦めていたはずである。それなのにマモルはたった一枚の証書と引き換えに取り返しのつかない一年をヒロミから奪ってしまったのだ。
マモルはその日のうちに会社へ辞表を郵送した。
この書面が会社へ届く頃にはもうヒロミはこの世にいないかも知れない、と封筒に宛名を書き込みながら思ったが、もうそんなことで躊躇うようなマモルではなかった。ただ、大阪市、と住所を書き込んだところで、かつて泥沼化した紛争と生活費で悩んでいたときに、あれこれと励ましてくれたチェさんの一言が思い出された。
チェさんはそのときこういった。
『何も考えないですることが最善の選択になるときもあるよ』
病室のガラス窓に何かがぶつかるかすかな音がした。それは、アームライトの灯りをこがれて飛んできた夏虫かも知れなかったし、窓の外に広がる濃い闇の中を空しくさ迷っていたヒロミの魂がようやく還るべき場所をみつけて、病室のガラス窓をすり抜けてきた音だったかも知れない。
ヒロミはマモルを凝っと見つめ続けている。その視線がとても痛かった。
「分かったわ、マモル。あの子のことは忘れて、これからはマモルのことしか考えないようにする。でもこんな病気のわたしでもマモルは構わないの」
「もちろんさ。こんな病気になったのはぼくのせいなんだから」
マモルはそういうとヒロミの右手をもう一度両の手のひらで包み込んだ。汗ばむくらい熱い手はマモルの手のひらの中で溶けてしまいそうだった。
「ありがとう、マモル。でもね、わたしがこんな病気になったのはマモルのせいじゃないよ。なぜだか聴いてくれる? どうしても話しておきたいから」
「うん」
「わたし、マモルと同棲したときから、とりわけあの子を妊娠したときから、マモルの足手まといにだけはなりたくないと、そればかりを考えてきたの。貧しい田舎の家の出身で、中学しか卒業していないうえ自殺した父親を持っているわたしが、マモルなんかと結婚できるはずがないと何度も自分に言い聞かせてきた。親友の伸子が大学生の恋人から捨てられたように、わたしもいつかきっとそうなるに違いないと覚悟していた。でもね、わたしはそれでもマモルの赤ちゃんが欲しかったの。赤ちゃんさえ授かれば捨てられたって構わないと思っていた。それなのにせっかく授かった赤ちゃんを自分の不注意で死なせてしまった。いまだから言うけど、あの日の事故はたまたま起こったものじゃないの。化粧品工場から帰ってきたそのときに、タオルで顔を隠した男たちがアパートのいちばん端の部屋を襲撃していたというのは確かに偶然の出来事だったけれど、それから起こった事故はわたしがあんな無理さえしなければ避けられたはずのものだったのよ」
一気にいってからヒロミはそこで大きく息を継いだ。
「避けられた?」
マモルは驚いて手のひらに力を込めた。ヒロミはすぐ話の先を続けた。
「そう。マモルは知らないと思っていたでしょうけど、わたしはマモルが大学紛争に関わり続けていたことも、その紛争があのころ内ゲバというのを起こしていたことも、あのアパートにマモルたちが使っている秘密の部屋があったことも、ほんとうは何もかも知っていたの。だから工場から帰ってきたあの日、アパートの二階で鉄パイプを振り回している男たちを見たとたん、わたしはてっきりマモル達が襲われているものと思い込んで、危ないって知りながら階段を駆けあがっていた。そして端っこの部屋の中を滅茶苦茶にしてから急いで逃げようとしていた学生の一人に押し倒され、階段を転げ落ちてしまったの。そういうわけだからあの日の事故は誰のせいでもない。わたしが勝手に危ないところへ飛び込んで行っただけなのよ」
ヒロミはそこまで話すとさすがに苦しそうに咳き込んだ。
何もかも知られていたという衝撃より、マモルはいきなり咳き込んだヒロミのほうにもっと驚いた。痩せた背中をしばらくさすってやってから、検温のためにパジャマのボタンを外した。検温は病院に着いた日の午後から看護婦に恃んで代行する約束をしていたのだ。二時間ごとに計るヒロミの体温は地下の売店で買った大学ノートへ折れ線グラフで記入している。僅か三日間のデータだったけれど、そのグラフは明らかな特徴を持っていて、一定の周期で四十度と三十六・五度の間を上下しており、夜間はそのうちでも低くて安定した体温になっていた。そのデータ通り、しばらくして腋の下から体温計を取り出してみると、ヒロミの体温はほとんど平熱に近かった。
マモルはほっとして、喜美江に頼まれた枇杷茶をポットから湯呑みへ注ぐと、口移しに飲ませてやろうとした。ヒロミは枇杷茶をなかなか飲まなかったが、ふと思いついて口移しにしてから、マモルの目を凝っと見つめながら息を合わせて飲むようになっていたから、それいらい自らの生命力を吹き込むような思いでその作業を続けていたのである。ところがこれまでのように枇杷茶を含んだ口を近づけると、ヒロミは一瞬びっくりしたように瞳を大きく見ひらいて、自分を取り戻してからは初めてになるその行為を、ひどく恥ずかしそうに受け入れてしばらく息が合わなかった。
「ありがとう。すごく美味しいお茶だったわ」
口移しが終わるとヒロミは喉をひくつかせながらそういった。
