第8話

8.トレーニング


 大野と颯太が今後の練習方針、目標について話し合った日の翌日、大野は颯太をある病院の健診センターへ連れて行った。目的は全身の筋肉のMRIを撮るためである。ここは神奈川電算と提携していて、スポーツドクターの依頼でMRIを撮ることができる。MRIは磁気共鳴画像かくじききょうめいがぞう(magnetic resonance imaging)のことで、脳卒中のうそっちゅう脊椎せきつい疾患などをはじめ現代の医療に欠くことができない有用な診断技術であるが、スポーツの世界でも有用性が高い。スポーツに付きものの怪我において、微細な筋肉内の血腫や疲労骨折などの診断にはMRIが欠かせない。従来のレントゲン検査では、どんな優秀な放射線科医でも診断できなかった微細な骨折が、誰が見ても(とは少々言いすぎであるが)指摘できるようになった。医学の診断技術や治療は、あっという間に進歩し、過去の常識は使い物にならなくなるのが早い。一線で働く者は常に知識のブラッシュアップを求められるのである。また、最先端の技術は広い範囲の分野に応用が可能である。大野は今回、病気の診断ではなく、筋肉の容積や脂肪の付き方、そのバランスを調べようとしていた。MRIを使って選手の筋肉などの画像を撮影し、その情報は神奈川電算のスポーツドクターとともに解析することになっていた。それにより現在の筋肉の付き方、バランスなどが個人の情報としてわかる。オリンピックはもちろん、世界と競う選手にとって、競技は国を挙げての戦いである。戦いを制するのは情報だというのは、70年以上前の第2次世界大戦から常識となっていたが、スポーツの世界でもいまや情報なしに勝利はありえないのである。


 MRIは、簡単に言えば強力な磁力と電波を使って、人体の組織の情報を画像にする装置である。MRIでは直径70cmくらいの、トンネルのような筒状の構造物に入って人体の画像を撮影する。トンネルの中には外部から見えるカメラも何もないが、そこでは目に見えない強力な磁場がかかっている。クレジットカードや時計などを誤って持って入ると、いっぺんに壊れてしまうほど強いものだ。そのためペースメーカーが入っている患者さん(最近はMRI対応のペースメーカーもある)や、鉄などの磁性体が体に入っている人は撮影ができない場合がある。このような高磁場の中では、人体の中にあるすべての水素原子が一定の方向を向いて回転するようになる。つまり、水素原子は1つの陽子の周りを、1つの電子が回っているのだが、普段その回転軸はバラバラな方向を向いている。しかし非常に強い磁場がかかると、バラバラだった軸が整然と同一方向を向くようになるということだ。このような状態の時に、短時間電波を当てると、水素原子の軸が傾き(磁気共鳴現象という)、電波が切れると元の状態にもどる。この現象は専門用語で「緩和」と呼ばれている。水素原子は、人体では血液や心臓、肝臓、脳などあらゆる所にあり、多くは水(H2O)として存在しているが、タンパク質や脂質などいろんな分子と結合したり、細胞間を自由に移動したり、様々な状態で存在しているので、その状態によって緩和の状態に差が生まれる。これを画像にしたものがMRIである。また緩和の種類も縦方向の緩和、横方向の緩和があり、それぞれの緩和に注目した画像をとれば、結果として全く違った画像ができる。現在のMRIの画像だと、筋肉、脂肪、骨、血管の様子が数ミリ未満の単位で分析でき、画像処理ソフトを用いると3次元的にも構造の把握が可能である。これで颯太の全身を撮影し、世界のトップランナーと比較してみるのが今回のねらいだった。


