11、愛日と落日

 高校駅伝の男子大会は、県大会も全国大会もフルマラソンと同じ42,195キロを七人で継走する。場所は違えど、それぞれの区間に割り当てられた距離も同じだ。


 いわゆる「エース区間」と呼ばれる最長距離の一区は、持ちタイムで順当に有希が指名された。重陽は奇しくも昨年と同じ三区で留学生のライバルたちを迎え撃つことになり、四区の市野井へ襷を渡す。


『明日、県大会っす』


 と一応夕真へメッセージを送ったら、数時間の間を置いて、


『知ってる』


 とだけ返ってきた。通常運転の塩対応である。いつものことだが、メッセージのやり取りは彼が携帯を触っている短時間が勝負だ。


『帰って来ないんすか?』


『帰んないよ。取材とバイト』


『おれの取材してくださいよ(笑)』


『それは京都でいいだろ』


 その言葉が聞きたかった。文字だけでなく、声でも聞きたい。


『電話していいです?』


『いま電車』


『じゃあ降りたら電話ください。お願いします。ぴえん』


『待ち合わせしてるから無理』


 相手はきっと丹後主務だろう。欲を出したら致命傷を食らった。付き合ってどのくらいになるのかは知らないが、仲良くやっているようだ。


『ちぇー。分かりましたー。京都で待っててくださいよ!』


 肩を落とし、ついでに部屋の明かりも落としてベッドに入る。最後に一つだけスタンプを送っておこうともう一度携帯を見たらちょうど、夕真からスクリーンショットが送られてきたところだった。


『待ってる』


 新幹線の電子チケットだった。


「ずっる……っ!」


 思わず声に出して、けれども羽毛布団の中でにやけながら、音声付きのアニメのスタンプで『頑張ります!』とだけ返して寝た。


 起きたら窓の外には、一年前と同じ雲ひとつない快晴の青空が広がっていた。台所に立つ母もすこぶる上機嫌だ。


「きっと今日は、特別ハッピーな日になるわ。頑張ってね!」


 得意顔でそう言った母が朝食に出してくれたのは双子の目玉焼きで、景気付けに電車の中で引いた十連ガチャではずっと出なかったSSRが二枚も出た。


 それで重陽もがぜん上機嫌になって、鼻歌なんか口ずさみながら足取り軽く集合場所へ向かう。


 エントリーは事前登録から変更なく、一区に一年の有希と最短区間の五区に伸び盛りの二年生がひとり配置されたほかは、三年生で固められた。


「いいかお前らー。ウチはここのところ全国から遠ざかって久しいが、万が一今年出られなかったら何言われるか分かってんだろうなあ!」


 監督の飛ばした檄に、全員で「ウス!」と気合十分の返事をする。有希だけはやっぱりしみじみ頷くばかりでははあったけれど、まあそれは彼の個性だ。



 なんてみんなあっさり認めているあたり、現金なもんだな。と思う。重陽としては全国大会にさえ行ければいいので、今日走る自分以外の六人にも全力以上の力を出してもらえるに越したことはないのだけれど。


 結局チームがひとつに纏まっているのは、遥希という共通の仮想敵がいるお陰なのだ。そういう意味では、今ここにいない彼こそが今のチームの最大の功労者とも言える。


 それは果たしてチームの美談なのだろうか。少なくとも重陽には、そんな疑問がある。うまく言葉にできないけれど、インターハイで準優勝の結果に泣き暮れていた彼の姿が瞼の裏を過ぎって仕方がないのだ。


 レースは一区の有希がそれまでの不調を挽回する快調な走りで一位に躍り出て、ずいぶん貯金を作ってくれた。とは言え重陽に襷が回ってくる頃にはその貯金もすっかり使い切っていたわけだが、二度目の三区でそれを取り戻し再びセーフティーゾーンまで襷を持っていくのが重陽の仕事だ。


「喜久井! ナイスラン!」


「イッチー、あとは任せた!」


 いつも通り泥臭い追い込みで首位を取り返し、そのまま四区の市野井へ襷を繋ぐ。市野井は感情に振り回されがちでいけ好かないところのある奴だが、今日の仕上がりに限って言えば「任せた」と言えるコンディションだ。


