06、LOSER

 青嵐大学駅伝部には金がない。これと言ったスポンサーもいない。大学からは部活として最低限の予算を貰えはするものの、大会や記録会のエントリーフィーを賄うので精一杯だ。


 なので部の活動費用の多くは、ユーチューブの広告収入とたまに行うクラウドファンディングに依存している。


 ただしそれも、過去に駅伝部であった事件の尾を引いていて大学陸上ファンにおける旧来からのメイン層とも言える中高年男性にはあまり覚えがよろしくない。


 そんな状況でも常に笑顔を絶やさないのが、ノブタ主将とユメタ主務のすごいところだ。重陽は「もし自分が彼らの立場だったら……」と考えてぞっとしたことやヒヤっとしたことが何度もあり、彼らの胆力には常日頃から舌を巻くばかりである。


「失礼しまーす。台風の雨漏り対策についてなんですけど──ええええええ顔こわっ!?」


 夜半。一階の事務所へ訪れた重陽は、ついぞ見たことのないような険しい顔をして一つのパソコンを睨みつけている三浦兄弟を目にしてしまい思わず驚嘆の声を上げた。


「お、重陽。いいところに来たな。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」


 顔を上げたノブタ主将に手招きをされ、彼のデスクに歩み寄る。二人が険しい顔で覗き込んでいたパソコンには、大学側から送られてきているらしい「後期活動費の支給について」という件名のメールが表示されていた。


「聞きたいこと? 予算のことですか? 会計系のことなら先輩たちの方がよっぽど──」


「いや、違うんだ。お前っていうか、後でみんなに聞こうと思ってたんだけどさ」


 とノブタ主将は重陽の言葉を遮り、重陽が「はあ。なんでしょう」と首を捻りながら返事をすると彼もまた首を捻りながら続けた。


「変なこと聞くんだけど……最近、うちって新しい部員入ってきたっけ?」


「は、はい? 新しい部員?」


 想像の斜め上を行く「変なこと」を聞かれてしまい、ますます首が傾く。


「残念ながらそんな大朗報、聞いてないですけど……」


「なあ! だよなあ! でも……増えてるんだよ。一人。書類上でだけ」


「はいい?」


 と声を裏返した重陽に、ユメタ主務はメールに添付されたPDFファイルを開いて見せた。


 大学からの活動費は部員一人当たりにいくらという計算で支給されていて、PDFには後期の支給決定額と振り込み予定日が記載されている。が、その支給額が部員一人分多いのである。


「……ほんとだ。えー? これ、何かの間違いじゃないんですか?」


 眉を顰めた重陽に対して、ユメタ主務は「うーん」と腕を組んで唸り答える。


「俺もその疑いが濃厚だとは思うんだけど、万が一ってこともあるかと思ってさ。……とりあえず明日、一応大学の事務室行って向こうの名簿確認してくるわ。あ、そうだ。それでお前は? 台風がどうしたって?」


「ああ、そうでした。さっきニュースで大型台風のことやってたんで、屋根瓦とか去年雨漏りしてたとことか早めに点検しといた方がいいかなって──」


 と重陽は自分の用事を済ませ、代わりに「他のメンツにも最近友達が入ってくれたりしたか念のため聞いといて」という任務をユメタ主務から預かり部屋へ持ち帰った。



 重陽は三浦ハウスのメンバーには直接、実家組にはグループチャットで「最近友達とか勧誘して入ってくれたってことある?」と確認してみたものの、誰も心当たりはないという。