 MRIの装置がある部屋へは、財布や金属類は持っては入れないので、別室で浴衣ゆかたのような服に着替える。下着はそのままで良いが、ベルトなどもNGなので、はずす必要がある。ズボンのファスナーは磁性体でないことが多いが、今回は全身を撮影するため、撮影付近に金属があると画像がゆがめられる可能性があるとして、ゴム紐のズボンに履き替えた。更衣室から出て、MRIを撮影する部屋に入る。広い部屋に巨大な鎌倉のような装置が置いてある。放射線技師の操作室は別の部屋なので、その装置は素人には圧倒される感じがする。さらに、部屋の中には「シュン、シュン」と絶えず異様な音が鳴り響いているので不安になる人も多いという。技師さんに聞いたら、電気の力で強い磁場をかけているので、そういう音がするのだという。撮影する台に上がり、遠隔操作でトンネルのような筒に入っていく。

「できるだけ動かないでください」

技師さんに注意され、撮影が始まった。そのとたん、「ダダダダダ」という音や「ビー、ビー」という大きな音が1分くらいずつ聞こえる。一人きりなのでやや不安になるが、痛くもかゆくもなく、15分ほどで撮影が終了した。


 後日スポーツドクターがMRI画像と、その解析結果を出して大野と颯太に説明をしてくれた。

「こちらが、先日撮影した、天津さんの筋肉や骨などの画像になります」

颯太は、まさに自分の断面が白黒とはいえ、ダイナミックに映し出されているのを見て息をのんだ。

「それでは、天津さんと、マラソン2時間3分台を持つケニア人ランナーのワングエと比較してみます。まずは下腿、下腿には前の方に前脛骨筋ぜんけいこつきん、ふくらはぎはヒラメ筋、腓腹筋ひふくきんなどがあります。断面積で言うと、天津さんがやや大きいですね。これは日本人に比べてアフリカ人の下腿は細いという人種的な差だと思います。しかし個々の筋肉のバランスは、ほとんど差はありません。大腿部には前方に大腿直筋、外側に外側広筋があり、後方には大腿二頭筋だいたいにとうきん半腱様筋はんけんようきんなどがあります。ここでは後方の筋肉、つまり大腿二頭筋、半腱様筋はワングエのほうがやや発達していると思います」

実際の画像と面積の計算値などのデータを見せられると、素人でも違いがよく分かる。

「さて、最も注目すべきは、腰部です。臀部、つまりお尻の筋肉である大殿筋だいでんきんなどはあまり差がありません。注目すべきはインナーマッスルの一つであるこの筋肉です」

ドクターの説明は続く。

「この腸骨筋と大腰筋を合わせて、腸腰筋ちょうようきんとも言われますが、ワングエはこの腸腰筋が非常に発達しています。もちろん天津さんも一般人からするとかなり発達していますが、ワングエの腸腰筋、特に大腰筋は驚異的なレベルです。この筋肉は足を前に降り出すときに使う筋肉なので、アフリカ勢特有の、腿が上がり、ストライドを伸ばす走りにつながっているものと思います」

インナーマッスルは、姿勢を良くする、冷え性を防ぐ、太りにくい体を作るなど、最近多くの効果が注目されていて、トレーニング方法も紹介されている。ランニングにおいても、体幹を支え、安定した走りをするには重要と考えられていた。

「あと、上半身についてはわずかな差でした。上腕の筋肉は天津さんの方がやや発達している印象です。主な筋肉の解析結果は以上です」

颯太とともに、ドクターの説明を聞いていた大野は

「なるほど、やっぱり腸腰筋で差が付いたか。それにあいつらは大腿二頭筋など大腿の裏側の筋肉も発達していて、それで地面を蹴ってストライドを伸ばしているんだな。そうなると、あいつらに追いつくには、まずは大腰筋をアフリカ勢並みに鍛える必要があるな。しかし42kmを走り続けて勝つためにはそれだけでは足りない。天津のフォームは、理想的だが、それを生かすためには安定して前傾姿勢を保持し、重力を利用する走りを最後まで続けることが必要だ。そのためには背中から足の裏側の筋肉が重要になる。つまり腸腰筋だけでなく、この前に言った広背筋、外腹斜筋、大殿筋、大腿二頭筋なども鍛えていかないとだめだな。これからそのメニューを作るから、少なくとも奴らのレベルになるまでトレーニングをこなしていくぞ」

