番外編_第4話

 数か月後。例年よりも長く暑かった夏がようやく終わりを迎えて、短い秋が早足で終盤に向かう頃。私は悠子ちゃんのアパートで、『谷川琴美』さんとニアミスした。悠子ちゃんとのデート後、二人で帰ったら、部屋の前に居た。エレベーターから下りた時に遠くで小さくインターホンの音が響いていたので、多分、彼女が押したんだと思う。すぐに悠子ちゃんが私を隠してくれたお陰でほぼ顔を合わせなかったけど、私は悠子ちゃんの隙間から彼女の姿をしっかりと見ていた。

 何処かで見た覚えのある人。

 ――ああ、会場だ。悠子ちゃんと会った時の会場で、スタッフで居た気がする。私は人の顔や名前を覚えることが得意だから、あの時とは服の印象もメイクもまるで違うけれど、多分、間違いない。

 思っていたよりも、彼女と対面したこと自体には動揺していなかった。

 悠子ちゃんが彼女を追って行ってしまい、私は一人、悠子ちゃんの部屋に入り込む。

 先日、この部屋で私は悠子ちゃんの元カノの写真を見付けた。あの時の悠子ちゃんと、さっきの悠子ちゃんとの大きな違いを思う。

 執着の差。

 悠子ちゃんには普段から、執着って呼べるような心がほとんど見えない。

 いつも飄々としていて、穏やかに笑っていて、元カノの写真を見付けたあの時、悠子ちゃんはいつも通りの彼女のままで、それをゴミ箱に捨てた。前の彼女のことなんだから私にとっては喜ばしいはずの行為だったのに、瞬間、私の中に芽生えたのは明らかな『恐怖』だった。

 好きだった人だよね? どうしてそんなに簡単に、今さっき引き抜いて使ったティッシュみたいな軽さで、思い出の写真を捨てられるの?

 あの時は、それでも悠子ちゃんが「元々あんまり執着しない性格なんだろう」って思うことが出来た。それならただ私が、恋人というこの場所をこれから誰にも渡さなければ良いだけだから。だけど、あの時の悠子ちゃんと、さっき谷川さんを追って行った背中はまるで別人。『大事』で『心配』だって、書いてあるみたいで。

 ――多分、私はそっちの方に動揺してしまって、相手がお父さんの恋人の『谷川琴美』さんであることが二の次になっていた。

 慌てたみたいに駆ける姿だって、あの時、初めて見た。

 お友達として見てるのは分かる。そう言う意味でライバルにはならないだろうし、そもそもあの人は私のお父さんの恋人だ。だけど。お父さんと交際している件で、私と彼女を、悠子ちゃんの中でことがあるとしたら?

 もしかしたら私の方が、あの写真みたいに。

 湧き上がる恐怖を抑え込もうと息を止めたら、悠子ちゃんが帰ってきた。いつものような穏やかな笑みを湛えていて、訳も分からずホッとする。

 その後、改めて谷川さんのことを悠子ちゃんの口から説明されるのを聞きながら、どうすればこの人をこの先も繋ぎ止めていけるのかを、ずっと考えていた。私が身を捩ったらいつでも放せるくらいの緩さで腰に回る腕が、今日だけは、すごく嫌いだと思った。

 そんな不安や恐怖は。

 今まで生きてきてこんなのを抱えたことは無いってくらいに大きくて、私は随分と沈んでいたはずなのに。

『――ごめんね。私が琴美の友人だから、話し難かったんだね』

 たった一本の電話の、短いこんな言葉だけで全部解いてくれる彼女は、本当にずるい。普段から優しい口調と声色で話す悠子ちゃんだけど、この時の電話の声は、いつにも増して甘くて優しかった。何の為に電話を掛けてきてくれたのかがすぐに分かって、通話中は何とかいつも通りの私で乗り切ったけど、通話後にはちょっと嬉しくて泣いた。時間的に遅かったので菜月に電話はしなかったものの、メッセージでたっぷりと惚気たら、無視された。『うるせえ』でも良いから返事してよ。

 悔しかったので翌日の良心的な時間に電話を掛けてやった。すごく鬱陶しそうな声で応答されたけど、気付かなかったみたいに無視をする。

「と言うことでね、谷川さんに会うことになったの」

『急展開ね~』

 悠子ちゃんの中で、きっともう私と谷川さんは天秤に掛かったと思う。だけどそれでも私のこと彼女は想ってくれていた。少なくとも、あの写真の女の子よりは、執着を持ってくれているって信じられる。

