05、ALONE
三浦ハウスの朝は早い。初めに起きるのはその日の朝食当番で朝の五時。今朝は夕真がその当番なので、唸り声を上げながらベッドを這い出し洗面所へ向かった。今まで住んでいた1Rや1Kと違い、洗面所もトイレも部屋からえらく遠くて、眠気のあまり廊下で何度もぶっ倒れそうになる。
密着取材は今までにも何度か経験があるが、選手と同じ寮や下宿で寝食をともにしながらというのは初の経験だ。関係構築のためにはこれ以上ないほど有効な手段なんだろうが、体力の消耗たるや今までの密着の比ではない。
「ね、眠い……これはもはや、密着取材というより潜入取材では……」
独りごちながら身支度を済ませ、マスクと前掛けをして台所に立った。献立は栄養士の弥生さんが考えてくれていて、手のかかる惣菜も彼女が作り置いてくれている。
なので朝食当番が行うのは指定の具材で汁物を作ったり、たまに簡単な卵料理を作ったりするくらいのものだ。それでも今の三浦ハウスには夕真を入れて七人が住んでいるので、同世代の中では比較的自炊に慣れている夕真でも少し骨が折れるのだ。
「おはようございます。夕真先輩。今日当番だったんすね」
朝六時。喜久井が台所に現れる。前夜にどんなに夜更かしをしても彼は毎朝この時間に起きて、コップに一杯のプロテインドリンクを飲みバナナを一本食べて朝のジョグに出る。
「今日の朝ごはんなんですか? 和食? 洋食?」
「おはよう。今日は和食だな。味噌汁はキャベツと油揚げ。おかずは……鯖の味噌煮とにんじんチャンプルーだって。あと、デザートにスイカ」
「スイカ! いいっすねえ。夏! って感じ。じゃ、行ってきまーす!」
「いってらっしゃい。ストレッチちゃんとしろよ!」
はーい! と元気よく返事をして、喜久井は勝手口から飛び出していく。体は大きいが、まるでラジオ体操へ向かう小学生みたいでちょっと微笑ましい。
六時三十分。下宿している一、二年が食堂へやってきて、テーブルを拭いたり皿を出したりと配膳を手伝ってくれる。
一年の如月二葉は青森から、二年の綿貫史郎は熊本から上京してきたという。二人とも高校では強豪校の陸上部にいたもののなかなか芽が出ずスカウトの機会には恵まれなかったが、箱根を諦めきれず勧誘の冊子を頼りに青嵐大を受験したのだと聞いた。
「高校で全然結果出せなかったし、もう競技やめようかなって思ってたんですけど……東京の大学から勧誘が来たのを親がすごい喜んでくれたんで」
と少し照れ臭そうに話してくれたのは如月だ。少し気の弱いところはあるが、真面目で素直なので地道にタイムを縮めている土田コーチの秘蔵っ子である。
「如月んちはよか親御さんったいねえ。おれんちと真反対ばい。勝てんとやったら意味のなか! とっとと見切りつけんね! っち言うけん、ムカついて家出ばしたったったい!」
と剛毅に語った通り綿貫は苦学生で、奨学金とアルバイトで学費も生活費も賄いながら競技に励んでいる。高校時代は専ら五千メートル以上の長距離に打ち込んでいたそうだが、青嵐大へ来てからは土田コーチの勧めで三千メートル障害へ挑みメキメキと頭角を現した。
六時四十五分。三浦兄弟が起きてきて喜久井が帰ってくる。御科が目を擦りながら食堂へ降りてくるのは六時五十五分。
「いただきます!」
そして七時に、全員で朝食を摂る。米は毎朝一升炊いてあるが、大抵は一食でなくなる。食い過ぎでは? と思うが、夏休みで一日中走り通しとなるとそのくらいのエネルギーが必要なんだろう。
「史郎とタマっちは、今日はバイトだっけ?」
「ウッス。九時五時で引っ越し屋行きますけん、終わったらダッシュで合流します!」
「オッケー。タマっちは?」
鼻の頭に米粒を付けたユメタに尋ねられ、夕真は「そうはならんだろ……」と思いつつも頷いて答える。
「俺も六時には上がれるはずだから、土田さんと同じ頃に行くよ」
地元のスポーツジムに就職した土田コーチは、そこでウエイトトレーニングのインストラクターをしながら業後に指導へ加わってくれている。
