第7話
プールって疲れるんだよね。海でもそうだけど、水で遊ぶと妙に体力が持って行かれる。よく分かる。だから正直今回のお泊まりデートはお泊まりを主目的とすると大失敗だと思った。つまり何が言いたいのかと言うと、夕食を取り、お風呂を上がったお姫様が今ダブルベッドで熟睡してます。
「かわいー」
良いんだけどね。可愛いから。ぐっすりですよ。無防備だわ。
しかし私はまだお風呂に入っていないので、お休みの彼女へ丁寧に布団を掛けて、バスルームへと移動する。この部屋に入ってすぐは、ダブルベッドを見ると妙に緊張して、ドキドキしていたのだけど。お姫様が眠ってしまい、がっかり半分、ちょっとほっとしているのも半分。勿論、嫌とかではなく。ただただ緊張してたから、緩んだって意味で。
さて。私もそこそこ疲れているので風呂の後はさっさと眠ってしまおう。そう思って手早く入浴を済ませ、脱衣所で身体を拭いていた時。ブンッという音と同時に全ての明かりが消えた。
「は、はあ……?」
停電? 私、素っ裸なんですが?
少しの間、状況についていけなくて呆然とした後、はっとしてバスルームの扉を開けた。
「ゆ、悠子ちゃん……?」
「あー、こっち、私はバスルーム。何だろうね、停電かなー?」
やっぱり。起きちゃったか。大きな音ではなかったものの、異様な気配って起きることあるもんなぁ。それでこの状況怖いよね。私も傍に居なかったし。私の声に反応して、もそもそと布擦れの音。そして彼女の居るベッド付近でぽつりと明かりが見えた。やっべ。さてはスマホの明かりを点けたな?
「私まだすっぽんぽんだから照らさないでね」
「あはは、うん、分かった。でも、傍に行っていい?」
「いいよ」
バスルームの扉を開け放ったままで、改めてタオルで自分の身体や髪を拭く。落ち着かないから早く服を着てしまいたい。別に裸を見られて恥ずかしいわけじゃないから、本当は照らされても構わないんだけど、問題はこの状態で『避難』とか言われてしまう場合のことなんだよね。ホテルなら非常電源だってあるだろうに、中々明かりも来ないし。ふと見れば、扉の傍は仄かに明るい。扉の横に詩織ちゃんは居るらしい。不安なんだろう。
「げっ、髪が乾かせないじゃん。もー」
服を着て何も考えずにドライヤーに手を伸ばしてから気付いた。夏だから良かったけど、これ、冬だと凍えてるよ。いや待てよ、今、冷房も落ちてるよね。あんまり長いともしかしたら暑さで死ぬのでは?
「悠子ちゃん、服着た?」
「あ、着たよ、もう出るよ」
タオル片手にバスルームを出れば、扉の横で詩織ちゃんが体育座りしていた。いじらしい。怯える猫を回収するような気持ちで手を伸ばして腕に抱いた。
「びっくりしたね、近くに居なくてごめんね」
「ううん」
部屋に戻る時に詩織ちゃんは私の服の裾を掴んではいたけれど、声はいつもと変わらない。寝起きの無防備な状態で驚いて不安になっているだけで、極端に暗闇が怖いとか、そういう気持ちではないのかもしれない。
カーテンを開けてみれば外が明るい。これはつまり、この建物、もしくはこの部屋だけだな。私は詩織ちゃんにそんな話をしながら内線を手に取る。機種にもよるが大抵こういう電話機は停電に関わらず使えるものだ。案の定すんなりと耳元では呼び出し音が鳴り、少し待たされた後で対応してくれたホテルスタッフの声は微かに焦りを含んでいた。簡単な事情説明を受けると多くを問うことなくすぐに切った。同じような内線が多く掛かってきて忙しかっただろうに、ごめんね。
「なんか、このホテルの電気設備がバグったみたいよ。非常電源の切り替えも問題があったらしくて、もうちょっと掛かるって」
「そうなんだ。ホテルでこんなの初めてかも」
「確かに私も経験ないなぁ」
