第6話

 プールへ行く当日。私の差し出した日傘に大人しく入りながらも、詩織ちゃんは上目遣いで私を睨む。可愛い~。

「何で顔緩めてるの。私は怒ってるのに」

「え、可愛いから?」

「怒ってるのに?」

「うん」

 笑ったままで答える私に、眉を寄せた詩織ちゃんは長い溜息を零す。一体何をお怒りなのでしょうか。首も傾けてみると、それを見てまた溜息が続いた。顔合わせてまだ一分経ってないのに二回も溜息なんて。

「幸せが逃げますよ?」

「悠子ちゃんは捕まえておくから別にいい」

「おお。すごい」

 その返し可愛くて良いね。お姫様は素敵な返しをお持ちだ。そんな気持ちで述べた感想だったけれど、私を見上げる詩織ちゃんは何かがっかりしているご様子。今日は折角お泊まりデートなのに、本日まだ一度も笑顔を見ていない。困ったなぁと軽く思ったところで、詩織ちゃんは日傘を持つ私の腕をゆるく掴んだ。

「駅で待っててって言ったのに」

「あー」

 それですか。

 今日も私は、『暑いから絶対に駅で待っててね』『はーい』というメッセージのやり取りをしながら彼女のアパートの前で日傘を片手に待っていた。目立たない場所で待っていたから、人に見られたくないという理由なら問題無いはず。帰りはいつも此処まで送っているので、一緒に歩きたくないのとは違うと思う。つまり。本当に私が心配なのか、この子は。

「ごめんね、太陽には強いから大丈夫だよ」

「夏生まれっぽい台詞……」

 そう言うと詩織ちゃんは項垂れたのか、首筋に流れる汗が煩わしかったのか、軽く頭を下に向けて項を撫でた。真っ白で綺麗。突いたら怒るだろうな。不意に湧いた欲求を静かに飲み込み、そこから視線を逸らす。

「じゃあ『ちょっとでも一緒に居たい』って理由じゃだめですか?」

 視界の端で詩織ちゃんが顔を上げたから私も逸らしていた視線を戻したのに、目が合うと、詩織ちゃんは前を向いてしまった。また何か口を尖らせている。あら、だめですか。

「悠子ちゃんって時々ちょっとずれてるよね」

「ひええ、治しようのない指摘つら」

 ずれてるって最悪の不満では? 価値観の不一致ですか? 詩織ちゃんがそれ以上何も言ってくれないので、私は私なりに解釈するしかない。少しだけ身体を傾け、お姫様の不満そうな表情を窺う。

「ごめん、お迎え嫌ならもうしないから。ごめんね?」

「そういうところ」

「えぇ……」

 どうしろと。お姫様が全く分からない。今彼女の不満は何処にあるのだろう。言葉を選んでいる内に本来の待ち合わせ場所だった駅に辿り着く。折り畳みの日傘を丁寧に畳んで鞄に入れたら、詩織ちゃんが私の手を取った。

「もういいよ、プール楽しみ。早く行こう」

「え、うん」

 手を繋ぐのは暑くないのかな。まあ、これから電車だから、いいのか。手だけではなく肩まで触れてきそうな距離で歩く詩織ちゃんを見下ろしつつ、再び怒らせてしまうことが無いよう、言葉を飲み込んだ。

 区画内のプールまでは片道で一時間半。ホテルはプールから歩いて十五分ほどの場所に取った。ダブルベッドのやつ。ダブルルームなんて生まれて初めて泊まるんですが心臓は大丈夫かな。しかもお姫様と泊まるんだよ。やば。

「悠子ちゃん」

「ほぁ、はい」

 また間抜けな反応をしてしまった。今日はそんなに混んでいない路線だった為、私達は隣り合って座っている。主目的であるプールよりホテルに思考を飛ばしていたことがバレたらきっと怒られるんだろう。慌てて表情を引き締めて「何でしょう」とキリッとした顔で応えてみたものの、目がちょっと呆れてる。バレてる?

「別に、普通に雑談しようとしただけだけど。もう、どうしていつもきょろきょろしたり、ぼーっとしたりしてるの。退屈?」

「まさか。プールとホテ……プールが楽しみで落ち着かないだけ」

 完全に口を滑らせた。間違いなく「ホテル」を聞き取られてしまって、詩織ちゃんは綺麗な眉の形を微かに歪めると、私の腕を抓った。

「痛い痛い、ごめん、今のはマジでごめん。正直が過ぎた」

「それって何の謝罪なの?」

 抓られた場所を擦るついでにちらりと横顔を見れば、また赤くなってらっしゃる。はあ。そんな反応されたら可愛くて困る。周りもびっくりしているんじゃないだろうか。それとなく周囲を窺うと、皆スマホにばかり目を落として全然気付いていない。一人くらい見とけよ。お前ら良いのかこれ国宝レベルだぞ。良いけど。

