第9話

9.ソールの試作とテスト


 中村聡子は翌日、Aスピード社で橘弘幸に、昨日思いついたアイディアを話そうとしていた。橘はデスクでマラソンランナーの走りの動画を見ていた。時々腕組みをして「うーん」とうなっている。なかなか話しかけにくいが、いつまでも待っていられないので思い切って話してみる。

「部長、ちょっとお話しがあるのですが」

「何だ?どうかしたのか」

聡子は深呼吸をして、話し始めた。

「新しいシューズのことで意見を言っていいですか」

「もちろんだ。何かいい考えがあるのか?」橘は少し身を乗り出した。

「これまで、うちはソールに地面からの衝撃吸収という役割を与えてきました。もちろん、衝撃吸収がないとランナーの足がもちません。しかし、地面からかかる莫大なエネルギーのすべてを吸収するというのは、もったいなくないですか?ほんのわずかでも反発する力をもらえれば、早く走れるような気がするんです」

聡子は、昨日テレビで見た、自転車のアシストのことを話して、橘に説明した。

「反発力を出すために、ソールにシリコーンを組み込むのはどうでしょうか」

橘は少し考えて言った。

「いいアイディアだと思うが、物事はそう簡単ではない。ソールに何かを組み込むのは、俺も考えていた。現実に中敷きのソールに高反発の素材を入れたものはすでに製作されている。しかし、結果は思うほどよくはないんだ。高反発のものを入れるだけではうまくいかない。何を、どういう形で組み込むかが難しいんだ。しかし中村の考えは悪くない。まあ、うまくいくかどうかは分からんが、それでも失敗を恐れて、チャレンジしなければ何も始まらないな。今は、成功すると予想されるものだけ試してみる状況じゃあない。失敗しても構わない。とにかく、まずは大まかな設計だけでもやってみてくれ」

「わかりました」と聡子は、返事はしたが、橘の言葉通り、そう簡単にはいかないだろうという思いはあった。橘の話は、要するに「期待はあまりしていないがとりあえずやってみろ」ということだ。自分のアイディアが画期的な技術につながり、世の中を変えていく。そんな漫画みたいなストーリーはこの現実の世の中にはほぼない。ほぼないというのは、実際には100回に1回くらいはあるかもしれないというのが正しい。現実の世界は、いわば選ばれた人により、時におこる画期的なイノベーションで変化している。マスコミなどは、それを成し遂げることを宝くじに当たるとか言うこともあるが、決してそうではないと聡子は思う。頻度的には宝くじと同じかもしれないが、運が良ければ年に何人か必ず当たる宝くじと違って、こちらは実力がすべてだ。いいものであれば、年に何回でも採用されるが、そうでなければ、何年でも日の目を見ることはない。しのぎを削っているのは自分たちばかりではない。国内外すべてのシューズメーカーは、血眼になってより良いものを開発するよう日々競っている。自分だけがそう簡単に優れたものができると考えるのは、どう考えても楽天的にすぎると思える。しかし、あの自転車のアシストだって、いきなりあの形にはなっていないだろう。それまでにどんな試行錯誤があったか、どれほど多くの失敗があったかことか、技術者として想像に難くない。世界を変える新しいもの、画期的なものはそう簡単には生まれない。それはこの会社に就職して身に染みてわかったことであった。しかしあきらめてしまえば、その資格さえももらえない。「そんなことは絶対無理だ」という言葉は、新しいものを作り出そうとする技術者は決して言ってはならないのだ。とにかく、今はチャレンジする何かがあるだけありがたかった。これから先何度跳ね返されようが、しぶとくしがみついて行くしかない。それが成功に導く保証はどこにもなかったが。


