青栖池の悪夢 4

 ひばりが目覚めると、そこは見慣れた天井だった。どうやら体内の魔力が底を尽きているようだ。軽い目眩と強い眠気でだるい体には、ブランケットがかけられている。


 ――フラン・フルールの工房……今は夜?


 むくりと起き上がり、まだぼやけた頭のままなぜここで寝ていたのかを思い出す。

 イスリルもどきに襲われ、捕食されかけた。蔓にぐるぐる巻きにされ身動きが取れず、僅かな空間に残された酸素を惜しみ少しずつ呼吸をしながら、脱出する術を考えていた。


 問題はその後だ。いつの間にか水からあがり、淵で寝転んでいた。そして、夢うつつに名取の声が聞こえていた。名取は誰かと話しているようだった。その声は油膜が貼ったように霞んでいて、会話の内容まではわからなかったが、会話の相手は聞いたことのある声だったことだけはわかった。胸元に嫌な熱を感じ、それが恐ろしく心地の悪いものだった。その熱から逃げたくても、体は動かせず、ただ強烈に感じる不快感に耐えていた。


 記憶はここまで。次の瞬間には、このロングソファーで目覚めたのだった。

 そしてひばりは重大な事を思い出し、一気に血の気が引いた。


「リ……リヒト! カガミ!」

 いつもは呼べばすぐに音もなく現れるのに、2人の気配を感じない。


 ――どうして? 青栖池から離れたのに。2人は私の血に戻っていたのではなかったの?

 その時、リンというベルの音が鳴った。

「ひばり様」

「ガラジ!  あなたは無事だったのね」

「私はひばり様が事前に魔力をお与えくださったのでなんともございません。店に根ざしておりますし、それほど影響はないようです」

「そう……よかった。リヒトとカガミはまだ出てこられないのかしら。気配も感じられないし、傷ついたりしていなければいいのだけど」

「我々は魔道具ですから、傷ついたり、病にかかることはございません。今、ひばり様のお身体は魔力が枯渇している状態でございます。2人は直接ひばり様から魔力を頂戴しているため、お身体が元に戻られるまでは、生命の環の深淵で大人しくしていることでしょう。ひばり様が生きていらっしゃる限り、我々が消える心配はないのですよ。今はしっかり休まれることが先決です」

 穏やかに話すガラジの言葉はしみじみと耳に広がり、焦燥に駆られた心を落ち着かせた。何より、2人が無事であることにひばりは心底ほっとした。起き上がった際にずり落ちてしまったブランケットをもう一度体にかける。


「そういえば、どうやってここまで戻ってきたのかしら」

「私の知らない男が、店の前までひばり様を抱えていらっしゃいました。青栖池で倒れていたひばり様を見つけたので急いで連れ帰ってきた、と。ぐったりしたひばり様を見て、日和様が血相を変えて彼から奪い取りました。いやぁ、日和様も随分逞しくお育ちになって、関心いたしました」


 ――たぶん、名取さんのことよね。でも、なにか妙に……違和感が残る。

 名取さんが青栖池に居たことは間違い無い。蔓から開放された時に、すぐ傍に彼の声と体温を感じた。しかし「見つけた」というのは何か引っかかる。たまたまあそこに居合わせた? 普段、人が立ち入らないようなあの場所で? そもそも、なぜ彼はこの町へ?


