第11話
彼女との交際は、この上なく順調で、この上なく幸せだ。
プールの翌日以来、公共の場での触れ合いも控えてくれている。部屋ではちょっと甘えて来てくれることもあって、そういう差が余計に楽しくて、詩織ちゃんもそう思ってくれていたらいいなと思う。
しかし、外では全く触れ合わないかと言うと、そうでもない。周りに人が多くて歩きにくい場合には軽く裾を掴んでくることもあるし、見兼ねて私から手を引くこともあった。この日は後者で、人混みなのにそんなものを目ざとく見付けるような人と遭遇してしまったのはただの不運だったと思う。
擦れ違いざまに私の容姿を揶揄した女性数名の声が聞こえた。思わず私は癖のように、被っていた帽子を少し深く被り直した。顔のことを言われたから、隠しておきたくなったのだ。だけどそれを横から見止めたらしい詩織ちゃんが不満そうに繋がっていた手をぎゅっと握り締める。ご機嫌を伺う為、私は少しだけ横を向いた。
「――やば、睨まれた」
「怖ぁ~……」
さっきと同じ声だった。直後、彼女らの声は急速に遠ざかる。逃げて行ったのか。
「っていうか、睨んでないっつうの」
どうしていつもそう勘違いされるのだろう。頭を少し動かしただけで、全く彼女らの方を見てもいないのに。目が細くて視線が分かりにくいって、こういう弊害まで出るのか。やれやれと溜息を零したところで、詩織ちゃんが私を呼ぶように少し腕を引いてきた。
「私が睨んだ」
「え」
真っ直ぐに私を見上げる詩織ちゃんの瞳が大きくて、呆けた私が映り込む。詩織ちゃんが通りすがりの誰かを睨んだという事実にも驚いていたが、この目に睨まれるって怖そう、とも思った。
「プールの時も悠子ちゃんをじろじろ見てる女が居たから思いっきり睨んでたんだけど、あの子達はしつこかったなぁ」
「いや何してるの……っていうか、プールの子らは詩織ちゃん目当てだったでしょ?」
「え、違うよ。私の方見てなかったもん」
「はぁ?」
詩織ちゃんが腕を引いたから、つい止めてしまっていた足を進める。此処は人混みだ。長く留まることは周りの邪魔になるだろう。歩きながら、再び詩織ちゃんが私を短く見上げた。
「水着も似合ってたし、悠子ちゃんは背が高くて、手足も長いモデル体型だから、目立つんだよ」
彼女の言っていることがまるで理解できない。でも睨んでいたのが詩織ちゃんで、「彼女さんに睨まれた」がそのせいだったなら、確かに、対象は私だったことになる。しかし彼女らが口にしていた言葉が私を言い表しているとは思えなかった。彼女らは明らかに、対象に好意を向けていたはずだ。全く信じられないけれど、事実と仮定するなら一点、落としどころを思い付く。
「あー、顔、見てなかったのかな? そういえば一度も私、あの子ら見付けてないもんなぁ」
顔を向けていないから、体型だけで気になっていたのかも。背だけは確かに目立つほどに高いから。そう考えながら零すと、詩織ちゃんがいつになく細い目で私を見上げていた。
「悠子ちゃんって、顔にコンプレックスあり過ぎじゃない? 誰に何を植え付けられたのか知らないけど、普通にきれいだよ」
「えー。ありがとう」
「少しも信じてないじゃん……」
不満そうなお顔をしている。ううん。詩織ちゃんの言葉なら全部信じてあげたいけれど、こればかりは難しい。二十五年間を生きてきて、自分の顔が『きれい』なんて言葉から程遠いことを、痛いほど思い知らされてきたのだから。
「いやー、何て言うか……ねぇ。今のも、私が美人だったら言われないでしょ?」
それが証明だ。そう思うし、至極真っ当な意見だと思っているのに、お姫様は少し冷たい目をしていた。
「あんなゴミの言うことなんて、どうでもいいのに」
「お姫様。お言葉が荒れていらっしゃいます」
びっくりした! 言葉を濁そうとする様子すら無く迷わずゴミって言った!
