牡丹の知らせ 7
誰かの話し声が聞こえる。聞いたことがある、軽やかで透き通った声。
もうそろそろ起きなきゃいけない気がする。あぁ、でも体が重い。もっと眠りたい。もう少しこのまま――
「あ、ひばりさん、万里恵さん起きたみたいですよ」
この声、誰だっけ。えーっと……。
「万里恵さん、万里恵さん。そろそろ起きないと。五季君がお家に帰りたがっていますよ」
思わず飛び起きた私は、まだはっきりしない視界で五季の姿を探した。
「ママ!」
ドシッと胸元に愛おしい重みがのしかかった。それが何か、一瞬でわかる。
「五季……、体は? なんともない?」
五季の体を触り、異常がないか確かめる。すりすりと顔を寄せ、目一杯抱きつかれ、五季の身が無事であることがわかった。ぬくもりが伝わり、目頭が熱くなるのを感じる。
「万里恵さん、お水です。どうぞ」
そういってグラスを差し出してくれたのはひばりさんだった。五季は、私達はどうなったのか。突然目の前が真っ暗になり、気がついたらソファーで横たわっていたようだ。意識を失う寸前にひばりさんに助けを請うたことはうっすらと記憶に
残っている。
だが、彼女の柔らかい表情からは心中を測ることが出来ない。
「ひばりさん、私達は……」
「万事解決ですよ。お二人は悪夢から開放されました。安心してください」
五季の様子がおかしくなってから、ずっと私が望んできたこと。私達は開放されたんだ。あの終わりの見えない悪夢から。ひばりさんの言葉にたまらず涙が溢れ出す。私の顔をじっと見ていた五季もつられて涙を浮かべている。
――泣かせてばっかりね。
深呼吸をして、五季を抱きしめる。温かい。
「五季君の体に巣食っていたプッフプルは、文字通り根絶やしにしました。万里恵さんにも寝ている間にお薬を飲んでもらったので、再発の心配はないかと思います。お二人共、ぐっすりと眠っていらっしゃいましたよ」
ひばりさんは口元に手を当てくすくすと笑う。どうやら本当に熟睡していたらしい。確かに、ここ数ヶ月感じていた倦怠感がほとんど無くなっている。外もすっかり暗くなり、夜鳥の声が聞こえる。
「本当に、本当にありがとうございます。なんとお礼を申し上げればよいのか……。それよりも先に、お詫びをしなければいけませんよね。色々と失礼な態度をとってしまって、申し訳ありませんでした」
「ふふ、問題ありません。全てプッフプルのせいですから」
私の謝罪の言葉は、ひばりさんの柔らかい微笑みに包まれた。長く続いた悪夢のせいで余裕を無くしていたとはいえ、相当ひどい態度をとってしまっていたように思う。謝罪は受け入れられたが、それでもまだもやもやしてした気持ちが渦巻く。
「万里恵さん、一つお尋ねしても?」
歯痒さを飲み込み、一息間をおいてから答えた。
「なんでしょう」
「あの石をくれた人は、自分を魔女だと言っていましたか?」
ひばりの射るような視線に背筋が伸びる。彼女から浴びせられる
自暴自棄になり全てから逃げ出したあの日。私に声を掛けてきたのはまだ成人を迎えていないだろう若い女性だった。私を心配する素振りを見せ、救いたいと言っていた。しかし、一度も魔法やら魔女やらという言葉は聞かなかった。
「いえ、魔女だと名乗ることはありませんでした。ただ『おまじないをかけた』とだけ」
「そうですか……わかりました。ありがとうございます」
ひばりさんは少ししゅんとし、頬に手を当て物憂げな表情を浮かべている。今まで心がざわついていて気づかなかったけど、ひばりさんはオーラーというか……独特な空気を纏っていて、なんだか魅力的な人だ。魔女というのは、皆こうなのだろうか。
「あの、助けていただいて大変恐縮なんですが、そろそろお暇してもよろしいですか? 下の子を母に預けたままなんです。心配で……」
「お母様には私から連絡してあります。五季君と二人そろって眠ってしまったのでお休みいただいていると伝えて、お迎えをお願いしました。あと20分程でいらっしゃると思いますよ。それまでゆっくりしていってください」
なんと手際の良い。ありがたいけど、どこから母の番号を知ったんだろう。
「万里恵さん、お願いがあります。あのバクのぬいぐるみを回収させてください」
「ぬいぐるみですか? あれは五季の一番のお気に入りで、五季はあれが無いと眠れないんです」
「プッフプルは排除しましたが、あのおまじないのかかった石は五季君と万里恵さんの体に合わなかったようで、ちょっと悪さをしていました。今後の研究材料として提供していただけるとありがたいのですけど……」
そしてひばりさんは私の耳元に近づき、両手を当てて耳打ちをした。
「お薬代の代わりに、ぜひ」
なるほど、そういうわけか。そりゃあ慈善事業でやってるわけではないでしょうしね。でもそれなら、石を取り出すだけでは駄目なのだろうか。五季が大切にしているものを出来るだけ取り上げたくない。
そう思い返事を渋っていると、五季は私の袖をくいくいと引きながら首を傾げた。
「ママ、僕大丈夫だよ。バクいなくても寝られるよ?」
「五季……本当にいいの? もう一緒に寝られないんだよ?」
「でも、ママは一緒に寝てくれるでしょ?」
五季が甘えてくれたのはいつ以来だろう。夫がいなくなってから、ずっと我慢をさせてきた。紗枝にミルクをあげるためにご飯が遅れた時だって、パートで迎えにいけなくなった時だって、酷くあたってしまった時だって、五季はわがまま一つ言わず、ずっといい子にしていた。いい子でいるように仕向けてしまっていた。それでもまたこんな風に甘えてくれることがこんなにも嬉しい。たまらなく愛おしい。
「もちろんよ。これからも一緒に寝ようね」
「五季君、手、出してくれる?」
そういうとひばりさんは五季の前で両足を揃え上品にしゃがみ混んだ。
五季は私に片手でしがみついたまま空いている方の手を差し出す。
ひばりさんは五季の手を取ると、そこに掌にすっぽり収まるほどの小さなバクのぬいぐるみを置き、にっこりと微笑む。
「これはね、私のお友達が作ってくれたバクさんに、五季君が幸せな夢を見られるおまじないをかけたお守りです。怖い夢はこの子が食べてくれるから、枕元に置いてあげてね」
五季は目をキラキラさせて満面の笑みを浮かべ、大切に大切に、そっと抱きしめた。
「お姉ちゃん、ありがとう」
*
万里恵の母親が迎えに到着し、二人は手を繋ぎ笑顔で手を振って店を後にした。
工房には、ひばりと森岡がテーブルを囲んでお茶をしている。
「あのぬいぐるみどうしたんですか?」
「あれは純ちゃんが作ってくれたんです。バクが大好きな男の子のためにぬいぐるみを作って欲しいとお願いしたら、たった一晩で作ってくれました。無事にミッションコンプリートです」
「へえ、純さんはお裁縫が得意なんですね」
「純ちゃんのお裁縫の腕はプロ並みなんですよ。一生敵う気がしません」
カンターブの角砂糖が入った紅茶に舌鼓を打ちながら、穏やかに笑い合う。
「ひばりさん、魔力が悪さをしていたことは言わないんですね」
「あの二人にはもう必要のない情報です。幸せになったなら、それでいいんですよ」
急に力が抜けたように、長い溜息をつきながらだらりと頭を垂れたひばりを見て、森岡の目が点になった。
「ひばりさんって、お客さんがいる時といない時だと結構ギャップがあるんですね」
ひばりは顔を上げ「む」と唇を尖らせて森岡を睨んだ後、思い切り机に突っ伏した。
「魔女たるもの、常に淑女で在り続けることに徹するべし」
突っ伏したまま、いつもより少し低い声で投げやりに
「あはは、何ですかそれ」
「叔父様の格言です」
「あら、ありがたいお言葉じゃないですか」
「厳しい人なんです。私の先生です。怖いんです」
「ひばりさんの先生は立派にひばりさんを育て上げられたんですねぇ」
「今度会わせてあげます。モーリーさんもしごいてもらったらいいんです」
「なんで私!?」
すっと顔を上げたひばりは、気の抜けた顔から魔女たる妖艶な笑顔に戻っていた。
「モーリーさん宛にお手紙が届いています」
そう言ってリヒトを呼ぶと、リヒトは一枚の封書を持って二人の元へやってきた。
「これはノクターン協会からのお手紙です。要約すると、モーリーさんを魔術師として登録するか決めかねているので、一度面談に来なさいってことですね」
森岡はガタリと席から立ち上がり、驚きのあまり声にならない声をあげていた。
「モーリーさん、仕度をしておいてください。一週間後、ノクターン協会へ出向きますからね」
牡丹の知らせ 終
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