「分かりました。今までの筋トレはまだ甘かったんですね。MRIの画像をみてはっきりとわかりました。ワングエに勝つには、ワングエ以上の筋肉をつけないと勝てません。これからはしっかりと取り組みたいと思います」

その次の日に、大野は江口を検診センターに連れていき、同様にMRIを撮影してもらった。江口は大学を卒業したばかりなので、社会人の颯太よりもさらに腸腰筋の付き方は、ワングエに比べると劣っていた。2人とも今後の課題が目に見える形で理解できたことで、大野が意図していることが理解できたようであった。

その翌日から颯太と、江口は、新メニューでのトレーニングを開始した。大野は江口にも面接して、目標を初マラソンで2時間10分以内に設定した。大学を出たばかりの江口にとって、社会人の練習について行くのでもなかなか大変なことであったが、時間が経つにつれ、少しずつでも颯太についていくようになっていった。平日のメニューは、まず軽い準備運動、アップをしてから5000mまたは10000mのタイム走。これには2人だけでなく外国人ランナーを含め、他のランナーも混じって行うことも多い。その後は坂道ダッシュ10本、これには800m、400m、200mの3種類あり、登りは全力で走り、下りはジョギングで戻ってくる。これで腸腰筋、大臀筋を鍛えるのである。心肺機能を鍛えるためにも坂道を全力で走ることは必要であった。またスピードを出すために1000mを2分40秒くらいの速いタイムで走る練習も時に行った。他の選手はこの後も走り込みを行うが、颯太と江口は、走る練習はこれで終了。あとはひたすら体幹を中心とした筋トレを行う。筋トレと言っても様々な方法がある。マシーンを使って鍛えたりするのは一般でも良く行われているが、マットの上でも多くの動きがある。またそれをゆっくりやるか、素早くやるかでも効果が違ってくる。大野は、マラソンランナーである颯太たちに、体重を増やさないで、筋力をつけるようなやり方をめざした。簡単に言うと、強く細い筋肉をつけるという事である。走るのに必要でない大胸筋や上腕二頭筋はいらない。従ってダンベルを持ったり、ベンチプレスをする必要はない。手や胸の筋肉などお荷物でしかない。大野はそう考えていた。また、走るには、足を素早く動かす必要があるので、負荷は軽くし、素早い動きを重視した。マシーンを使うもの、ゴムのチューブを使うもの、マットの上で行うもの、ほとんどはその3つになるが、いろいろな筋肉を鍛えていくので、合計では30種類以上のトレーニングを各セット50~100回行い、それを繰り返していく。慣れないうちは2時間くらいでへばっていたが、次第に3時間くらいはできるようになった。トラックなどを走るトレーニングを早々に切り上げる颯太と江口に対して、他の選手は「やる気あるのか」という目をむける者もいたが、実際はこっちの方がきつい。慣れるまでは階段を上るのもしんどかったくらいである。この地味できついトレーニングを2人は黙々とこなした。このような筋トレは手を抜こうと思ったら可能だが、それでは効果がなくなってしまう。大野が言っていた「日本人の真面目さが試される」ところである。トレーニングジムの床は2人の汗でびっしょりになった。

ある日、トレーニングを終えたジムで江口は颯太に話しかけた。江口は大阪出身で、社会人になっても身内には大阪弁でしゃべる。

「天津さん、わてらなんでこんな苦しいことやっているんすかね」

颯太は、話すのもめんどうだったが、一応ありきたりのことを答える。

「そりゃあ、勝つためだろう」

「そら、そうでっしゃろうが、じゃあ誰に勝つんです?」

誰に勝とうとしているかは、颯太も考えたことはなかった。ライバルと思う選手はいるが、その選手に勝っても、他の選手に負けたらマラソンは意味がない。

「誰にじゃあなくて、レースに勝つってことかな」

「レースって言ったって、そこそこ速いやつらを含めると50人から100人くらいおるんですよ。それに最近の大きな大会はほとんど外国人が取ってるし、こんなことやって、わてら勝てるんすかね」

