04、BROKEN ARROWS

 夕真が居心地悪そうに肩を落として契約書に署名するところを見届け、重陽は「ヨシ!」と一つ頷き部屋を出てきた。あとは彼らの「仕事」の話で、自分にはまた別の「仕事」がある。


「──弥生さん、お疲れ様です。まだ何かお手伝いできることって残ってます?」


 重陽が台所へ戻ると、目にも止まらぬ手捌きでじゃがいもの皮を剥いていた恰幅の良い女性が振り向き、ニコリと笑った。


「あらいいのに。重陽くんも走ってお腹空かせてきたら?」


「今日は休養日ってコーチに言われてるんです。その代わり、弥生さんのゴハン食べて明日からまたがっつり走りますよ!」


 そうして意気込んで見せると彼女は「それじゃ、活躍してもらいましょうか!」と言って、調理台の上にあるまだ手付かずの大量の肉と野菜を見た。


「今日は囲炉裏とウッドデッキでカレーとバーベキューをするから、そこの野菜とお肉を串に刺しておいてくれる?」


「すごい! ご馳走ですね!! ありがとうございます!」


「夕真くんの歓迎会だからね。このくらいは当然! あ、でもバーベキューの順番は肉、野菜、野菜、肉、野菜、野菜、でね!」


 彼女は桃瀬弥生さんといって、三浦兄弟がスカウトしてきた管理栄養士だ。週に二日、火曜日と土曜日に三浦ハウスへ来て食事の作り置きと栄養指導をしてくれている。


 なんでも彼女は三浦兄弟の卒業した小学校で長年給食の献立作りと調理を行っていたそうで、定年後の再雇用が終わる六十五歳まできっちり勤め上げたあと、彼らの熱烈なラブコールにより駅伝部の栄養指導を引き受けてくれることになった。


「夕真くんって確か、重陽くんの高校時代からの先輩なんだよね。ずっと仲が良かったの?」


 無心になって串に肉、野菜、野菜……とやっていたら、弥生さんは包丁さばきを止めないまま重陽に尋ねた。


「いや、そうでもないっすね。高校の時に初めて喋ったのって、あの人が卒業する直前の冬だったし。どっちかっつーと妹ちゃんの方が仲良かったです。部活一緒だったんで」


「そうなんだ。なんか意外」


「そうですか?」


「だって、ずっとすごく気にかけてたじゃない。まるで家族か、十年も大親友だったみたいに」


 さらりと看破されて、ぎくっとしたが同時に少し寂しくも思った。自分が四年も五年も絶えず薪をくべ続けてきた初恋はもう、あまりにも体に馴染みすぎて「まるで家族か、十年も大親友だったみたい」な、穏やかなとろ火に見えるらしい。


「……なんかあの人、先輩ですけど、昔の自分見てるみたいで腹が立つし、放って置けないんすよね。自分のこと雑に扱う人の顔色ばっかりキョロキョロ伺って、気にかけてくれる人のこと全然目に入ってないとことか」


「なるほど。似たもの同士ってわけか」


「かもしれないです。だから気になるのかな。……まあでも、腐れ縁っすよ。ノブタ先輩とユメタ先輩にも色々協力してもらったけど『次はねえからな』って釘刺されちゃったし。おれもそろそろ先輩から卒業して、自分の人生やってかなきゃなのかも」


 次に串へ刺すのをビーフかポークかで悩みながらそう答えると、弥生さんはやっぱり目にも止まらぬ速さでじゃがいもをカットしながら「それはどうかなあ」と唸る。


「重陽くんが『かも?』って思ってる内は、ちょっとまだ卒業には単位不足だと思う」


「単位不足?」


「そう。人から本当に『卒業』する時って、不思議と迷いがないんだよね。あ、もういいや! って自然となるから。離婚した時がそうだった」


「説得力がえぐい!」


「ふふふ。でしょうよ」


 そう言って弥生さんはカットの終わったじゃがいもを水に晒すと、冷凍庫から飴色たまねぎのジップロックを出してきて大鍋を火にかける。


「ま、人生何をどうやっても『我が生涯に一片の悔いなし!』なーんてわけにはそういかないから。せめて『しょうがなかった』って思える程度には、いろんなもの燃やし尽くした方がいいの。好きな気持ちも、嫌いな気持ちも」


