第8話

 翌日、私達はぎりぎりの時間にホテルをチェックアウトした。

 いや別に、朝まで元気に身体を重ねたわけではなく。ただちょっと、まあ、身体を重ねた直後の独特の甘い空気に引っ張られて、起きた後も少しイチャイチャしていましてね。得意の切り替えも中々働かずに。お姫様の誘惑に全く勝てないままズルズルと。まあ切り替えたら切り替えたで昨日の夜のように「そういうとこ」と怒られた気もするのだけど。

「あー、プール、楽しかったねぇ」

 ホテルから駅までは歩いて十数分。建物と建物の間から、時々プールの巨大なウォータースライダーが見える。結局私達はあれに三回乗った。あれを見ていると、今から帰るのかー、と残念な気持ちになる。私の視線を追って同じくウォータースライダーを見付けた詩織ちゃんは私の心を察した様子で、くすくすと笑った。

「楽しかったって言う割に沈んだ声だと思ったら。夏休み振り返ってる子供みたい」

「えー、ひどいなー。大人になっても楽しい時間が終わるのは寂しいものですよ?」

「まあ分かるけど」

 こうして話していると昨日までと何も変わらないのだけど、日傘を持つ私の腕に触れている詩織ちゃんは、『腕組んでるみたい』じゃなくてほぼ組んでる。何なら胸も当たってる。スキンシップが明らかに増えて、過剰になっていた。本人はそれほど意識していないかもしれないが、とにかくずっと私の身体の何処かに触れていたい、らしい。そう言われたわけではないけれど、朝からずっと触れてきている感じから、そういう風に捉えている。

 いやー、昨夜びっくりしたんだけども、お姫様は初めてでしたね。

 あれだけモテてたら一人や二人くらい経験してるだろうと思っていたのだけど、逆にモテ過ぎて選びにくいのだろうか。私が貰っていいのか? 本当に? という躊躇いが無かったわけではない。だけど流石にそんなこと言って躊躇ったら今度こそ本気で怒られるのは分かっていたし、野暮だと思ったので言わなかった。

 経験の有無を良いとか悪いとか思っているわけじゃない。ただ、時々こういう変化をする子が居るのを知っているだけだ。セックスの後から、やけに触れたがる。距離が極端に近くなる。本人はおそらく意識していない。そしてそれが初めての子ほど顕著だったりする。初めての変化だから、慣れていないのだろうと勝手な解釈をしていた。正直のところ明確な理由には興味が無い。勿論、お姫様みたいな可愛い子が距離を縮めてくれることに、不満などあるわけがない。胸が当たってて柔らかくてラッキーと思っている。これは本心だ。

 でも、やっぱり、その変化に一緒に喜んで、付き合ってあげられるのは二人きりの時だけ。公共の場で人目を憚らず振舞うことは、私には出来ない。そのように振舞う人達を非難するつもりは少しも無いけれど、単に、私が出来ない。それだけ。だから、詩織ちゃんがくっ付いて来ているのは分かっていたけれど、私は今まで通りを貫いて、素知らぬふりをしていた。

「じゃ、二日間ありがとねー、疲れたでしょ、ゆっくり休んでね、詩織ちゃん」

 彼女をアパート前までいつも通りに送り届けたのは正午過ぎ。これからランチに行くことも出来たとは思うけど、昨日もお疲れだったから早めに解散してお互いゆっくり休みましょうということにした。明日からは平日。つまりお互い仕事なので。詩織ちゃんも「そうだね」と軽く同意してくれていたはずだったが、私が立ち去ろうとすると、腕を引いて、それを止めた。

「ちょっとだけ、上がって行ける?」

「……もちろん。だけど急に上がっちゃって良いの?」

「うん、大丈夫」

 引き止められることも、その次の展開も、ある程度は予想していた。だから部屋に入ると同時に詩織ちゃんが抱き付いてきたことに驚きは無かった。そして今は二人きりだから、応えることも吝かでない。彼女を抱き返し、身体を屈めてキスをした。まだお互い靴も脱いでない状態で、どれくらいそうしていたのかも分からない。夏だった。そんなことを思い出したのは、後頭部から汗が雫になって流れて来てからだ。

