牡丹の知らせ 5

「始めからって言っても、どこから五季がおかしくなったのか、さっぱりわからないんです」


 ひとしきり泣いて、落ち着きを取り戻した万里恵は、五季が寝ているすぐ脇に腰掛け愛する我が子の頭をやわやわと撫でていた。先程まで激昂していたのがまるで別人だったかのように、今は温かな笑みを湛えている。


「五季には、昨年生まれたばかりの妹がいます」

「さーちゃんですね」


 森岡がビーズをテグスに通しながらニコニコと言った。


「はい。1歳になったばかりの、紗枝さえと言います。紗枝がまだ私のお腹にいた頃、夫は外に女を作って帰って来なくなりました」


 陽だまりのような温かな笑みを崩さないまま、万里恵の口からは胸を抉るような苦しい日々の記憶が溢れ出る。


「紗枝が生まれてからも夫は帰って来ないし、探しに行こうにも生まれたばかりの赤ん坊を放っておけない。これからの生活はどうしていけばいいのか。そんな行き詰まった状況に、もう先が真っ暗になってしまっていたんです」

「2人目とはいえ、1人で育児をしなきゃいけないんだから、本当にお辛かったでしょうね」

「そうですね。今思えば、その頃からずっと五季には我慢ばかりさせていました。何をするにも紗枝が最優先になってしまうし、生活費のために仕事もしなければいけないので、その間は実家の母に預かってもらったりしていました。時々、いなくなった父親のことを探す素振りを見せることもあったけど、私を気づかってか父親のことを口にすることはほとんどありませんでした。五季はだんだん無口になって、何を考えているのかわからなくなっていきました」


 表情が陰り、少しずつ声のトーンが下がって行く。ひばりと森岡は、静かに続きの言葉を待った。


「ある夜、紗枝がようやく眠りについて私もやっと寝られると思い布団をめくると、そこに体を丸めてこちらを見ている五季がいたんです。目を開けていたので起きているのかと思って声を掛けたんですけど、全く反応しないんです。少し不気味に思って、体に触れたら、五季は急に暴れだしました」

「暴れだした……」

「はい。それも、ひたすら自分を叩くんです。自分の拳で、自分の腹や頭を……」

「自傷を始めたんですね」


 ひばりの言葉に、うなだれるように力なく頷いた万里恵は、両手を組み、力いっぱい握りしめている。


「止めようと思っても、子供の力とは思えない程の強い力で弾かれてしまうんです。でも、息子が自分を傷つける姿を見ていられなくて、必死に抱きしめました。そこから抜け出そうと暴れた拍子に、五季の爪が私の二の腕を引っ掻いて血が出ました。そうしたら、五季の動きはピタっと止まって、その傷口をじっと見ているんです。何を考えているのかわからない、どんな気持ちなのかわからない。そんな顔で、舐めるように傷口を見ていました。その時の顔が今でも忘れられません」

「間違いなく、その時にはすでにプッフプルが寄生していたんでしょうね」

「確かに、あれは私の知っている五季ではありませんでした。血が止まると、何事もなかったようにまた横になったのですが、五季の目は虚ろにずっと開いたままでした。私は眠気の限界が来たのか、その時はいつの間にか眠ってしまっていました。自傷行為が止まったので、安心したんだと思います。翌朝目が覚めると、五季はいつも通り保育園に行く仕度を始めていました」

「朝には元に戻っていたんですか」

「はい。夜にあったことを五季に聞いても、何も覚えていないと言うんです。ただ、すごく怖い夢を見たということしかわかりませんでした」

「怖い夢……悪夢か」

「その夜から毎晩、夜中に起きて自分の体を殴ったり引っ掻いたりするようになりました。毎晩ですよ。自分の子供が、目の前で自傷行為をはたらくんです。私は必死に止めて、五季が動かなくなったら気絶するように眠りにつく。そんな生活が3ヶ月続きました」

「3ヶ月も……」


 森岡はその当時の万里恵の状況を想像し、思わず体を強張らせた。

 人間は不眠が続くと体の様々な部分で異常をきたすという。例えばひどい倦怠感や脳の機能の低下、精神疾患や幻覚症状など、慢性的な睡眠不足は確実に人の精神と肉体を蝕む。

 一度だけ、受験勉強で徹夜したことのある森岡だったが、たったの一夜で意識が朦朧とし、自分の考えがまとまらず、目の前にあるものを正しく認識することが容易ではなくなっていた。それだけでも相当なストレスを感じていたというのに、それが3ヶ月も続くとなると、断片的に睡眠をとったとしても、とてもまともでいる自信はなかった。


「その3ヶ月の間に色々調べました。夜驚症やきょうしょうを疑って病院に連れていきましたが『子供のうちはよくあることだから』と、家でできる簡単な対策を教えてくれるだけで、治療をしてくれるわけではありませんでした。何件も病院に行きましたが、結局どこも同じ反応。終いには傷だらけの五季の体を見て虐待を疑われて……」

「そんな、ひどい――」

「私はショックで、家に引きこもるようになりました。でも、紗枝と五季と過ごす時間が長ければ長いほど、私の精神は壊れていく気がしていました。いつか五季が紗枝に手を上げてしまうのではないか、重症を負う程に自傷をしてしまうのではないか。そんなことばかり考えて、ほとんど眠ることが出来ませんでした。手袋をつけさせてみたり、夜中電気を付けたままにしてみたり、色んな方法を試してみたけど、五季の奇行は治まりませんでした。そんな日が続いて、自分自身が衰弱していくの実感すると同時に、どんどん子供達への愛情が薄れていくのを感じました」


 万里恵はこの時、人生で初めて死を意識した。

 自分1人が死んでしまっては、子供達は生きていけない。自分が死んだことを五季に背負わさせてしまうことになる。それならいっそ、3人一緒に死んでしまった方が幸せかもしれない。そんなところまで追い詰められていた。

 森岡はたまらず、万里恵の隣に座り肩を抱いた。話しているうちに心の中に溜まっていた膿のようなものも一緒に吐き出しているような感覚になっていた万里恵は、その手のぬくもりにしがみつくように言葉を続けた。


「でも、このままではいけないと思って、少しでも息抜きが出来ればと思い公園を散歩をしていたら、若い女性に声を掛けられたんです。その女性は私の体調を心配してくれて、話しを聞いてくれました。彼女は私を助けたいと言って、五季に会わせてくれないかと言われましたが、その時は実家の母に子供達を預けていたので難しい事を伝えると、これを五季に持たせてほしいと言って、緑色の石をくれました」

「緑色の石ですか」


 それまで黙って聞いていたひばりの眼光が揺らめいた。ここから話しの流れが変わることを感じ、姿勢を居直し耳を傾ける。


「それはほんとに小さな石でした。先程森岡さんが持っていたビーズくらいの大きさで、持たせるとは言ってもすぐに無くしてしまいそうな程小さかったんです。彼女はその石にまじないをかけたから、数日様子をみてほしいと言って去っていきました」

「万里恵さん。その女性は間違いなくと言ったんですね?」

「ええ。なんでも、悪夢を取り除くまじないとか」


 ひばりは右手で唇を抓み、勘考かんこうし始めた。猛烈に頭を働かせているのか、目玉が忙しなく動いている。そんなひばりを横目に、森岡が万里恵に問いかける。


「そんなに小さい石、結局どうしたんですか?」

「バクのぬいぐるみに埋め込みました」

「ああ、なるほど……」

「いつきは昔からぬいぐるみが好きで、寝る時はいつも抱きしめて一緒に眠るんです。一番お気に入りのバクの目玉ボタンがちょうど外れかけていたので、直すついでに外したところから綿の中に埋めました。五季はバクが直ったことに喜んで、それを抱えて布団に潜り込んだんです」


 その時のことを思い出しているのか、再び五季に視線を戻し、愛おしそうに頬を撫でた。


「私はまじないがどういうものかよくわかっていませんでしたが、藁にも縋る思いだったので、少しでも何か変化があればと期待していました。そうしたら、その晩、いつきは自傷をしなかったんです」

「え! 改善したんですか?」

「いえ、自傷はしなくなりましたが、やっぱり目は開いていましたし、体は硬直したままでした。それでも少し希望が持てた私は、少しずつ眠れるようになったんです」

「眠れるようになったならよかった。 でも、今でもまだ十分ではないのではないですか? その、隈がまだありますよね」


 森岡は自分の目の下を指差しながら言った。


「そうですね……。実は、私も悪夢を見るようになったんです」


 万里恵の顔はくしゃくしゃと歪み、せき止めていた川の水が溢れ出したように、涙が流れた。嗚咽混じりに話し続ける。


「五季は初めて暴れたあの日から夜眠ると悪夢を見ると言っていました。だから私も、私も五季のように、夜中に暴れているんじゃないかって、自分の体や、子供達を、傷つけているんじゃないかって。不安で、不安で、毎朝起きるのが怖くて、それならいっそ寝ない方がマシだと思って――」


 万里恵の頬を伝う涙は留まることを知らない。これまで溜め込んできたものが爆発したように、万里恵は子供のようにわんわんと泣いた。


「だからまた、変化のあったまじないを求めて、うちに来てくれたんですね」


 ひばりは万里恵の額に掌を当て、目を閉じて語りかける。掌から伝わる体温が異様に熱いのを感じた。万里恵は高熱を出している。一刻も早く処置をしなければ、万里恵の身が危険であることを瞬時に察した。


「ひばりさん、私達を助けて」


「万里恵さん、話してくれてありがとうございます。これであなたを救うことができます。今はゆっくり休んで」


 ひばりの心地よい声を最後に、万里恵は静かな夢に落ちていった。


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