三浦兄弟曰くきちんと労働契約書を交わしギャランティーも支払っているそうだが、それでも収入のためというよりは厚意によるところが大きいだろう。
「りょ! じゃあ二人とも、夕練から合流ね。旧トラック集合ってことでヨロシク!」
青嵐大の陸上競技部は、高跳びや投擲などのフィールド競技や百メートルから八百メートルまでの短〜中距離を走る「青嵐トラックアンドフィールドクラブ」と、千五百メートル以上の中〜長距離やロードレースを走る「青嵐大学駅伝部」に分かれている。
本来であれば駅伝部も喜久井が入学する年度に拠点を神奈川の新トラックへ移す予定であったのだけれど、ギリギリ卒業前に丹後の起こした事件による活動停止処分を受け、拠点移動も保留されたまま結局今に至っている。
八時。三浦ハウス在住の部員は庭先でストレッチを行い、ウォーミングアップがてら走って青嵐大の旧トラックへ向かう。夕真は彼らを自転車で追走しながら途中で道を分かち、最寄駅からアルバイト先へ向かった。
アルバイト先は零細も零細だが、タウン誌やミニコミ誌を発行していてスポーツイベントに強い。また零細ゆえ人手不足なので、学生でも古株の夕真にはそれなりに裁量を与えてくれる。
夕真も三年の頃から一応就職活動らしきことは行っているが、なんだかんだなし崩し的にこのアルバイト先へ就職することになりそうだ。もしくは、サークル活動で得たコネクションを活かしてフリーランスのカメラマン兼スポーツライターとして細々とやっていくか……どちらにせよ、撮ることと書くことくらいしか取り柄がないのでこれでやっていくしかない。
「──織部。今年の駅伝部はどうなんだ。予選会は」
昼前。DMの封入作業に勤しんでいた夕真の背後に立った社長が、コーヒーを片手にそわそわした様子で声をかけてきた。彼は所属していたサークルこそ違うものの青嵐大の運動部OBで、「ファンナーズ・ハイ」が主催するイベントの広告も多く載せてくれている、いわゆる「お得意様」だ。
「箱根ですか? 安パイとは言えませんけど、ボーダー争いには絡めると思いますよ」
夕真が封筒の口を折る手を止めて応えると、社長は少しだけ声を弾ませて「そうか」と手の中のコーヒーをマドラーでかき混ぜながら自席へ着いた。
「青嵐が来年の箱根走ると、何年ぶりになるんでしたっけ。八十年?」
それを受けて編集長は、思案顔で顎に指を当て空中に視線を放る。
「八十二年ぶりですね。でもその時の『競争部』は戦後に一回無くなって、今の『駅伝部』ができたのは八年前です」
「ああ、そうだったそうだった。っていうか、確か指導者っていう指導者いないんじゃなかった? 仮に予選会勝ったとして、その場合監督車って誰が乗るの?」
「そう言えば……そうですね」
と今度は、夕真が宙に視線を放った。
箱根駅伝を走る選手の後ろには必ず、その部の監督やマネージャーの乗った運営管理車──通称「監督車」が追走している。各チームの監督はその車から、五キロや十キロの地点で選手に声かけをしてペースメイクの指示を出すことができるのだ。
その声かけのための情報を収集し監督に伝えるのが、同伴するマネージャーの一番重要な仕事だ。そのほか、運営管理者にはドライバーと審判員などが乗車しレースを見守っている。
監督。という立場の人も一応いるが、夕真が二年半ほど駅伝部と関わってきてその姿を見たのは数えるほどしかない。線が細くて運動経験など全くなさそうな、若手の文学部准教授だ。たまに差し入れをくれたりはするが「単に名前を貸してくれているだけの人」というのが実際のところだろう。
運営管理車から声かけを行うのに、一番適任なのはやはり土田コーチだろう。しかし、本来であれば彼と共に管理車へ乗るべき主務のユメタは主力の選手でもある。とすると当日のエントリーから外れた補欠のメンバーが乗ることになるだろうが、その可能性が高いのは一年の内の誰かだ。
「いやあ、ほんと、どうするんでしょうねえ……もし勝ったら、色々と……」