「ふむふむ。それでは、この件は事務手続き上のミスですな。額面上も同じように十二人分振り込まれてたらラッキーじゃん。ダマでもらっちゃえばいいでしょ」


 夜の余暇時間。御科と格闘ゲームの対戦をしていたら、彼は悪びれることなく言ってのけた。


「いや、それはマズいって。ただでさえガラ悪い集団って思われてんのに……あと、返せって言われてもメンドクサイし」


「それもそうだけど、出してる記録の割にそもそもの支給額少な過ぎんだって。年寄りは年寄りらしくとっととボケて昔のことは忘れろっつーの」


 御科は珍しくそんな悪態を付き、重陽の使うキャラを場外へ吹っ飛ばして「ヨシっ!」とガッツポーズを決める。


「あーっ! しまった離れ過ぎた!」


「ふふふ。遠距離タイプのキャラは懐の内側から離れてはならぬ。常識ですぞ?」


「くっそもう一回! もう一回オネシャス!!」


 と手を合わせている重陽の横で携帯が震えた。駅伝部のグループチャットへの着信だ。


『あのこれ、たぶん謎の幽霊部員とは関係ないとは思うんですけど──』


 メッセージを寄越したのは実家組の濱田だ。


『この間、朝練のあと部室に携帯忘れたの気付いて講義の合間に取りに行ったんですけど、その帰りに部室棟の前でめちゃくちゃ早歩きの見たことないヤツとぶつかってシカトされたんすよね。その時はほかのサークルのヤツかと思ったんですけど、そういえば後期からあそこ使うのウチだけになったんだよなって今思い出して』


「え、なにそれこわい」


 濱田のメッセージを見た御科は、口に出したそのままの返信をチャットへ打ち込む。他のメンバーからも続々と『ガチの怪談じゃん』『怨念がおんねんな……』などと怖がっているのか面白がっているのかよく分からない返信が続々と入ってきた。


「──喜久井先輩、御科先輩、ちょっといいですか?」


 と扉の外から如月の声とノックの音がして、重陽は立ち上がりドアを開けた。


「どうした如月。綿貫も。オバケ怖くなっちゃった?」


「ああいや、そういうの大丈夫ですけん。話聞いてもらってよかですか? 幽霊部員の件」


 すげなくいなされ、綿貫は「お邪魔しまあす」と部屋に入ってくる。如月もまたその後に続いて、重陽にぺこんと小さく会釈をした。


「如月が、おんなし人やなかとやろかーっち人ば見たそうで」


「マジか! いつ頃?」


 重陽が前のめりになって如月に詰め寄ると、小柄な彼は少したじろぎつつきゅっと肩を縮めながら答える。


「はい。後期始まってすぐの頃です。休講でたまたま二コマ空いたんで筋トレでもしようかと思って部室棟に行ったら……廊下は電気消えてて薄暗かったし、相手はマスクしてて眼鏡かけてて、おまけにキャップも目深に被ってて全然顔とか分かんなかったんですけど……ジャージでしたね」


「で、おれもそう言えば似たような人ば見たことあるとですよ。おれの場合はトラックでやったとですけど。バイト帰りにチャリで通りがかったら真っっ暗ん中、ジェットばばあか! いうぐらいの高速ペースで走りよる人おったけん、え、こわっ、と思ってばり急いで帰って来たとです」


 そんな後輩たちの証言をまとめると、謎の幽霊部員の姿が徐々に浮かび上がってくる。


 謎の幽霊部員は暗がりに現れる。ひとまず実体と足はあって、しかも速い。真夏でもマスクをしている。眼鏡をかけキャップを目深に被っていて、顔はよく分からない。そして今のところ、誰も幽霊部員の声は聞いていない。


「ふむ。なるほど……トラックをちゃんと走ってるということは、少なくとも氏は『幽霊部員』ではありませんな。きちんと練習には励んでおる。まあ、不法『侵入』部員ではあるかもしれんが」


 御科は愉快そうに言いながら一人で笑っている。が、本当に部室棟へ不法侵入をしている輩がいるとなると大問題だ。


「不法侵入部員って……実害ないだけガチの幽霊の方がマシだろ。ユメタ先輩も明日学校の事務室行って名簿確認してくれるって言ってたけど、明日はおれらも朝練の前に部室から何か無くなってるものとかないか確認しよう。貴重品はないはずだけど、タオルとかサポーターとか結構置きっぱなしだろ? 世の中いろんな変態がいるから注意するに越したことはない」


「いろんな変態って……女子部ならともかく、そんなん取ってくヤツいます?」


 後輩たちはあまり真に受けていない様子ではあったが、一方の御科は重陽に同調して「そうした方がいい」と深く頷いた。なぜかと言えば彼も重陽と同じく、ひと月前の夏コミではそんな特殊性癖BL十八禁本をしこたま買い込んできたからであるのに違いなかった。