 今回、シリコーンを使うにしても、ソールをどのような形にするか、シリコーンをどのように組み込むかが最も重要な問題であった。ここで、一口にシリコーンといっても、じつに様々な状態で世の中に広く使われている。ケイ素は英語でシリコン(Silicon)というが、シリコーンはシリコンとイコールではない。紛らわしいがケイ素を使った高分子化合物で、一般に商品化されているものがシリコーンである。どうやって作るのかといえば、ケイ素を含むケイ石から金属ケイ素をつくり、さらに複雑な化学反応を加えて、シリコーンを作り出すのだ。基本はケイ素と酸素が交互に結び付いたものをシロキサン結合と呼ぶが、そこに有機酸が結合して、合成高分子を作ったものがシリコーンと呼ばれている。シロキサン結合は非常に安定した硬い結合状態であり、そのためシリコーンは耐熱性、耐腐食性、絶縁性などに優れていることから、近年用途が広がっている。よく知られているのは台所用品のなべ敷きやフライパン返しなどであるが、シリコーンはオイル状の液体でも存在し、化粧品のクリーム、シャンプー、洗濯の柔軟剤などにも使われている。ゴム状のものではコンタクトレンズ、医療用のバルーンカテーテルなどにも応用されている。つまり液体状のものから、柔らかいゲル状のもの、さらにかなり固い固形状のものまで加工が可能なのである。

そのなかで聡子は比較的硬いシリコーンをうすく波型にして、柔らかいシリコーンでその上に重ねてみた。これで反発力が出るかどうかは、試作品を作ってみないと分からない。 


 中村聡子が相談に来てから1週間後、橘は、同じ会社のマーティン・キプトに声をかけていた。キプトは40歳、元マラソンランナーで、今は引退してAスピードのマーケティング部の社員として働いている。

「おーい、キプト。ちょっといいか」

橘は会社の喫茶コーナーにキプトを誘った。

「橘さん何か用ですか」

キプトは流暢な日本語で答えた。キプトはケニア出身だが高校生の時から日本にいるので、日本語はペラペラである。

「実は君に頼みがあるんだが、今度うちで競技用のランニングシューズを開発することになったのは知っているな。それで、いろいろ試作品を作ることになると思うのだが、問題は実際に使えるかどうかなんだよな。速く走るのに有効でないシューズは論外だが、全くの試作品の段階で、現役選手に履いてもらうわけにはいかないんだ。そのシューズが原因で足を痛めたり、そうでなくてもフォームが崩れて調子を落としたりしないとも限らないだろ。まあ、俺みたいな、ほぼ素人が履いてもいいのだが、それだと良さがわからないし、少なくともトップのマラソンランナーをターゲットに開発している以上、それに近い人に評価してもらいたいんだよ。そこですまんが、おまえが被験者になってくれないか」

キプトは少し戸惑った様子だったが、すぐに笑って返事をした。

「はあ、そういう事なら、まあいいですけど」

「ただし、これはレース用のシューズなので、1kmをおよそ3分で走って実験しないといけない。42kmとは言わないが、10kmくらいは走ってもらわないと困る。おまえ、できるか?」

「1km 3分で、10kmですか。橘さん無茶言いますね。ぼくもだいぶ現役離れていたから、本気で鍛えないといけないですけど。それでも1㎞ 3分まではいかないかもしれないですね。多少上回ってもいいですか」

「まあ、そんなに細かいことは言わないよ。無理を言ってすまないな、頼むよ。そっちの上司にいって、昼からの仕事は空けるようにしておくからさ」

「じゃあ、すみませんが、トレーニングをするトラックを貸してくれるように手配してください。まあ老体にむち打ってがんばってみますわ」

そう言って、キプトは少し出かけているお腹をさすった。


 マーティン・キプトは、15歳の時にケニアから陸上で有名な日本の私立高校に留学してきた。言葉が通じない中で、遠い日本の暮らしはさみしくもあったが、高校陸上部の監督の家にホームステイし、徐々に日本の暮らし、文化に慣れていった。監督の奥さん、陸上部の仲間は皆優しく、言葉が通じなくても、いろいろ声をかけてくれた。キプト自身も真面目な性格だったので、日本語も少しずつ覚えて、仲間に溶け込んでいった。陸上においては、高校生でもケニア人と日本人のレベルの差はかなりある。ましてやキプトはケニアの中でもエリートランナーなので、1年生の時から周りの選手とは段違いの走りをみせた。5000mのタイムトライアルでは、部員の誰もついていけない。しかしそのような飛び抜けた選手がいることは、他の生徒のレベルアップにつながり、高校ではチームとして3年連続で年末の全国高校駅伝大会に出場し、むろんキプトも素晴らしい走りを見せた。


