第11話

11.専属契約


 橘弘幸は、中村聡子とマーティン・キプトを伴って神奈川電算陸上部を訪ねていた。本日はキプトの推薦する天津颯太を直接見てみることが目的である。その上で自分でも納得できればニューシューズを履いてくれる契約ができればと思っていた。橘は陸上経験もあり、フォームや走っている時のスピード感などはある程度分かる。天津が契約を結ぶにふさわしい選手かどうか、自分の目で確かめておきたかった。むろん、向こうが自分の所のシューズを気に入ってもらえなければ、話にならないが。

橘は天津颯太の名前は知っていた。大学生のころから活躍していたので、陸上に携わる者として当然目には止めていたのである。しかし、社会人になってからの天津はとりわけ目立った活躍はしていない印象であった。たしかMGC本選にも出ていなかったはずだ。「そんなので大丈夫か」という思いはある。それに、天津がどんな走りをしていたか、はっきりと思い出せない。特徴のある走りではなかったのだろう。その天津をキプトが第一に推してきた。天津はこの1年あまりで大きく変わったとでもいうのか。


 橘たちは、総監督の吉田健二と、天津颯太のコーチの大野春馬に挨拶をして、彼らの案内で、まずは颯太の走りを見に行った。ニューシューズの説明は練習後にと思ったのだが、筋トレなどは3時間もするとのことで、トラック練習が終わったら、ちょっと話を聞いてもらうことにした。トラックに出てみると、ちょうどこれから10000mのタイムをとるという。大野が説明する。

「天津は、このところ10000の自己ベストも更新し、持久力もついてきています。基礎体力もついてきて、後半でもフォームの乱れがなくなりました。去年とは別人ですよ。ただし、フォームは以前からそれほど変わらないので、ちょっと見ただけでは分かりませんけどね」

スタートしてから、颯太の走りを大野はじっと見つめていた。ダイナミックな走りではない。腕を大きく振るわけでも、とりわけ大きなストライドで走るわけでもない。それでいて流れるような、なめらかな走りだ。颯太一人だけ見ていると、何でみんなと同じスピードで走れるのか不思議なくらいで、手を抜いて走っているようにさえ見える。おそらく、力を抜いた無駄の全くない走りをしているのだろう。その流れるような走りは、高級車が滑る様に高速道路を走るイメージである。キプトに改めて、このシューズに最適かと聞いたが、自信をもってイエスだという。聡子は、陸上のトップ選手を間近で見るのは初めてなので、その走りのスピード感に圧倒された。とんでもなく速い。このスピードで10㎞も走るのか?

「この人たちは自分と同じ人間なのか」

そう思わずにいられないが、世界にはこれよりも速く走る人間がいるらしい。それにしても皆、手足が細く、脂肪はもとより、無駄な筋肉も一切ついていない。足を動かすたびに太ももや、ふくらはぎの筋肉が躍動する。その姿は、さながら競馬のサラブレッドのようだ。

「確かに、天津君のフォームはきれいですね」橘は言った。

「天津のフォームは、自分で考えて作り上げた素晴らしいものです。もちろん私も多少アドバイスはしましたけどね。無駄な力はいっさい使わず、やや前傾で重力の力さえも利用した走り方です。5000mや10000mでは力強さに欠けますが、マラソンを走るには、最も省エネで疲れにくい走り方です。私が思うに、日本人には最適な形じゃあないですかね」

大野が説明した。確かに見とれてしまうくらい滑らかな走りをしている。橘は陸上経験があるだけに、余分な力を抜いた無駄のない走りをすることの難しさがわかる。ジョギング程度のスピードで走る分には簡単だと思う。しかしこれが実業団のトップスピードでキープするのは並大抵のことではない。そんなことを考えていると、大野が、

「あと、あの黄色のシャツを着ている選手も見てください。江口勝という選手で、今年入った新人ですが、天津といつも練習しているせいか、颯太のフォームを取り入れて、ぐんぐんタイムを伸ばしているんです。天津よりもダイナミックで気迫のこもった走りをします。もともと力はあったのですが、マラソンのために無駄のない走りに変えてきていますので、うちの急成長株ですよ。もし良かったら、あいつにもシューズ提供の話をしていただけませんか」

今回の訪問の内容は吉田らに伝えてあったので、「それならば」と、大野は江口にも契約してもらえるように頼んだのだ。江口勝のことも橘は知っていた。O大学のエースで、大学時代はJ大学の佐藤卓としのぎを削っていたことを覚えている。

「江口は、いつも天津と一緒に練習をしているので、天津のフォームを間近でみているので、その良さに魅せられているのではないかと思います。実際、ああいう風に走ったら楽にスピードが出ますからね。どんなコーチよりも良く教えてもらっているんじゃあないですか。まあ本人はそんなことは言いませんけどね」