『詩織と悠子さんって、何かお似合いよねぇ』

「それだけ聞くと嬉しいけど、いい意味じゃないように聞こえる。どういう意味?」

『どっちも良い感じに抜けてて傍から見てると面白い』

「最低……」

 唸るようにそう返せば菜月は満足そうに笑っている。私は不機嫌なままの声で「抜けてるって何」と追及した。

『詩織は変わり者だからを知らないし、悠子さんは天然記念物級に鈍いし、二人で一方的なボールの投げ合いしてる』

 すぐに返す言葉が出てこない。付き合う時にも似たような指摘を受けたことを思い出して、無言のままで額を押さえた。

『詩織と付き合うって、かなり大変だと思う』

「ねえ。流石に傷付く」

『あはは、ごめん。でもねぇ、それは本当に、自覚した方が良いわよ』

 文句を言えば流石に笑って止めてくれると思ったら、菜月は繰り返してしまった。私はまた沈黙する。彼女にとっては冗談ではなくて重要なことなんだと感じ、一層、傷付いた。

『外見が良いし、家は良いし。今まで詩織に寄ってきた有象無象みたいに、自信家なら平気なんだろうけど、悠子さんって真逆じゃない? きついと思うのよね。普通の人でも結構きついだろうに、輪をかけて自分に自信が無い人なんだから』

 丁寧に言われると悲しくなってくる。そして反芻するほど、今さっき言われたばかりの「お似合い」とは全然、逆の意味を告げられている気がした。

「……私じゃダメだってこと?」

『違うってば』

 菜月は笑っている。私はちっとも笑えない気持ちなのに、敢えて笑い声を聞かせることで気持ちが落ちるのを抑えてくれた気がして、口を噤んで菜月の言葉を待つ。

『相手がそういう気持ちを抱えてることは少し理解してあげなさいってこと。最初に言ったでしょ、愛情表現は過多で丁度いい、って』

 言われた。それを思い出しながら、あの時点でもう菜月が悠子ちゃんのそういう部分に気付いていて、自分は今更になってその意味を理解できたってことが悔しい。唸りながらそれを告げたら、また軽い笑い声が聞こえた。

『まだ私は、あんたより自己評価が普通なの』

「私が自信家みたいな言い方しないで。私は事実を受け止めてるだけ」

『そういうとこだよ』

 今度は呆れた溜息が長々と聞こえてくる。仕方がないでしょう。私の容姿が優れていることは疑いようも無い事実だし、むしろ此処まで普段から持て囃されていて「そんなことないよ」って逆に嫌味じゃない? だから仕方ないの。さておき、こんなやり取りはいつものことだから、菜月も話題を引っ張る様子は無い。

『それより詩織はどうして、その谷川さんに会う気になったわけ? 別に勝負しようってつもりじゃないんでしょ』

「当たり前でしょ」

 谷川さんと直接対面したからって、私が悠子ちゃんの中で『特別』になれるわけじゃないし、もしかしたらやっぱり谷川さんだけが『特別』で、私には向けてもらえないものなんだって悲しい結果を思い知るだけかもしれない。

 だからメリットがあるかって言うと、会わないままで居た方が良いだろうという気さえする。

 だけど、悠子ちゃんのこととは

 あの人が『父の恋人』だって事実に、ようやくちゃんと向き合えた。私の中ではまだ悠子ちゃんの問題の方が大きくて、そちらに意識が回っていなかった。

『つまりちょっと頭が落ち着いて、そこまで考えられるようになったってことね』

「そう」

 最初にお父さんから谷川さんの話を聞いた時、私は私なりに色んなことを心配した。

 谷川さんが悠子ちゃんの大事な友達なら、きっと悠子ちゃんは谷川さんの

 自分が天秤に掛けられてしまうからと、ついこの間までそのことがあんなに怖かったのに、今、少し気持ちが落ち着いて冷静になったら、こんなに心強いことは無いって思えた。

 悠子ちゃんが居たら、谷川さんは大丈夫かもしれない。それで彼女がこの先もお父さんの傍にずっと居てくれるなら、お父さんがまた一人になって悲しむ未来を防ぐことが出来るかもしれない。

 もしも今、谷川さんの中で私という存在が一番の負担になっているとしたら、それだけなら取り除いてあげられるんじゃないかと思った。だって偶然にも谷川さんが今、私から手を伸ばせる位置に居るんだから。

『えー、詩織、良いところあるじゃん……知らなかったなぁ』

「ねえ」

 どうして菜月は私と友達なんだろう。私にとって菜月が必要な存在なのは悔しいけど間違いなくて、でも毎回このように菜月からの流れるような罵りを聞いていると、そもそも菜月って私に友情を感じてくれているのかと疑ってしまう。

 でも感じてないって言われたら本気で落ち込むから、聞かないでおく。

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