私は濡れたままの自分の髪に触れる。これで寝るわけにもいかないしな。乾くまでタオルドライ頑張るか、電気が戻るまで待つしかない。
「どうする?」
「え?」
言葉足らずな私の問いに、詩織ちゃんが首を傾ける。まだ彼女の手が緩く私の服の裾を握ったままだ。
「眠れそうならこのまま寝ちゃった方が良いと思うけど。もし不安なら、窓際が明るいよ」
内線がベッドの傍にあったので、私達が立っている場所は少し暗い。暗いのが怖いならそちらに移動して、電気が戻るまで待っていようという意味での提案だった。しかし詩織ちゃんが頷く様子は無くて、ただ俯いて視線を彷徨わせている。
「悠子ちゃん、は」
「私? 私は髪乾かさないとだから、起きてるよ」
「そうじゃなくて……」
「ん?」
部屋の暗さに関係なく、俯いてしまっている詩織ちゃんの顔が見えない。詩織ちゃんは控え目に握っていた服の裾を両手の指先で弄んでいたかと思うと、急に手の平の方へと握り込んでいく。そんなに沢山巻き取られたら腹が出るんですが。
「めっちゃ引っ張るじゃん。どうしたの」
それ以上はもう伸びますよと思うくらいまで巻き取られた辺りでそう言えば、彼女の手はぴたりと止まって、代わりに、詩織ちゃんが私の胸に飛び込むように身を寄せてきた。手に持っていた濡れたタオルが当たらないように少し離し、もう片方の腕を詩織ちゃんの背に回す。
「不安?」
「ううん、違う」
腕を回してきた詩織ちゃんは、緩く私の身体を締め付ける。何かを言おうとしているのだと感じた私は、黙ってその背をのんびりと撫でた。一分くらいたっぷりと沈黙してからようやく、詩織ちゃんが口を開く。
「悠子ちゃんは、どうして、寝ちゃったこと、何も言わないの?」
「何もって? 疲れてたんだし、そんな――イデッ」
脇腹を叩かれた。しかも今の衝撃は絶対にお姫様の小さなグーだった。どうして怒られているのかな。しかもこの位置じゃ詩織ちゃんを振り払わない限り、追撃も避けようが無い。しかし振り払えない。こんな美しいお姫様を振り払うとか間違いなく極刑でしょ。
「……ホテル、楽しみって言ってたのに」
「いや、あれはごめんって。プールもちゃんと楽しみにしてたし――ゥグッ」
やっぱり追撃が来ましたね。またグーでしたよ。容赦ないな本当に。しかもすごく長い溜息を吐いてる。お姫様の吐息が私の胸に掛かって温かいわ。そして少しずつ暑くなってきた。お姫様くっ付いてるけど、大丈夫なのかな。夏ですよ。今は冷房も切れていて、そろそろ部屋の中も暑くなってくるんじゃないかと思うんだけど。彼女を宥めるつもりで背中を上下に擦ったら、逆効果もいいところで、私はまた一発食らってしまった。同じ場所三回はじんわり痛い……。
「お姫様は何をお怒りなんでしょう。どうしたの?」
日中は可愛らしくアレンジして結い上げられていた詩織ちゃんの髪は、今は真っ直ぐに下ろされている。頭を撫でるついでに梳いてみたらするすると指が通った。一本一本がすごく細くて柔らかい。感触を楽しみながら再び頭を撫でる。詩織ちゃんはむずかるみたいに、私の胸に額を押し付けてきた。膨らみが無いからそこは骨ですが。
「悠子ちゃんって、淡泊だよね」
「タンパク!?」
一体何処からそんな感想が出てくるんだと、心底びっくりしてしまった。私が普段から考えてるあんなことやそんなことを気付かれないように大人しく黙ってるせいか? 全部言ったらいいのか? でも言ったら言ったで通報するんでしょう? 色んな言葉が頭の中を勢いよく回ってしまったせいで、一瞬、言葉を失った。
「今日だって、キスもしてない」
「お、おぉ……」
そういえばそうだったかもしれない。あ、もしや、こういうところを指摘されているのか。しかし二人きりになったのはホテルに入ってからであって、それまでは公共の場だった。そんなにチャンスがあったとは思わないのだけど、ナチュラルボーンのお姫様は、どこでもかしこでもキスして当たり前と思うのだろうか。