「わかりました。私どもとしては、1人も2人も同じです。でも肝心なことは、選手本人に気に入ってもらわなければ、どうしようもありません。しかしキプトの話を聞いて、そして今日ここで天津君らの走りをみて確信しました。このシューズは彼らの大きな武器になると思います」


 その後颯太と江口は、大野、吉田とともにAスピード社側からニューシューズについての説明を受けた。颯太と江口は、訪ねてきてくれた橘、聡子、そしてキプトに丁寧に挨拶した。聡子の第一印象では、2人ともいわゆる“好青年”であった。偉ぶることなく、同年代の自分にも敬意をもって対応してくれる。

「陸上の技術的なことは私には分からないけれども、私たちが開発したニューシューズは、こんな人たちに履いてもらいたいな」聡子はそう思った。

さて、聡子は肝心な仕事の話をしなければならない。彼らも陸上のマラソンに人生をかけている以上、重要な戦闘品のシューズに対して妥協はできないはずだ。たとえ無償で提供するといわれても、気に入らなければ絶対に履いてもらえないだろう。彼らがどんなに人が良くてもそこは譲らないはずである。聡子のほうも、自分が心血をそそいで作成したこのシューズを売らなければならない。そのためにはこの2人にわが社のシューズを何としても履いてもらわねばならない。しかも今回はAスピードの社運が掛かっているといっても過言ではないのだ。

「いずれにとっても真剣勝負だわね」

聡子はそう思って、今回のシューズについて説明をし始めた。

前方のスクリーンにスライドが映し出される。肝心な部分の説明はCGを駆使して動画で分かりやすく説明できるようになっている。

「Aスピード社の中村聡子です。よろしくお願いいたします」

今回の説明は、開発主任の田中がやってもよかったのだが、橘が「お前が作ったシューズなんだから、お前がやってみろ」と、聡子に華を持たせてくれたのだ。

「それではこのたび、わが社が開発した新しいランニングシューズ「ウイングオブフット」について説明します。名前はwing of foot、つまり「足についた翼」という意味です。このシューズは皆様トップランナーの方を勝たせるために作られました。つまり、「世界で最も早く走れるシューズ」がコンセプトです。外観はやや靴底が厚いだけで、通常のシューズとの違いはわかりません。アッパーの部分や、紐の部分は従来の当社の技術を生かして、通気性がよく、軽量なものを使用しています。この辺りは、できるだけ軽量化をしていますが、従来の自社製品とあまり変わったところはありません。このシューズ最大の特徴は、ソールの前半部に5つ入っている、「スピードチップ」という硬質ゴムです。この硬質ゴムは着地の時に衝撃吸収の役割も果たしますが、なんといっても、着地の時のエネルギーを反発力に変え、エネルギーのロスを軽減します。さらに、これが最も重要な点ですが、蹴り上げの時にゴムがしなることで、前方への推進力が生まれます。従来のものにはなかった画期的なシューズだと確信しています。ただ、このシューズの特徴を最大限に生かすには、いくつか条件があります。一つはフォアフット走法で走ること。2つ目は足の着地は体の重心のほぼ真下であること。最後に時速15㎞以上で走ること。最大の効果は時速20㎞で設定してあります」

時速20㎞ということは、つまり男子マラソンの、トップランナーのスピードということだ。

「この様な条件にあてはまる最適なランナーの方を探していましたが、うちのキプトが天津さんを推薦した次第です。どうかレース用のシューズとしてご検討いただけないでしょうか」

「なるほど、話からは魅力的なシューズのようですね。天津、江口、とりあえず試着させてもらってみるか?」大野が言った。颯太、江口ともにうなずく。

「ありがとうございます。それでは明日にでも、お二人の足のサイズの、ウイングオブフットを持ってきます。そちらのほうは既製品ですが、もし採用していただければ、専属契約を結んだうえで、細かい採寸をしてレース用のシューズを作らせていただきます」

この日の出会いは、Aスピード社にとっても、颯太たち神奈川電産にとっても運命的なものになった。それもこれも、キプトが自身の練習の時に颯太を見つけてくれたおかげであった。


 翌日、颯太はウイングオブフットを履いてみた。手で持った感じは、普通のシューズと変わらない、極端に軽くはない。むしろ軽量化の進んだシューズに比べれば重い印象である。青色が基調で、それに白い羽のようなストライプ模様が横に描いてある。さっそく履いてジョギングしてみた。確かにこれではよくわからない。普通に履きやすく、安定性も悪くないようだ。次第に速度を上げてみる。