皮算用だとは思うものの、その時のことを考えるとハラハラしてくる。土田コーチには休みを取ってもらうとして、一年は誰にその役が当たってもいいようにタイム計測を叩き込む必要があるだろう。沿道からの給水や各中継所の付き添いはフィールドクラブに助っ人を頼むのが妥当か──。
「なんか面白そうだなあ。もし予選会に勝てたら、裏方にフォーカスして特集組むのもマニアックな切り口でいいかもな。ウチみたいなミニコミならではだ」
眉間に皺を寄せている夕真とは裏腹に、社長は実にポジティブな皮算用をして恵比寿顔でニコニコしている。
「悪くないですね。少しニッチ過ぎる気はしますが、読者には『ファンナーズ・ハイ』のファンも多いんで最低限は部数取れそうですし……織部、書いてみる?」
「はい?」
編集長から突然の提案を受け、にわかには信じ難いほど間抜けな声が出た。
「いやだって、織部はもう今そもそも新聞部の方で密着してるんでしょ? 他のメンツは今抱えてる案件の間にねじ込むと半端な取材になるし」
「え、い、いいんですか? 俺で?」
「別にいいよ。そもそも青嵐大が予選会に勝って箱根に出られたらって話だし、つまんなかったらボツにするだけだから」
編集長はにべもなく発し、腕時計を見て席を立つ。
「打ち合わせ出てきます。織部、電話番よろしく。あとこの間のイナダ社長のインタビュー起こし、今日中に頼むね」
「あ、ハイ。了解です……」
そうして編集長は椅子の背もたれにかけたジャケットを片手に、編集部を出て行った。
夕真は再びDMの封入作業に戻ったが、じわじわ嬉しくなってきて口角が上を向く。写真はそれなりに使ってもらったことがあるものの、記事は短いコラムの穴埋めくらいで、紙面を大きく占めるような記事は流石に任せてもらったことはない。
「楽しみだなあ。予選会」
そんな夕真の様子を見て取ってか、社長はまるで自分のことのようにほくほくした笑顔を浮かべていた。
「……はい。楽しみです」
口に出してみると、ますます頬が緩んだ。けれど夕真は、デスクの引き出しからミントのガムを取り出し口に入れてそれを堪える。
夕真には昔から、自分の身に起こる幸運な出来事をどこか素直に真に受けられないところがあった。禍福は糾える縄の如し。ではないが、いいことのあとには必ず、まるでバランスを取ろうとするように悪いことが起きる気がするのだ。
それを夕真は、内心で「人生のケアレスミス」と呼んでいる。何かいいことがあると浮かれて気が緩んで、普段ならしないような行動をした結果が不運を呼ぶ。寒空の下で柄にもなく自転車で全力疾走をして熱を出したり、独占欲の強い彼氏の前で他の男の話ばかりをして殴られたり。
浮かれない浮かれない。いつも通りいつも通り。そもそもまず、駅伝部が予選会を勝ち抜けるとも限らないわけだから──そう心懸けながら、夕真は淡々とその日の仕事を片付け、特段急ぐこともなく大学の旧トラックへ向かった。
綿貫と土田コーチは既にトラックで合流していて、夕練がもう始まっていた。今日行っているのはファルトレクという練習で、速いペースのランとスローペースのランを一分や二分で区切って交互に繰り返して走る。スピードと持久力を効率よく高めるための練習方法だと聞いた。
要するに、全力疾走の間にスローペースのランを挟んで休憩にするということらしい。初めてこのトレーニング方法を聞いた時には「走りながら休憩!?」と慄いたものだ。スポーツを観るのもアスリートに話を聞くのも好きだが運動するのは苦手な夕真にとっては、目眩のしそうな練習である。
「あと四セットーーッ! ファイトーーッ!!」
構えていたカメラを下ろし声を張り上げた夕真の横で、土田コーチが驚きも露に大きくたじろいでいた。
「びっくりした……どうした突然……」
指摘され、はっと我に返った。いかんいかん。いつも通りいつも通り。と表情をひき結び、夕真は早口で答える。
「いえ別に。気が向いただけですか?」