 そうして薄い本に叩き込まれた危機管理能力を余すところなく発揮し、重陽は御科と共に部室の点検と大掃除を取り仕切った。


 結果として特に無くなったりしているものはなく一同で胸を撫で下ろし──少しだけ拍子抜けもしながら──いつも通り朝練に励んだ。


「──いいネタになりそうな臭いはするけど、ちょっと気持ち悪いな。この件は」


 駅伝部員に付き合って部室の掃除を手伝ってくれた夕真もまた、しきりに首を傾げている。


「話だけ聞けば単なる経理上のエラーだけど、駅伝部しか使ってないはずのこの崩壊寸前オンボロ部室棟とトラックで、ここまで同一人物と思しき不審者の目撃証言があるのはイカ臭い」


「イカ臭いってちょっと。せめて『キナ臭い』ぐらいのオブラートに包んでくださいよ。それに崩壊寸前とは聞き捨てなりませんね。せめて『アンティークな趣き』と言ってください」


「アンティークは流石に無理があるって……じゃ、また夕練で」


 と笑いを堪えながら言って、彼は自転車に跨り図書館の方へ走っていった。四年の彼はもう卒業に必要な単位は取り終えているそうで、今は専ら卒論の執筆にあたっているという。就職先は順当に、上京した頃からアルバイトしている出版社に決まったようだ。


 そんな彼の遠ざかる背中を「笑い堪えてる時のふにっとした口元とほっぺたまらん……」と思いながら見送り、重陽も講義へ向かった。自分もそろそろ卒論のテーマくらいは絞り込まなくてはならないし、就活の「し」の字くらいのことは考えた方がいいに違いない。


 今は、実業団に入れてもらえたらいいな。と考えている。夕真がいるのでなるべく東京で……とは思っているが、選り好みをしていられる身分でもないのは重々承知だ。


「あー……箱根。箱根なんだよなあ……箱根にさえ出られりゃスカウトもワンチャン……うう。就活嫌だ……嫌すぎる……」


 なんてぼやきながらチャイムを聞いて席を立った昼休み。ユメタ主務から駅伝部のグループチャットへメッセージが入ってきた。


『名簿確認した! 夜間部の知らんヤツが一人増えてた!!』


 そしてすぐさま、チャットのタイムライン上に名簿の写真が添付される。


「うえええええッ!? まままままままじで!?」


 廊下のど真ん中でそのメッセージと写真を見たのが大きな間違いだった。腹の底からの驚きがそのまま声になって飛び出し、あたりが騒然とする。


 しかし重陽はそんな周囲の白眼視を気に掛ける余裕もなく、ユメタ主務の「説明するから部室集合!」の指示に従い大急ぎで学食へ向かう。


 重陽が講義を受けていた理系の校舎は旧トラックから一番遠く、人を避けながらダッシュで向かっても到着は一番最後だった。


「お疲れ様です! すいません遅くなりました!」


 部室の引き戸と開けると、夕真を含む十二人の視線が一気に注がれて少したじろぐ。──が、その中でもやはり夕真の目だけがほかのメンバーとは違う動揺を湛えていた。それはきっと、重陽の感じている動揺と同種のそれだ。


「おう。お疲れちゃん。じゃあま、メシ食いっぱぐれたくないから手短にいくわ」


 と言ってユメタ主務は、事務室でもらってきたという部員登録名簿の写しを掲げて見せる。


「見ての通り、名簿上では今年の九月一日付けで夜間部の一年がひとり増えてんの。在籍は文学部。……どうもこいつは事務室に直接入部届を出したみたいだな。で、事務サイドは書類上の監督である先生にそれを報告して、そこで話が止まっちゃってたみたい」


 ユメタ主務の説明を受け、集まったメンバーは誰からともなく「ははあ、なるほど」と言っては頷きあっている。


「──で、こっからが大事なとこ。この幽霊部員こと不法侵入部員ことガチの新入部員こと、松本有希。こいつは三年連続大学駅伝三冠達成の東京体育大が勝ち取った超大型ルーキー、松本遥希の双子の兄貴だ。でもって、タマっちや重陽の高校の後輩。……重陽は確か、都大路も一緒に走ってるよな?」