 好きな気持ち。という言葉にまたどきっとしたものの、重陽はその言葉を頼りに自分の心の底へ深く潜っていった。



 夕真のことが好きか。と聞かれたら、たぶん好きだと思う。けれどどうしてか、彼に特定の相手がいない今の状態であっても、ガッツで「そういう仲」になれる気が全くしない。もっと言えば、それを自分が本当に望んでいるのかどうかも今の重陽には全然分からない。


 彼には健やかで、幸せであって欲しい。唯一欲を言うとすれば、自分が走るところを撮り続けて欲しい。ただそれだけなのだ。高校時代に抱いていて夢にまで見たような「うおおおイチャイチャしてえええっ!!」という強い衝動は、いつの間にか消え失せた。


 それは彼が重陽の好意に気付いていながら投げやりな恋愛を繰り返すせいなのか、今の駅伝部で走るのが楽しすぎるせいなのか──きっとそのどちらでもあるんだろう。


 彼を想っていると、暗闇で折れた矢を放ち続けているような気分になることがある。打っても響かない鐘を突いている方がまだ、鐘が目の前にあるのがわかっているだけマシだ。


 ユメタ主務に「次はねえからな」と言われた時は、一応「はい」と答えたけれども手を引こうなんて考えは一ミリもなかった。


 けれどついさっき、夕真が惨めそう首を垂らして、不貞腐れたような声でやさぐれて「俺はそこまでしてもらっていい身分じゃない」と言うのを聞いた時にはさすがに堪えたのだ。目の前が真っ暗闇に包まれて、自分の握っている矢がバキバキに折れた音が聞こえたような気がした。

 

 そういう瞬間がこの二年半くらいの間に何度もあって、その度に重陽の胸に宿っていた青い炎はきっと少しずつその火力を落としている。そうしてあとに残った燃え殻に付く名前はきっと「失恋」ではなく「同情」か、もしくは「射幸心」だ。


 夕方には大学の旧トラックで練習していた一、二年と土田コーチが、陽が落ちて全員の飢えが限界寸前を迎えた頃にロードワークに出ていた御科が三浦ハウスに帰ってきた。各々から発せられる腹の虫はもう、三浦ハウスの前庭に聳え立つ巨木で鳴くミンミンゼミに勝るとも劣らない。


「──御科、キレッキレに仕上がってるな。ハーフだともうお前とタイムそう変わらないだろ」


 全駅伝部員のブーイングをものともせずに風呂場へ向かう御科の背中を見ながら、夕真は目を光らせてそう言った。


「お。さっそく取材モード。本人にトツっちゃいます? あいつは関係構築ムズいっすよー? おれみたいなニワカのキョロ充と違ってガチのオタクっすからね」


 重陽が茶化し気味に言ったのは、やっぱりちょっとヤキモチを焼いたからだ。そんな自分の心持ちに少しほっとするような、自分で自分に幻滅するような、複雑な心地だ。


「関係構築ね……他校でも長距離部門にはオタク多いし、その辺はお前に頼るってのもアリだな」


 なんて含み笑いを浮かべられると、瞬間的に「はい無理エロい!」と一気に頭がバカになる。が、そんな熱はすぐに冷めて「なるほど。こんな風にグイグイ来られたらそりゃ自覚なくてもクラっとくるわ」なんて戦慄するのだ。


「え、なんすかそのハニトラ。こっわ……先輩、ちょっと自分の謎のエロさに自覚的になった方がいいっすよ。わざとじゃないなら」


 そんな旋律を率直に言って返すと彼は、表情を一瞬で心底からの不機嫌に塗り替え舌打ちをした。


「わざとじゃないし、俺はエロくもなんっともない。エロいと思うのはお前の性癖の問題だろ。人のせいにすんなよ」


 言葉のパンチが顔面のど真ん中にクリティカルヒットして、すみません。すら言えなかった。ショックと自己嫌悪に目を泳がせている間に土田コーチが「ええいもう待ってられん! コーラ飲むやつ挙手!!」と声を張り上げ、夕真はそれに反応して屈託なくピンと腕を伸ばす。