 その後は五区に抜擢された後輩の予想以上の好走もあり、チームは数年ぶりに都大路への切符を手にした。


 去年と違い校内新聞の記事を飾ったのは一区を爆走した有希の写真ではあったけれど、一年前の大会ではアクシデントでシャッターを切ることができなかったウツギちゃんが重陽の写真を撮っていてくれていた。


 後から聞いたところによれば一年前のあの日は、ウツギちゃんがカメラのバッテリーを落としてしまったのでまひるが急遽ピンチヒッターとして兄を呼び出したらしい。


 ということは彼女があの日バッテリーを落としていなかったら重陽は夕真と出会うことがなかったろうし、そうなってくると重陽はきっと、今ほどモチベーション高く走れていなかっただろう。


 とすると、もしかしたら都大路の真の功労者は有希でも遥希でもなく、ウツギちゃんなのかもしれない。と思うのは少し自分の影響力を高く見積もり過ぎな気はしたが、一年前のアクシデントのお礼の意味も込めて、彼女には山盛りのスコーンを贈ることにした。


「あと少し。だなあ……」


 昼休みにウツギちゃんのいる二年生の教室へスコーンを持って行き、その足で重陽はまた写真部の部室へやってきた。朝からぱらぱらと降っていた雨が、今は粒の小さな雪に変わって窓の外を舞っている。


 都大路まで、あと少し。彼にまた会えるまで、あと少し。チームの状態も悪くないし、全国大会でも好成績が望めそうな展望がある。


 というのも、遥希は遠征から帰ってくるなりケロリと「俺は駅伝には出ないっすよ」と宣言したのだ。


「は? 別にそもそもお前の椅子とかないんだが?」


 と市野井はさっそく額に青筋を立て、遥希はやっぱり、


「あ。じゃあよかったっす! アテにされてたらめんどくせーなーって思ってたとこだったんで。アザス!」


 と人を食ったような口ぶりで大いに市野井の神経を逆撫でしたので、重陽はまた「まあまあまあまあまあまあ」と二人の間に入る羽目になったのだった。


 けれど後からこっそり遥希にその真意を問い質してみると、


「だって別に俺抜きでちゃんと県大会勝ってんじゃないすか。そのメンツから誰か抜いて俺入ったって誰も得しないでしょ。っていうかモチベ下げるだけだしマイナス」


 とわりにまともなことを言っていて、正直面食らった。


「そっか……でもお前はどうなの? 都大路、走りたいって思わないのか」


「全然キョーミないっすね」


「お、おう……ならいいんだけど」


「俺キホン人に足引っ張られんの大っ嫌いだし、合理的じゃないのはもっと嫌い。それにチョーさんたちの目標って都大路を気持ちよく走ることであって、優勝することじゃないんでしょ? 優勝狙うなら、俺入れない選択肢とかぜってーないっすもんね」


 ぞっとするようなカウンターを食らい、何も言えなかった。ノックダウンである。遥希の主張は理にかなっているしストイックだ。自分たちがやっているのは「部活」で、彼がしているのは「競技」なのだ。と思い知らされた。


 とは言え、目標が「都大路を気持ちよく走ること」だって別にいーだろ何が悪いんだよ。とも思う。


 なぜなら世の中にはいろんな人がいて、遥希のように「競技」に打ち込める人間なんてそう多くはない。


 現にほとんどニコイチで育ってきているであろう双子の兄の有希でさえ、遥希とは全く違うのだ。何がしたいとかどうなりたいとかそんなのは本当に人それぞれだし、何が正しいとかどうしたから偉いとか、そういうものでもない。


 それで言えば、重陽はただただ夕真に会いたくて、彼に夢を見て欲しくて走る。走ることが自分と彼との間にある絆だ。そのためなら誠実にも不誠実にもなるし、それ以外のことはどうでもいい。