「さあな、コーチを信じるしかないだろう。これまでの俺のやり方では勝てなかったんだ。これ以上、一人で道を探しても俺は無理だと思う。少なくとも俺はコーチに自分の足りないところをきちんと説明され、その解決法を聞いて、とりあえず納得したんだ。お前も説明されたんだろう?」

「まあ、そらそうやけど・・・ところで天津さん、今まで優勝したことあるんすか」

「あー、ないよ」

「あかん、天津さんでさえ優勝したことがないんすか。わてら、こんな苦しい思いをして、報われなかったら、悲劇やわー。ほんま、これが労働だとしたら、日本一過酷な労働すね」

「まあまあ、江口。そう深刻に考えたら、やる気がなくなるだろう。俺は優勝したことはないが、サブテン(マラソン2時間10分以内)やった時にはうれしかったぜ。その後自己ベストを出した時も達成感はあった。夢をかなえたとはいえないけどな」

「畜生!1回、優勝テープ切ってみてーなー」

「お前、学生の時には何度も優勝したんだろう?それにお前は社会人になってまだ1回もレースに出てないじゃあないか。そんなに焦んなよ。でもまあ、世界陸上やオリンピックの優勝テープは切ってみたいよな。それがどんなに難しいことかは分かるよ。それだけ価値があるから、簡単には切らせてくれないから、みんな必死で練習するということだな」

“あんた、そこ狙っているんかい”。と江口は思った。江口の想定は国内の福岡マラソンとか、びわ湖毎日マラソンなど国内の有名マラソン大会のつもりだった。それでも大変な偉業だと思う。それを世界陸上?オリンピック?さすがに、はるかに遠すぎて“まさかな”と思い、口に出しては言わなかった。

「まあ、いずれにせよ、お前が付き合ってくれるおかげで、こっちも気が紛れて助かるよ。1人でこんな地味な練習するのはきついからな。時には愚痴でも言わないと、やってられないよ。なんにせよ、これからも2人で頑張ろうぜ」

颯太はそう言ってジムを後にした。


 土曜日か日曜日の1日は40km走または50km走を行った。土曜か日曜のどちらにするかは天気予報の具合をみて決める。ロードを走るので、信号ができるだけない河川敷のコースを選んで走った。これもタイムを気にして、試合並みにほぼ全力で走る。これだけの距離だと、給水が何度も必要であるので、大野は給水ボトルをバイクに積んで伴走したり、チェックポイントではマネージャーにあらかじめ用意してもらうようにしていた。このようにマラソンでは、スピードをつける練習、持久力をつける練習、基礎的な筋力や心肺機能をつける練習、少なくともこの3つは欠かせないとされている。大野は筋力トレーニングを強調しているが、それは相対的なもので、どれもおろそかにすることはできない。今までの日本式トレーニングが、走ることを強調しすぎていたに過ぎないのだ。大野としても42kmの距離に不安をもったままレースはできないと考えていた。スピード、持久力、基礎となる筋力、いずれが劣ってもトップのレベルでは戦えない。


 しかし、毎日毎日厳しいトレーニングをするのではなく、週に1回、月曜日は疲労回復のため、軽いジョギングとストレッチだけにした。その日は会社に来なくてもよい。筋肉は休息日を与えてやらないと成長しないし、けがにもつながる。記録を伸ばすためには休息も必要なことである。日曜日を休息日にしない理由は、ほとんどの大会が日曜日にあるからであった。大会に向けてベストなコンディションとすべき日曜日が休息の日に当てられたのなら、体調の管理がうまくいかない。そのためわざわざ月曜日を休息の日にしているのである。走り込みを押さえていると言っても、颯太たちはこれだけ走ると、走行距離は月に500kmくらいになる。市民ランナーとしては非常に多いが、社会人ランナーでは月に800kmから1000kmを走り込む選手もいるので、颯太たちの走行距離はむしろ少ないとも言えた。ちなみに市民ランナーで月間200km以上走る者は2割もいない。500km走る人は1%もいないほどである。それだけでも社会人でマラソンに取り組んでいる選手たちが、いかにすごいかがわかろうというものである。

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