「別に、人前でしてって言ってるわけじゃないけど」
まだ何も言っていなかったのに心を読まれてしまった。違うらしい。詩織ちゃんは言葉に悩むようにして、腕の中で少し唸る。
「プールでは結構、くっ付いたりしてたのに、全然こっち見ないし、水着だったのに」
「いやすっごい見てたよ、むしろずっと見てたし、周りとか一切見てない」
「本当?」
「本当だって」
私を見上げてくる詩織ちゃんの綺麗で可愛い顔を、じっと見下ろした。薄化粧はしてるんだろうけど、薄いのに本当に綺麗。この恐ろしいほど長い睫毛は自前なんだな。食い入るように見つめてから、私を見ている大きな瞳を見付けて、あー、と何とも言えない気持ちになった。もし私がこんなに大きな目だったら、何処を見てるかなんて疑いようも無く一目瞭然だったんだろうに。
「多分、私の目が細くて視線を追いにくいんだと思うよ。私もそれ利用してバレないように盗み見てるから、余計かもしれないなぁ」
「何で彼女を盗み見る必要があるの」
「おお」
その発想は無かった。付き合う前にそうやって盗み見てラッキーって思ってたのが癖になっちゃったのかな。一瞬そう思ったけれど、いやいや、と打ち消す。どんな関係でも、それはしないと思う。少なくとも私はしない。
「恋人だからってそんな公衆の面前で、下心を丸出しでじろじろ見るのはまずいでしょ。社会的に」
「それは……」
詩織ちゃんが言葉に詰まる気配を感じる。分かってくれたらしい。だけど彼女を言い負かすことは全く私の目的ではないので、少しだけ私の気持ちを伝えようと思う。彼女が次の言葉を選ぶより先に、私はすかさず続きを述べた。
「もしプライベートプールで本当に人の目が無くて二人きりなら存分に見るし、いっそ脱がすところまで行くかもしれないけどさ」
「極端じゃない?」
「プールで脱がすのは浪漫だと思う」
「ちょっと分からないけど……」
本気で困惑している彼女に思わず笑ってしまえば、不満そうな顔で「もう」とまた怒られてしまった。本音は本音なんだけど、プライベートプールって前提がまず無いだろうから、結局これはただの戯れだ。再び脇を小突かれてしまったけれど、先程よりは優しい攻撃になっていた。
私達の間の空気が少し緩んだところで、バスルームの方がぱっと明るくなる。どうやら電気が戻ったらしい。ベッドの傍は、既に詩織ちゃんが眠っていたから消灯していたので、点いたのはベッド脇の仄かな光だけだ。それでも部屋全体が僅かに明るくなり、詩織ちゃんも何処かほっとしたように肩の力を抜いた。
「良かった。じゃあ私、髪乾かしてくるね」
身体を離し、光の方へと大きく一歩踏み出したところで、つん、とTシャツが何かに引っ掛かる。振り返れば、詩織ちゃんが私のシャツを掴んで引っ張っていた。あれ、まだ掴んでたんだっけ? 最初に巻き取られていたことを思い出してそう考えるけれど、大いに間違いだったことをコンマ五秒後に気付く。
「そういうところ!」
「あー、いや、アハハ、なるほど」
流石に今回ばかりは、何を怒られたのか分かりました。淡白だってご指摘を受けて「そんなことない」と否定しておきながら直後に一切の躊躇なく背中向けてんじゃないってことだよね。仰る通りだわ。でも淡白だという点に異議を唱える気持ちは無くなっていない。
「ごめんね、気が急いちゃって気が回ってない状態というか」
濡れたままの自分の髪を指先で摘まむ。夏とは言え、まだ冷房で冷えた空気が残っていた室内だったから、もう毛先が冷たくなっている。着ているTシャツの肩口も、髪が触れる部分は少し濡れてしまっていた。
