牡丹の知らせ 6
工房の最奥には、四畳程の小さな部屋があった。その部屋には何も置かれておらず、床には大理石が敷き詰められているだけ。そこに、五季と万里恵は並んで寝かされている。
「ひばりさん、何をするんですか?」
森岡は、横たわった2人の周りにチョークのようなもので何かを書いているひばりに問いかけた。ローマ字でもなくアラビア文字でもない、一見すると数式のようにも見えるし、幾何学模様のようにも見える。うーん、と何かを思い出す仕草を時々見せながら黙々と床に書き続けていた。
「ふう、できた。これは魔術式です。正式には”
魔術式を書き終えたひばりは、パンパンと手についたチョークをはたき落としながらゆっくりと立ち上がった。
「え!? えっと、魔草に寄生されているだけではないってことですか? しかも、五季君だけでなく万里恵さんも」
「ええ。正確には、プッフプルが寄生しているのは五季君だけです。プッフプルは、人間の体を侵食する危険な魔草ですが、悪夢を見せるような性質はありません。夜に活動し、宿主の体の中を這い少しずつ侵食します。でも、それだけです。恐らく悪夢はこの得体の知れない魔力が見せているのでしょう。二人共、人間が持って良い魔力量を遥かに超えています」
リヒトが銀のナイフと黒い布のようなものをひばりに手渡し、すっと姿を消した。ひばりはその布を手に部屋の隅に行くと、徐に服を脱ぎ始める。ぎょっとし、同性同士だがなんとなく見てはいけない気がした森岡は視線を外した。するすると布の擦れる音だけが部屋に響き、なんとなく気まずくなってしまった森岡は一生懸命壁に向かって問いかけた。
「ふ、普通の人間が大量の魔力を持つとどうなるんですか」
「そうですね……。確か80年くらい前に、カナダの農夫がたまたま家の近くに魔力の満ちた泉を見つけてしまって、それを生活水にしていたそうです。飲水やシャワー、ありとあらゆる場面でその泉の水を体に触れさせていたことによって魔力が蓄積され、彼は命を落としました。餓死だったそうです」
ぱさりと布が落ちる音がする。
「餓死、ですか? その農夫さんは貧しかったんでしょうか」
「いいえ。彼はどちらかといえば裕福で、食べるものに不自由はなかった。それなのに餓死したのです」
「えっと、それはどうして」
「魔力が体に満ちることによって、どういうわけか脳は体にエネルギーが足りていると錯覚を起こします。すると、勘違いした脳があらゆる臓器の機能を抑え、通常の食事から採れるはずの栄養を吸収せずそのまま排泄してしまうのです。魔女でも魔術師でもない人間の体には、魔力を糧として生きていく機能はありません。だから彼は著しい栄養失調となり、餓死という悲惨な結末を迎えてしまいました」
魔女や魔術師でない者が体に魔力を持つということは、それだけで体に毒となる。それが自然界に元々ある魔力ならまだしも、他者から一方的に与えられた魔力となると、その者の影響を強く受けることになる。
一体誰がどんな目的でそのような危険な行為に至ったのかは皆目見当もつかないが、悪意を持ってこの親子を苦しめようとしていたことは間違いない。
「なるほど……、ん? ということは、魔女や魔術師は魔力があればご飯を食べなくても生きていけるんですか」
「残念ながら、魔術師は魔力だけでは生きていけません。通常の人との違いは、それを体に蓄えられるかどうかだけです」
「『魔術師は』ってことは、魔女は違うんですか?」
「んー、そうですね。確かに違います。でもそれを説明すると長くなってしまうので、また追々」
「す、すみません。つい好奇心で……。まずは五季君と万里恵さんを助けなきゃですね。プッフプルをやっつけて、魔力を……”抜く”って感じですか」
「実は、もうプッフプルは消滅しています」
「え! いつの間に」
「さっき五季君に飲ませたハーブティーに薬を混ぜておきました。念のため万里恵さんにも飲んでもらったので、仮に万里恵さんも寄生されていたとしても、すでに小さな種さえも残っていません。五季君の奇行の原因は完全に排除しました」
コツ、という音を立て森岡の目の前に立ったひばりは、普段着から上品な黒いドレスに衣装替えされていた。細いウエストが強調されるデザインで、首元にはレースがふんだんにあしらわれている。袖には細かい幾何学模様の刺繍がされ、それがただのパーティードレスではないことを表していた。唇には薔薇より赤い口紅が塗られ、耳には様々な色の石が付けられた大ぶりのピアスが下げられていているが、腰まである長いベールがそれを覆っている。
森岡はついポカンと口を開けたまま見惚れてしまい、額を上品にぺちと叩かれ我に返った。
「何を呆けているのですかモーリーさん。魔女の助手としての初めてのお仕事ですよ」
ひばりが着けているものより少し短いベールを頭に掛けられた森岡は、ひばりに手を引かれ、魔術式の上部、横たわった二人の頭の上に誘導された。森岡は急に初仕事と言われてもいまいちピンと来ず、ひばりにされるがままになっている。ひばりは左手の薬指にナイフで切れ目を入れ、そこから流れた血を魔術式の四隅に垂らしている。痛々しいその姿を森岡は直視できず、片目で端に捉えつつ様子を伺っていた。よく見ると、見覚えのある干からびた植物の茎のような物がそこには置かれていた。
「あの、私は何をすれば……」
「モーリーさんはそこに立っていてくれればいいです。術式には魔術師の駒がひとつ必要なんですけど、生憎、ママに貸し出してしまっていて手元に無いので、リアルな魔術師をそこにおきました。さ、始めますよ。終わりと言うまでそこから絶対に動かないでくださいね。動くと二人の命に関わりますから」
「え、ちょっと、待って待って、情報過多なんですけど、魔術師って私のこと――」
森岡が狼狽え問いを続けようとすると、ひばりは口元に人差し指を立て目を閉じた。
「全ては生命の環に準ずる者。在るべき姿へ戻しましょうね」
その言葉を最後に、部屋には静寂が訪れた。どことなくひやっとした空気が肌に触れ、これから人智が及ばぬ儀式が行われようとしていることが解り、森岡は息を飲んだ。
ひばりはどこからか取り出したルビーのような赤い石に口付けをし、魔術式の下部、横たわったふたりの足元に置いた。そして再び左手の薬指に傷を入れ、流れ出した血を赤い石に垂らす。すると血液が落ちた箇所が紫色に光り出し、その光がじわじわと術式の模様を撫で始めた。光は徐々に横たわった二人に迫り、体に触れたところでスッと消失した。
それから間もなく、二人の体から緑色の陽炎のようなものが漂い始め、室内の空気が一気に変わる。ずっしりと重く、湿度が高く、腹の裏側を締め付けるような感覚に襲われた森岡は、これまで感じたことのない不快感から救いを求めるようにひばりを見ると、ひばりは何かボソボソと唱えていた。
――なんだろう、呪文?
その時、二人の体から漂っていた陽炎が発光し、部屋中が光に包まれた。あまりの眩しさに森岡が目を瞑ると、瞼の裏に何か映像のようなものが映し出される。五季がひばりと話している様子や、五季の手を強引に引く母親の後ろ姿を捉えた。
映像が途切れ目を開くと、陽炎は魔術式に吸い込まれるように、みるみる光が弱くなっていく。そしてひばりの血が垂らされた部分に集まり、完全に消えてしまった。
「はい、終わりです。もう動いてもいいですよ」
「え? あ、終わりですか。なんだかあっという間でしたね」
「無事に二人から魔力は抜き出されました。これで元の生活に戻れるでしょう」
ほっと一息つき部屋を見渡すと、魔術式の四隅には小さな植物が芽吹いていた。風もないのにゆらゆらと蠢き、森岡は思わず吹き出す。
「あれ、これってなんでしたっけ……あ、イスリルもどき?!」
森岡とひばりが出会って間もなく、ひばりが襲われ大変な目に合った元凶がそこに揺らめいていた。反射的に一歩後ずさり、身構えた森岡に、くすくすとひばりの笑い声が溢れる。
「これはイスリルもどきを、ちょーっとだけ改造したものです。抽出した魔力を食べてもらうのに用意しました。これ以上大きくならないから安心してください」
「はぁ。危なくないならいいんですけど」
一気に気が抜けて、森岡はその場にへたり込んだ。親子は幸せそうに寝息を立てている。
「一件落着ですか?」
「ひとまずは、ですね。とりあえず、寝不足のこの二人は思う存分寝させてあげましょう。リヒト、カガミ、二人をソファーに運んでくれる?」
音もなくひばりの背後にすっと現れた二人は、親子を抱きかかえ、狭い部屋から出ていった。
「きっと妹の紗枝ちゃんは万里恵さんのお母様がお預かりになっているのでしょうから、連絡を入れませんとね。万里恵さん、少々拝借しますよ」
万里恵のバッグをガサゴソ漁り、スマートフォンを取り出し、すっすっと指でなぞるひばり。
「あら、ロックも掛けないで……不用心だこと。目が覚めたら注意してあげなきゃ」
「ひばりさん、私、聞きたいことがたくさんあるんですけど……」
この短時間で色んなものを見せられた森岡は、理解が追いつかず混乱気味だったが、極力冷静でいることに努めていた。ひばりはそんな森岡の頭からベールを外し、頭を撫でる。
「事後処理が終わったらゆっくりお話しましょう。とりあえず森岡さんもそちらで休んでいてください」
ひばりは万里恵のスマートフォンを耳にあて、万里恵の母親宛の呼び出し音を聞いていた。
「犯人探しも、二人が目覚めてから。確実に炙り出してやりますからね」
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