 ユメタ主務からそう話が振られると、再び全視線が重陽に集中する。少し居た堪れない思いで肩を竦めながら、重陽は「はい」と頷き口を開いた。


「二個下の後輩でした。東体大に行った遥希と同じくらいすげー速くて……でも去年の夏に学校辞めたって聞いてます。それからは音信不通でした」



 全ては風の噂に聞いたことだ。有希は二年のインハイ地方予選で準優勝し全国大会出場を決めたが、その直後に他校の選手を殴って後遺症の残る大怪我を追わせて退部になり、そのまま学校も辞めてしまったという。


 陸上部は連帯責任としてその年度いっぱいの公式戦自粛を余儀なくされたそうなので、居た堪れずに退学したんだろう。


「……俺らの世代では有名でしたよ。愛知の松本兄弟。なあ?」


 と同期たちの顔を見渡したのは濱田で、有希と同世代の一年生たちはお互いの顔を見てうんうん頷き合っている。


「でも、そういう事件起こすとしたら弟の遥希の方だと思ってました。兄貴の方はどっちかっつーと大人しい方っていうか……でもあの二人はガチで全く見分けつかないんで、話さないとどっちがどっちだか分かんないんすけど」


 濱田がそう言うのを聞いて、他校のヤツからしたら見分けってつかないのか! と重陽は今更ながらに驚いた。


 確かに遥希と有希は瓜二つではあったものの、重陽にとって二人は「見分ける」までもなく別の人間だったのだ。強いて言えば二人には目を眇める癖があるが、右目を眇めるのが遥希で左目を眇めるのが有希だ。


 重陽と濱田の証言を聞き届け、ユメタ主務は「なるほどねえ」と難しい顔で唸る。


「この松本有希。戦力的なことだけ考えれば喉から手が出るほど欲しい。──が。正直言って意味が分からなすぎて関わりたくない! ウチには昔から問題野郎も問題持って来る野郎も多すぎる!!」


 ユメタ主務の横ではノブタ主将もまたうんうん頷いているが、一年から三年までの全員が「言っちゃったよこの人……」という顔でいた。夕真はさりげなく気配を消している。恐らく彼が言うところの「問題持ってくる野郎」である重陽も気配を消そうと試みた。


「おい重陽! どうなんだ。この松本有希っていうのは。ケンカっぱやいのか大人しいのかどっちなんだ!?」


 ──が。あえなく失敗。


「そ、そうですね……大人し……くは、ない……かなあ……でも無口で……悪いヤツじゃないんですけど……あ、本が好きです!」


「いや怖っ! 本のカドで殴りかかって来そうじゃん!」


「いやいやいやいや違います違います! 凶器としての『好き』ではない! 中身です! 読む方! リーディング!! そっかだから文学部なんだなあなるほど!!」


 慌てて弁解したので、自分でも要領を得ないことを言っているなこれは悪手だ。と思った。久々に変な汗が背中を伝う。高校時代を思い出す。


「あの、でも……本当に、難しいヤツだけど悪人ではないんです。そうそうすぐにカッとなるヤツじゃないから、よっぽどのことがあったんだと思います。──だけど、そんなことよりおれは、有希がドロップアウトしても走るのやめてなかったっていうのにほっとしてます。嬉しいな。よかったなって、そう思ってます!」


 説得なのか擁護なのか、それともただのお気持ち表明なのか。自分でもよく分からなかった。


 ただ一つ明らかなことがあるとすれば、高校時代とは違って今の重陽は自分の気持ちを誤魔化したり遠回りにしたりせず、人の目を見て率直に言えるようになったということだけだ。