 関東の大学に入学したキプトは、そこでもさらに成長し、箱根駅伝は4年連続出場、うち2回の区間賞という輝かしい実績を上げた。そして社会人になり、本格的にマラソンを始める。国内の初マラソンで優勝すると、3回目のマラソンでは、当時の日本新記録を上回るタイムで優勝する。端から見ればまさに絵に描いたようなエリートコースをひた走っているように見えた。しかし、キプトは最大の目標にしていたオリンピックに出場することはなかった。当時の日本記録くらいの選手は、ケニアにはごろごろいて、国のオリンピック参加枠3人に入れなかったのである。もし、キプトが日本人であったなら、押しも押されもせぬ日本代表であったろう。代表選考前に日本人として帰化ができていれば・・・という話もあった。しかし日本は何だかんだで、条件が厳しく、なかなか帰化ができにくい国である。しかしキプトはオリンピックに行けなかった事や、帰化できなかったことについての不満を口に出して言うことはなかった。


 日本と日本人が大好きだったキプトは、選手引退後にAスピード社に入社し、家庭も持ち、今はマーケティング部門で働いている。暮らしていくうえで特に差別は感じたことはなく、夜の都会でも治安がよいことなど、日本で暮らしていけることに満足していた。キプトは選手時代に培った、他の選手やコーチとの横のつながりもあって、Aスピード社としても貴重な存在であった。駅伝の有名大学や、社会人のトップランナーが履いているシューズとなると、何よりも宣伝効果が大きい。全国放送される駅伝やマラソン大会は、マラソンやランニングに興味を持っている視聴者が見ることが多い。しかも市民ランナーは、一流選手が履いているシューズにかなり興味を持っている。だから企業としてもその大会に出る選手に自分の会社のシューズを是非とも履いて欲しいと思うわけだ。ただ、事はそれほど単純ではなく、いくらAスピードであっても、素人の社員が陸上部に行って、「うちのを履いてください」と言っても、「はいそうですか。わかりました」とはならない。やはり、かつて友やライバルであったというコネや、スター選手が持っている“はく”という物が必要になってくる。キプトも日本では、かつてスター選手であったので、大学や社会人陸上部の関係者の知り合いが多い。ここに売り込みをかけるために、キプトを連れていくことは重要であった。しかも彼は決して偉ぶらず、誰とでも気さくに話をする男であったので、誰からも愛されていたのである。


 聡子の作った試作品第1号が出来上がった。2層のシリコーンを波型にして、靴のソールに組み込んだものである。今日はマーティン・キプトにそのシューズを履いて走ってもらうことになっていた。シューズを履いた後、簡単な準備運動をしてキプトがゆっくりと走り始める。まだジョギングペースだ。さすがにいきなりトップスピードにはならないのだろう。今のところ走るのに問題はなさそうだった。キプトは徐々にスピードを上げていく。アフリカ人特有の前傾姿勢で、大きなストライドでダイナミックに走る。そろそろトップスピードだろう。聡子たちは息をのんで見守っていた。キプトはそのまま何キロかトップスピードで走っていたが、やがて減速した。

「どう思う」橘がキプトに尋ねる。

「うーん。期待しているものとはだいぶ違う気がしますね」

聡子は大きなため息をついた。

「地面からの衝撃は吸収されるような気がしますが、押し返してくるような反発力はさほど感じませんでした。何よりもこのシューズはちょっと重いです。選手からすると、もっともっと軽くしてほしいと思うんじゃあないでしょうか」

聡子が試作した最初のシューズ、試作品第1号は失敗に終わった。だが、課題も見つかったと、前向きにとらえなければならない。失敗を今後の教訓にしていかなければ、成功などありえないからだ。発明であれ、新しい商品であれ、多くの失敗を重ねて、その失敗の上に良い物が生まれる。シリコーンは意外と重くて競技用にはなじまないことがわかった。さらに走っても、特に目に見えるほどの反発力を発揮できず、ここで使う素材としてはあきらめるしかないと思われた。通常のシリコーンは、弾力性はあるが柔らかい性質もある。ただシリコーンも改良すれば柔軟性の面では克服できるかもしれないが、重さの問題はどうする。聡子はあふれ出てきた問題の多さと、困難さに気が重くなった。しかし、こんなところでくじけてはいけない。