 仮に遥希のしていることが「競技」だとするならば、重陽がしているのは「人生」だ。生きるために彼が必要で、彼とともに生きるために重陽は走る。


 いよいよ明日は京都へ発つという日には、全校をあげての壮行会も行われた。地元紙からの取材もあった。


 区間にエントリーしている七人と補欠、それに各区間の付き添い担当とマネージャーを合わせると結構な大人数で、今の世代には都大路を知る人間がいないこともあり、新幹線の中はなんだか呑気に浮き足立っていて修学旅行みたいな雰囲気だ。


『京都向かってます! 先輩は夜の新幹線っすよね。雪になるみたいなんで、温かくして来てくださいね!』


 新幹線の中で、隣に座る有希を無理矢理巻き込み自撮りをして彼に送った。珍しくすぐに既読がついたが、返事はなかった。


 昼過ぎに京都へ着いたがやはり冷え込みがきつく、重陽は思わず首を竦めポケットに手を突っ込んだ。空には既にどんよりとぶ厚い雲が垂れ込めていて、夜を待たず今にも雪が降り出しそうだ。


「雪って、積もったりしたらどうなるんですか? レース」


 マネージャーの後輩が、空を見上げ心配そうにつぶやく。


「この時期じゃまだきっと積もるほどは降らないよ。ちらつく程度じゃない?」


 と重陽が答えると後輩も安心したようで、そうですか。と言って眉尻を下げた。けれど天気予報によると、今晩から明日の夜にかけて関西圏はずっと暴風雪マークだ。山間部ではもう、積もっているところもあるらしい。


 ホテルに着いてからコースの下見がてら補欠も含めたレースの登録メンバーで軽いジョグに出たが、日暮れ前にはもう吹雪になったので早々に切り上げた。


 夕食の頃にはニュースでしきりに飛行機や新幹線の欠便が報じられ、重陽は気が気でなくなった。夕真が無事に京都へ辿り着けるかどうか以前に、この荒れ模様が明日も続けばレースそのものの開催も怪しい。


 ミーティングで監督が言うには、大会は現在中止も視野に入れて開催の可否を検討中。どちらにせよ朝の七時には連絡が来る。ということだ。


 三々五々にミーティングを解散したあと、重陽はひとまず母と夕真にその旨をメッセージで報告した。既に京都市内の別のホテルにいる母からは「この天気だものね」とすぐに返事が来たが、夕真に送ったメッセージには既読マークもつかなかった。彼の乗る予定だった新幹線は、悪天候により運休になっている。


 寝る前にロビーに出て今度は電話をかけてみたが、電池切れのアナウンスが流れたのでさすがに諦めた。今まで大事な大会の前はなんだかんだ電話をくれたりメッセージに返事をくれたりしていただけに、不満半分心配半分だ。


 その雪は夜の間中降ったり止んだりを繰り返して、翌朝には京都の街をすっかり白く覆っていた。けれど風は前夜ほど強くはなく、ダイヤ乱れはあるものの新幹線は運行を再開しているようだ。


「──もしもし……ええ。はい。了解しました」


 大会運営からの電話を受けている監督の淡々とした声を、朝食会場に集まった全員が固唾を飲んで聞いている。


「はい。はい。では後ほど」


 そして監督は携帯を耳から離し、テーブルへ置いて、両腕で大きく丸印を作って見せた。歓声と拍手が湧き、登録メンバーはそれぞれの家族に連絡し始める。


 重陽もまずはまだ東京にいるはずの夕真に連絡しなければ! とメッセージアプリを立ち上げた。が、昨日送ったメッセージにもまだ既読が付いていない。不満半分心配半分だった気持ちが、不満の方に少しだけ比重が傾く。


 待ってる。と彼は言ってくれたものの、待っているのはいつも重陽の方だ。不精にもほどがありませんかね? と少し拗ねながら、母にだけレース決行の旨を伝えた。



 開会式の会場までは徒歩と電車で三十分ほど。雪はまだ降り続いていて、路面の状態は最悪だ。予報によると昼前には雪も止んで晴れ間が出るようだが、そうなると今度は積もった雪が溶けてシャーベット状になり足を取られる危険がある。