「わかった。お前がそう言うならきっと、素行以外は悪いやつじゃあないんだろう。若干のジャックナイフ感はあるけど」


 満を辞して、これまで黙っていたノブタ主将が口を開く。


「ただ走るだけなら、わざわざウチに入部届なんか出さなくたっていいはずだ。例の事件で駅伝部やめたヤツらはみんな市民ランナーとして個人で記録会出てるわけだし。なのにだぜ? 松本有希はわざわざ入部しときながら結局一人っきりで、しかもこんな崩壊寸前オンボロ廃墟トラックでコソコソ練習してる。俺はその理由が気になりすぎてもーー無理! ぜってー聞き出す!!」


「ノブタ先輩……っ!」


 思わず名前を呼んだのは、九割は自分の気持ちを汲み取ってくれた嬉しさ。そして残りの一割は「崩壊寸前オンボロ廃墟トラックって、言ってよかったんですね……っ!」という感慨だ。



 ユメタ主務は相変わらず難しい顔をしているものの「まあ、ノブタがそう言うなら……」と頭をかく。


「じゃあま、いっちょ捕獲作戦といきますか。夜間部の講義が終わるのが夜の九時だから、今日は練習終わったらそれまで待機! もちろん、残りたいヤツだけでいーけど。オッケー?」


 その提案にはみんなで元気よく「はい!」と返事をし、残り少ない昼休みでランチをかき込むべく早々に解散した。


 そうして講義が終わったメンバーから徐々に崩壊寸前オンボロ廃墟トラックに集まり、いつも通りの練習をこなす。


 夕真は残念ながら新聞部の方で手が離せなくなったとかで練習には来ず、綿貫はバイトのため夕練が終わるや否や部室を飛び出して行った。御科もまたあおRUNちゃんねるの撮影が溜まっていると言って、後輩たちを引き連れ三浦ハウスへ引き上げて行く。


「標的は極度のシャイメンらしいからな。来るか来ないかは分かんないけど、準備ができたらとっとと灯りを消して居留守をキメる。──ただし向こうが重陽が言う通りのヤツだとすると、俺らが気付いてなかっただけで毎日律儀に走りに来てる可能性は高いぞ」


 ノブタ主将はそう言ってきびきびと指示を出し、その様を弥生さんが「うふふ」と笑いながら愉快そうに見ていた。


「なんだかワクワクしてくるね! ここのところ歓迎会が多くて私も嬉しいわあ」


 ちょうど火曜ということもあり、ユメタ主務が彼女に連絡をして急遽作り置きを部室まで持って来てもらったのだ。


 事情を聞いた弥生さんは、ここが腕の見せ所! とばかりに大量の唐揚げとポテトサラダ、それにおむすびを密閉容器に詰めて持って来てくれた。重陽の知る限り、米と唐揚げとポテトサラダの嫌いな男子大学生などこの世には存在しない。


 夜八時五十分。夜間部の講義が終わる十分前。部室の灯りを消して鍵をかけ、駅伝部員と弥生さんはロッカーの中や机の下にそれぞれ身を潜めた。


 もし今夜、ここに有希が現れたら、重陽が彼と顔を合わせるのは自分の卒業式ぶりになる。


 その時に何を話したか思い出そうとしてみたが、あまりよく思い出せなかった。ただただ、いつものようにぽつねんとして「……でとっす」と言っていた気がする。たぶん「おめでとうございます」と言いたかったんだろう。


 それからも少しだけ──確か、ゴールデンウィークぐらいまではたまにメッセージのやりとりをしていた覚えがある。けれど、その履歴も今は残っていない。有希は携帯を解約したようで、彼との携帯を通したやりとりは完全にこの世から消え失せてしまった。


 電子上の繋がりってよわよわだなあ。手紙とか出してたら、もっと何か力になれてたのかな。


 などと机の下で体を小さくしながら感傷に浸っていると、やがて小さく足音が聞こえて来て重陽は息を飲んだ。


 来ましたね! と、横で同じように肩を縮めている濱田が口の動きだけて発する。重陽は口を引き結んだまま頷き返して引き戸に目を凝らした。


 鍵の差し込まれた音がしたのは、そのすぐ後だった。そして、がたぴしと引き戸が開く。


 有希は一切の声を上げはしなかったものの、部室の様子が普段と違うことにはすぐに気付いたようだった。少し二の足を踏むような動きをしてから、おずおず、といった様子で部屋の灯りのスイッチを入れた。その瞬間だ。