「お母さんがいつも用意してくれている枇杷茶だよ」
マモルは頬にこぼれたお茶をタオルで拭ってやりながらそう答えた。
口移しの恥ずかしさがまだ尾を引いているのか、それとも正気とともに生気を取り戻したからなのか、ヒロミの頬にはかすかな赤みがさしてきている。
「ふぅーん、そうなの」
だがヒロミは、なぜ枇杷茶なのか、という点は訊ねなかった。喜美恵から説明を受けているとも思えない。ヒロミにとってそれは関心外のことだったのか、それとも敢えて訊ねようとしなかったのか、それはマモルにも分からなかった。
「ねえ、マモル・・」
次の言葉まで一呼吸を置くヒロミの口癖を、マモルは今度こそはっきりと聞いた。それは今もくっきりと耳に残っているこれまでのトーンと一致している。
「なに」
「わたし、記憶があちこちで壊れている気がするの。だって三日も部屋にいてくれたのに、ちっともマモルのことを覚えていないんだもの。こうして口移しで何度もお茶を飲ませてくれたり、蒸しタオルで顔やからだを拭ってくれたり、ずっと食事の世話までしてくれていたはずなのに、何も覚えていないの。ごめんね」
「しばらく高熱が続いていたんだ。それはしかたないさ」
マモルは殊更ぶっきらぼうに答えた。
それから二人の間にまた短い沈黙があった。ドアの向こうで夜更けの廊下を歩くスリッパの音がしている。濡れたモップを引きずっているような擦り足のその足音は、病室のドアをノックしそうなほど近づいてから、やがてゆっくり遠ざかって行った。
「わたしね、いまお祈りしているの。加賀の潜戸におられるお地蔵さまに」
「なんて?」
「あの子のことはもう何もかもお願いしますって。それから、もう二度とマモルのことが分からなくなるような病気にだけはしないで下さいって」
「お地蔵さまはきっとどちらの願いも叶えて下さると思うよ」
「うん。わたし、入院する前に一人で立久恵峡へ行ったの。加賀の潜戸へも行ったわ。そしてそのあとでやっと気がついた。あの子のことはいつか忘れることが出来ても、わたしにはマモルを忘れることなんて絶対に出来ないってね。ところがそれに気がついたとたん、高熱を出して倒れてしまった。ほんとに皮肉よね」
「それはね、心にも無いことを神仏に祈ってきたから罰があたったんだよ。願いは哀しいほど強烈だから心の奥底へ沈殿してしまう。そのためにますます忘れられなくなって苦しむ人もいるけれど、いきなり願いが叶うという罰を受ける人もいる。人の記憶というものはどっちみち完全には消せないんだからね」
「わたし、あの子さえ授かったらマモルとは別れられると信じていたの。ところがあの子は生まれてこなかった。そしてマモルとは別れるんだという思いだけが宙ぶらりんで残ってしまった。自転車の荷台に乗せてもらって退院したあの日から、このままずっとマモルの背中にしがみついていたいという気持と、やはりマモルのお荷物になんかなれないという気持が、ずっとわたしの中でせめぎ合ってきた。でも結局、自分では何も決められなかったわ。あの子のことを一途に思い続けたのも、こんな病気になってマモルを困らせたのも、結論を出せない自分から逃げていたからだと思う。だからこの町に帰ることもマモルや母に決めてもらうしかなかった」
「それが間違いだったんだ。愛し合ってさえいれば何処にいようと変わらないと考えていたぼくが間違っていた。この病院へ着いた日に、エレベーターで会った中年の患者とその夫人からぼくはそのことを教えてもらった。からだが離れればやはり心も離れてしまうのだということをね。だからどんな苦しい状況に置かれたってぼくたちは遠く離れて暮らしてはいけなかった。ヒロミをお母さんの手に預けて逃げたのはぼくのほうなんだ」
「わたし、この町に帰ってから色々なことを考えたわ。死んだ父のこともね。父はどうしてわたしや母を残してあんな身勝手な死に方をしたんだろうって。それにそれは単なる男のエゴイズムなのに、どうしていままで憎みきれなかったのだろうって。でも最近になってようやく分かったの。父がああいう死にかたをした理由が・・」
「どういうこと?」
「それはね、父はきっとわたしと同じ病気に罹っていたのよ。しかもそのことは父だけが知らされていた。たぶん間違いないわ」
「そんな・・」
おしゃべりが過ぎたのかヒロミの声は擦れはじめていた。
半びらきでオレンジの果肉のようなヒロミの唇が、父はきっとわたしと同じ病気に罹っていたのよ、という言葉を発したとたん、マモルのほうは胃の中で焼けただれた鉄球が暴れ出したようなショックを感じていた。胃壁のあちこちにきりきりとした疼痛が走り、嘔吐感が咽喉を伝ってせりあがってくる。それは決して先ほど飲んだウイスキーのせいではなかった。
ヒロミはもうすべてを知っているのだ。巫女のような直感力ですでに自分の死を覚悟しているだけでなく、恐らくは優作の死の真相までも正確に言い当てているに違いない。そういう確信がマモルの胃を掻きむしっているのだった。
「でもマモル、わたしは違うよ。たとえ父のように一人で舟に乗ることになったとしても、わたしはきっとマモルに、さよなら、を言ってからにするから」
木製ロッカーの上でディズニーの置時計がチッチッと時を刻んでいた。