「あっつ……詩織ちゃん、平気?」

「平気、ごめん、私が引き止めちゃった」

「ううん」

 見下ろせば詩織ちゃんの首筋からも汗が流れ落ちていた。こんな所で二人揃って熱中症にでもなったら笑い話にもならない。身体を離すと、詩織ちゃんはやや名残惜しそうにしたものの、大人しく離れてくれた。しかし、中に入り込んで冷房を付けるとまた身を寄せてきて、きりが無いなと少し笑う。それでも私は嫌がるような顔をしたわけじゃなかったのに、私を見上げた詩織ちゃんは何処か申し訳なさそうな顔を見せた。

「ごめんね、悠子ちゃん」

「うん?」

「……悠子ちゃん、人前でくっ付くの、嫌いなんだね」

 一瞬、言葉が出てこなかった。素知らぬふりをしたとは言え、振り払ったり、避けたりしていたわけじゃない。くっ付いて来た時に表情や対応を『変えなかった』だけだ。それなのに彼女がその回答に至ることは、少し驚いていたし、酷い罪悪感だった。

「いや、嫌いって言うのは少し違うんだけど、でも、ごめん、嫌な気にさせた」

 思わず眉を顰めてそう答えれば、改めて私を見上げた詩織ちゃんが、どうしてか少し笑う。

「悠子ちゃんがそんな顔するの、初めて見たかも。いつも笑ってるんだもの」

 目を瞬いてから、私も釣られるようにして思わず笑った。基本は能天気な人間だから、難しい顔する方が難しいんだけど。今はどうやらいつになく険しい顔をしちゃったらしい。少し困った心地になり、眉が勝手に下がる。詩織ちゃんは私の顔をまじまじと見つめていた。今みたいな顔も、詩織ちゃんからは珍しくて可笑しいのだろうか。

「詩織ちゃんが触れてきて、嫌だなんて思うことは無いよ。人前でも。ただ、」

 私は、人の目が気になるのだ。それが平均より酷いか軽いかは分からないけれど、少なくとも『全く気にしない』と考える人のことは理解できない。同性同士であることが問題じゃない。そもそも区画内であればそんなことは全く問題にならない。だから私が気になって仕方が無いのは、そんなことよりも、ずっと。

「……ちょっと、嫌な思い出があるだけなんだよね。だから、詩織ちゃんが悪いわけじゃないんだよ」

 詩織ちゃんの大きな瞳に映り込む私は随分と情けない顔をしていて、それが気恥ずかしくて、目隠しするみたいに詩織ちゃんを腕の中へと閉じ込める。抵抗はされなかった。私の胸に額を押し当てた詩織ちゃんが、背中に腕を回してぎゅっと私を抱き返してくれた。

「じゃあ、しない。思い出したくないことは、思い出さなくていいよ。だから悠子ちゃんこれからは、私が気付けなかったら、ちゃんと教えてね。嫌がること、したいわけじゃなかったの」

「うん、分かってるよ。ありがとう」

 そう言ってくれる彼女を優しいと思うと同時に、そうだよなぁと思った。ちゃんと言っておけば、詩織ちゃんだって嫌な気分にならなかったかもしれない。ナチュラルボーンのお姫様だけど、私が嫌がることを強引に押し付けるような人じゃない。彼女が我儘を言うのはいつも、私が「まあいいか」と流せる範囲でのことだ。

 誤魔化していれば逃げられると考えて、向き合うことなくそちらを選ぼうとしたのはどうしたって私の落ち度だった。

 その後は少しだけ昨日の思い出話をして、次は何処に出掛けようかって話をして、私のお腹が盛大に空腹を訴える音を出した辺りで、解散した。一緒にランチでも、と言い出したら本当にこのまま、夜まで居座ってしまいそうだから。


