第9話

「結構広いね」

「でもかなり安いんだよー。駅から遠いし、そんなにセキュリティも高くないからさ」

 お姫様が一人で暮らしているアパートは駅からも近く、セキュリティも万全。結果、エントランスホールにも入ることを躊躇う私がいつも外で待っているわけだけど、こんなに愛らしい子が一人で暮らすにはそれが無難だろう。歩く夜道は極力短く、家は安全に。

 でもそんなことは私のような女には必要ない。その分、浮いたお金を利用して広めの部屋を借りている。お陰で「家飲みに最適」と言いながら琴美が私の部屋に時々転がり込んでくる羽目にもなっているが、お姫様を招くのに困らなかったので全て良しとしよう。

「さてと。じゃあその辺で寛いでて。夕飯作っちゃうからさ」

 今日、お姫様が私の部屋に来た一番の理由はそれだった。比較的、私は料理が得意なので、食事のほとんどが自炊。お昼ご飯はお弁当持参。日々のメールの中でふとそんな話題が出て、「手料理を食べてみたい」とせがまれたのだ。簡単なものでいいなら、お安い御用です。

「私も手伝うよ」

「お、いいの? お姫様って台所とか立つの?」

「普通に立つよ。私だって一人暮らしなんだから」

 苦笑されてしまったが、全くイメージではない。しかし聞いたところによるとあまりマメでは無いものの、週の半分くらいは彼女も自炊をするらしい。ただ、お昼は社員食堂なんだとか。

「社食がすごく安いから、それならお弁当作るより楽だし経済的だしって思っちゃって」

「へー、良いじゃん。私もそんなのあったら絶対使ってるよ」

 定食だけを頼んで、小鉢やデザートを追加しなければ三百円くらいで済むらしい。ええ、良いなぁ。下手に冷凍食品を活用してお弁当を作ったら、それより高くなることもあるのに。何より栄養バランスが良さそうだ。私は毎日料理をしていて、『前の日の残り』とか『週末に作り過ぎて冷凍したやつ』とかを回しているので安く済ませているけれど、そういうのはほぼ毎日料理することが前提で安くなるものだ。偶にしか料理しないような場合、一食分は自炊が逆に高くなる。

「じゃーお野菜を洗って切ってもらおうかな」

 部屋が広いお陰でキッチンもそんなに狭くない。ダイニングテーブルも活用しつつ、二人で調理を進めて行く。時間の掛かりそうなものは既に下拵えしてあるので、三十分もあれば夕飯は作れるだろう。しかも一人でやるつもりだった調理、意外と手の動くお姫様によって短縮できそう。「意外と」って言えば、怒られそうだけど。

「これは私達いつでも結婚できちゃうねぇ」

 手早く野菜を切り終えた詩織ちゃんを見て、隣でパスタソースを作りながら軽口を叩く。詩織ちゃんは一瞬目を丸めたように見えたけれど、すぐに可笑しそうに眉を下げて笑った。

「料理上手なお嫁さんは理想だね」

「おっ、私は及第点ですか?」

「うーん、食べてから採点しようかな?」

 あらら厳しいな。しかし尤もだ。お姫様が丁寧に野菜を切ってる姿が可愛い~などと意識を飛ばして手元のパスタソースを失敗したら落第点が下る。気を取り直していつもより少し慎重に調味料を計った。

「はい、お姫様、味見してくださーい。あ、熱いから気を付けて」

 小皿に入れたパスタソースをお姫様へと差し出す。私はこれくらいが好きだけれど、お姫様がもう少し薄くとか、濃くとかいうなら調整しましょう。

「ん、美味しい」

 そう言ってぱちりと瞬く大きな目が可愛らしい。口に合う味付けだった時に見せてくれる顔だ。これは及第点を貰えそう。

「良かったー。じゃあちゃちゃっと仕上げて並べてしまいましょう。お姫様はサラダ宜しく~」

「うん」

 パスタに手早くソースを絡め、お皿に盛り付ける。副菜は隣のコンロで作っていたスープと、今お姫様が盛り付けてくれているサラダ。後は冷蔵庫の作り置きを温め直しただけだけど、張り切り過ぎて待たせるよりは良いだろう。出来上がったものをテーブルに運ぶのをお任せし、使い終えたフライパンを洗う。

「悠子ちゃんってモテるでしょ」

「はいぃ? 私が? そんなこと人生で一度たりとも経験してないよ」

 料理を運び終えた詩織ちゃんは何故か私の隣に戻って来ると徐にそう言った。しかも私の返しに「嘘だぁ」と不満そう。何のこっちゃ。

「いやいや本当だって。ていうか、お姫様みたいな本物にそんなこと言われてどうしたらいいわけ?」

「本物って何?」

 また苦笑いしてらっしゃる。あなたを『本物』と呼ばずに何と呼べばいいと言うのか。お見合いパーティーに出て五十人から連絡先を渡されるってとんでもないことですが? モテる自覚はちゃんとあるらしいのに、どうしてかこの日の詩織ちゃんは、私が「モテる」という説に固執していた。