文字盤の上でヒロミの大好きなドナルドダックが、ゆっくりと流れる時間を受けとめるように大きな両手を広げて笑っている。だがマモルとヒロミにはドナルドダックのように嬉々として受けとめるだけの時間はもう残されていなかった。
7
「わたしお風呂に入りたい」
ディズニーの置時計が午後十時を回ったとき、ヒロミがぽつりとつぶやいた。
潔癖症のヒロミはまた綺麗好きでもあった。掃除や洗濯は徹底していたが、入浴も毎日欠かさなかった。だから一年ほどの同棲期間に銭湯へ行かなかったのは、転落事故と流産のために入院していたあの五日間だけで、ヒロミはいつも嫌がるマモルを急き立てて商店街の薬屋の角を曲がったところにある銭湯へ通ったものだ。
「えっ、お風呂?」
「そう。だってわたし、入院してから一度も入っていないんだもの。どれくらいになるのかな」
「一ヵ月くらいだろう」
「もうそんなになるの。恥ずかしいわ」
「そう言えばぼくだって三日も入っていない」
「なんとかならないかしら」
「そう言われてもね。それにヒロミはまだ入浴の許可なんて出てないんだろう」
「でもマモルと入りたいの。だってこれまでは銭湯ばかりで一緒にお風呂へ入ったことなんか無かったもの。そんなの哀しすぎるわ」
「お母さんのアパートには風呂が無いという話だったしなあ。あと考えられるのは温泉か旅館だね。でも外出許可なんか絶対に出してもらえないよ」
「こっそり脱け出るのよ」
「それしかないね。ただ温泉や旅館だってふつう男湯と女湯は別々だよ」
「そうか。やっぱり無理な願いなのね」
「いや、ちょっと待って。もしかすると可能かも知れないな。いまからチェさんに電話をかけて相談してみるよ」
「チェさんに?」
「そう。チェさんは出雲に何人かの友達がいて、確か銭湯を経営している人もいると言っていたと思う。いつか仕事をしながらそんな話を聞いた記憶があるんだ」
「でも銭湯じゃ、やはり一緒に入れないでしょ」
「こんな時間だし、経営者だからね。もしかしたら何とかなるかもしれない」
「そうだといいわね」
「さっそく電話してくるよ」
「うん、お願い」
マモルは手を合わせているヒロミを背にして、まるで熱に浮かされた犬のように病室を飛び出していた。今日明日に死を迎えてもおかしくないと主治医が宣告した重病人を、病院から勝手に連れ出したうえ風呂にまで入れようとしている自分の無謀さが、マモル自身にも理解できなかった。だがそんな重病人の希みだからこそなんとしても叶えてやりたいという思いのほうが強かった。
ちらと振り返ると、ヒロミは嬉しそうに頭を持ちあげて病室を走り出て行くマモルを見送っていた。マモルは静まり返った病院の廊下を急ぎながら、不意に浮かんだ記憶の欠けらに誤りのないことを願った。ズック靴がきゅっきゅっと音を立て、その音がPタイルの床と白い天井ボードの間で気になる反響を繰り返している。幸いエレベーターホールにも一階のロビーにも人影はまったく無かった。やけに広く感じる夜間のロビーには僅かな照明と非常口を示す緑色灯だけが点っていた。
マモルはゴールドクレストの鉢植えの陰にある公衆電話のダイアルを回した。
「もしもし、チェさん? マモルです。こんな夜遅くに電話してすみません」
「いや構わんよ。それよりこの電話は長距離みたいやな。出雲からかけてるのか? もしかしてヒロミちゃんに何かあったんやないか」
心配と緊張が入り混じったチェさんの声が電話の向こうから流れてきた。
あの町の夏の夜はまるで焦熱地獄だ。汗っかきのチェさんは禿げあがった額だけでなく、おそらくはランニングシャツとステテコだけのからだ一面に大粒の汗を噴き出させて、さかんに渋団扇をぱたつかせていたはずである。
「そうなんです。実は・・」
マモルは、いま夏の休暇をとって出雲へきていること、入院中のヒロミが悪性の脳腫瘍に侵されて余命僅かだと医師から聞かされたこと、そのために四月に入社したばかりの会社へは今日付けで辞表を郵送したこと、そしてようやく正気を取り戻したヒロミがどうしても二人きりで風呂へ入りたいといっていること、を矢つぎ早に告げた。チェさんはいつものように相槌の一つも打たず、聞いているのかいないのかが心配になるくらいただ黙って凝っと耳を傾けているだけだった。
そしてマモルの話が終りに近づくといきなり嗄れ声をあげて、
「分かった。マモルくん、ようわしの話を覚えててくれたな。出雲には確かに弟みたいな知り合いがいる。そんなことは容易いことや。わしがすぐにでも何とかするさかい、十分ほどたったらもういっぺんこっちへ電話してんか」
というなり向こうから一方的に電話を切ってしまった。
受話器を置くと余った硬貨が受け皿に落ちて、静かなロビーに驚くほど大きな金属音を響かせた。マモルは落ちた硬貨をそのままにしてベンチに座り込むと、近くにあった円筒形の灰皿を引き寄せて、ポケットの中で折れかけていた煙草の残りを取り出して火を点けた。天井に向かってふーっと息を吐き出すと、一直線に駆け上がった紫煙が上空で巻雲となってたなびき、夏の夜明けどきのような薄明のロビー空間へ溶け込んでいく。夜行列車を加えると四日間はまともな眠りについていないというのに、マモルは不思議と眠気を感じなかった。たださっきヒロミの病室を出る前に感じた胃の痛みと嘔吐感だけはまだ延々と続いていた。
