ロングディスタンス

01、SOS

 耳鳴りの向こうからパトカーのサイレンが聞こえてきた。なので夕真は、その場にべっと口の中の血を吐き出して「ああ、またこのコース」と長い溜息を吐く。


 夕真のことを張り倒したラガーマンの恋人は、蹲ったままでいる夕真の胸ぐらを掴んで低い声で唸る。


「いつチクった!」


「俺じゃない。お前が物に当たったりするから、近所の人が気づいたんだろ」


 そう言って夕真が割れた窓ガラスを一瞥すると、彼はもうひと唸りして再び夕真の頬を引っ叩き腹を蹴った。


 通報したのはもしかしなくても喜久井だろう。きっとまた夕真の部屋の外で張り込みまがいの真似をして、窓が割られた瞬間すぐに警察を呼んだに違いない。そんなことがこの二年と少しで、数えきれないぐらいある。


「お前が全部悪いんだからな! お前が全部悪いんだからな!!」


 と唾を飛ばしながら連行されて言った恋人に対し、夕真は心の中だけで「知ってるよ」と返しその背中を見送った。そして自分は別のパトカーで夜間救急へ運び込まれ、傷の手当を受けたらそのまま事情聴取だ。


「いってえ……」


 あばらが折れている気がする。そうなると入院だ。まずはバイト先に連絡し、シフトを組み直してもらわなければならない。それからサークル。記事は病室でも書けるが、取材は代理を立てる必要がある。


 というかそんなことより医療費である。入院となると、何本かレンズを手放さなければならないかも知れない。傷だけでなく別の意味で頭も痛くなってきた。ここまでひどくやられたのは最初の一人以来──駅伝部で主務をしていた、丹後尚武にやられて以来だ。東京での夕真の恋は、いつもこんな風にして終わりを告げる。


 三年前。初めて彼に殴られた夜のことは、純情を捧げた夜のこと以上によく覚えている。喜久井がインターハイでベスト十六の成績を納めた日の晩だった。


 その日は一日、夕真はバイトで、丹後は駅伝部の練習に付きっきりだった。そんなスケジュールの日にはいつもそうするように大学の最寄駅で落ち合って、買い出しをして、当時夕真が住んでいた部屋で一緒に夕食を作って食べた。


 今にして思えば、何か練習で鬱屈の溜まるようなことがあったのかも知れない。走れない脚を持つ彼がエンジョイ勢の面倒を見ていた当時の状況を振り返ると、想像できないことじゃない。


 だから、あの日は自分が悪かったのだと夕真は今でも思っている。ずっと喜久井のインターハイでの走り様についてばかり話していたのがよくなかったんだろう。


 彼はそんな夕真の話にもずっとニコニコ笑いながら相槌を打っていた。しかし、三つめの発泡酒に手を伸ばした彼に夕真が一言、ちょっとした釘を刺したと同時に豹変した。


「尚さん、その辺にしといた方が──」


「うるさい!!」


 ついぞ聞いたことのない大きな声で怒鳴りつけられ、肩を竦めた瞬間。彼は手にしていた発泡酒の缶の底で夕真の頭を殴り付けた。


 あんまり突然のことだったので何も反応できず、ただ後からじわじわ膨らんで痛む頭をおさえながら彼を見つめることしかできなかった。どうしてなのか、同じように彼もきょとんとした顔で夕真を見つめていた。


「──ごめん!」


 先に我に返ったのは彼の方で、目を泳がせながら慌てて立ち上がり、ビニール袋へ氷を詰めて夕真のところへ戻ってきた。


「本当にごめん。そんなつもりじゃなかった。痛かったよな。ごめん。本当にごめん!」


 氷を詰めたビニールをこぶのできた頭に当ててもらうと、少し染みたけれど気持ちよかった。けれど袋には小さな穴が空いていたようで、溶け出した氷水があとからあとから額や頬を伝い夕真を濡らした。