 インターハイの時もそうだったが、いざ式典の会場入りをして他校の速そうな選手を見ると途端に緊張で胃酸が上がってきた。


 勝つための練習なら十分やってきたし、チームのメンタル的なサポートだって、やれる範囲で率先してやってきた。


 やれることは全部やった。といつもそういう自負はあるのに、この緊張は一体……!? と毎度のことながら自分で自分が分からない。


 大会は開会式を行った体育館を出てすぐの競技場をスタートとゴールに、まずは午前中に女子の部がスタート。次いで午後から男子の部の幕が切って落とされる。


「お前らは今日までよくやってきた。落ち着いて、いつも通りに走れば大丈夫──と言いたいところだが、今日はとにかく路面が悪い。慎重に行け。それから、しっかりアップして体を冷やさないように」


 監督からそんなエールをもらい、県大会と同じ一区を走る有希以外はそれぞれの中継所へ移動する。予報通りに晴れ間が出てきた。木の枝に積もった軽そうな雪が、風花のように宙を漂い光っている。


 重陽は県大会では三区を走ったが、都大路では四区を任された。今度は逆に、市野井から襷を受け取って五区へ運ぶ。


『位置について、よーい……』


 タン! と鳴った乾いたピストルの音で、四十八人の各県代表選手が一斉にスタートを切った。すぐに有希が集団から飛び出す。別格の走りだ。


「……アップしてくる」


 重陽は有希のスタートをライブ配信で見届けると、その携帯を付き添いのチームメイトに預けてジョグに出た。


 晴れ間は出てきたが相変わらず気温は低く、黙って立っているとベンチコートを着込んでいてもあっという間に体温を持っていかれる。地面に溶け残った雪が放つ冷気が、剥き出しのふくらはぎをひりひりと冷やした。


 いくら体を動かしてこれまでのきつい練習を反芻しても、心許なさは消えていかない。やっぱり彼の声を聞いていないからだと思う。「大丈夫だ」と、「待ってる」と、「見ている」と、そう言って欲しい。声が聞きたい。


「喜久井先輩! 電話鳴ってます!」


 預けた携帯を手に、後輩が駆け寄ってくる。「まさか!」と緊張とは違う意味で心臓がぎゅっと掴まれたように痛み、涙が込み上げてくる。


 が、画面に出ているのは彼の名前ではなかった。公衆電話からの着信だ。よりにもよってこんな時にイタ電かよ! と心底ムカついて、舌打ちをして着信拒否。


「……ありがと。でも登録してる番号以外は切っちゃっていいから。よろしく」


 後輩にはそう伝え、重陽は再度レースのライブ配信動画を開く。スタートから約四十分。襷は間もなく三区の市野井へ渡ろうとしている。順位は八位。トップを走り続けた有希の貯金はだいぶ使っているが、まだ入賞圏内だ。


 無事に市野井へ襷が渡ったのを見届けてから、重陽はまたアップへ戻った。きっともう彼からの連絡はないだろう。京都に来たのかどうかも定かではない。


 待ってる。と言ってくれた。だからきっと、どこかで待っていてくれる。声を聞かせてくれる。そう信じて走るしかない。


 けれど、もしそうでなかったとしても彼を責めることはできない。彼は連絡に不精で、ちょっと不義理で無愛想。そんなことは百も承知で、それでも好きだと思っているのは重陽の勝手だ。



 四区へ最初に飛び込んできたのは、インターハイで遥希に競り勝ち優勝した長野の選手だった。駅伝も強い。いわゆるディフェンディングチャンピオンだ。


 そろそろか。と重陽もベンチコートを脱ぎ、後輩に預ける。路面は相変わらず最悪の状況だが、寒さは少し和らいできた。


 やがて学校名をコールされ、重陽は「はい!」とほかの選手よりも一際長い腕を上げて応えスタートラインに着く。ゼッケンよし。靴紐よし。と状態を一つ一つ確認し、運ばれてくる襷を待ち構える。