ゆっくり煙草を吸い終わっても五分とかからなかった。
マモルはいったん病室に戻ろうかと迷ったが、ロビーをうろついているうちに通用口を示す緑色灯を見つけて、その先にひっそり伸びている暗い廊下の先を辿ってみた。廊下の突き当たりには観音びらきのドアがあって内側から閉じる鍵がついていたが、幸い施錠はされていなかったので簡単に外へ出ることができた。かたわらに付属している警備室と思われるブースにも人気はなかった。
それだけのことを確認すると、マモルはまたロビーへ戻った。消しそこねた煙草の火が灰皿に溜った吸い殻へ燃え移って、まだぶすぶすと燻っていた。
「マモルくんか、話はついたで。いまから一時間ほど経ったら、わしの友達の仁科という男がきみたちを病院の前まで迎えに行く。仁科というのは日本名やけどわしと同じ韓国人でな、きみが覚えていたように出雲市内で銭湯を経営してるんや。かいつまんで事情を説明したら、仕舞い湯でよかったらなんぼでも使うてくれと言うてる。ちっとも遠慮はいらんさかい、ヒロミちゃんとゆっくり湯に浸かっといで」
二度目の電話をするとチェさんはマモルが拍子抜けするほどあっさりといった。
「いますぐにですか」
「あたり前やないか。明日になったらヒロミちゃんはどうなるか分からんのやろ。先に延ばしたり、考えたりするヒマがあったら、ともかく行動することや」
「感謝します、チェさん」
「ああ」
電話の向こうでぶっきらぼうにチェさんは答えた。
これまでマモルはそんなチェさんに何度となく世話になっていた。学費や生活費に困った時はいつでも段ボール工場で雇ってくれたし、流産をしたヒロミが病院を退院するときには入院費用の立て替えまでしてくれた。だがチェさんはどんな時も多くを語らないし、また訊ねもせずにマモルの願いを聞き入れてくれるのだった。
「でもチェさん。もしかするとヒロミはその銭湯で意識を失って救急車を呼ぶことになるかも知れません。いやその場で死んでしまうかも・・。そんなことになったら仁科さんに迷惑がかかることになりますが」
「長いこと銭湯商売をやってたらな。湯にのぼせたり滑って転んだりして、死人の一人くらい出ることもあるらしい。わしが念を押したら、あいつは、そんなこと気にせんでええと言うてたわ。まあ、そんなことが起こらんことを祈っとるけどな」
チェさんはすでにそこまで相手の諒解を取りつけてくれているのだった。
「これからも何かあったらいつでも電話してきてや。待っとるからな」
チェさんは必要なことだけを告げるとまたさっさと電話を切ってしまった。
注ぎ込んだ硬貨のほとんどが今度もまた大きな音を立てて戻ってきた。チェさんはおそらく長距離電話の通話料金にまで気を回してくれたのだろう。
点滴を再び交換するまでにはまだまだ十分な時間があった。患者の検温や介助までしてくれる付き添い人がずっと付いているのだから、こちらからナースコールを送らないかぎり朝まで看護婦が病室を覗くことはないだろう。点滴は目を離したすきに患者が無意識に外してしまったようだといって謝ればすむ。もし露見すればそれはしかたがないとマモルは覚悟を決めた。
すでに脱出ルートの下調べは済んでいる。きっかり一時間後にマモルはヒロミを背負って病院の通用口を出た。
パジャマの上にカーディガンを羽織っただけのヒロミはマモルの両肩にしがみついて熱いからだを密着させている。間近に広がっている水田でうるさいほどの蛙の鳴き声がしていた。水田の周囲には溝川が流れているのだろう。無数の蛍が黄色い光跡を描いて舞っている。樫の若木の植栽に添ってしばらく歩いたあと、角を曲がるとそこはすでに病院の正面だった。正門前の路上に出てみると、エンジンを切って室内灯だけを点けた白いライトバンがツツジの植え込みの横で待機しているのが見えた。向こうもマモルたちを見つけてくれたらしく、車に寄りかかっていた人影が足早に近寄ってくる。虫や蛾がまとわりつく街灯の下で二人は無言のまま会釈を交わした。街灯の明かりで垣間見たその人は、チェさんと同じくらいの年齢だが背丈はずっと高くて髪の毛も豊かな男性で、面長な顔立ちは明かりの加減で陰影を失っていたから、ややのっぺりと見えてひどく冷たい印象を受けた。マモルは何の根拠もなくチェさんと似た男性を想像していたので少しばかり不安になった。
「仁科さんですか」
「そうです。マモルくんですね。お待ちしていました。さすがに病院の関係者とかに見咎められるとまずいですから、ともかく急いで車のほうへ乗り込んでいただけますか。妻が助手席にいますので、お二人は後部座席のほうへどうぞ。おい、早くお手伝いをしないか」
仁科さんが押し殺した声でそう言い終わるよりも早く、転げ出るように助手席から飛び出してきた女性が早くも後部座席のドアを開けていた。
その女性、つまり仁科さんの奥さんはまだ三十代にも達していないのではと思えるほど若い人で、ヒロミに負けないくらい小さくて整った顔立ちをしていた。ゴムひもで無造作に束ねた長いストレートヘアを背中のほうへ流している。ブルーのタイトスカートから伸びた素足は夜目にも白かった。