 様々な疑問がひばりの脳内を駆け巡る。一瞬、嫌な考えが頭をよぎった。異常なまでに魔力が満ちていた青栖池。ノクターン協会の管理下にあるはずのイスリルもどきがそこに居た理由。そして都合よく現れひばりを助けたであろう名取の存在。何かが一つの線で結ばれそうになったその時――


「姉さん!」

 バン!と勢いよく工房の扉の開く音がすると同時に、日和が物凄い形相で入ってきた。

「日和君、心配かけてごめんね。私は無事――」

「あいつ、誰!」

 日和は顔を真赤にし、鼻息荒くひばりに詰め寄る。どうやら怒っているようだ。

「あいつって、んー、名取さん?」

「名取っていうのか……あいつ。姉さんを抱えて店までやってきて、事情も話さず『あとはよろしく』って言って消えてったんだ。意識のない姉さんを物みたいに扱って、無責任なやつだ!」

 名取は日和にひばりを託したあと、名乗りもせずにどこかへ去ってしまったらしい。

 ノクターンの夜会でひばりが眠ってしまった後の事を、ノリスは日和に詳しく説明していなかったので無理もない。あの時もまた、眠ったひばりを抱えて会場に戻ったそうだし、詳しく話したところで日和にとって良い印象は残らないだろう。そして何故か、初めて見る男に何やら敵対心を抱いているらしい。男の子はよくわからない。


「姉さんも姉さんだ。魔力を使い切るまで無茶して! しかも知らない男に抱えられるなんて!」

 むきーっと怒る日和に、なんだかたまらなく愛おしくなってしまったひばりは、クスクスと笑った。

「それ、心配してくれてるんだよね?」

「あ、当たり前だろ! 家族なんだから!」

 日和の言葉が、じんわりと心に浸透していく。

 ――家族。今の私には、こんなに心配してくれる人がいる。なんて幸せなんだろう。

「ごめんなさい、日和君」

 日和はひとつため息をつくと、ひばりの額に手を当て、柔らかな熱をひばりに与える。

「もう、本当に勘弁して。二度とこんなに思いさせないで。母さんだって、祖父様だって、姉さんが無理して傷つくことなんて望んじゃいないよ」

「うん……ありがとう。約束する」

 観念したようにうつむいたひばりが、日和にはとても小さく見えた。おどけてみせてはいるが、体は相当辛いのだろう。魔女の体にとって魔力が枯渇した状態というのは、通常の人間にとって失血している状態に近いという。あまりその状態が続くと、最悪命に関わると言われているのだが、その肝心の魔力は外から補充することはできない。

 例外として、以前ひばりが工房でイスリルもどきに襲われ魔力を奪われた時は、それを食すことによって奪われた魔力の大半を取り返すことができた。

 しかしそれはあくまで例外であって、基本的には睡眠によって自己回復を図るしかないのだ。


「ほら、まだ顔色が良くないんだから、もう横になって」

「待って、その前に、青栖池は……イスリルもどきはどうなったの?」

「姉さんが戻って来てから一度様子を見に行った。池の周りにイスリルもどきの残骸がいっぱい落ちてたけど、一体何をしたの姉さん」


 ひばりは何もしていない。何も出来なかった。勇んで青栖池に足を踏み入れたものの、本当になんの対処もできなかった。ただ暴走したイスリルもどきに追いかけられ、捕まり、魔力を捕食されただけだ。池を満たす程に肥大化しているなんて想像もつかなかったというのもあるが、魔草を侮っていた。自分の力量を見誤っていた。

 惨めに意識を失っている間に、誰かが――恐らく名取が後始末をしてくれていた。

 情けなさにひばりの表情はどんどん暗くなっていく。何も答えられずにいるひばりを見かねて、日和は困ったような笑顔を浮かべた。


「もう今日は眠って。目を閉じて。明日母さんが帰ってきたら一緒に迎えにくるから」

 ひばりはゆっくり目を閉じた。日和の優しい鼻唄が耳に心地いい。その声はどんどん遠ざかり、体は重く、ソファに沈む。


 青栖池の事後処理も、名取のことも、考えなければいけないことがたくさんある。それに、何か大事なことが抜けている気がする。虫食いのようにぽっかりと空いた何か。すごくすごく、重要な――


 眠りを誘う魔術をのせた日和の声に包まれ、ひばりは眠りの海へ沈んでいった。







 青栖池の悪夢  終

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