第14話
「あー、と、改めて、初めまして。谷川琴美です」
「東
琴美が部屋に入ってくると、先に来ていた詩織ちゃんも立ち上がってお互い丁寧な挨拶をしている。私はその空気が可笑しくて笑っていた。詩織ちゃんがいつもの澄まし顔で私を振り返る一方で、琴美は明らかに不満そうに睨んでいる。
「悠子は何で笑ってんの」
「こんなビビり倒してる琴美を見たことないんだもん」
「あんたねぇ……」
他人事だと思って、とか。うるさいわね、とか。言いたくなった言葉だって沢山あるのだろうに、詩織ちゃんが居るから慌てて飲み込んでいるのが分かる。ずっとにこにこしている私を睨むことも飲み込んで、琴美が一度目を瞑って小さく溜息を吐いた。
「悠子ちゃん、あんまり遊ばないでね」
「あはは、はいはい」
楽しんでいたのがばれてしまった。お姫様からお叱りを受けては仕方ない。大人しくしておりましょう。詩織ちゃんには座り直してもらい、琴美をその正面に座らせて、私は二人にコーヒーを淹れ直した。落ち着かない様子で妙にモジモジしている琴美とは対照的に、詩織ちゃんはテーブルの一点を見つめて微動だにしていない。
別に私を待ってはいないだろうけれど、切っ掛けは欲しがっているかもしれない。じゃあ、とりあえず私も座りますか。二人の間、お誕生日席にあたる椅子を引いて腰掛ければ、案の定、詩織ちゃんが顔を上げた。本当に切っ掛けになれたのか、偶々なのかは分からないけど。
「急に呼び出してごめんなさい。本当に、お会いしてみたかっただけで、言いたいことがあったわけじゃないんです。お父さんも独身だし、何も悪いことじゃないから」
そう言うと、詩織ちゃんがようやく表情を緩めて笑みを見せる。ああ、お姫様もちょっと緊張してたんだなぁ。部外者で口を開く必要の無い私は、全く緊張感無くコーヒーを飲みながら二人の様子を眺めていた。
「私のお父さん、ちょっとバカなんで」
今度こそ迷わず言い切っちゃったな。本心なんだな。笑い声が出そうになったけど、口元を緩めるだけで留めておいた。琴美は笑ってしまった口元を慌てて抑えている。なるほど同感なんだ。
「深く考えないというか。だから私がどう思うとか、谷川さんがどう思うとか何も考えずに報告しているんですよね。多分、私に話した意味は全く無いと思うので、その辺りは気にしなくていいです」
「それは、何か……分かります」
段々、お父さんが気になってきちゃったな。二人めっちゃ意見一致してるじゃん。お父さんなのに、恋人なのに、褒め言葉がまだ一つも聞こえてこない。
詩織ちゃんはお父さんから恋人の話をされること自体は琴美が初めてではなかったそうだ。しかし今回ばかりは「詩織と同い年だから仲良くなれるかもね」と言われ、流石に戸惑ったのだという。強烈だな。詩織ちゃんをスパイス多めにしたみたいなお父さんだわ。ぼんやり二人の話を聞いていると、不意に詩織ちゃんが斜め前に座る私を見上げた。首を傾けて応える様子を、何やら可笑しそうにしている。
「悠子ちゃんのお友達だって言うから、特にお父さんの心配はしてなくて。だからどっちかと言うと」
「え、あ、わ、私ですか」
「そうですね」
琴美に向き直り、眉を下げて笑っている詩織ちゃんの横顔を見つめる。優しい子だなぁ。
つまり詩織ちゃんは今日、琴美を品定めするつもりなどまるで無くて、何か言いたいことや聞きたいことがあったわけでもなくて、琴美の方が色々考えて思い悩んでいるのではないかと心配していたらしい。
「私に伝えたこと、何のフォローも無く『伝えたよ』って言われてるだろうと思って」
「仰る通りですね……」
先日、琴美から聞いた話が頭の中で再生されて、声に出さず、肩を震わせて笑う。琴美を振り回しているお父さんも面白いし、その扱いに慣れている詩織ちゃんも面白い。そりゃまあこっちは親子なんだもんな。
「ああいう父であることは慣れているので、私のことは気にしなくて良いです。二人の関係に口を出すつもりは、今後もありませんから」
優しい声を出したわけでもないし、優しい笑みを向けたわけでもない。ただただ何でもないことみたいに詩織ちゃんは淡々とそう告げた。そして詩織ちゃんからは「以上です」とでも言ったかのような空気が出ている。やっぱりこの子、それなりに緊張しているんだな。可愛い。