「座席を倒しましょうか」
奥さんはマモルが背中からおろしたヒロミのからだを支えてくれながら訊ねた。
「いえ、そのままで結構です」
マモルは両手でヒロミを抱えると奥さんの協力を得て後部座席に座らせた。病院の正門や暗い路上には依然として人の気配はなかった。マモルたち全員がライトバンに乗り込んでドアを閉じてしまうと、ヒロミはこわばっていた表情をようやく崩して、倒れ込むようにマモルの胸へ顔を埋めた。
「とりあえず発車します」
仁科さんは相変わらず押し殺した声でそういうといきなり車のスターターをひねった。すると蛙の鳴き声だけがしている闇に、一瞬、怯んで肩を竦めたくなるようなエンジンの始動音が響き渡った。
「まるで誰かを誘拐しているみたいだったわ」
ライトバンが広い通りに出ると、奥さんは溜め息をつくようにしていった。
「確かにそうだな。胸がどきどきしたよ」
仁科さんはようやく緊張が解けたのかふっと肩の力を抜いてそう答えた。
ずっと前屈みの姿勢でハンドルを握っていた仁科さんは、奥さんがいったように、まるでパトカーに急追されて逃げ惑っている誘拐犯のようだった。しばらく前方やバックミラーに注意深い視線を走らせていた仁科さんは、やがて大きな吐息を洩らすと、上半身を思い切りぶつけるようにシートへ背をもたせかけた。その大きな背中には隠しようのない安堵感が漂っていた。
マモルは改めてルームミラーに映った仁科さんの顔を見た。するとその顔は人の好さそうな笑みを満面に湛えていて、さっき街灯の明かりで垣間見た顔とはまるで別人のようだった。冷たい印象を受けたのは極度に緊張していたからのようである。だとするとハンドルを握っている仁科さんの手のひらはまだ冷汗にまみれているはずである。マモルは悪路のせいで上下左右に揺れる後部座席でヒロミを抱きかかえながら、そんな仁科夫妻の背中に向かって心の中で手を合わさずにはいられなかった。
「ヒロミさんでしたね。大丈夫ですか」
仁科さんはなおも前方に注意を払いながらも、ちょっと後部座席を振り返ってそういった。同時に助手席の奥さんも思い切り上半身を捻って心配げに覗き込んだ。
「ええ、大丈夫のようです。色々とご迷惑をおかけして申しわけありません」
「なに、この際そういう気遣いは無しにしましょうよ。私とチェは同郷の幼な馴染みでしてね。韓国は慶尚南道の出身なんですが、いわゆる戦時中の強制移住組というやつでして。もうずいぶん昔の話ですから若い人には分からんでしょうが、日本が戦争に負けた後もそのまま残った同胞があちこちに散らばっていましてね。中には私とチェのようにしばしば連絡を取り合っている者も多いんですよ。だからお二人の話を伺ったのも今日が初めてじゃない。前からおよその事情は聞いていますから今夜は私たちに任せて下さい」
「ぼくたち、チェさんにはずいぶんお世話になっているんです」
「そうですか。でもね、チェはそれが凄く嬉しいんですよ。私たちだってそうです。確かに辛くて惨めな時代が長く続きましたが、マモルくんたちの世代になって私たち在日韓国人の存在がやっと認められようとしていますし、まるで日本人同志のようにこうして頼ってももらえる。それが何よりも嬉しいんです。古くて小さいこの町では在日の多い大阪のようにはいきませんが、私たちもチェのようにそろそろ韓国名を名乗ろうかと話し合っているところです」
「すぐそこに故国が見えますものね。そんな出雲の地でこれまでご苦労になり、銭湯を経営されるようになるまでは色々おありだったんでしょうね」
「なんと言ってもここは神様の国ですし、とりわけ日本的なところですからね。私はともかく父や母の苦労は並大抵なものじゃなかったようです。天秤棒を担いで港で仕入れた雑魚の行商をしたり、テキ屋に小突かれながら露天の商いをしたり、私ら親子は大雪が降ったら押し潰されそうな板囲いの家で十年余りも暮らしました。ですから私なんかろくに小学校へも行っていません。ただ父と母には少しばかり商才があったのでしょうね。蓄財を注ぎ込んでささやかな銭湯を残してくれたんですが、それで安心してしまったのか、それとも長年の無理が祟ったのか、老後を楽しむ暇もなく相次いで死んでしまいました」
仁科さんはすでに恨みを濾過してしまったような淡泊さでそういった。
車窓には背後に山を従えて広がる大きな神社が見えかくれしている。漆黒の闇に包まれた社の中で神々はもう深い眠りについているようだった。
「もうすぐ着きます。銭湯はもう今夜の営業を終えていますので、どうかごゆっくりお入り下さい。男湯のほうが綺麗でしたのでそっちを開けておきました」
奥さんがそういうと、仁科さんがすぐそのあとを引きとった。
「私たちは女湯のほうを掃除していますから入浴が終ったら声をかけて下さい。何時になってもかまいませんからね。また二人して病院へお送りしますので」
「分かりました。お言葉に甘えさせていただきます」
「着替えはお持ちですか」
「ええ。ヒロミのもぼくのもこの中に」
ナップザックを持ちあげてマモルが答えたとき、車は静かに止まった。