「大丈夫、まだやれる。次はきっと」

聡子は自分に言い聞かせた。これはやっとつかんだチャンスなのだ。

「また、スイーツでも食べて、冷静になって考えるか」

せっかく何年も前から物品の素材に興味をもち、素材が好きでこの会社に入ったのだ。今こそ「素材の中村聡子」と言わせてやる。聡子はそう思って、折れそうな気持を立て直した。


 シリコーンは硬いものも柔らかいものもできるが、反発に関しては今一つだった。自転車のアシストに使われたのは、耐久性が高いからであろう。何万回、何十万回と伸縮を繰り返すことを考えれば、耐久性が第一と考えるべきだ。それならばもっと反発力の高く、硬いゴムでやってはどうか。聡子はそう考えた。例えば夜店のスーパーボールのような。聡子はネットで検索すると、なんと夜店で売っているようなスーパーボールは、食塩水と洗濯糊せんたくのりがあれば、小学生でも作れるのだそうだ。でも、手作りではなんなので、そこは技術部に言って、高反発性のゴムを調達してもらった。これもさらに研究開発すれば、もっと性能が上がるかもしれないが、とりあえずのもので試してみる。前回は波状にしてソールに敷いてみたが、それも変えてみた方がよさそうだ。どのような形状にするか、聡子は他の技術者の意見も聞いて設計に没頭した。


 前回の失敗も考慮して、試作品第2号は、ソールの内側に横断歩道のように、縞状に高反発ゴムを並べる形にした。これだと全体を覆うより軽量化できる。高反発ゴムの間には、衝撃吸収に優れた、軽量の発砲ゴムを敷いた。これなら軽量化と衝撃吸収を両立できる。その後も高反発ゴムの幅や、間隔など細かい調整をして、試作品2号は出来上がった。今度のものは1号と比べて、持った感触でも軽い気がする。これならどうだ。ニューテクノロジーに勝てるかどうかは自信がなかったが、聡子は、キプトが履いた感触に期待した。そしてキプトに履いて試走してもらう日がやってきた。

前回と同じように試作品2号のシューズを履いてキプトがゆっくりと走りだす。次第に速度を上げていく。「うまくいってくれー」祈るような気持ちで聡子は見つめていた。やがてキプトが帰ってくる。キプトが履いて走った感想では、以前の物よりもよい印象とのことであった。聡子は少しほっとしたが、課題も多く見つかった。まず、地面を押し返すような反発は感じられたという。しかし、このシューズは靴全体が前後にしなりすぎて、安定度が悪くなり、足の負担が大きくなるという。ランニングシューズは着地の時に、片足にかなりの重量がかかるので、着地の際にしっかりと地面をつかむ安定度はかかせない。こういう「靴のスタビライザー性能」、これが悪いと足首に大きな負荷がかかってしまうことがあり、重大な故障につながる可能性がある。したがってこれで完成というには程遠かった。しかし、成功には1歩近づいた気がした。聡子はこの結果を橘に報告し、今後の方向性について相談した。橘は、これまでの報告を聞いて、このシューズはものになるのではないかと思った。ただし、このままではだめで、これをたたき台にして、さらに良い物に磨き上げていく必要があると結論した。ここからは橘など全スタッフが加わって改良点を検討していった。

 開発主任の田中が試作品第2号の分析結果について説明する。

「まず第2号は、平行に板状の高反発素材があるため、ランナーの足が接地して、蹴り出すときに地面と垂直方向の反発力とともに、素材が前後に屈曲することによって、前方へのしなりの力が加わります。これは偶然なのかもしれませんが、大変大きなメリットです。しかし、このしなりのエネルギーは、仮に着地した足が、体の重心よりかなり前になれば、後方にしなる力が働き、前方へのスピードは逆に押さえられてしまいます。具体的に言うと、ストライド走法により振り出した足がかなり前方だったり、かかとから着地したらブレーキになり、このシューズのメリットは消されてしまうということです」