「あ、そ、そう……ならいいんだけど──おーおー、露骨に喜久井が前に出たな」
土田コーチの言う通り、夕真が声をかけた後から喜久井はぐんとピッチを上げて四番目から先頭へ躍り出た。
「コラア喜久井ーッ! サボってんじゃねーッ! 最初っからダッシュせえよダッシューッ!!」
スローランに移った途端に飛ばされたコーチからの怒号に、喜久井は少し気まずげに腕をぐるぐると回して見せる。
喜久井の走り様は、高三のインターハイを境にして劇的に変わった。彼はもう、初めて目にした時のような、何かに怯えて逃げ惑うような走りは決してしない。
今の彼の走り様を表すのに相応しい言葉があるとすれば、それは「貪欲」。
都大路で負った怪我を治して復帰した頃の喜久井は、序盤は後方で体力を温存し後半で追い込みをかける「ネガティブスプリット」タイプのランナーだった。
しかしここ最近の彼は、序盤からハイペースで入って貯金を作り、それを守り切る「ポジティブスプリット」タイプに転向している。
が。今の喜久井は先頭を走っていてもどこか、何かを「追い駆ける」走りをしているのだ。トップの座よりも更に先にある何かに手を伸ばすような、そんな貪欲な走り様だ。
どちらの彼が魅力的かと聞かれたら、きっと百人が百人とも「今だ」と答えるだろう。夕真だってそう思う。けれど、出会った頃の彼が今と同じ走りをしていたら、きっと夕真はそこまで彼に興味を持たなかったに違いない。
今の喜久井の走り様を見ていると、羨ましいような寂しいような、妙な気持ちになる。率直に一言で言い表すなら「置いて行かれた」が一番近い。
あの頃、写真部の部室でふたり「くそくらえ!」という思いを共有していた時の彼はもういない。夕真だけがまだ、あの頃の「くそくらえ!」を自分に対しても世界に対しても抱えたままでいる。
「……土田さん。正味なとこ、どう戦います? 予選会。ボーダー上にはいると思うんですが、立川の走り方を熟知した東武大に留学生獲得に成功した関東外語大、それに古豪復活を掲げる大正学院大とライバルは多くいますが」
夕真が取材モードで携帯のボイスメモを起動すると、土田コーチは難しい顔をして胃のあたりをさすりながらも答えてくれた。
「そうだな……東武と大正は全日本に向けての調整もしながらの予選会になるのに比べて、ウチは箱根一本に絞ってる。その集中力のアドバンテージが上手く活かせたらって感じかな。関外とはガチンコ勝負になりそうだけど、留学生のキマニはまあ別格だから。あんまり意識はしてないよ」
毎年十一月の第一日曜には、三大大学駅伝の一つにである全日本大学駅伝が三重県で開催される。
東武大と大正学院大は六月に行われた予選会を勝ち抜き全日本へ出場するため、十月中旬の箱根駅伝予選会に一点集中の練習はしないだろうというのが土田コーチの見立てのようだ。
そんな話をしている内に選手たちは六十分のファルトレクトレーニングを終え、へろへろになりながらクールダウンを始めた。
「チームの精神的な支柱はやっぱり主将と主務の二人だと思うんですが、走力的な大黒柱は喜久井ですか? それとも、ロード特化型の御科?」
夕真の質問に土田コーチは、今度は「うーん」と言葉を選ぶような素振りを見せながら、間を開けて再び口を開く。
「──ロードの走力に限って言えば、大黒柱は御科だ。けど、その御科や一、二年のモチベーションを支えてる精神的な支柱はノブタやユメタじゃなくて喜久井だな。あいつは下からの要望とか不満を掬い上げるのが抜群に上手いし、御科とはオタク繋がりでソウルメイト的なところがある」
「なるほど。ソウルメイトですか……」
夕真は「自分がその言葉に反応したのは、あくまで記事を書く上でいいトピックになりそうだからですよ」という体を咄嗟に装い呟いた。
ふーん。ソウルメイトね。ふーんそうですか。
まあ俺は? 無駄に付き合いが長いだけのタダの元カノの兄貴で? ゲームもアニメも漫画もなんにも知りませんから? 良い友達ができたなら結構なことですけれども?