「ようこそ! 駅伝部へーっ! 気付くの遅くなってゴメーン!!」


 ロッカーからノブタ主将とユメタ主務が飛び出しクラッカーを鳴らした。それに続くようにして重陽と濱田も机の下から這い出し、部屋のそこここに隠れていたほかのメンバーも「ウェーイ!」とはしゃいで次々にクラッカーの紐を引く。


「……ッッ!?」


 さぞかし驚いたのだろう。目撃証言の通りマスクをしてキャップを目深に被った有希は、声未満の息を引き攣らせてその場に尻餅を着いた。


「有希、久しぶり。学校辞めたって聞いて心配して──有希? 有希ーー!?」


 重陽が声をかけるのにも構わず、有希はすぐさま立ち上がってその場から逃走を図る。


「追え重陽!!」


「はい!」


 ノブタ主将が発するのとほとんど同時に、重陽も部室を飛び出し有希を追いかけた。



 高校の頃は涼しい顔で突き放されるばかりだったが、今の彼は重そうなリュックを背負いマスクをしている。そして何より、これ以上ないほど動揺している。


「待って有希! なんにも怖いことなんかないから!! 大丈夫だから!!」


 捕まえられる! そう確信し、重陽は彼にそう声をかけながらストライドを伸ばした。それでもやっぱり有希は速い。一瞬だけ「無理かも」と頭を過ったが、それと同時に重陽から逃げ惑っていた有希は足をもつれさせた。


「危ないっ!」


 寸でのところで追いついて、その手を取る。


「そんなカッコで全力疾走なんてするもんじゃないよ。怪我するだろ……」


 全然人のこと言えねー……。とは思ったものの、自戒も込めつつ嗜める。重陽に腕を掴まれた有希はいつかのようにもがいているが、あの頃よりも痩せた彼は、やっぱりその腕を振り払うことはできない。


「驚かせてゴメン。有希、ああいうノリ苦手だったもんな。おれが伝えとけばよかった。……でもみんな、お前のこと歓迎してるっていうのはほんとなんだ。何があったのか知らないけど、昔のことなんか誰も気にしないから」


 有希はやっぱり何も言わない。あたりは暗く、おまけに彼はマスクを外さないものだから、どんな顔で聞いているのかも全く分からない。


 彼はもともと人と関わりを持つのが苦手なタイプだ。それは間違いない。やっぱり一人でいたいのかもしれない。


「……もし、本当に嫌だったらこのまま帰ってもいい。みんなにはおれから言っとく。でも、もし聞いてもいいならどうして学校やめたのか、どうして駅伝部に入部届を出してくれたのか……それだけ、教えてくれない?」


 有希は頑なに何も言わない。やっぱりダメか。と悔しさ半分、悲しさ半分で重陽は、もう一度「ごめん」と言って彼の手を話した。


 すると有希は背負っていたリュックを下ろし、そのポケットから使い込まれた手のひらサイズのメモ帳を取り出した。そして暗がりの中目を凝らしながらペンを走らせ、重陽に差し出す。


「え、何……? 読めってこと?」


 暗い上に、有希の書く字も小さくてよく見えない。重陽はジャージのポケットから携帯を出して、液晶の明かりでメモを照らした。


「──声、出せないのか」


 メモには「失声症」とだけ書かれている。有希はひとつ頷いて、重陽の手からぶっきらぼうにメモを取っていった。


「いつから?」


 重陽が尋ねると、有希はまた短く走り書きをしてメモを寄越した。そこにはまた一言、「高二の夏」とだけ書かれていた。


「それって、学校辞めたことと関係ある?」


 有希は頷き、また重陽の手からメモを取っていく。今度は少し、長い文章を震えた文字で書きつけた。


「……そうか。じゃあ、やっぱり『ようこそ』だな!」


 有希のメモには、こう書かれていた。


『俺は、遥希に勝たなきゃ走るのを辞められない。勝つためには、ここに来るしかないと思った』


 書き文字を通した有希は、あの頃よりも少しだけ雄弁だ。

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