「──イッチー! ラストラストー! もうひと踏ん張りーっ!」


 中継地へ雪崩れ込もうとする集団の中にその襷を見つけ、重陽は声を張った。すると彼は苦しそうな顔を上げ、肩から襷を外して力を振り絞るように腕を振り、最後はその襷を両手で突き出すように重陽へ差し出した。


「ごめん喜久井! 抜かれた!」


「大丈夫大丈夫お疲れ! あとは任せて!」


 息切れの間に間に悔しがりながら発する彼から襷を受け取り、そのまま走り出す。はじめが肝心! とばかりに集団から抜け出して、それから襷の端をパンツに挟んで固定し、体の動きを一つ一つ確認しながら京の都を駆けた。


 いつにも増して入念に体を温め、ストレッチを行った。けれどやっぱり緊張は解れていないのか、普段より少し足首が固い。もちろんきっと、底冷えする寒さのせいもあるにはあるだろうけれど。


 集団の後方で襷をくれた市野井の順位は十三位。そこから自分が抜け出し四人を背中に回しているので、今の順位は九位。


 まだその背中も見える位置にはいないが、あと一人を抜けば再び八位に浮上し入賞圏内に戻れる。後のことも考ればもうあと一人を抜くか、せめて背中の見える位置で襷を渡したいところだ。


 しかし、コースの中間地点を過ぎても前を走る選手の背中が見えて来なかった。徐々に焦りが出てくる。末脚は自他ともに認める自分の持ち味だが、路面の状態もありもしかすると少し慎重になり過ぎていたかもしれない。


 手首のスマートウォッチでペースを確認する。悪くない。むしろ少し速い。が、足首に残る固さは少し気になるものの、スタミナはペースを上げても保ちそうだ。


 行ける! そう確信して重陽はストライドを伸ばした。夕真の声援は、まだ聞こえてこない。けれどこの先のどこかにはいるはずだ。だとするならば、不甲斐ない姿を見せるわけにはいかない。


 銀閣寺を過ぎ、京大前に差し掛かったあたりでようやく一人目の背中を捉え、重陽は更にそこでペースを上げた。奇しくもそこは出走直前に母が「ここで見てるわ!」と写真を送ってきたポイントで、そんなことを思い出すと俄然力が沸いた。


 京大を過ぎたところで一人を差して無事に八位浮上。少し疲れが出てきたが、まだまだ行ける。重陽はここぞとばかりに腕を振り走りのギアを上げ、自分の差した後方の選手へスタミナを見せつけた。


 しかし、まだ彼の声は聞こえてこない。さりげなく沿道に目をやってみても、人が多くて探していられない。


 声出してくんなきゃ分かんないよ先輩! どこにいんの!? 焦りと不安でフォームが乱れる。走り始めた時から固さの気になっていた足首が、いよいよ痛みを訴え始める。


 自分のペースは落ちていないはずだった。けれど、寸前に突き放したはずの選手の気配をすぐ後ろに感じる。


 きっと相手がペースを上げたのだ。出来心でつい後ろを振り返ってしまう。それがまずかった。相手は自分と違って、至極冷静にピッチを刻んでいるように見えた。


 差し返されるわけにはいかない! その一心で全力を振り絞る。コースは残り一キロ。接地のたびに足首が痛みで悲鳴を上げたが、重陽は構わずストライドを伸ばした。その時だった。



「──あぁっ!」


 接地した右足がシャーベット状の雪で滑り、顔から派手に転んだ。


 足首に火薬が仕込まれていて、それが爆発したんじゃないのかというくらい痛い。力が入らない。どうにか腕の力で立ちあがろうと体を持ち上げている間に、後ろからやってきた選手が次々に重陽を置き去りにしていった。


 拭っても拭っても鼻血が垂れ、重陽を引き倒した茶色い雪に落ちて赤く滲む。


 ユニフォームも襷も血まみれだ。文字通り汗と血の滲んだ襷ってか。やかましいわ。なんて考え頭をショックから逃がしている間に、重陽は両脇から審判員に抱えられ失格になった。