木造の古い家屋と小さな木戸が見えている。車から降りて屋根を見あげると、青っぽい夜空に太くて長い煙突が伸びていた。木戸の奥に見える建物は仁科さん夫婦が住む母屋で、表通りに面している棟続きの銭湯とは背中合わせになっているようだった。百日紅や黒松がかたちよく植栽された庭園の奥で飼い犬が低く啼いたが、奥さんが短く叱責するとたちまち啼きやんだ。ライトバンをいったん車庫へ納めるために仁科さんはそのまま車に残っている。
ヒロミは後部座席から自力で車を降りた。しかし足もとはおぼつかない。
母屋の玄関まで石段と飛び石が続いているのを確かめたマモルは、介添えはいらない、というヒロミをむりやり背負って先導してくれる奥さんのあとに従った。ところが、てっきり母屋へ入るものと思っていたのに、奥さんは明るい軒灯を掲げた玄関の手前でくるりと方向を変えると、右手に広がる庭園の奥に向かって直角に岐れている飛び石伝いにゆっくりと進んで行った。庭園が途切れる辺りから母屋とは明らかに造作が異なるモルタル壁の別棟が続いているのが分かった。その壁と貝塚の垣根の間に人が通れるくらいの小道が伸びている。
小道を少し行ったところで奥さんはようやく立ち止まった。
そこにはモルタル壁の一部を長方形に穿ったような勝手口があって、雨よけの小さな庇とコンクリート製の沓脱ぎ石が小道へと突き出ていた。勝手口のドアを開けると中はすぐ女湯の脱衣場になっている。奥さんは真っすぐその脱衣場を突き切ると、番台の仕切り板を勢いよく跳ねあげてから、男湯のほうへマモルたちを招き入れた。
「さあどうぞ。ご覧のようにお二人だけですから気兼ねなくごゆっくりお入り下さい。タオル、石けん、剃刀、それに粉末シャンプーの小袋をこの乱れ籠に入れています。ご自由にお使いくださいね。ほかに何かご入り用のものはございませんか」
奥さんはきちんと両手を前に揃え、にっこり微笑みながらそういった。
すると奥さんの左の頬に小さな笑くぼができて、アニメのヒロインのような愛らしい顔立ちが一層きわ立った。明るい蛍光灯の下に立つと奥さんはさらに若く見える。四十歳過ぎと思える仁科さんとは一回り以上の歳が離れているに違いない。
「いろいろお気遣いいただいて。遠慮なく使わせていただきます」マモルがいうと「ありがとうございます」と背中のヒロミも小さな声で礼をいった。
「ヒロミさん、良かったわね」
奥さんはマモルの首に回したヒロミの腕をさすりながらそういって、もう一度微笑みかけた。そのあと奥さんは、まるで出雲大社に向かって拝礼をするような恭しいお辞儀をしてから、仁科さんが待っているはずの女湯のほうへ引き返していった。
マモルはヒロミを抱きかかえたまま湯槽に入った。
そこには二十坪はありそうな広い浴室が二人のためだけにあった。富士山と海浜と松原を描いたお決まりのタイル画。冬の湖面のように湯槽からゆらめき立っている湯けむり。壁ぎわにずらりと並んだ小さな鏡と銀色に鈍く光っている蛇口。そして浴室の隅に積み上げられている薬品名の広告が入った黄色い手桶。それらのすべてがなぜかひどく新鮮で初めて見るもののように感じられた。
ここは仁科さんの銭湯ではない。二人にとっては贅美を尽くした王宮の浴室だった。正面に回ったヒロミは両手をマモルの首にからませ、広げた両脚を湯の中でばたつかせながら嬉しそうに周りを見渡している。水滴が流れている肌理こまかな肌、痩せたことで逆に膨らみが目立つようになった乳房、少年のようにスリムな腰と尻、湯の中でゆらめく黒い陰毛と白い脚、そういったヒロミの肢体のすべてが宝石のように輝いて見える。こんなみずみずしい果実のような肢体をいまも休むこと無く蝕んでいる病魔があるなどと、マモルにはとても信じることができなかった。
「マモル、ほんとうにありがとう。これであの子と父に綺麗なからだで会えるわ」
ヒロミはしがみついて頬を擦り寄せながらそういった。
「またそんな言い方をする。何もかもチェさんと仁科さんご夫婦のお陰だよ。まさかこんなことが実現するなんて思わなかった。ぼくも夢を見ている気分なんだ」
「夢でもいいわ。こんな素敵な夢ならね。ただこのまま覚めないでほしい」
「こんな広いお湯を二人だけで独占するなんてね。とびきりの贅沢をさせてもらっているんだよ」
「そうね。つまり病気に感謝しなくちゃいけないわけだ」
「そういう言い方はするなと言っただろう」
「あっ、マモル、怒ってる。ごめんね」
そういうとヒロミはいきなり下半身ごとのしかかってきてキスをした。
薬品が匂っているヒロミの唇が覆いかぶさり、つんと尖った乳首がマモルの胸へ押しつけられると、二人はたちまちバランスを失って湯の中へ倒れ込んでしまった。何秒かの水没のあとで、浴槽の縁に手をかけてマモルが体勢を立て直すまで、ヒロミはそれでも首にからませた腕と合わせた唇を離すことはなかった。
「ちょうどいい具合に髪の毛も濡れたことだし、向こうでシャンプーをしてやるよ。そのあとでからだも綺麗に洗ってあげる」
「嫌よ。からだくらい自分で洗えるわ」
ヒロミはそう答えると悪戯っぽい目をしてマモルをにらんだ。
