番外編_第3話

 お父さんに会う時にこんなにも緊張したのは初めてだった。どんな言葉で、恋人の話をしたらいいか、何パターンも頭の中で組んできたのに。蓋を開けてみれば、お父さんはいつものお父さんで、どうやら私に恋人が出来たことも、申請を済ませていることも何も知らないみたい。単に久しぶりに近くに戻ってこられたから、私の顔が見たかっただけらしい。しかも今日はやけにご機嫌だ。

「お父さん、何か良いことあった?」

「勿論、詩織とこうして食事を出来るのが、一番嬉しいことだよ」

「あはは。私も一緒にご飯できて嬉しいけど」

 変わった人には違いないが、愛情深くて私はとても好きだった。愛情表現が少し、独特なだけ。

「あとは、うん。お父さんね、実は今お付き合いしている人が居るんだ」

「へえ、そうなんだ」

 菜月ほど素っ気なくはなかったと思うけれど似た返答になった気がした。いや、でもお父さんからこういう話を聞かされるのは初めてのことではないし、やっぱり、初めて告げた言葉に「へえ」だけで返してきた菜月は異常に冷たかったと思う。それに、親の恋愛事情にあんまり前のめりにはなれない。しばらく独りだったから、良かったねという気持ちだった。次の言葉を聞くまでは。

「詩織と同い年だから、仲良くなれるかもね」

「え、う、うん? そう……」

 小さく切り分けて口に含んでいたお野菜が外に出るかと思った。結構な衝撃だったんだけど、お父さんが満面の笑みだったから、聞き間違いだったかなと何度も頭の中で言葉を反芻する。うーん、いや間違いなく、私と同い年だって言った。

「その内、紹介するよ。谷川琴美さんと言って、すごく素敵な人だよ。来週にも会う予定をしている。最近は忙しくて会えない日が続いていたから、とても楽しみなんだ」

 恋人と行く予定の場所を機嫌よく語り聞かせてくれるお父さんの言葉が、半分くらいしか入ってこない。

 私はお父さんが三十歳の時に生まれた子供だから、女性はつまりお父さんと三十の歳の差がある。それについてどうこう言うつもりは無いけれど、自分と同い年の子供が相手側に居るってどういう気持ちだろう……しかもお父さん、多分これ相手にも「同い年だから仲良くなれるかも」に近い言い方をするんだろうなぁ。

 相手の人、大丈夫かな。

 お父さんより先に相手の心配をして、それから、ぐるっと回ってお父さんが心配になった。

 変わり者だけど、本当に愛情深い人だ。お母さんが出て行ってしまった時のことを、私は未だ小さかったからよく覚えていない。でもお父さんが酷く悲しそうにしていたことだけが、記憶にある。お父さんは結局、自分の何が悪かったのかはまるで理解できていなかったみたい。だけど、お母さんが傍から居なくなってしまったことは、本当に悲しんでいた。

 相手の人がもしお母さんみたいに振り回されて疲れてしまって、離れていってしまうことがあるとしたら。こうして今嬉しそうにその人のことを語っているお父さんは、きっとまた酷く悲しむんだろうな。

 そんなことに頭が行ってしまった結果、その食事の席で私は悠子ちゃんのことをお父さんに伝えるかどうか迷っていたことすら忘れてしまっていた。

「次会えるの、いつだろう。うーん、まあいいか……」

 今の時点でお父さんに伝わっていないなら、団体から伝わることも無いだろう。その内まずはメールで伝えよう。いつ頃、何て言おうかな。

 こんな悩みも数日後には忘れた。お父さんから聞いた『谷川琴美』さんの名前を、悠子ちゃんのスマホの表示で見てしまった時の衝撃がそんなことを全部、消し飛ばした。

『――突然の電話が多い。今度は何。惚気?』

 私が泣き付くのはいつも菜月だ。

 悠子ちゃんの前では考えないように考えないようにっていつも通りに振舞っても、帰り道では悪いようにばかり考えてしまって、帰宅と同時に上着も脱がずに電話を掛けていた。

「ごめん、ちょっと私、まだ混乱してて、上手く話せるか分からないんだけど」

 声がその通りに混乱していて、様子がおかしいって察知したのか、菜月の「どうしたの」と続いた声はいつもみたいに揶揄う色じゃなかった。

 それから菜月は私が話す事実の羅列を黙って聞いてくれた。お父さんに私と同い年の恋人が居た。その人が、悠子ちゃんの友達で、悠子ちゃんはその人からの誘いでコミュニティに入ったという経緯だったこと。