「あ……いえ、その……俺の方こそ……気に触るようなことしてたなら、すみません……」


 初めは気持ちよかった氷の冷たさが殴られたのとはまた別の痛みに変わっても、べしゃべしゃに濡れた首から上がエアコンの風に晒されているのが寒くてたまらなくても、夕真にはそれを彼に伝えることができなかった。丹後尚武はそうして、たったの一撃で夕真に暴力の恐怖を植え付けた。



 丹後はもともと、少し独占欲の強いタイプの男だった。夕真がこの世の春を謳歌していられた時分はそんなところが可愛いな。幸せだな。と思っていられたものの、あの晩から彼の「独占欲」はじわじわと常軌を逸し始めた。


 学校から向かう夕真のバイトの送り迎えは欠かさず、定時を過ぎるとひっきりなしに電話がかかってくる。


 そして夕真が職場のビルを出たところでは「遅いから心配したよ」なんて人好きのする笑みを浮かべてそのまま夕真の部屋へ上がり込み、窓とカーテンを閉め切った部屋で朝まで夕真に自己批判をさせるか、もしくは気の済むまで殴ってから泣いて謝り夕真を抱く。


 喜久井が都大路を走る前の晩もそうだった。大事をとって毎日変えていた携帯のロック解除パスコードを彼は違法ソフトを使って破り、中のデータを洗いざらい消去して、新幹線のチケットは自分の目の前で夕真にキャンセルさせた。もっともその後、どのみち新幹線は悪天候で運休になったわけだけれど。


 彼はその上で抜け目なく夕真の携帯をレンジでチンして完全に破壊し、やっぱり夕真をいいだけ殴って泣きながら抱いた。


 夕真はそんな夜半、彼がアルコール度数の強い缶チューハイを開けたのを見計らって「酔い止め飲んでください。今からそんなの飲んだんじゃ明日に残るから」と誤魔化して、バイト先にいる素行の悪い先輩から譲ってもらったレイプドラッグを彼に飲ませた。


 そうして昏睡した彼を部屋に残し、早朝にリュックサックへ撮影機材と財布だけを突っ込んで家を出て、新横浜駅から新幹線に乗って京都へ向かったのだった。夕真が初めて人に負わされた怪我で入院する羽目になったのは、その翌々日のことだ。丹後に、肋骨と鎖骨を折られた。


 幸か不幸かこれまでの夕真の恋愛遍歴において彼ほど狡猾で、執念深く、純粋な男はいない。なので先のラガーマン彼氏も単に力加減の利かないバカなだけだったので、ああしてあっさりお縄についたわけだ。


「なんなのきみ。これで何回めよ。傷害の被害届……出すなら一応もらうけど、シュミなら国家権力は介入しないよ?」


 病室のベッドに横たわる夕真の枕元で、近所の駐在に勤める巡査──確か、村澤とかいった──は至極呆れたような顔で発した。


「出しますともさ! こっちゃあアバラ二本も折られてんすよ!? 出すに決まってんでしょうよ!」


 と息巻いて答えたのは、自慢の俊足でパトカーを追走してきた喜久井だ。彼もまた呆れるほど慣れたもので、到着時からしっかり夕真の洗面道具と着替えとノートパソコンをリュックに詰めて背負ってきていた。


「いや『こっちゃあ』って言うけど喜久井くん、きみね──」


「そうですね。そうですよ。ムッサさん。言いたいことは分かります。おれはこの人の家族でもなけりゃパートナーでもない。タダの腐れ縁の後輩です。なので、今のはタダのガヤですガヤ。賑やかしです。というわけで、ささっ! どうぞどうぞ! 本人に意向を確認してやってください!」


 あまりにも夕真が付き合う男に殴られるせいですっかり顔馴染みになっている通報者・喜久井と、通報を受ける巡査・村澤がコントみたいなやり取りをするので、笑いが込み上げてきて折れた肋骨がひどく痛む。


「肋骨、痛いんだよなあ……分かるんだよ俺も。実家の屋根の雪おろしで、調子乗ってたら真っ逆さまよ。まあそんなことはいいんだけど、出す? 被害届。するってえと彼にはたぶん前科つくけど」