 私は以前にも、大変可愛らしい容姿をした相手と、付き合っていたことがある。

 面食いかと言われれば、まあそうかもしれない。でも可愛い子が好きだっていうのは、別にそんな特別なことじゃないだろう。そんな子ばかりを選んできたわけでもないし。ただ、詩織ちゃんとお付き合いする上ではやっぱり、その子のことを思い出す。私がまだ高校生だった時のことで、相手は同級生だった。

 あの子も、初めての子だった。身体を初めて重ねた後は、詩織ちゃんみたいに、いや、それ以上にスキンシップ過多になった。当時の私はそんなこと全く気にしていなくて、可愛いなと思って、それだけだった。ただ、周りの目は日に日に酷くなっていった。

 女同士だったことよりも、容姿のことについて言われる方がずっと多かったと思う。不釣り合いだと言われるのはまだ優しい方で、身の丈に合わない相手を選ぶなんて度胸があり過ぎて気が狂ってると笑う奴もいた。鏡見ろよなんて使い古された台詞を聞いて、本当に言う奴が居るんだなって感心した。私だけが言われるなら良かったのに、相手の子にも声は届く。あんなのが好みなのかとか、並んで歩くのは恥ずかしくないのかとか、とにかく知人友人、話したことも無いような他クラスの子からも色々と言われていたらしい。そりゃ嫌にもなるだろうなと、納得しかない。「疲れた」と言われても、「そうだよね」としか言えなかった。


「思い出さなくて良いんだっけ?」

 自宅のベッドで自嘲的に笑う。詩織ちゃんは優しくそう言ってくれたのに、転寝してたら当時の夢まで見てしまった。あの子に未練は少しも無いし、今頃どうしているのかも何も知らない。高校を卒業してから一度も連絡を取っていない、と言うか、連絡先ももう持っていない。私は大学進学を機に地元からも遠く離れている為、街中を歩いていて不意の再会なんて面白いことも有り得ない。あの子と二度と会うことも無く、思い出す必要がまるで無いことは分かっていた。

 学生時代のように閉鎖的な場所に生きているわけでもないのだから、街中で多少触れ合ったからって、同じことにはならない。頭では分かっていても、気持ちが付いていかない。生まれ持った容姿をどうこう言われることは、もう慣れた。自分が言われることは、もうどうでもいい。それでも、自分のせいで他の誰かが悪く言われることだけは、何度繰り返しても慣れることが出来なかった。

 だからと言って嫌な思い出を反芻してうじうじと塞ぎ込むのは私の性分じゃない。忘れた方が楽だし、考えない方が楽だ。そもそも今の私は呑気に転寝している場合ではなかった。今は金曜の夜。仕事から帰って諸々家事を済ませた上で、部屋を片付けていたら疲れてしまったので仮眠をしていた。

「結構、片付いたとは思うけど。うーん、やり始めるときりが無いんだよね」

 一人でそんなことを部屋に向かって呟いてみる。明日、詩織ちゃんが私の部屋に泊まりに来ることになっていた。琴美あたりが時々遊びに来ることもあったから、人を招けないと言うほどには散らかっていなかったものの、相手がお姫様だと思うともう一段階、綺麗にしたくもなると言うもの。もう夜が更けてしまったから掃除機などは明日の朝にするとして、後はどうしようか。

「布団なぁ……念の為、客用も用意しておくべきか」

 一緒に寝るだろうけど、一緒に寝るでしょーって準備していないのも露骨過ぎるしなぁ。クローゼットの奥に圧縮された状態で置いてあるそれを引っ張り出し、手前に入れていたものを代わりに奥へと入れ直して、取り出しやすい位置に移動させた。

「とりあえずこれでいっか」

 無駄になるかもしれないけれど、それはそれ。やっぱり私は事前にあれこれ準備することが楽しいのだ。

 そうして翌日、昼間はいつも通りに二人で出掛け、夕方になってから私の部屋へとお姫様を招き入れた。

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