「なるほど、このシューズを生かすには、踵着地がダメとなると、フォアフット走法で走るランナーでないとだめなわけだな」橘が言った。フォアフット走法とは、足の裏の前半部分(土踏まずより前方)で着地し、踵は余り接地しない走法である。ケニアやエチオピアのランナーの多くが取り入れ、日本人でもフォアフット走法で走るトップランナーは最近増えている。

「だったら、踵にその素材を入れるのは無駄ではないですか?軽量化を図る意味でも後部には使うのをやめましょう」聡子は言った。自分で設計したものであるが、無駄な物は合理的に削らなければならない。

「トラック競技のスパイクのように、針状の硬質ゴムを何本も入れるのはどうでしょうか」別のスタッフが提案する。その提案にしばらく考えて、橘が言った。

「いや、それだと接地で地面をとらえる時に不安定になるかもしれん。ほとんどのランナーは、着地の時は地面をしっかり捉えたいと考えるはずだ。それに針状の細い物だと反発力やしなりの力は弱まることが予想される。形状はやはり、横に板状の物が良いだろうと思うが、AI(人工知能)によるシミュレーションもやってくれ」

その後、様々な意見が出され、結局数種類の候補でAIを使って、走るときにどのように力が働いているか検討されることになった。あらかじめAIに、選手が走るときに足にかかる力と、地面を蹴る力などを時間ごとに測定し、記憶させる。その後こういう靴を履いた場合にその力のかかり具合がどう変化するかを計算させるのだ。以前は人の感覚に頼っていた物が、誰も走らなくてもコンピュータで計算できて、正確に数値化できるようになったのである。ただ橘は、コンピュータによる計算値は、多くのデータの平均値であり、選手一人一人の実測値ではない。最後は選手の感覚が大事だとは思っていたが。

 これらの実験から、最大限の効果と軽量化を両立するものとして、板状のチップをシューズの前半部に5個装着するという案になった。つま先に2つ、中央に1つ、後方に2つの配置になった。チップは形状的には1つが小さな跳び箱のような形をしており、高さは6mmから8mmで、長さも後ろの物はやや長く、つま先近くでは短い構造になっている。聡子はこの5つの高反発チップを「スピードチップ」と名付けた。スピードチップの周りは、衝撃吸収の優れた軽い素材で埋めてある。したがって見た目ではチップは見えず、中敷きがあると、シューズの内部から触ってもスピードチップの存在は分からない。


 スピードチップを入れた試作品のシューズ、いわゆる第3号ができあがり、いよいよキプトが履いて試走する日がやってきた。履いた感じは普通のシューズと変わらない。スピードチップが入っているので、従来のAスピード社のランニングシューズと比べて、ややソール(靴底)が厚い。軽い準備運動を終えて、キプトはゆっくり走り出した。

「安定性はある。衝撃吸収も思ったよりあるようだ」

走り始めて、キプトは思った。しかし、今のところ反発力や推進力は感じられない。徐々にスピードアップしてみる。その光景を聡子は両手を合わせて見ていた。祈るような気持ち・・いや、何の神様か知らないが「お願い、うまくいきますように」と祈っていた。

 スピードを上げて走ると、キプトにこのシューズの性能が伝わってきた。シューズが地面を蹴る、ストライドが伸びる実感がある。まるで靴に内蔵されたエンジンがかかったようだ。

「信じられない。なんだ、これは!」キプトは走りながらつぶやいた。

「どうでしたか?」帰ってきたキプトに聡子が聞いた。

「すごいと思います。今までのシューズとは全く違う感覚でした。最初は特に普通のシューズと変わらなかったんですけど、スピードを上げていくと、途中からまるでシューズが足を運んでいるような感覚になるんです。なんて言ったらいいのかな。靴にブースターが付いたような・・これならいけるんじゃあないですか」

キプトは興奮気味に新しい試作品のシューズについて感想を話した。


 数日後、開発チームの会議があった。

「スピードチップ内蔵のシューズは、チップの配置などを工夫すれば、サブフォーランナーまで有用と思います」開発主任の田中が言った。

サブフォーとは、フルマラソンのタイムが4時間以内のランナーの事である。市民ランナーが参加する大会では、完走したランナーの25%程度がサブフォーランナーにあたる。ちなみにサブスリーランナー(3時間以内)だと全ランナーの3%程度となる。スピードチップの配置、高さなどは、AIによりランナーの平均値を計算して設計された。