「重陽先輩は? いっつもコーラじゃないすか」


 回ってきたペットボトルを掲げて見せた後輩には顔の前で手を振って見せ、重陽は囲炉裏の前の席を立った。


「おれはいいよ。今日は麦茶にしとく。ちょっと体重落とさなきゃなんないからさ」


 そう言い残して、重陽はドア一枚隔てた台所へ行って冷蔵庫から麦茶のピッチャーを出し、それをそのまま持ち帰る。


 自分のもといた夕真の隣へ戻ろうとしたもののそこには後輩が座っていて、夕真は多数の後輩たちに囲まれ質問をしたりされたり楽しそうに会話を重ねていた。なので重陽は縁側の外のウッドデッキに河岸を映し、自分で串に刺したバーベキューをグリルすることに専念した。



 ウッドデッキで炭を焚いていたのはノブタ主将で、彼は火加減と囲炉裏端の夕真の様子へ交互に目を光らせている。


「おい重陽。お前、あいつから目ェ離すなよ」


 しょぼくれながら網の上の串をひっくり返し続ける重陽を嗜めるように、ノブタ主将は眉を顰めて言った。


「うちのジュンジョーな一、二年が、タマっちの毒牙にかかったら困るだろ」


「いや確かに困りますけど、毒牙っ言い方はちょっと──」


「毒以外の何物でもねえだろ。あいつの歴代DV彼氏で、一人だってそもそもゲイだったやつっているか?」


 と厳しめの目つきで見られて、自分の知る限りの過去へ思いを巡らせる。


「……確かに!」


 そして重陽は、ノブタ主将の指摘する事実を自らの記憶で確信して驚愕する。第一に「そもそも」と言えば、重陽だって「そもそも」自分が同性に恋をすることがあるだなんて、彼に出会うまでは全く思っていなかった。


「だろ? まあタマっちにその責任があるとは俺も全然思わないし、好いたの惚れたのなんて誰にも制御できないことだとは思うんだけどさ。だーからタチ悪いんだ。あいつは散々オトコ夢中ににさせるけど、あいつ自身は本気になんねーから。……丹後さんがよく愚痴ってたよ」


 その名前を聞いた途端、重陽は自分のみぞおちのあたりがきゅっと締まって息が詰まるような心地を覚えた。


「……丹後さんって、夕真先輩のことなんて言ってたんですか?」


 聞いてもいいものかどうか迷いはしたけれど、結局聞かずにはいられなかった。重陽にしてみれば、異性ならいざ知らず同性の恋人についてそんなに屈託なく後輩に愚痴を言えるという度胸がまず羨ましい。


 それが悪いことだとは全く思わないけれど、自分がその立場であったらと考えるとやっぱり抵抗があるのだ。


「タマっちのこと? まあ、ぞっこんだったね。タマっちも、別にちゃんと丹後さんのこと好きだったと思う」


 ノブタ主将がそう言うのを聞いて、自分で尋ねたのにも関わらず心に深傷を負う。なんだかさっきからそんなことばかりだ。自分が人に働きかけたことが跳ね返ってきて、かわしきれずに負傷するばかり。


「──でも、何か分からないけどタマっちにはあの人より大事なものがあったみたいだな。丹後さんはいっつも『暗闇の中で、バキバキに折れて全然飛ばない矢をあいつに向かって飛ばし続けてるみたいだ』って言ってた」


「折れた矢……ですか」


 ずっと自分が抱き続けてきたのと全く同じ感情を彼が抱いていたのを知って、重陽は思わず眉を顰めて繰り返した。


 ショックで、少し怖い。何かが違えばもしかしたら、自分が彼のようになっていたかもしれない。


「そ。まあ『バキバキに折れて全然飛ばない矢』ってのはちょっと意味不明だけど、付き合ってんのに他のヤツのことばっか考えられちゃかなわんってのはフツーに分かんだよね。だから、まあ暴力振るうヤツが一番悪いってのは大前提としても、タマっちも隠しきれないほどほかに大事なモンがあるなら迫られてもホイホイ首縦に振ってんじゃねーよとは思うよ」


「そ、それは……言えてますね」


 頷いて再び囲炉裏端の彼を見ると、なんだか少し違って見えた。互いに好きあって仲を深めたはずの恋人が、嫉妬にトチ狂って暴力を振るい始めるほど彼が大切にしているものとは?