「ゆーこちゃんってば」

「ハイ。ぼーっとしてません」

「全然信用できないけど……まあいいや。先にホテ、……ホテルに、荷物置きに行くよね」

 私がホテル楽しみとか口を滑らせたせいか、何気なく言いたかったはずの『ホテル』に一人で意識してらっしゃる。何なのもう。本当に。かーわーいいーとか言ったら次は抓るだけじゃ済まなさそうなので、私は気付かないふりをした。

「そうだね、プールに持って行く荷物は最小限にしたいね」

 以降は本当にただただいつも通りに他愛ない雑談だけで長めの移動を終え、ホテルに荷物を預けて、プールへと向かう。どちらも団体からの割引が効いて本当に安い。月に二回くらい遊びに来ても懐が痛くないレベルだ。ありがたい、けれど、今まで団体が促すことを悉く避けてきた身分であるだけに、心が痛まなくもない。

 ところで私はお姫様の水着姿を見るのは今日が初めてだ。似合う水着を探す、という無駄な使命感を抱いた詩織ちゃんに私は着せ替えにされたので、彼女の前でいくつか試着したのだけど、お姫様は試着姿を見せてはくれなかった。四つほどの水着を持って試着室へ入ったからわくわくしていたのに、中でしばらくごそごそした後、普通の服で出てきた。一人で着て一人で納得したらしい。まあ確かに私の意見とかお姫様には必要ないよね。知ってた。

「かっっわいい!」

「あはは、ありがとう」

 ちょっと声がひっくり返った。想像以上に可愛い。購入時を見ているわけだから水着のデザイン自体は知ってたのに、それでも想像を超えてくるっていうのがすごい。浮き出るくらい細い鎖骨とは対照的に柔らかそうな胸のラインが最高に好きですね。

「悠子ちゃんも素敵。格好いいよ、似合ってるね」

「ありがとう。お姫様のチョイスだもんねぇ」

 布が少なくて少々落ち着かないけれど、まあ、悪くはないのだと思う。今までに着たどの水着よりも真っ当に女に見える気がした。今まで「何の為にあるのか分からない布」って思ってしまったのは多分、男に見えていたからだね。女に見えると流石にこの胸の布も必要だと感じられるわ。

 ちなみに此処は男女で分けられた大きな更衣室ではなく、試着室みたいに小さな箱が無数に並んでいる更衣室だ。そりゃそうだ。区画内なので、来てるほとんどが同性愛者だから。

「じゃー行きますか。最初は何処に行く?」

「あれがいい、超ロングウォータースライダー」

「最初から? お姫様は活発だね……」

 今、身に着けたばかりの布がぶっ飛んじゃったりしないかな。不安。だけど私の手を引いて嬉しそうに笑ってる詩織ちゃんを見ると、はーい行きますーって気持ちになってしまう。うきうきしているのが分かる背中を見つめながら、同じ気持ちで私も歩き出した。


「……あの人、モデルみたいだよね、声、掛けてみる?」

 ちょうど、ウォータースライダーでプールに投げ出された直後のことだ。詩織ちゃんより私の方が一瞬遅れて顔を出した時、そんな声が聞こえた。私は咄嗟に、まだ髪を整えていた詩織ちゃんに手を伸ばして引き寄せる。

「何? 悠子ちゃん」

 半分は水中に居るから踏ん張りが利かなかった詩織ちゃんは、私の腕に収まってから、ちょっと驚いた様子で体勢を立て直していた。

「ううん、平気だった?」

「楽しかったー。後でもう一回乗ろうよ」

「あはは、いいよ」

 先程の声は何処からだったのだろう。もう聞こえない。人が近寄ってくる気配も無い。詩織ちゃんに向けられたものじゃなかったのかも。少し過敏になったかもしれないが、気を付けておこうと思った。詩織ちゃんはとにかく人を、視線を寄せ集める。電車の中のように、人があまり周りを見ていない時ならいざ知らず、此処にはナンパ目的で来ている者も居るだろう。声を掛けてくる相手が男じゃないだけだ。

「よいしょー」

「わっ、ちょっと、あはは悠子ちゃん、何」

 水中の彼女を抱き上げるのは容易い。そのまま運んで、プールサイドへと上げてあげる。

「陸揚げ~」

「あはは、私が魚か何かみたいじゃない」

 プールに来てからは何も無くても詩織ちゃんがにこにこしていて可愛い。余計なことでストレスを与えたくはない。彼女に『より良い出会い』は大切かもしれないけれど、まあ、今は私が恋人なわけだから。二人で居る時くらいは守らせてもらおうと思った。

「お姫様、次はどこで遊びましょう」

「うーんとね、じゃあ次は――」

 周囲を見渡す彼女の目がいつになくきらきらして、楽しそうで、何処かいとけない。妙に愛おしくなって、危うくこんなところで口付けてしまうところだ。

「悠子ちゃん?」

「ううん。よし、じゃあ行こう!」

 提案された新しい目的地に頷くと、私も勢いよくプールサイドへと上がった。


 昼を少し過ぎるまでに全ての種類のプールを制覇した私達は、はしゃぎ疲れた状態でレストランのテラス席に腰掛け、昼食を取っていた。勿論、水着の状態で座ってもいいテーブルだ。

「お腹いっぱいになったら眠くなりそう」

「はは、日陰でちょっとお休みしようか。寝顔、ちゃんと見張っててあげるよ」

「寝顔って言われなかったら迷わずお願いしたんだけどな……」

 また余計なこと言うからお姫様が項垂れていらっしゃる。でもその角度は谷間が深くなって良いですね。以前、電車でうっかり見た時は目を逸らしていたのに何を、と自分でも思うが、水着で見えているのを眺めるのと、偶々服の中が見えてしまうのとでは罪悪感が違うわけで。とは言え視線が見付かるとまずい。詩織ちゃんが顔を上げたら真っ直ぐ目を見て、にっこりと笑っておく。目が細くて良かった。多少対応が遅れていても見付かっていないだろう。お姫様と過ごす日々ではこの細い目に感謝すること多いなぁ。

 食後のお姫様は宣言通りにおねむの顔をした。そんな愛らしい彼女に大きめのTシャツを着せると、海の家みたいな形をした休憩場所の端に転がす。勿論、放置したわけではなく、私はそのすぐ隣に腰掛けた。私まで寝転がったら絶対二人で一緒に寝てしまう。こんな可愛い人が無防備でいるのだから、見張りが必要だ。丸めたタオルを枕にすっかり穏やかに寝息を立てる彼女を見つめ、私も小さく一息。

 プールでこんなにはしゃいだのは中学生以来かな。あの頃はまだ思春期の始まりとは言え、性的指向もはっきりせず、同性同士でばかになれたものだ。しかし高校生あたりから自覚して、そうすると突然、友人らの水着姿を見ることにも罪悪感があった気がする。そういう目で見ていない相手でも、自分がそういう人間と思うだけで、悪いことをしている気がしてならなかった。逆に子供だったから余計に神経質になったのかもしれない。

「――あれ、彼女なのかなぁ」

 先程聞いた覚えのある声が、先程より少し近くから聞こえた。声は潜めているようだけれど、私ちょっと耳が良いんだよなぁ。聞こえてないと思ってるかもしれないけど、聞こえちゃってるんだよなぁ。本人が寝ているから油断をしているのだろうか。連れが起きているのだから、もうちょっと考えて喋ればいいものを。

「ずっとベタベタしてたよね~、だめかぁ」

「もうやめとこうよ……私、彼女さんに何回か睨まれてるもん」

 いやいやいや。全く睨んでないが?

 目が細いから視線の先が何処か分からなくてお間違いだと思います。私はあなた達が何処に居たのかも、姿形もまるで分っていない。っていうか今の感じだと君らずっと見てたってこと? 一体何処に居たんだ。無駄に歩き回っていた私達の傍にずっと居たんだとしたら、マジで怖い。プールに何しに来たんだよ。遊んで来いよ。

 その時、不意にわいわいと賑やかな声が入り込み、お姫様が少し身じろぐ。違う集団がこの休憩場所に入り込んできたらしい。さっきのストーカー女子らは居なくなったのか、以降、声は聞こえなくなった。私はお姫様の髪を少しだけ撫でる。起きたわけではなさそうだ。

 モテる人って大変だなぁ。やっぱりこんなお姫様だからこそ、送迎は大事だと思うんだけどな。雲少ない晴天を見上げながら、お姫様がお昼寝を終えるまでの小一時間を、そんなことを考えて過ごした。一度だけ詩織ちゃんが目を開けて、入り口の方を見たことには全く気付かなかった。

「――寝起きは甘えん坊ですか、お姫様」

「そんなんじゃないですー」

 詩織ちゃんは否定をするけれど、起きてからやけに引っ付いて来る。今ねぇ、私達は水着ですよお姫様。肌と肌が触れ合っちゃうからね、良心的な距離で行こうね。せめて寝ていた時のTシャツを着たままでやってほしいのだけど、もうロッカーに入れてしまった。

「また、ウォータースライダー行く?」

「うん」

 機嫌を取る、または気を逸らすようにそう提案すると、笑顔で頷いた詩織ちゃんはようやく身体を離してくれた。

 それからは特に大きな憂い無く、私達は夕方になるまでたっぷりとプールを満喫した。

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