マモルはヒロミを抱き上げると滑らないように足裏を踏張って湯漕を出た。湯からあがるとヒロミのからだは浮力を失った分ずしりとした重みを感じさせた。両腕に伝わってくるその重量感がマモルには堪らなく嬉しい。びしょ濡れの長い髪が垂直に落ちかかって洗い場の青いタイルまで届きそうだった。
からだくらい自分で洗うと強がりをいったのに、ヒロミはいかにも気怠そうで、タイルの上へしゃがみ込んでいるのが精一杯だった。マモルがシャンプーをしてやったり、両腕や腹や手足を洗ってやっている間、上半身はぐらぐらと揺れ続けてまるで首の座らない赤ん坊のようだった。
「ねぇ、マモル・・」
「なに」
「わたしたち、とうとうお風呂のあるアパートには住めなかったね」
「そんなことないよ。こんどヒロミが大阪へ戻ってくるまでにはバス・トイレつきのアパートを借りておくよ。ぼくはもう社会人なんだから」
マモルはサラリーマンとはいわずに社会人といった。やはり三日前に会社へ宛てて郵送した退職届が頭の中を過った。あれはすでに受理されているだろう。
「わたし大阪へは戻れないわ」
「どうして」
「どうしても」
マモルにはそれ以上問い詰められない。またその答えを聞きたくもなかった。
この三日間、マモルは膠芽細胞腫という病名をどれくらい頭の中で反芻してきただろう。黒い蝶のかたちをしたバタフライパターンがくっきりと網膜に焼き付いている。そればかりではない。今日かも知れません、といった倉持医師の声が、いまこのときも耳の奥で渦を巻いているのだった。
女湯のほうで勢いよく湯を流す音とタイルを磨くブラシの音がしている。手桶が転がったらしく、乾いて小気味のよい音が上部を切り取った仕切り壁の向こうで響き渡った。仁科さん夫婦が洗い場や湯槽の掃除をしているのだ。
マモルはたっぷり石けんを擦り込んだタオルで、さらにヒロミの背中やうなじを丹念にこすっては、桶の湯を注ぎかけるという作業を繰り返した。ヒロミはうっとりしてからだを預けていたが、さすがに前の方は自分で洗うといってはにかんだ。
「ヒロミが大阪に戻れないのなら、ぼくが出雲に来たっていい。そうだろう。仕事や就職口くらい何処にでもあるさ」
「ありがとう。あいかわらず優しいのね、マモルは。わたしにはマモルのその優しさがすべてだったわ。ほんとうに嬉しかった。それとね・・」
「あっ、ちょっと待って。頭から湯をかけて泡を洗い落とすからね。しばらく黙って目をつぶっていてくれるかな」
「うん」
マモルはヒロミを抱きかかえるようにして桶の湯を五度ばかり頭とからだ全体に注ぎかけた。シャンプーをしている時にも何本かが指にからみついて困ったが、かなりな数になる抜けた髪の毛がこまかな石鹸の泡と戯れる生き物のように身を捩らせながら、タイル貼りの狭い側溝の中を排水口に向かってゆっくり流れて行った。
「もういいよ。それでなに?」
タオルで髪の毛を拭ってやりながらマモルは途中で遮った話の続きを促した。
「うん、それとね、わたしが生きていたという証にやっぱりマモルの赤ちゃんが欲しかったな。でもこれはもう言わない約束だったよね」
「元気になればまたできるさ。あの子もきっとそれを望んでいる」
「できても生めないわ、きっと」
「できてからじゃないとそんなこと分からないよ」
「それなら、いまここでつくって」
「えっ」
「いまここでわたしを抱いてと言っているの。このまま病院へ帰ってしまったらもうわたしたちに赤ちゃんはできないわ。だからここでして・・」
「無茶を言うなよ。ここは町の銭湯だし女湯のほうには仁科さんご夫婦だっているんだ。それよりヒロミはもともと風呂にも入っちゃいけない重病人なんだよ」
「そんなこと言われなくとも分かってるわ。でもこのままじゃいつまで経ってもマモルとわたしの赤ちゃんはできないのよ。わたし、生めなくったっていいの。せめてお腹の中に入れて死にたい」
「死ぬなんて」
「それにこの機会を逃したらマモルはもう永遠にわたしを抱けなくなるのよ。わたしはそんなの絶対にいや。マモルはそれでもいいの?」
「よくはないよ。だけど・・」
マモルはもう一年以上もヒロミを抱いていなかった。もちろんヒロミ以外の女性もだ。だからヒロミの言葉はくらくらするほどの目眩を誘った。
「お願い、ここで抱いて。最後にもう一度だけ。そしてわたしのからだの中にマモルの精子をいっぱい詰め込んでほしいの」
「そんなことをしたら死んでしまう」
「死なないわ、ぜったい。わたしの中で新しい命の芽が生まれるまでは」
「・・」
マモルにはもう抗い続ける言葉と意志が失せかけていた。
からだの中をすでに熱い血が駆けめぐり、至るところで血管が膨らんでいた。実を言うと、いまここで抱いて欲しい、とヒロミが言った直後から、マモルの男根は激しく勃起していたのだ。いや、ヒロミを抱いて湯槽へ入ったときから、もしヒロミがこんな重病人でなかったら、もし女湯に仁科さん夫婦がいなければ、と頭のどこかで考え続けていたのだ。青いタイルの上に横座りしたヒロミは背中や髪を洗っている間ずっと背を向けていたが、いつもの鋭い直感でそういうマモルのからだの変化を感じ取っていたに違いない。それだけにマモルは二重の罪悪感に苛まれた。
だがヒロミは、あくまでこれはわたしの最期の我がままなのだ、と言い張った。