なんていう、分不相応な拗ねた言葉が頭を巡った。
「……とすると、土田さんから見て主将のノブタや主務のユメタっていうのはこの駅伝部にとってどういう存在なんでしょう。御科や喜久井が柱とするなら、彼らは梁かなっていう印象を俺は持っていますが」
ぐるぐると脳裏を過ぎる調子に乗った自意識を脳内で撲殺し、夕真は改めて土田コーチに尋ねた。
「柱と梁か。イイ例えするね」
すると彼は関心したように目を瞠り、夕真を見る。
「確かに、ノブタやユメタは三浦ハウスの梁みたいに上からの圧力──まあこの駅伝部の経済的な部分とか、大学側からの冷遇とかだな。そういうのをうまく下に伝えてる。包み隠さず、でも危機感を煽ったり悲観的になったりは絶対にしない。……まあ、本当にヤバい時は後輩には言わずに信頼できるお得意さんの大人とかに相談してるみたいだけど。あと俺とか」
それからやっぱり少しだけ逡巡して、録音中のマークがついた夕真の携帯を指して「使えるかわかんないけど……」と小声で発してから続ける。
「でも事実として……その『柱』や『梁』を見つけてきたり育ててきたりしたのは、やっぱり丹後さんっていう『基礎』の人なんだよな」
その名前を聞くと、やっぱり今でも体が竦み、奥歯に力が入る。けれど夕真はそんな自分の身体的反射を、腹の底にえいっと力を込めて「なるほど」と声を出すことで紛らわせた。その声はたぶん、少し震えていた。
「あの人のしたことは、人として絶対にやっちゃいけないことだ。誰がどう考えたってそうだ。でも……こんなこと、もしかしたらタマっちにだけは絶対言っちゃいけないのかもしれないけど……俺があの人のしたことの中で一番許せないのは、俺や、ノブタやユメタや、喜久井や御科に、あの人のことを誰にも自慢できなくしたことだ」
土田コーチはまた胃のあたりをさすりながら、苦しげにそんな告白をする。夕真はおもむろにボイスメモの録音を停止し、携帯をポケットにしまった。
「分かりますよ。っていうか、俺も同じ気持ちです。……俺も、あの人のことが好きでした。尊敬してました。だから暴力より薬物より、俺が持ってたそういう気持ちを真っ黒に塗り潰されたことが一番堪える。それに何より、あの人をそんな風に変えてしまったのが自分なんだとしたら、俺はそれが一番──」
「タマっち。それはダメだよ。言っちゃダメだ」
ついぞ聞いたことのないシリアスな声色でそう言って、土田コーチは夕真の言葉を遮る。
「いいことも悪いことも全部、あの人が選んであの人がしたことだ。誰かの影響を受けることがあったとしたって、あの人の人生はあの人だけのもので俺たちにできることは何一つなかった。それをちゃんと心と体に染み込ませないと、いつまでもあの人の呪縛から抜け出せないぜ。……お互いにさ」
彼は付け足すように自戒して、クールダウンを終えてストレッチをしている部員たちに目をやる。釣られて夕真も彼らを見た。
ナイター練習用の照明なんかとっくに機能していない旧トラックは、なけなしの部費をはたきオークションサイトで競り落とした投光器の白い光にうすぼんやりと照らされている。
電源はこれまたオンボロのクラブハウスから調達していて、その延長コードの長さは、さながら万里の長城である。
そんな中で真剣に、けれど楽しそうに練習に励んでいる彼らの姿を見ていると、不遇。そして不屈。そんな言葉が頭に浮かんだ。
「あいつら──特に、ノブタとユメタが箱根を走れたらさ、なんかいっこ、ケジメがつけられる気がするんだ。たぶん、あいつら自身も同じ考えなんじゃないかな。だから俺に面倒見させてくれてるんだと思ってるよ」
夕真にそう言って笑いかけ、土田コーチはストレッチをしている彼らに「はいお疲れー」と歩み寄っていく。
誰かの影響を受けることがあったとしたって、あの人の人生はあの人だけのもので俺たちにできることは何一つなかった。そんな土田コーチの言葉が、胸の内をこだまする。
もしそれが真理なのだとしたら、丹後尚武を救えた「ヒーロー」はこの世のどこにもいなかった。ということになる。
それはやっぱり夕真にとって、とても残酷な真理だった。
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