「さっきから詩織ちゃんがプールとか水着とかいうから、思い出して触りたくなってきちゃってさ。早く両手空けたいし詩織ちゃんに集中したいので、髪乾かしてきていい?」
手に持ったままだった濡れたタオル。冷たくなってきた髪。抱き締めようにも片腕になるし、身を寄せたら冷たい髪が彼女に触れてしまう。そんなことを考えるほど、気持ちがどれだけ昂っても詩織ちゃんに身を寄せられない。「ああもう早く電気戻れよ」と、少なからず苛立ちそうになっていた矢先のことだったから、慌てて身を翻してしまったのだ。詩織ちゃんは私の言葉に一瞬呆けて、それからまた少し不満そうに口を尖らせた。けれど、頬は少し赤くなっていた。
「本当、ずるい。……早くしてね」
「うん、ありがとう」
足早に脱衣所に戻ってバスタオルを放り、すぐドライヤーへ手を伸ばして髪を乾かし始める。ドライヤーで髪を乾かしている間って、ほとんど他の音は聞こえない。だから見える場所に居ない詩織ちゃんの気配を探ることなどは難しく、鏡に映る冴えない女を見つめながら、どんな顔して待ってるのかなぁとか考える。これで戻った頃には再び眠りに落ちてたら最高に面白いんだけどな。いや勿論がっかりもするんだけど、多分、私は諦めと切り替えが早いのだと思う。最初に詩織ちゃんが眠ってるのを見た時にもちゃんとがっかりしてますからね。もう忘れてたけど。
引き摺りたくないから、忘れるように癖が付いてるだけだろうと思う。だってその方が楽でしょ。
短くも長くもない髪は、乾かすのにそこまで時間も掛からない。余計なことを考えていつもより少し丁寧に乾かしてしまったかもしれないが、咎められるほどではないだろう。備え付けのブラシで簡単に梳いて、いざ、戻りますか。……ああ、急に緊張してきたわ。
「……それちょっと怖いから、早く来てよ」
「あ、はい」
バスルームの扉から顔を出した私は、顔だけを出した状態でじっと詩織ちゃんの様子を窺ってみた。普通に怒られた。当たり前か。でもさー、だってさー。
「いや~緊張するんだもん。ダブルベッドで待ってるお姫様のところに戻るの」
「だからって遠くからじっと観察されても困る」
「ですよね」
詩織ちゃんは、ベッドの端にちょこんと腰掛けて所在無げにしている。この状態でずっと待ってくれていたのかな。申し訳ない気持ちもあるけれど、可愛いな。詩織ちゃんの腰掛けているすぐ横に膝を乗せて抱き寄せようとしたけれど、ベッドの軋む音を聞いた詩織ちゃんの身体が強張った。
「あー……ごめん、怖かった? 私デカイからなぁ……」
覆い被さる圧迫感は普通の女性とは比にならないだろう。一瞬失念してしまっていた。ほんの少し身体を離すと、引き止めるようにまた詩織ちゃんの手が私のシャツを掴む。
「そ、そうじゃないの。ごめん、少し、緊張してるだけ」
「詩織ちゃんも、緊張したりするんだね」
「するよ。どういうイメージなの」
「お姫様」
「そればっかりなんだから……」
呆れられてしまっている。しかし本当に、お姫様なんだよね。時々ナチュラルボーンも披露してくれるし。でも今、私の腕の中に居て、此処がダブルベッドの上で、ホテルで二人きりで。非現実的な感覚しか無い。背中を撫で上げてみると、詩織ちゃんの身体が更に強張った。それでも私の服を握る手が強くて、身体を離すことは許してくれなさそうだ。
「怖かったり、嫌だったりしたら言ってね」
「うん」
返事が少し小さくて不安そうだった。私はモテないし、経験もあんまり無くて、上手とかでは全くないし、その辺りちょっと自信が無い。後で怒られませんように。頭の片隅でそう祈る自分の声ももう遠く、眼前にある細い首筋にくらくらしながら、深く考えることを放棄して唇を落とした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます