バルキッシュジンジーグラウド
nns
前編
意味の無いものが、嫌いだった。
一番初めの記憶は七五三。両親が浮足立って布団で眠っていた私を起こして、それだけで今日はいつもと違う日なんだって分かって、その時点で億劫に感じたのを覚えてる。着物に着替えさせられて写真を撮られて。笑えと言われたのに笑わないから、周りの大人達が苦労していた。見かねて一瞬だけ笑顔を作ると、その隙にシャッターが切れられて、「私達は子供を笑わせるプロでもありますから」なんて言ってるのを白けた気持ちで見ていた。私みたいな子、結構いると思う。いや、そんなにはいないかな。でも確実に存在するはず。冷めた、嫌な子供だったと自分でも思う。
一般的な家族が迎えるであろう行事を予定通り普通に迎えることができて、それを意味の無いものと切り捨てる私のような娘はきっとかなりの親不孝者だ。意味の無いものを覚えていたくないという性分はこの頃から変わっていなくて、あの日着せられた着物の色すら記憶に無いんだから救えない。
猫がよく昼寝をしているブロック塀の上、崩れかけたところを覗いていると
さーと、私の頭に一切浸透することなく通り抜けていった言葉を思い出そうとしてコンマ二秒で諦めた。そもそもコンマ二秒前のことを「思い出す」と表現している時点で色々手遅れだ。だから私は言った。たった一言。
「は?」
「聞こえなかったか? バルキッシュジンジーグラウド」
「……そっか」
「ふふ」
言い直された言葉に、私は興味を示さない。というか示せない。塀の上に沿って視線を走らせるように見渡してみたけど、やっぱり猫はいない。日向に居ないとなると、今日はこの辺にはいないのだろう。通りがかった小学生にでもいじめられたのだろうか。腹の立つ小学生だ、見かけたらボコボコにしてやろう。
西塔の声を聞き流しながら振り返る。私と目が合った彼女は、気の強そうな眉をきっと顰めて、真面目な顔でかっこいいだろう? と言った。宣った。
顔だけ見ると、彼女のそれは確かに一流だった。何もしていないという嘘を吐き続けているきりっとした眉も、その気の強そうな眉に一切負けていない焦げ茶の鋭い瞳も、視線を逸らした時に垣間見える外人みたいなEラインも。全部が作り物のようにそれぞれが”端正に整っている”と主張しながらも、奇跡みたいに共存してた。そんな長身の女が黒髪ロングとかいう髪形で練り歩いているんだから、西塔はとにかく目立つ。
大根役者のような妙な喋り方だけがたまにキズだけど、それを補って余りあるくらいに彼女の声は異質で洗練されていた。全部が奇跡みたいなバランスの女だけど、本当の奇跡は彼女の存在じゃなくて、彼女が私と出会ったことにある。もったいつけて言うつもりはない。単純に死ぬほど好みなだけだ。顔が。
だけど私は西塔と特別な関係になるつもりはない。というかなりたいと思っていない。私さえそうしたいと思わなければ私達はきっとずっとこのままだから、結構長い付き合いになりそうだなんて思ってる。その理由がこいつのこの悪癖だ。
ちらりと顔を盗み見てみると、西塔はまだ得意げな顔をして私の感想を待っていた。おそらく誰もが彼女のことを可哀想な女だと思うだろうが、一応誤解を解いておく、それは誤解じゃない。
間違いなく西塔は可哀想な阿呆で、私は西塔のそういうところのおかげで、理性的にこいつを友達として見ることができている。きっと西塔にとって、その涼やかな顔立ちなんかよりもずっと、ワケの分からない造語を作って、どれほどカッコいいかを確認する作業の方が大切なんだ。私は見てくれに惑わされる前にそれに気付けた。私は自分の彼女が意味不明なことを言うのも好まないし、だからと言ってしたいことを制限させるなんて束縛をするのも嫌だ。
要するに、なんとなく自然に、私と西塔は友達で居続けられているということだ。こいつと過ごすようになって、意味の無いものが嫌いだった幼少期のことを思い出す機会が増えた。西塔が作り出す言葉はいつだって私にとって意味の無いもので、というかこの世でそれに意味を感じているのなんて西塔しかいない。つまり究極に意味が無い。言葉の産業廃棄物製造マシーンみたいな女でも、顔さえドストライクなら友達になれる、と表現する方が正しいのかもしれない。私達の関係は。
催促するような挑戦的な瞳が私を誘う。だけど私は結論を急がず、まず、足元に目を向けた。やっぱり猫は居ない。黒いやつも三毛のやつも。撫でたかったな。あ、白いのはいい。昨日引っ掻かれたし。
「で、意味は?」
「無い」
「だと思った」
猫を諦め始めた私の後ろで、西塔はやけに自信満々な表情をしていた。ちなみに私達はついさっき、文具店の前で合流した。というか戯れながら帰る私を見つけた日は、西塔がこうしてついてくる。ときがある。
実を言うと、私は西塔の名字しか知らない。南高の制服を着ているので勉強は出来るらしい。偉そうな言い方をしたけど、私の倍はできると思う。悔しいけど。
頭が良くなるとその分おかしくなるものなのかと思ったけど、南高に行った私の中学の友達はこんな悪癖を持っていなかったから、こいつはクラスでさぞかし浮いてるのだろう。むしろできればそうであって欲しい。クラスメートに囲まれて普通に笑う西塔を想像すると違和感に殺されそうになる。
猫達を探すことを諦めた私は歩道と車道が分かれていない中途半端な道を歩き始めた。たまにトラックが通るからそういうときは端に寄る。だけど大抵は乗用車すら通らない穏やかな通りだ。友達と並んで歩くにはもってこいだと思う。だというのに、西塔はずっと私の後ろをついて歩いた。多分またくだらないことを考えてるんだと思う。
「ライルローゼスゾーンフィフティーン」
「あぁ、うん」
「フィフティーンとサーティースリー、どちらがいいか意見を聞きたいのだが」
「逆に聞くけどそれについて私が何か意見を持ってると思う?」
振り返るとやっぱり馬鹿みたいに綺麗な顔が私を見ていて、さらに真剣な表情で「あぁ」と言う。前の会話の流れさえなければ、もしかするとときめいていたかもしれないけど、今の私の心の中は「なんでだよ」で支配されていた。猫達はこいつのヤバさのせいでどっか行った説を提唱したくなってくる。
「山田は私の言葉を聞きたがっていた。それはつまり興味があるということで、さらに言うと意見がまるでないと言う方が不自然、ということになる。そうだろう?」
西塔はどこの世界から飛び出してきたらそんな言葉づかいになるんだっていう、要するにいつもと変わらない口調で言った。私は足を止めて、すぐ近くにある電柱の普通じゃ絶対に足が届かないであろうボルトのような出っ張りを見つめる。
「え? 私が? 西塔を待ってた?」
「そうだと思っていた」
「なんで?」
「私を待っている間、暇だから猫を探していたのだろう」
「ち……そうなの?」
「山田は意味の無いことをしない女だ」
本当は違うって言いたかったけど、よくよく考えてみれば猫を撫でるなんてことだってあんまり意味がある行為には思えない。いや、意味だけを突き詰めてしまえば、私が生きてる意味なんてないとかそういう話になってきちゃうからかなり不毛なんだけど。
だけど、西塔を待っていたという指摘は単なる彼女の自惚れだとは思えなかった。少なくとも西塔の生み出す謎の言葉に興味があるとかいう主張よりかはよっぽど受け入れやすかった。最近、学校つまんないし。西塔の顔はいつ見ても綺麗だから。
私と西塔の出会いはちょっとおかしかった。西塔自身がちょっとおかしい奴なのでそれを考えれば当然なのかなという気もするんだけど、とにかくおかしかった。
その日、私は傘を忘れて夕立に襲われていた。被害者意識が強すぎる言い方かもしれないけど、よりにもよって透けやすい下着を付けている日に通り雨に遭ったんだから、そう言い表してしまうことについては大目に見て欲しい。とにかく私は困っていた。白い布地のセーラー服をあれほど恨んだ日は無い。
スクールバッグじゃ雨もしのげないので、せめて前の方を人目に晒さなくて済むように抱えて走った。ちょうどこの道を。そしてさっきの文房具屋の辺りで、西塔に声を掛けられたのだ。内容は至ってシンプル、今日のこいつみたいに意味の分からない言葉じゃなく、ちゃんと日本語で話してくれた。
どこまで行くんだ、入っていけ。雨音に負けない妙に耳に残る声でそう言われて振り返ると、幽霊か何かかと思うくらい綺麗な女の子が立っていた。そうして私達は知り合った。
私が傘に入ると、西塔は私の背中を見て思い付いたという「ブラックアンビジブル」という単語を早速投げつけてきた。マジでヤバい奴に助けられてしまったと思った。そして「インビジブルじゃなくて? それにしても透けてるものを見ながらそれを言うってすごい皮肉だけど」と返した。多分一言一句間違ってない。そしてそのあとの西塔の言葉も。彼女は言った。アンビジブルという音の響きを楽しむんだ、と。濡れて帰った方がいいかなって思った。
だけどこうして、私達はあれからたまに一緒に帰るようになった。今日なんて晴天で、西塔に縋る理由は何一つない筈なのに。顎に手を当ててまた何かを言おうとしている彼女に、「意味は?」と訊く心の準備をしている。
ちなみに西塔は瞬発的に思い付く言葉を口にするのが好きとかで、自分の言った言葉はほとんど覚えていない。前に「ブラックアンビジブル」について聞いたら「ほう? 悪くないな」なんて言いやがったから間違いない。思い出したらムカついてきた。
「リンシェンクゥロン」
「……意味は?」
「当然、無い」
「趣が変わったね」
「幅の広さを見せつけてみた」
「かっこいい言葉から離れられない時点で幅が狭いんだよ」
本当に馬鹿みたいだ。というか実際馬鹿なんだと思う。くだらないことにまで意味を求めてしまう私も、くだらないことを探求する西塔も。だけど、誰と一緒にいるよりも楽だから不思議だ。
やっと並んで歩く気になったらしい西塔は、私の隣に追い付くと呑気に空を見上げていた。ちなみに西塔は走ったりしていない。鬼のようにスタイルのいい彼女は大股でサクサクと早歩きをすれば、私との距離なんて簡単に縮めてしまうのだ。
「ミクヴァルハール」
「……」
「意味は無い」
「だと思った」
なんなんだ、こいつは。
せっかく並んで歩いたと思ったら、私達にとっての分かれ道に到着してしまった。西塔は信号待ちのため十字路で立ち止まり、私は青だからそのまま「またね」と言って軽く手を振って別れた。
一人になってからもずっと何かが引っ掛かっていて、結局その違和感の正体に気付いたのは夜、寝る前だった。普段は顎に手を当てて決め台詞のように言い放つ西塔が、最後の言葉の時だけそれをしなかった。そして私に意味を問い掛けられるまで、絶対に「無い」と言わない西塔が自分から「意味は無い」と言ったのだ。
これは何か意味があると思って記憶を頼りにそれっぽい音の響きをネットで調べた私は、キーボードの上で崩れ落ちた。分かりにくいんだよ、バカ。
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