私の指摘もちょっと声が上擦った。そんな反応を受けてもお姫様は悪びれるような顔も無い。むしろ何処か楽しそうに、私を見上げて微笑んだ。
「まあいいや。私は綺麗だって思ってるからね」
「うぁ、はい」
こんなに照れ臭いこと中々無いな。私は口元を引き締めて、詩織ちゃんから顔を逸らした。それが不満だったのか嬉しかったのか楽しかったのかも、彼女の表情を振り返らなかったので分からないけど、また強く私の手を彼女が握ったことだけは手の平に感じていた。
「悠子ちゃんって、本当に学生の頃とかモテなかったの?」
デートの後でまた、私の部屋に詩織ちゃんが来ていた。今日は外で夕飯を取ったから、今はソファに並んで二人、コーヒーブレイクをしている。
「どの時代もそんな気配無いよ」
「全然信じられない。アルバムとか持ってない?」
「えぇ……」
やけに強引だ。昼間のことを気にしているのかな。しかし昔の写真なんて化粧もしていないし、顔面については今より顕著なだけだろうと思うのだけど。とは言え、詩織ちゃんのおねだりを躱す強さは中々持てない。期待を込めた目が私を見つめているので、仕方なく腰を上げる。何処かにあったとは思う。
クローゼットを開けたら、以前、手前に引き出していた客用布団の圧迫感がすごかった。
「おお、そうだった」
一人で笑いながら客用布団を引っ張り出し、奥に入れていた他のものを手前に移動する。多分この中にあると思う。客用布団は再び元の位置、一番奥へと戻ってもらった。
「お布団もう一つ持ってるんだね」
「うん、客用にね。でも私そんなに友達も居ないし、琴美がたまに使うくらいなんだけど」
それもほとんど機会は無い。琴美は酒が好きな癖に大して強くなくて、すぐに酔っぱらう。特に私の部屋では気を抜いているのか酔い潰れることが多く、そういう時に仕方なく布団を引っ張り出して転がすのだ。もはやその為だけにある布団と言っても過言では無かった。
「仲良しだね」
「うーん、ま、そうかもね。……お。あったあった、高校の卒業アルバムでいい?」
引っ張り出してきたそれはブックケース付きのハードカバーだ。ちょっと重たい。持ち上げて振り返ったら、詩織ちゃんは一瞬だけきょとんとして、それから笑顔で頷いた。早く見せてと言わんばかりに伸ばされる両腕が可愛い。抱き付いて押し倒したいけど、今お求めなのは私じゃなくてこのアルバムですよね。分かっています。手渡すと、私は詩織ちゃんに背を向けて、クローゼットを閉じる為に少し離れる。
「勝手に見ちゃって良いの?」
「勿論いいよ、好きに見て」
見せてと強引にお願いしてくる割にこういうところが控え目だ。了承を口にすると早速ブックケースからアルバムを引き抜いている。その時、彼女の足元に一枚の写真が落ちた。気付いた詩織ちゃんが手を伸ばして、ぴたりと静止する。何の写真だろう。私は卒業アルバムの中に写真なんか突っ込んだ覚えは全く無かった。
「どうし、た……の、……ふふっ」
歩み寄ってその正体を知り、私は笑った。その場で膝を付いて、耐え切れないで爆笑してしまった。
「笑うんだ」
「いや、もう、だって、漫画かよって思っちゃってさ……」
写真は、高校時代に付き合っていた例の、見目麗しい同級生とのツーショットだった。しかもよりによって、彼女が私の膝の上に座ってくっ付いている写真だ。私の腕もしっかり彼女の腰に回されている。こんなことある? 私があんまりに笑い転げるせいか、詩織ちゃんも硬直していた時の表情を崩して苦笑いしていた。
「ていうか、こんな写真、持ってたかなぁ。全然覚えてないや。誰かが入れたのかも」
誤魔化そうというつもりの言葉では無く、本当に、この写真をアルバムのブックケースに忍ばせた記憶どころか、持っていた記憶すら無い。忘れるのは得意だけれど、見たら思い出すくらいのことは出来るはずだ。私がアルバムを雑に鞄へ突っ込んで放置していたのを見た誰かが――当時つるんでいた友人か、またはかつて、私とこの子が付き合っていた頃に揶揄ってきていた子達が――悪戯したのかもしれない。そういえば受け取った後、私は一度もアルバムを開いていない。