 笑いと痛みを堪えて顔を顰めた夕真を痛ましそうに、けれどどこか必死で笑いを堪えたような素振りを見せながら、村沢巡査は夕真に尋ねる。


「……出します。被害届。それが彼の、今後のためにもなると思うので」


 夕真が痛みの間に間にそう答えると、村沢巡査は面倒そうな素振りを隠そうともせず、けれども親身になって「それじゃあ詳しくお伺いしますけど」と調書のバインダーを取り出した。



 被害届もまた、何枚出したかもはや記憶は朧げだ。聴取も手続きも慣れたもので、卒業したあともライターとしてやって行くとするなら持ちネタのストックの一つにはなりそうである。


「──っすー。お疲れっすー。病院都合の個室でラッキーでしたね」


 事情聴取を終えて出ていった村澤巡査と入れ替わりに、廊下で待たされていた喜久井が軽いノリで入ってきた。


「とりま洗面道具はこっちの引き出しの中入れときますね。パソコンだけは一応持ってきましたけど、外付けのハードとかなんかいるもんあったら言ってください。あとそうだ。携帯ってちゃんとバックアップ取ってあります? 画面バッキバキで下半分見えてませんでしたけど」


「携帯……」


「ええ。ほら」


 と喜久井がリュックサックから取り出した夕真の携帯は、確かに部屋の窓ガラスと同じくディスプレイが粉微塵になっている。


「……ちょっと貸して」


 ガラスの切り傷だらけになった腕を伸ばす。彼は少し慌てて「起きなくていいですって!」と早足で夕真に歩み寄り、壊れた携帯を夕真に握らせた。確かに画面の下半分は緑や赤の縦線ノイズが覆っていて操作もできなくなっているが、幸いカメラのアイコンは画面の上部に配置してあり、辛うじて起動可能だ。


「──ちょっと。何遊んでんすか」


 背面カメラを喜久井へ向け、試しに一枚撮ってみた。撮影も問題なし。ただし喜久井は、夕真の鳴らしたシャッター音を聞いて不愉快そうに眉を寄せている。


「別に遊んでるわけじゃない。……カメラが生きてるならQRコード撮って二段階認証すればパソコンでライン使えるし、携帯なくてもまあ……なんとかなんだろ。どうせしばらくここから動けないんだし」


「そういうことすか。じゃあもういっそ携帯持つのやめるってのはどうです? きょうび携帯持ってない人となんか、よっぽどじゃなきゃメンド臭くて付き合えないでしょ。そうすればきっと、もうこんな大怪我しなくて済みますよ!」


 名案だ。とばかりにそう言った喜久井は、ニコニコ笑顔で怒っている。いつからか彼は、こういう皮肉が上手くなった。もっともそうさせてしまったのはきっと、夕真自身にほかならないのだろうけれど。


「いい着眼点だけど、現実味はないな。記者生命に関わる」


「お言葉ですが先輩。記者生命以前にそもそもの生命がわりと危機的状況にあったっていう自覚が、もしやおありにならない?」


 ひええ怖い! と勝手に自己完結をして、喜久井は一度呆れ混じりのため息をついた。


「……あのね先輩。もう耳にタコできてると思うんすけど、もう一回言いますね。ちゃんと、自分を大事にしてください。世界は鏡なんです。先輩が自分のことを雑に扱えば扱うほど、おんなじように先輩を雑に扱う人が寄ってくるんですよ」


「ふっ」


 自分でもどうかと思うものの、自己啓発本に書いてあるようなことをそのまま決め台詞のように発する喜久井が可笑しくて笑ってしまった。肋骨は、そんな夕真へ誅罰でも与えるように激しい痛みを訴える。


「……まあ、性分ってそう簡単に変えられるもんじゃないってのは分かります。でもほんと、そっちがその気ならおれにも考えってもんがありますからね」


 脂汗をかいて痛みに悶える夕真を、喜久井は憐れみも露に見下ろしていた。



「明日、練習終わったらまた来ます。何か部屋から持ってきて欲しいもんあれば昼の内に連絡ください。それから、部屋の雨戸閉めとくんで鍵預かりますね」


 痛みでまともに声が出せず、こくこく首だけ縦に振って病室を後にする喜久井を見送った。


 前回の入院──というか入院まで行かなくとも、ひどく殴られるたび確かに「こんなのもうたくさんだ!」と思っているはずなのに、どうしてこうなる。と我がことながら不思議だ。