 五区に控えていた後輩は、予備の襷を肩にかけ最後尾から走り出す。これ以降は個人の区間記録は認められるものの、チームとしての総合記録は残らない。


 重陽はすぐに医務テントへ運ばれ、大会医の診察を受けた。簡易的なものではあるが、診断によると右足首はアキレス腱炎と疲労骨折。それに靭帯損傷のコンボで要手術。その他擦過傷多数。ということで、つまりは満身創痍だ。


「ごめんな。気付いてやれなくて」


 松葉杖を突く重陽の姿を一目見て、監督はひどく痛ましげな顔ではじめにそう発した。


「いや、あの……おれも気付いてなかったんでそこは……ええと、どうすればよかったんすかね」


「……まだ先は長い。ゆっくり治せ」


 監督にそう言われて肩を叩かれても、何も感じない。そうか。おれはしばらく走れないのか。という事実がぼんやり頭の中を漂うだけで、全然実感がない。


 閉会式でチームメイトたちと合流したが、誰も重陽を責めたりはしなかった。あの市野井でさえ少しも茶化さなかった。


 まあ、それもそうか。とやっぱりぼんやりそう思った。自分が彼らの立場でもきっと、この大一番でど派手にずっこけて手術の必要な大怪我を負った相手になんか、なんて言葉をかけたらいいか分からない。


 式典を終えてから「そういえば」と思って携帯を見たら、夥しい数の母からの着信と公衆電話からの着信がほとんど交互に入っていた。そこでようやく重陽はある一つの可能性に思い至り、はっと息を飲む。


「ごめん。ちょっと親に顔見せてくる。後から追っかけるから先行ってて」


 と断り、慣れない松葉杖を使いえっちらおっちら体育館のロビーを歩き回った。今まで意識して探したことはないけれど、こういう公共の施設にはきっと今でも一つくらいは公衆電話があるはずだ。


 やはり、ロビーの奥まったところにそれはあった。彼はグレーの大きな電話機の上に十円玉を積み上げて、真剣な顔で受話器を耳に当てている。重陽のポケットでは、携帯が震えている。


「……先輩」


 重陽が声をかけると夕真は目を瞠いて顔を上げ、受話器を置いた。


「喜久井……」


「何してんすか」


「え、お、お前に電話……」


「いや、知ってますけど。携帯は?」


「壊した……」


「マジで言ってんすか……」


 それで既読マークがつかなくて、公衆電話からの着信だったのか! と合点がいった。と同時に、辛うじて機能している左足からも力が抜けてよろける。


「危ない!」


 夕真は血相を変え重陽の懐へ入ってきて、体重を支える。そして、まるで自分が怪我をしたみたいな顔で包帯の巻かれた右足を見た。


「先輩、来てたの全然気付きませんでした。……見てました?」


 重陽が尋ねると、夕真は更に辛そうに目を細めて首を横に振る。


「ごめん。間に合わなかった。新幹線、すごいダイヤ乱れてて……」


「そすか……まあ、ダサいとこ撮られてなくてかえってよかったです」


 本当は、怒鳴り散らかしたいくらい悔しい。けれど誰にどうすることもできなかったことなのは火を見るよりも明らかなので、重陽は強がって笑う。


 そうして彼を見ると、辛そうに目を伏せたままの彼の額にこぶとかさぶたができているのに気付いた。


「……先輩も怪我してる。大丈夫ですか? 痛みます?」


 いつかのように重陽の指が額に触れると、彼は慌てて重陽から離れ額のかさぶたと前髪で隠した。


「お、俺も、慌てて走ってたら雪で滑ってこけて……」


「ああ……あれ、やっぱ滑りますよねえ……」


 どうにもならないことなら、笑うしかない。


「……そうやって人に合わせて、無理して笑うなよ。俺、ほんっとにお前のそういうとこ嫌いだ」


 そう言った彼に先に泣かれてしまい、今の今まで留守にしていた感情がどっと一斉に押し寄せてきて、重陽も声を上げて泣いた。


 後悔。不安。危機感。悔しい。悲しい。腹が立つ。申し訳ない。情けない。


 けれどパンドラの箱の中に一つだけ残っていた希望みたいに、心の底の底に、彼が「嫌いだ」と言って流した涙が光っていた。

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