首を傾けていると、じっと私を見ていた詩織ちゃんは私の手から写真を奪い取った。特に抵抗すること無く私は手を離す。別に破られても何をされても構わないものだ。詩織ちゃんの好きにしたらいいと思った。しかし、詩織ちゃんは写真ではなくその裏面を見つめた後、私にそちら側を向けてみせた。
「え。何これ」
「連絡先でしょ、どう見ても」
写真の裏には決して消えそうにない黒いペンで電話番号とメールアドレスと思しき文字が書いてある。私の字ではない。友人の字でもない。特徴的なaの書き方が記憶の底から引っ張り出されて、私は細い目を一層細めた。
「この子が、悠子ちゃんのアルバムに入れたんじゃない?」
「はぁー……」
誰が入れたかは分からないが、この字が彼女のものであることは間違いないだろう。しかし、そんなことをするような関係ではなかったけどなぁ。別れたがったのも向こうだし、卒業前にはもう口を利くことも無くなっていた。
「よく分からんけど。まあ、若いってアホだよね」
しかし思惑なんてもうどうでもいいことだ。高校を卒業して六年以上が経つ。今更これを見付けて、だから何だと言うのだろう。私は詩織ちゃんの手からその写真を受け取ると、立ち上がり、迷うことなくゴミ箱に入れた。
「悠子ちゃん」
「ん?」
「別に、捨てなくてもいいよ」
詩織ちゃんの声が少し慌てていた。表情も、そのような色をしていて、私は「ああ」と零す。
「違う違う、詩織ちゃんに気を遣ったつもりじゃなくて。要らないと思っただけだよ」
自分のせいで写真を捨てる決断をさせたように映ってしまったのだろう。それは全く違う。私は一人きりでこれを見付けたとしても、詩織ちゃんと出会う前だったとしても、間違いなく同じ行動をした。だから詩織ちゃんのせいではないのだと告げる私に、すくりと立ち上がった詩織ちゃんが歩み寄ってくる。ついさっきの焦ったような表情が何処にも無く、妙に強い瞳で私を見上げた。
「じゃあそれ、私に頂戴」
「は?」
捨てたそれに手を伸ばそうとする詩織ちゃんの腕を慌てて取って引き止める。いや、お姫様にゴミ箱を漁らせるのはちょっと……それなら私が取るから。そう思い、一度捨てたその写真を仕方なくゴミ箱から引き抜く。特に汚れるようなものは他に入れていなかったが、念の為、私の服で軽く拭いた。
「い、良いけど、連絡とかしないよね?」
「あはは、流石にしないよ」
意外と気が強いということを今日知ってしまったのでびくびくした。それが伝わったらしく、詩織ちゃんが表情を緩めて笑う。そして「そんなに心配なら」と言って私から油性ペンを借りると、裏の連絡先をその場で塗り潰した。私が見ないようにではなく詩織ちゃんが見ないようにという措置なのだから、正直、状況がよく分からない。
「こんなの貰ってどうするの?」
「この子は邪魔だけど、高校生の悠子ちゃんが可愛いから欲しいの」
邪魔ってはっきり言ったぁ。連絡先を消しておいてもらって良かった。やっぱりちょっと怒らせたら怖いタイプだわこのお姫様。
その後は、先程の出来事など無かったかのように、詩織ちゃんはアルバムの中を楽しそうに眺めていらした。そうして「絶対モテてたよ」「知らないだけだよ」と何度も言われるのに対して「無いから本当に」と笑って流すだけの夜だった。
ちょっとしたハプニングだったが、平和に過ぎた。良かったなぁ。そう思っていたけれど、驚いたのは三日後だ。詩織ちゃんから送られてきたメールに私は目を丸めた。
『消した。悠子ちゃんが可愛いだけの写真になった』
そんな文章に添えられていたのは、例の写真から彼女の存在が消えた画像。まるで最初からそこには誰も居なかったくらい見事に消えていて、彼女の身体で隠れていた背景や私の脚の一部も再現されている。いや、どうなってんだこれ。最近の画像加工ってすごいね。ていうかやることが私よりえぐいよ。そう思って、私は声を上げて笑った。お姫様ってのは、見た目の儚さや繊細さからは想像も付かないくらい、逞しい人であるらしい。
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