 夕真だって別に、そこまで適当な気持ちで恋人を作っているわけではない。相手だってそうだろうと思うし、付き合い始めて最初の内は誰だって真面目で誠実で優しい。


 いくら自分に優しくても、外食先や買い物中に店員へ横柄な態度を取ったり、車の運転中に悪態を吐くようないわゆるDV・モラハラ気質の傾向が見られるような男とは距離を置くようにしているし、そもそも夕真はそこまで愛想のいい方でもないので思わせぶりな態度だって取らない。


 が、このザマである。最短でゼロ日(「付き合おうか」と言われて、断ったら腹パンされた)、もって三ヶ月(なんだかんだ、丹後が一番「もった方」なのが実に皮肉だ)ほどで、夕真の体には痣が増える。


 とすると、やっぱり原因は自分の方にありそうだ。自覚はないが、人をダメにする言動を夕真の方が繰り返しているんだろう。


 東京へ来て、一人暮らしを始め、それまでの根暗で陰キャな自分とは決別できたはずだった。けれどやっぱり夕真は夕真のままでただ「キモい」みたいだ。


 性分ってそう簡単に変えられるもんじゃない。全くもって喜久井の言う通りだ。大学デビューにはしゃいでイキって、身の丈に合わない場所に身を置いてしまった。バカは死ななきゃ治らない。というのは、究極のこの世の真理なんだろう。


 それでもなんとかギリギリのところで踏み止まって、一年の春に入れてもらった学内スポーツ紙の記者と出版社のバイト──学生バイトは入れ替わりが激しく、今や夕真は一番の古株だ──を続けてこられたのは他でもない。やっぱり喜久井がいたからだ。


 けれどもし、彼の言う通り「世界は鏡」なんだとしたら。彼もまた、自分を大事にできない夕真に寄ってくる同類のひとりなんだろうか。


 彼の理論でいくと、そういうことになる。いつも呆れた顔をしながらも何くれとなく夕真の様子を窺い、必要とあらば盾になってくれたり警察を呼んでくれる喜久井も──もし、仮にそういう仲になったりしたら、やっぱり手を上げるようになるんだろうか。


 なんてことを一瞬考えて肋骨のみならずその下の心臓まで痛んだ気がしたが、夕真はすぐにその考えを「いや、ないない……」と打ち消した。


 喜久井はこの二年と少しの間で、夕真のあらゆる愚行・あらゆる醜態を目の当たりにし、フォローや後始末に追われてきたのだ。愛だの恋だのいう感情なんて、とっくのとうに枯れ果てているに違いない。


 別に寂しくない。と言えば、それは嘘になる。が、そんな気持ちよりも安堵の方がずっと大きい。「計算通り」とすら言える。


 彼が日の当たる場所を走り続ける限り、夕真はきっとカメラだけは手放さない。もともと写真が好きだというのもあるけれど、それよりはやっぱり「彼の走り様や生き様に夢を見ているから」という理由の方が大きい。


 いつかの純粋だった夕真は、彼に溺れるような恋をした。けれど今にして思えば、あれは果たして本当に「恋」だったのか甚だ怪しいものだ。


 夕真は、喜久井エヴァンズ重陽ほど人に夢や勇気を与える走りをするランナーを知らない。高三の都大路からこちら故障に見舞われることも多いが、喜久井は何度でもレースへ蘇った。そして付いた二つ名が「インディゴの不死鳥」である。


 そんな彼だ。誰だって好きになる。「恋」よりも熱く燃え上がる「憧れ」という炎に、自分はずっと晒され続けているのではないか。


 満身創痍でベッドに横たわり自己批判に明け暮れていると、夕真はしばしばそんなことを考える。

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