 一つ思い当たるものがあるのすれば写真だけれど、それというのは即ち「仕事とアタシどっちが大事なの!?」問題にあたるのだろうか。それだけのことでこうも人生が拗れるというのが、にわかに信じ難くはあるのだけれど。


「つーわけで、あいつの監視頼むよ。付き合い長いお前なら抗体あんだろ」


「いや抗体って。完全に毒物扱いなのウケんすけど」


 程よく焼けたバーベキューの串を大皿に移していたら、囲炉裏端からひとり一年生が立ち上がってウッドデッキへやってきた。


「主将、重陽先輩、御科先輩が風呂から出てきたんで、そろそろ乾杯しませんか?」


 と言って屈託なく笑ったのは、今の駅伝部では重陽に次ぐ長身選手の濱田雅光だ。実家から通いの彼は高校でも陸上部にいて、強豪ひしめく都大会で活躍していた。


 そんな彼が豊富な選択肢の中から青嵐大を選んでくれた決め手というのが同じ大型選手である重陽の活躍だというのだから、えこ贔屓は良くないとは思うものの一際可愛く思えてしまう。


「お、そっか。さんきゅハマー。……乾杯っつっても、もうみんなたらふくカレー食ってんじゃん」


「いやでもそれは、御科さんが悪いですって」


 と言って笑う濱田の後ろでノブタ主将は囲炉裏端へ目を凝らし、やがて声を放った。


「おーし、みんな一旦皿置いて。グラス持ってこっち集合!」


 ノブタ主将の号令で、囲炉裏のカレーを囲んでいた面々がわらわらと立ち上がる。夕真を囲んで話に花を咲かせていた後輩たちは、少し不服そうだった。


「──何話してたんすか? 一、二年と」


 重陽もまたさりげなく移動し、再び夕真の横に立つ。小声で尋ねると彼はいつもの塩対応で「別に」と答えた。


「あおRUNちゃんねるのこととか、ロードシーズンの展望とかだよ。特に箱根の予選会。今、人数ギリギリだろ? この部は練習以外にやること多いし、新人のモチベーションは気になるところだ」


 軽いノリで話しているように見えたが、割に真面目な話だったみたいだ。が、それも彼の取材手腕によるものなんだろう。


「へー……なんて言ってました? あいつら」


 重陽が少し前のめりに尋ねると、夕真は愉快そうな笑みを浮かべて「ははっ!」と笑った。その自然な笑い方が、あんまり綺麗で見惚れてしまう。


「初対面ってわけじゃないけど、そこまで信頼関係作れてないからな。聞けたのはフツーに『この夏でがっつり走行距離伸ばして対策します』とか、当たり障りないことだけだよ」


「なるほど。じゃあ、これから同じ釜の飯食って徐々に、ってトコっすね」


「そういうことだな。まあ、ぼちぼちやってくよ」


 と言って夕真はジーンズのポケットに手を突っ込み、そこに煙草はもうないことに後から気づいて気まずげに眼鏡を上げる。


「……でも、今年の予選会はイイ線行くと思う。ユメタとノブタのタイムは安定してるし、一、二年のポテンシャルも結構高い。あとはムラっ気のある御科のコンディションが良くてお前が怪我さえしなきゃ、十位あたりは狙えそうな気がするけどね」


 そう言った彼の目は、実際にレースを走る駅伝部員の誰よりもキラキラ輝いていた。夢を語る人のそれだ。


 そんな顔されたらおれ、めちゃくちゃ自惚れますよ? 気をつけてくださいよ先輩。


 と危うく口に出しそうになり、寸でのところで飲み込んだ。夢を見る彼の顔が綺麗だと思うのも、その夢が自分に託されていると感じるのも、全ては自分の勝手な「性癖」だ。ついさっき、そのことに釘を刺されたばかりだ。


「……そういうことなら、任しといてください! 連合チーム入りとは言わず、バシっとみんなで箱根走ってやりますよ!」


 胸を叩きそう答えたのが、どうやら最適解だったらしい。夕真は頬を紅潮させ屈託なく笑って「期待してる」と言ってくれた。


 その瞬間。重陽は「ああ、やっぱり消えてない」と、自分の中に灯る青い炎が熱く燃えるのを実感する。けれど同時に、彼が見せてくれるそんな表情は決して自分だけのものではないことも、もう知っている。


 彼が好きなのはスポーツと、それに命をかけて励むアスリートだ。そして、彼がその繊細で鋭敏な眼差しを注がれたアスリートはきっと、誰だってみんな彼のことを好きになる。まさに自分が、そうであるように。

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