「ところでお父さんとは結婚すんの?」
「あんた本当ぶっこんでくるわね」
「ハハ」
いやもう喋って良いかなーと思って。私が喋ったら神妙な空気なんて残らないだろうし、丁度いいじゃんと思ったんだけど。実際、お姫様はちょっとほっとした顔でコーヒーを飲んでいらっしゃいますよ。っていうか一番デリケートな問題を最初に話しちゃった方が楽だと思うんだよね。
琴美は一度詩織ちゃんの方へ視線を向けるも、詩織ちゃんは可愛らしい顔を崩さずに小首を傾げている。その手ごたえの無さに琴美は「そうだ東さんの娘だった」って顔をした。私はお父さんのこと全く知らないけど何となく分かるよ。
「まあ……そういう話も一応してる、けど、どうかな、色んな目もあるしさ」
溜息交じりにそう言うと、琴美が複雑な顔を見せる。付き合っているだけならば外に黙っていることも出来るだろう。また、付き合っている間には何も言ってこなかった人達が、いざ結婚するとなったら急に口を出してくる可能性もある。
しかしこの言い方だと本当に結婚に向けて進んでいるような気がする。琴美の方はまだ迷いがある様子だが、最も近い家族である詩織ちゃんもこの調子だし、お父さんって何か詩織ちゃん以上に強引そうだし、思っているより簡単に話が進むかもしれない。楽観的にそう考えた私は、琴美が結婚した後のことを不意に考える。
「ふーん、そんで私が詩織ちゃんと結婚したら、琴美……お義母さん……ぶふっ」
「なに笑ってんのよ!!」
「痛ってぇ!」
隣り合って座っているわけでもないのに、琴美はわざわざ身を乗り出し、手を伸ばして、太腿を思いっ切り叩いてきた。すごい破裂音みたいなのした。なのに私は笑いが止まらなかった。引っくり返って爆笑してしまったから、琴美も怒っているのに次第に釣られて笑みを零し、それから、ぼろぼろと涙を落とした。
色々、多分、不安だったんだろうなぁと思う。笑い転げながら。
自分と同じ年の子を持つ男性と付き合っているとか、結婚するとか。周りから注がれる目も、心無い言葉も、その立場に無くとも容易に想像できる。友達である私や、相手の娘から反対されるとか、軽蔑されるんじゃないかって、どんなにその考えを振り払おうとしても振り払えなくて、ずっと抱えていたんだと思う。今思えば、団体発足後は琴美から連絡が来ることが減っていた。忙しいだけだと思っていたけれど、話したくて飲み込んでいたこともきっとあったんだろう。
「あー笑った。死ぬかと思った」
「笑いすぎだわバカ」
まだまだ肩で息をしている私をなじる声が、涙で震えている。少し眺めてみるが、まだ琴美の涙が止まりそうにない。手の平の中に零している涙が、彼女の膝の上に落ちていった。そんなに溜め込んでいたのか。すぐに話を聞いてあげられなかったことは、今更少し、申し訳なく思う。
「ママどうしたの? 私ハンカチ持ってないけど」
「誰があんたのママだ。っていうかハンカチくらい出してよあんたの家でしょ」
「え~」
確かに寝室の棚を開ければハンカチは出てくるし、バスルームに行けばタオルも沢山あるなぁ。面倒だけど立ち上がるか? テーブルに頬杖を付いていた体勢を仕方なく起こしたところで、呆れた顔で少し笑った詩織ちゃんが、琴美にハンカチを差し出していた。
「あの、良かったらどうぞ」
「すみません……洗って返します」
「お姫様やさしい~」
褒めたはずなのに、お姫様からは更に強い呆れ顔で見られるし、琴美には睨まれている。おかしいな。
琴美の涙がゆっくりと落ち着いていく様子を横目に、少し温くなったコーヒーを傾ける。詩織ちゃんにはもしかしたら、琴美が抱え込む不安の多くは分からない。私だって全部分かるわけじゃないけれど、でも、私だから少し分かることもある。私と琴美は多分ずっと、同じことを願っていた。
「……『普通』が良かったよね」
軽く言ったつもりだったのに、滲んだ感情が隠し切れない。少し情けないような心地になりながら、眉を下げて首を振る。折角収まってきた琴美がまた新しい涙を滲ませたのが見えた。