「だって優しいし、格好いいし、面白いし、臆面なくいつも褒めてくれるでしょ。お姫様とか言うし。それで料理まで上手なんだから」

「なになに、今日すっごい褒めてくれるじゃん」

 洗い終えたフライパンの水気を簡単に取って、コンロに戻す。大きな物だけ洗っておけばシンクも圧迫しないし、残りは食後でも良いだろう。濡れた手を拭きながら、私は初めて詩織ちゃんを目の前にしたバルコニーでのことを思い返していた。

「なんかさー、お姫様みたいだと思ったんだよね、初めて会った時」

 今、隣にちょこんと立っている姿だけでも愛らしくて、彼女を構成する一つ一つがそう思わせる要因だろうけれど、あの時が一番強くそう思った。

「可愛いしさー、きらきら~ってしてて。人に囲まれたせいで疲れ果ててバルコニーに来たって言うのに、それでもなんか、くたびれてる感じが無くて美人でさ~」

「あはは、すごい褒めてくれる」

 褒めてるっていうか。事実をありのまま告げただけなんだけど。今日の詩織ちゃんはあの時の髪形に近くて、長めの髪を上の方でお団子にして纏めている。あの日は後れ毛が流れる様子に見蕩れていただけなのに、今は、指先で触れることだって出来てしまう。人差し指で軽く掬い上げれば、くすぐったそうに詩織ちゃんが肩を竦めた。

「私の隣に居るの、今でもちょっと不思議だよ」

 思わずそんな言葉が零れた。ああ、『嫌な思い出』を昨日の夜、やけに強く思い出してしまったせいかもしれない。目を丸めた詩織ちゃんは、ゆっくりと表情を不満な色に染めていった。

「そういうの言わないで」

「あらら、怒っちゃった、ごめん、自分に自信が無いだけだよ、詩織ちゃんのせいじゃなくて」

「悠子ちゃん絶対モテるのに、パーティー出ないせいだよ。……良かったけど。私が行くまで隣が空いてて」

 その言葉の破壊力に、私はただただ目を瞬いた。何てことを言うのこの子は。は~もうどうしてくれようかな。すぐ傍にあるこめかみに軽くキスを落として、腰を引き寄せる。

「可愛すぎて今すぐ襲いそう」

「ふふ。ご飯食べようよ」

「あ、はい」

 そうでした。洗い物を待たせたせいで少し放置してしまった。美味しく作ったはずなので、是非とも温かい内に召し上がって頂きたい。捕まえていた腰を解放し、二人でテーブルに着いた。

 その後、めでたくお姫様の審査を合格した私は結婚の資格を――貰ったのかは分からないが、とりあえず料理は気に入って頂けたらしい。嬉しくなったので食器などの洗い物や後片付けを全て一人でやることにした。コントロールされているとしたら怖いけど、嬉しいからどうでも良いのです。すると、スポンジを泡立ててお皿を洗っている真っ最中、テーブルに置き去りにしていた私のスマホがメロディを奏で始める。

「悠子ちゃん、これ電話かな?」

「あーちょっと名前見ちゃって~。仕事だったら出るから」

「うん」

 スマホが鳴っていても近付かないようにしてくれたのは、相手の名前を見ないように気を遣ってくれていたんだと思う。それを表すように、「見て」と私がお願いしているにも関わらず、お姫様は少し控え目に私のスマホへと近付いた。

「……谷川琴美、さん」

「なんだ。友達だわ。じゃあ後で掛けるからいいや。放っておいてー」

 最近ずっと連絡も何も無かったのに急に何だよ。しかも先にメッセージ送るとか何かあっただろ。もしかしたら緊急だったのか? と色々考えてはみたけれど、意味も無く唐突に掛けてくることもままある相手だ。詩織ちゃんは私の言葉に軽く頷いて、元々座っていたソファの端に腰掛け直していた。

「よし、洗い物完了~、じゃあお姫様、お風呂――」

 キッチン周りの後片付けを終え、既に綺麗に掃除してある我が家のバスルームへお姫様をご案内しようとしたら、再び私のスマホが鳴った。やはりメッセージ通知ではなく、着信だ。

「もー、しつこいなー」

 私は文句を言いつつ、スマホの方へと歩み寄る。これだけ短い時間で掛けてくるなら、流石に急用かもしれない。溜息を零してスマホを手に取った。

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