そしてマモルが手渡した二枚のバスタオルを自分の手で青いタイルの上に敷き詰めると、その上にそっと仰向けになって脚をひらき、ゆっくりと目を閉じた。
行為のあいだ、マモルの頭の中を黒い蝶が飛び続けていた。それはあたかも花の蜜を吸うようにヒロミの脳に食らいつき、いまも蝕み続けているあのバタフライパターンだった。そしてこういう結果を招いてしまったことで、チェさんや仁科さん夫婦から受けた好意は生かされたのか、それともその好意を逆しまにとって正面から裏切ったことになるのではないか、と考え続けた。
不老橋を渡って神戸川添いの細い道を上流へ辿ると、のしかかってくるような岩壁が迫ってきて、陽光を遮るほど葉を繁らせた古木が周囲を取り巻いた広場に出る。
広場には冷んやりとする霊気が漂っており、苔むした岩棚で五百羅漢たちが蝉時雨を浴びていた。青葉の間隙をかいくぐった木漏れ日が幾つかの羅漢の上へ落ちている。羅漢たちは小さな日溜まりの中で法悦に浸っているかのような微笑みを湛えていた。体つきや仕草や持ち物は実に様々で、顔かたちや表情も一様ではない。観る者の思いがそこに映じるとそれはさらに千変万化するのだった。
ヒロミは初めてこの立久恵峡を訪れたとき、羅漢さまの中には必ず現世の知り合いや亡くなった人の顔があるのよ、とマモルに教えてくれた。
そしてヒロミはその中に父の優作に似た羅漢を見つけてそっと手を合わせた。マモルはそのときと同じ羅漢の前に跪くと、半紙に包んだヒロミの遺髪の一部を裳裾の下にそっと供えて合掌した。その祈りは日溜まりの位置が地面を大きく移動するまで続いた。静寂の中に声変わりした鶯の鳴き声が山腹にある霊光寺の辺りからときおり聞こえてきた。
一人ぽっちでするヒロミの葬儀だった。だがマモルは羅漢たちの中にヒロミを探したりはしなかった。ヒロミはここにいない。自分の中にいるのだ。
仁科さんの銭湯へ行ってから四日後にヒロミは死んだ。
ヒロミが願ったように、マモルの精子は確かにからだの中に残されたが、新しい命の芽は生まれないままの死だった。
『でも、マモル。わたしは違うよ。たとえ父のようにひとりで舟に乗ることになっても、わたしはきっとマモルにさよならを言ってからにするから』
正気を取り戻した夜にそう約束してくれたが、病室でいきなり昏倒したヒロミはその後には一言も発することなく十時間後に息を引きとった。
倉持医師からは厳しい余命宣告を受けていたとはいえ、余りに唐突な死に、やはり仁科さんの銭湯での行為がヒロミの死期を早めたのではないか、という思いがマモルの頭の中からいつまでも消えなかった。あれがヒロミの約束してくれた、舟に乗る前のさよなら、だったのだと必死に思おうとしたが、どこかにそんな勝手な言い訳を許さないもう一人の自分がいて、一緒に臨終に立ち合った喜美江の顔をまともに見ることができなかった。
集中治療室から霊安室へと移されたヒロミのからだは、死者とは思えないほどみずみずしい肌にまだかすかな石けんの香りを漂わせていた。主治医の倉持医師は鄭重な悔やみの言葉を述べたあとで、いかにも言いにくそうに遺体の解剖を申し出たが、手術さえ承諾しなかった喜美江がそんなことを許すはずは無かった。仁科さんの銭湯へ行ってからすでに四日が過ぎていたが、ヒロミは望み通りにきっと入浴で浄めたからだのままあの子や父親に会えるだろう。
マモルは翌日行われるヒロミの葬儀には出席しなかった。それはマモルの将来を配慮してくれた喜美江の強い意向であるとともに、経緯はどうあろうとも、最愛の娘を奪い去った男に対するささやかな母親の意地でもあっただろう。
マモルは、それでも泣きながら喜美恵が切り取ってくれたヒロミの遺髪を受け取ると、黙礼を返しただけで一度もうしろを振り返ることなく霊安室を出て、そのまま出雲駅から立久恵峡行きのバスに乗ったのだ。ヒロミは加賀の潜戸で死んだあの子に会うことができた。そればかりか立久恵峡の五百羅漢の中に父親の姿を見出していた。だからマモルは、仁科さんの銭湯でしっかりと洗ってやったヒロミの髪の毛を、この二カ所に届けてやろうと決めたのである。
ヒロミの葬儀を終えると、マモルは雨雲が嘘のように消えて夏の終わりの太陽が照りつけるバス道に戻った。時刻表を見ると数少ない路線バスが来るまでには気の遠くなるような時間があった。マモルには到底その時刻まで凝っと待ち続けていることはできなかった。時おり走り去るトラックに向かって手をあげてみたがそれも空しかった。しかたなく市内へ向かっているつづら折れの道を、バトンの手渡しを待つリレー走者のように振り返りながら小走りで歩きだした。トラックには最後まで同乗させてもらえないかも知れないし、どこかの停留所までの途中で次の路線バスに追い越されるかも知れない。だがいまのマモルには結果など考えずにまず行動することが何よりも大切だった。
陽が落ちるまでにはあの子が待つ加賀の潜戸へ行ってやらなければならない。
《了》
賽の河原の物語 歌垣丈太郎 @jo-taro
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます