青栖池の悪夢 5(幕間)

 青栖池の騒動の翌朝、ひばりが目覚めると、傍らには不安げに瞳を揺らすカガミと不機嫌な顔をしたリヒトが控えていた。


「二人共……よかった。出てこられたのね」

 カガミはひばりの声を聞き、顔を綻ばせると、上半身を起こしただけのひばりにどすっと抱きついた。

「ん~! ん~!」

「あはは、ごめんごめん。心配かけちゃったわね。私は一晩寝たら元気になったから、安心して。ね?」

 どうやら枯渇しかけていたひばりの魔力は大分戻ったらしく、昨夜よりは目眩やだるさは和らいで居た。


「リヒト?」

 目が覚めてから1度も目を合わせようとしないリヒトを不思議に思い、顔を覗き込む。するとリヒトは胸に手をあて恭しく頭を下げた。

「ひばり様、私共がお傍に居りながら、お守りできず魔力を枯渇させてしまうような事態になったこと、心よりお詫びいたします」

「あなたは何も悪くないのよリヒト。後で調べに行くつもりだけど、きっとあそこには罠が仕掛けられていたんでしょう」


 昨日、雑木林を抜け青栖池が見えた途端に二人は形を保てなくり、姿を消してしまった。恐らく何者かが青栖池全体に結界のような術式を仕込み、イスリルもどきを増殖させることでひばり達をおびき寄せ、そして二人を何らかの方法で封じてしまったのだろう。詳しいことは現場を調べてみなければわからないが、一人だけ、その罠を仕掛けたであろう人物が浮かぶ。

 ――でも、一体何のために……。


「それでも、よく事前にきちんと調べれば防げたことでございます。従者として不甲斐ない。不甲斐ないにも程がございます!」

 リヒトはわなわなと拳を固く握りしめ、自分の太ももをパシッと叩いた。

「ほんと真面目ね。そんなに気にしなくてもいいのに……」

「いいえひばり様。何か、何か私に罰をお与えください! このリヒト、お咎めなしではひばり様の従者として立つ瀬がございません! そうだ、修行……ノリス様の元へ単身赴き、血反吐の出るような厳しい修行を――」

「落ち着きなさいって」

 リヒトが叩いた腿に手を当て、諭すように、穏やかにひばりがくすくす笑う。


「今あなたが私の元を離れてしまっては、残ってくれるのは顕現したてのカガミと店守りのガラジだけよ? 今回は誰が何の目的であんな罠を仕掛けたのかはわからないけど、あれで終わるとは思わないわ。それに、私はイスリルもどきに魔力を奪われてからの記憶はほとんど残っていないの。私の意識がないうちに何かが仕掛けられているかもしれない。空っぽになった私に何が起きたのか、むしろ何も起きていないのか、それすらも分からない状況なのよ。そんな時に、私を置いてどこへ行こうと言うのかしら」

「しかしそれでは……」

「もうっ! 真面目な上に頑固ね! わかったわよ、何か罰を与えればいいのね」

「お願いします! 」


 そうは言ったものの、ひばりは本当に怒っていないし気にしてもいないので、特に与えたい罰など思い浮かぶはずも無い。そもそも魔道具を使役し思いのまま従わせているのだから、日頃から感謝しているくらいなのだ。

 しかしリヒトはこのままでは引き下がらない。どうしたものか……と思案していると、ひばりはあることを思い出した。


 ひばりは中学生の時に、純から少し大人な恋愛小説を借りたことがあった。その中で「お仕置き」というフレーズが多用されていて、隙だらけの主人公の女性に対し、相手の男性が”罰”としてよくしていたことがあった。


「リヒト、私に背を向けて立ってみて?」

「背を向けて……これでよろしいでしょうか? ひょ、ひょっとして、お尻ペンペンというやつですか!」

「違うわよ! シャツを少し上げてくれる?」

「シャツですか?」

「そう。少しでいいの」


 何をされるのか想像もつかないリヒトは、自ら懲罰を懇願しておきながら、今更不安げな顔をしている。カガミもあわあわと成り行きを見守っているが、何もできずにただひばりに縋るように抱きついたままでいた。

 ほんの5センチほど上がったシャツの下から、リヒトの肌が見えた。


 ――魔道具とはいえ、人の形を忠実に再現しているのだから、肌質なんかも人間と一緒なのね。


 ひばりは徐ろにリヒトの腰に顔を近づける。そして、そっと口づけた。

「ひ、ひばり様?!」


 リヒトは突然与えられてた柔らかい感触に驚き振り向こうとしたが、ひばりにがっしりと腰骨を掴まれていたため叶わず、ただじっと耐えるしかなかった。全神経が腰に集中し、初めての感覚に打ち震えていると、ひばりの唇が触れている箇所からじわっと温かい何かが体に流れてくるのを感じた。すっと離れたひばりの唇にはうっすらと血が滲んでいる。

「ひばり様、血が……」

「契約を更新したわ」

「け、契約の更新ですか」

「ええ。今までは”私の魔力を分け与える代わりに私に従う”というものだったけど、今、もっと強いものに書き換えたの」

「なんと! どのようなものになったのでしょう」

 リヒトは頬を上気させながらひばりにずいっと近づく。

「私から離れられないように縛り付けたわ。たぶん、私の命令がない限り、私から遠く離れた場所へは行けないはずよ」


 腰へのキスは、「束縛」を意味すると純から借りた恋愛小説に書いてあった。リヒトがノリスの元で修行するなどと言い出したので、自分から離さなければ問題ないという割と安直な考えに至ったのだった。


 魔女のキスには様々な効用がある。一番使われるのが、魔力の転流。魔女が持つ魔力を何か別のものに移す時に使われ、主に魔術具の制作時に用いられる。そしてあまり知られていないことだが、癒やしを与える効果や、精神が過敏になったものを鎮静化させる効能がある。

 今のリヒトにはこれ以上ない施しだが、当の本人は何やら落ち込んだ様子だった。


「ひばり様、これでは罰ではなくご褒美でございます。私はひばり様から片時も離れたくないのですから、逆に縛り付けていただけるなど、この上ない喜びでございます」

「まぁいいじゃない。これで勘弁してあげるから」

 そう言い、ひばりは自分で口づけた箇所を指先でピンっと叩いた。

「痛っ! ありがとうございます!」


 ふと胸元を見ると、ずっとへばりついたままのカガミがキラキラと期待に満ちた目でひばりを見つめていた。


「ええ~……何やってんの君たちは……」


 ひばりの様子を見に来た日和は、主の前に腰を突き出し、ちょっと照れた表情のカガミと、主であるひばりがその腰に顔を近づけている異様な光景を目の当たりにしてしまった。

そして、「関わってはいけない」という警告音が脳内で鳴り響いたので、ひばりの好物の小豆乗せミルクプリンを机に置き、そっと部屋を後にしたのだった。



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