「うおお・・・これか!」

速度を上げるほど、靴が足を押し出していくような感覚がある。地面を踏み込まなくても楽に足が前に出る感覚だ。これならストライドが伸びて、楽にトップスピードを維持できそうだ。

「なるほど、これはまさに足についた翼だな」

江口も履いて走ってみて同じような感覚だったらしい。

「天津さん、何なんすかこれ。えげつないですなー」

それが江口の感想であった。それは江口もウイングオブフットの特徴を生かす走りができているという証であった。

それから、長距離の耐久性、効果の継続を確認し、颯太たちはAスピードと専属契約をかわした。その契約の場で大野が言った。

「実は、2か月ほど前に、ニューテクノロジー社がやってきて、うちへのシューズ提供を打ち切ると言ってきたんですよ。うちを切って、A大学の陸上部をサポートするようですね。ちょっと“かちん”ときましたよ。絶対に見返してやりたいですね」

それを聞いて橘が言う。

「うちも、ご存じのようにニューテクノロジーには辛酸をなめ続けさせられています。今度のレースでは、ぜひひとあわ吹かせてやりたいですね」橘は笑ったが、目は真剣だった。もし、ニューテクノロジー社が颯太たちと専属契約を結んでいたら、橘たちの計画は頓挫していたかもしれない。ニューテクノロジーがこのタイミングで契約を打ち切ってくれたことは、Aスピード社にとってはまさに僥倖であった。


 その後、橘たちは、颯太と江口をAスピード社に呼んで、レーザーによる正確な足の計測を行った。これはノーベル物理学賞を受賞した技術の応用で、精密機械加工などに広く使われている。レーザー光でスキャンすることにより、複雑で立体的な物でも100μm以下の制度で測定が可能である。これにより足型を正確に作ることが可能で、本人にぴったりのシューズを作ることができる。また、走っている時に足にかかる圧力の測定も行った。これは床に敷いた圧測定器の薄いマットの上を走ってもらうことで、着地から足が離れるまで、足のどの部分にどれだけの力が加わるかを測定できる。その結果に基づいて、高反発素材であるスピードチップの場所を微妙に変えたりして、最大の効果が出るようにウイングオブフットを調整していった。


 ウイングオブフットを履いてから、颯太、江口ともに10kmや50kmのタイムが明らかに縮まった。颯太に言わせると、トップスピードで走った時に、腰が高い位置をキープできて疲れにくいのだそうだ。また、トップスピードもスピードチップのおかげで速くなっている。さらに毎日やっている体幹のトレーニングも徐々に効いてきて、長距離でもフォームが崩れず安定した走りにつながっているようである。実はフォームが崩れてしまうと、ウイングオブフットの能力を生かせず、失速してしまう可能性が高い。まさに折れた翼になるのだ。また、大野はウイングオブフットの効果を最大限に発揮するために、走り方のコツをつかむ必要があると考えていたが、颯太も江口もその点は器用に対応しているようであった。颯太達が地道に練習を積み重ねる中、目標としてきた「東京マラソン」が徐々に近づいてきた。颯太がMGC予選に惨敗してからおよそ2年が経っていた。


 東京マラソンを走る前に、颯太と江口は、レース感覚を養う目的で、千葉県で行われるハーフマラソン大会に出場することにした。この時は調整期間中ではなく、普段の練習をみっちりやっている中なので、疲労は抜けておらず、大会に出るにはベストコンディションではない。あくまで、練習の一環という位置づけでの参加だ。したがって順位はどうでもよい。しかし、この大会に偶然なのか、東西自動車の伊沢隼人も参加してきたのである。この大会はそれほど大きな大会ではないので、颯太達がベストコンディションではなくても、スタートすれば伊沢と颯太、それに江口らが先頭グループになる。しかしお互い調整目的での参加であり、絶対に勝ってやろうというものではない。故障なんかしたら目も当てられないのだ。したがって真剣であっても、本気ではないというレースになる。伊沢もそういったわけで、1位とはなれず、1時間1分台で2位、颯太も1時間1分台で4位、江口は5位であった。走り終わった後、伊沢が颯太に話しかけてきた。

「天津、お疲れさん。だいぶ調子を上げてきているじゃあないか。もうスランプなんてことはないな。この大会に調整目的で出るってことは、本命は、俺と同じ「東京」か?」

「まあ、そういうことだ」ここは、秘密にしても大して影響はない。

「そうか、楽しみだな。やっぱり高校からのライバルのお前がいないと、レース前の緊張感というか、燃えるものがないんだよな。おれは東京までにベストの状態にしておくぜ。じゃあな」

いいライバルを持ったものだ。これで東京マラソンまで気を抜かずに練習できる。それにしても、あいつに勝つのは並大抵な事ではないな。颯太はつぶやいた。

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