「よし、市販化については、サブフォーランナーを中心としたターゲットとするようにやってくれ。市販化してないと競技では使えないからな」橘が市販化に向けてゴーサインを出した。むろん、これからシューズのデザイン、色など細かい事を経て市販化になるのだが、聡子は自分の企画したシューズが初めて市販化されることになり、胸の高鳴りがおさえられなかった。色やデザインなどのマイナーチェンジではなく、全くニュータイプのランニングシューズができたのだ。ランナーの支持が得られるのか?それと一番の課題であるニューテクノロジー社のシューズに勝てるのか?その結果はこれからだ。しかし、聡子も橘もAIのデータやキプトの反応をみて、ニューテクノロジーを上回っていることに確信を持っていた。


 市販化のめどはたったが、もう一つ問題が残っていた。このシューズを履いて、好成績を上げてもらう選手を探し出す事である。このシューズがニューテクノロジーより性能がいいことを証明するには、実際のレースでこのシューズを履いて、ニューテクノロジー社のシューズを履く選手達に勝ってもらうことが最も分かりやすい。そのためには国内外のトップレベルの選手にこのシューズを履いてもらわねばならないのである。

「問題は、マラソン選手の誰に履いてもらうかだな。田中、意見はあるか」

「はい。まず、このシューズの特徴を最大限生かすためには、フォアフット走法である必要があります。フォアフットは、日本人でも最近は多くなっていますが、代表的なフォアフットと言えば、やはり、アフリカ勢でしょう」

「やはり、アフリカ勢か」

しかし、田中はそう結論づけていないようであった。

「いや、このシューズに関しては、アフリカ勢が最適とはいえません。これから彼らの走りのスローを見せますが、着地した足に注目してください」

前方のスクリーンにスーパースローで走るアフリカの選手の映像が出た。

「まずアフリカ勢の選手は、日本人と比べて、明らかに前傾姿勢であることです。さらに胸を張って、顎をやや突き出したような独特の体勢で走るのです。足の着地は、体の重心の少し前になり、ここから踏み込むように足を運んでいきます。足が地面から離れた後も、足が後方に流れますが、そこから「ぐーん」と振り上げるように、ダイナミックに前に持って行くのです。日本人ではなかなかまねのできない走りです。おそらく、腸腰筋、大臀筋、広背筋などの力が強いのでしょう。しかし我が社のスピードチップは、アフリカ勢のように、着地で足を踏み込んだ走りをするランナーには、余り適していないように思います」

「どうして適していないのだ」橘が遮る。

「はい、今回のスピードチップの特徴として、垂直方向の反発力とチップの形状によるしなりの力で、前への推進力が生まれます。ところが、外国勢の走りは、最初の着地が重心の前方になり、前方へのしなりの力がややロスになります。さらに、長らく後方まで踏み込むことにより垂直方向への反発も消されてしまう事が予想されます。まあ、最後に地面を蹴るときには推進力が働いて、そのことは有利にはなりますが・・・」

「田中、それでは、どのような走りが理想なんだ?」

「理想的には、着地は体の重心の真下、着地してから余り足が曲がらず、腰が高い位置にあり、なおかつ、あまり足が後ろに流れず、地面を蹴り上げる様な走りが理想と思います」

「フォアフット走法で、足が流れず、地面を蹴り上げる様な走りか・・・キプト、誰か心当たりのある選手はいるか?」

橘が言った。キプトは自身のトレーニングのために、実業団のトラックを借りていたのだが、橘はわざと多くの実業団のトラックを代わる代わる借りて、キプトにめぼしい選手がいないか見てもらっていたのだ。

「そうですね、この間から田中さんに、フォアフットで走る選手を注目しておいてくれと言われたので、練習中にいろいろ見ていました。今の話をうかがって、そういう走りに思い当たる選手が1人います。それは・・・」

「神奈川電算の天津颯太です」

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