琴美こそ、私よりずっと強くそう思ったはずだ。普通とは少し違う家庭に育ち、その寂しさを一身に受けてきた。なのに自分で選べたはずの生涯のパートナーすら、世間一般に言われる『普通』じゃなかった。これから琴美が選ぶ道を、琴美の親戚や友人、全ての人がすんなり祝福してくれることは無いと思う。ほんの少し心配される程度ならまだしも、色んな誤解や勘ぐりがあるだろう。当初、琴美が憂えた通りに彼女を軽蔑するような人間も、居ないとは限らない。
「周りの目って嫌だよねー、どうしても気になるというか、自分が良くても、一緒に居る人まで言われてさ、それがどうしても、私は嫌でさぁ」
詩織ちゃんからの視線を感じる。私が普段から気にしているようなことの一端が、伝わったんだと思う。私はあんまり真面目な話が得意じゃないから、改めてこんなことを口にするのは妙にくすぐったくて、詩織ちゃんの方を見ることが出来ない。だけど今、琴美について思ったことを飲み込みたくはなかった。
「でも琴美は、それでもって思ったんだって、それがさぁ。何かすごいなーと」
まだまだ涙の残る目を瞬いて、琴美が私の方を見た。
同性愛者だからって隔離されようとしたり。見た目や年齢や立場で、釣り合わないって他人に決められて後ろ指差されたり。息苦しくって仕方が無い。普通が良かった。その方がきっと楽だ。楽に、痛くない幸せが選べると思う。けれど。
「『それでも』って思えるくらいの相手が居るって、何か、それだけで掛け替えのない、『特別』って証明みたいだね」
軽蔑されるかもしれない。色んなものを失くすかもしれない。苦しくて痛いこともあるだろう。それでも。琴美はその相手と離れる決断をしなかった。それってそれだけで、充分な証明だ。本当に彼のことが必要で、特別で、大好きなんだろうなって、何も聞いてないのに分かってしまう。
「……そうね」
琴美はまた幾つかの涙を零しながらも、そう言って、笑った。
「っていうか、それ、あんただってそうでしょ」
返ってきた言葉に、今の話を少しだけ後悔する。伝えることに躊躇いは無かったのだけど、今それは飲み込んでほしかったな。別に都合が悪いわけじゃなく、だから、恥ずかしいんだよ。やはり私は詩織ちゃんの方は見れなくて、琴美を見て少しだけ眉を下げる。
「誰が見ても可愛いーって感じの子、もう二度と選ぶこと無いと思ってたんだけど」
高校時代のことで、私は正直、懲りていた。相手がどんな子だって、私と並んだら色々言われるだろうとは思っていても、誰もが羨むような容姿であればあるほど顕著で、きっと高校の時以上の嫌なことを、これからも沢山言われることになる。折角『特区』みたいなの作ってくれたって、私では結局、言われてしまうし、言わせてしまう。
「絶対、自分じゃねえだろって思うのにさ」
他にもっと相応しい相手は絶対に居る。本気でそう思っているし、詩織ちゃんが何て言っても永遠を信じられる強さは私には無い。だから本当は、今の内から手放してあげるべきだし、むしろ最初から恋人になんてなるべきじゃなかった。この考えが正しいと思っている。だから今の関係は間違っていると思う。思うんだけど。
「でも、かわいいんだよねぇ」
顔が勝手に緩んだ。可愛いんだよね、本当。何してても、何言ってても、ちょっと振り回されても、度肝を抜かれても。だから頭では正しくないって思っても手放せないし、何か、もうちょっともうちょっとって、詩織ちゃんに捨てられる日まで彼女の可愛さを心底愛していると思う。私を一瞥した琴美は、何処かうんざりした顔を浮かべた。
「東さん、何とかなりませんか、この臆面の無いバカ」
「……無理ですね、私には」
めちゃくちゃ呆れた声が聞こえて、ようやく詩織ちゃんの方を窺えば、彼女は耳を真っ赤に染めてそっぽを向いていた。可愛いって言って照れられても。あなたこんな言葉、誰よりも言われ慣れているでしょうに。
「東さんは、このバカの何処がお気に召したんですか?」
「私の前で聞くなよ」
「初めてバルコニーで会った時に……」
「え、普通に答えるのね?」
華麗に二人からシカトを食らった私は、自分の噂話が目の前で繰り広げられるのを大人しく聞く羽目になった。
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