『へー、すんごい偶然……世間は狭いね』

「これって偶然なの?」

 咄嗟に出た声が震えて、菜月がそれに驚いたように、小さく息を呑んだ気配がした。後から思い出したら、そうだったと思う。

「出来過ぎじゃない? もしも悠子ちゃんが初めから」

『あーストップ、落ち着きなさいって。今の聞いてただけでも、それは無いと思う』

 遮るようにして菜月がそう言ったのには、多分、明確な意図があった。最後まで言わせないようにしてくれた。

「……どうして」

『そもそも悠子さん、詩織が谷川さんの名前を読み上げた時に少しも動揺してなかったんじゃない? 電話も隠そうとしてないみたいだし』

 混乱している頭を自ら落ち着かせようと、額に手を当てて、菜月の言う通りだったかどうかを、思い返す。そして一つずつ彼女の行動と言葉を確かめて、電話越しの菜月には見えていないってことも考えられずに無言で何度か頷いた。だけど見計らったみたいに、菜月は言葉を続けた。

『わざと関係を明かすにしても、あんたがこんな勘繰りしちゃうような今のタイミングは絶対におかしいわよ。メリットが全く無いでしょ』

 偶然にしてはおかしいと思うくらい、タイミングが良すぎるとは思う。でも、確かに悠子ちゃんが動揺した様子は全く無くて、私のお父さんが団体の代表だって聞いた時も、純粋にその事実に驚いていたように見えた。メリットが無いって指摘も、その通りだと思う。裏があったとしても、何の為の裏なのかまるで分からない。

『冷静になったらちゃんと分かるわよ。一旦落ち着いて、ゆっくりでいいから、今までのこと反芻してみなさいって。絶対、悠子さんは二人の交際を知らないわよ』

「……うん、ありがとう。ちょっと落ち着いて、考えてみる」

『それでもやっぱり不安になるようなら、いつでも掛けてきたら良いから』

 この時の菜月はいつになく優しくて、親身になってくれていた。多分それだけ、私が動揺してたんだろうな。電話を切った後は、とりあえず深く考えることは止めて、お風呂に入ってすぐに寝た。混乱している状態であれこれ考えたとしても、きっと悪いようにしかならない。菜月と話してその程度の冷静さは取り戻すことが出来た。じっくり記憶を辿ったのは、一夜明けて翌朝から。

 どれだけ考えても、悠子ちゃんが何か探りを入れてきたことは一度も無くて、谷川さんの話をする時にも含みは少しも無くて、改めて考えても、お父さんのことを打ち明けたら本当に驚いていた。

 うん、大丈夫。悠子ちゃんは関係ない。

 次に菜月に連絡する時は、いつも通りの私に戻って、「もう大丈夫」って告げることが出来た。ついでに悠子ちゃんが格好いいっていう話と、注目を集めてることに無自覚な人だから大変だって話をしたら、『惚気の方はウェルカムしてない』って言われた。今なら少しは聞いてくれると思ったのに。

「じゃあ別件。ちょっと画像送る」

『はあ? 何』

 そう言いながら私が菜月に送り付けたのは、悠子ちゃんの高校の卒業アルバムから発見してしまった、当時の彼女とのツーショット写真だ。菜月は私が何も言わなくてもすぐに片方が悠子ちゃんであることを察し、べったりと他の女とくっついてる姿を見て「ひえ~」と言って笑っていた。

「この子の消し方教えて」

『え? 法律は守ろう?』

「画像加工の話!」

『ああ~、びっくりした~』

 私を一体何だと思っているの。確かにこれがリアルタイム行われているなら、写真だけじゃなく存在から消したくなる可能性は、否めないけど。

 仕事の一環として私も少し画像を加工するようなことはあるものの、こういうのは菜月の方がずっと詳しい。電話からパソコンのボイスチャットに切り替えて、画面を共有しながら、加工の方法を詳しく教えてもらった。次に会う時は私が食事代を持つという条件だった。

 綺麗に消えた時の達成感は、想像以上のもので。流石に悠子ちゃんもこの結果には引くかと思ったけど、送り付けた完成品にはびっくりするくらい笑ってくれた。しかも私はこれで、高校時代の可愛い悠子ちゃんが一人で写っている写真を手に入れたことになる。大満足。

『本当に格好いい人ね。っていうか肌めちゃくちゃ綺麗……今も綺麗?』

 画像加工の説明をしてくれている合間に、菜月がそう言った。

「すごく綺麗。あげないよ」

『詩織がライバルとか色んな意味で怖すぎるわ。絶対に要らない。私は命の方が大事』

 だから。菜月は私を一体、何だと思ってるのよ。ライバルになったって、いくらなんでも命までは取らないから。他に何を取るかは、敢えては言わないけど。

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