10、秘密浮き沈みつ
九月九日。十八歳の誕生日の朝。重陽の顎は割れていなかった。
「イエス! サンキューダディ!!」
洗面台の鏡の前で、思わずガッツポーズをして叫んだ。
十月十日。十八歳の誕生日から一ヶ月と一日経った日の朝。重陽は自分の顎にうっすら縦線が入っているのに気付いた。
実際には、数日前から内心そんな気がしていた。けれど認められずにいた縦線は、いよいよ認めざるを得ない程度には存在感を発揮していた。
そして今朝。十一月十一日。十八歳の誕生日から二ヶ月と二日経った。
「お。ヴィゴ喜久井。おはよー」
駅の改札を出たところで、市野井と目があった。すると彼はすかさず駆け寄って来て、まるで猫にでもするように縦線の入った重陽の顎を摩る。
「おはよ。前から気になってたんだけど、ヴィゴって何?」
いい加減殺すぞ。と思いながら、そんな内心を相手に窺わせない素振りなら悲しいことに慣れたものなのだ。
「ヴィゴ・モーテンセン。知らね? お前と同じ、ケツアゴのハリウッド俳優」
「んー。分かんない──」
彼と横並びでバス停へ向かいながら携帯で画像を検索し、ヴィゴ某氏のご尊顔を拝む。なるほど、Y字の見事な割れ顎である。
「──いやここまで割れてねーわ!」
「いやいや。確実に育ってるって。ぼちぼちそっから二人に分裂するって」
「え、すごい! 分裂したおれがもう一回分裂したら都大路の七区間ぜーんぶおれが走れる上に補欠までいる!! すごくね!?」
そう言って重陽がはしゃいで見せると、彼はどこか満足げに「意味わかんねー」と手を叩きながら笑っていた。おれが七人いたらお前なんかに走らせる区間ねーんだよ。という嫌味は狙い通り華麗に霧散し、重陽はやっぱりへつらい笑いを浮かべている。
はー。しんどいしんどい。と思っている内に学校へ着いて朝練をして、ジャージのまま眠気で白目を剥きつつ受験対策の詰め込み授業を受け、ログインボーナスを回収する間もなくクラスメイトと弁当をつつく。
母お手製の分厚いたまごサンドを咥えたまま舟を漕いでいたところを、肩を揺すられ起こされる。笑われる。笑う。「しんどい」がまた一つ増えて、はー。しんどいしんどいしんどい。になる。
「……ごめん。限界。ちょっと保健室借りて寝てくるわ」
と断って、食べかけの弁当を包みなおして席を立った。その足で重陽は保健室ではなく職員室へ向かい、写真部の部室の鍵を借りる。
夕真に聞いていた通り、彼が卒業したあとの写真部は完全デジタルへ移行したようだ。自分が頻繁に出入りした頃よりもパソコンが増え、印画紙の乾燥棚とサーキュレーターは撤去されている。
「はー……どっこいしょ。落ち着く……」
けれどグラウンドに面した窓から差し込む日差しはあの頃と同じに柔らかく、窓枠の影を机に落としていた。そんなひなたの机の上へ重陽は頭を投げ出し、窓の外の青い空をぼんやり眺めた。
彼が卒業してからも、何かと理由を付けて人の輪を抜け出しここへ来て窓の外を眺めていた。春は桜の花びらが風に舞い、夏はソフトクリームみたいな入道雲がそのフレームにすっぽり収まっていた。秋は少し地味な季節だけれど、柔らかい空の青が一番きれいだ。
そんな美しい季節の移ろいや、光のコントラストや色合いを、夕真の視点──夕真の写真は、ありのままに静謐に切り取っていた。
何も足さず、何も引かず、不完全だけれど美しい世界。どうすることもできない。という諦めや憤りと、自然や科学力への畏怖と敬意が込められた、彼の発するどんな言葉よりも率直な「叫び」。
彼が熱病に寝込んで結局一度も現れなかった写真展で、重陽は「そりゃあおれのことなんかお見通しに決まってるよ」と脱帽したものだ。こんなに鋭敏で繊細な視点を持った人になんか、何一つ隠しておけるわけがないと思った。
なのに彼は「俺には無理だったけど、お前がそっち側で生きて行けるなら」と言った。重陽に言わせれば、そんなのは嘘っぱちである。
あんな風に世界を切り取り叫ぶ人が、自分たちの抱えるこの理不尽に対して黙っていられるはずがないのだ。
その証拠が、彼の撮った「喜久井エヴァンズ重陽」だ。世界から、他人から、自分から、おろおろ無様に逃走を謀るちっぽけなガキ。そんな姿。
正直なことを言えば、初めて彼の撮った写真を見た時にはムカついた。プライバシーの侵害だとすら思った。それほどまでに、彼の眼差しは重陽の心の底を暴いていた。炙り出していた。人の生き様に自分の鬱憤をタダ乗りさせてんじゃねーよ。と思った。
だから「そっちがその気ならこっちにも考えがあるぞパパラッチめ!」という気概で、この写真部の戸を叩いたのだ。何か尻尾を掴めないかと彼が聞いていたポッドキャストをだしに部室に居座ってみたものの、分かったのは根本的には彼も「同類」であるということだけだった。共感性羞恥で胸元を掻きむしりたくなるほどに。
けれども彼は、自分と違ってきちんと自分の世界を持っていた。そしてありのままの重陽を受け止めてくれた。なのですぐに、自分が彼の「叫び」の一部になることが重陽にとっても悦びになった。
あれからもうすぐ一年経つ。この一年で自分たちは何もかもが変わった。姿形も、関係性も、通わせる感情も、何もかも。
「あと少し……かあ……」
駅伝の県予選まで、あと少し。卒業までも、あと少し。ここのところ毎日毎日、彼が一年前にかけてくれた「あと少しだよ。頑張れ」という言葉を反芻しながらなんとか生きながらえている。
駅伝は、重陽ひとりでは走れない。遥希と有希を合わせた三人でもまだ足りない。どうしたってほかのチームメイトの力を借りなければ、全国大会には行けないのだ。
なので重陽は、これまでどおりの「まあまあ」「そこをなんとか」を続けることを自分で決めた。
それは、自分に対しても競技に対しても不誠実なことである。というのは、重々承知の上だ。けれど、重陽には夢がある。実に成し難い、壮大な夢だ。
インターハイの舞台には立った。この勢いで都大路でもそれなりに活躍して、入試に受かって青嵐大へ進み、まずはインカレ入賞と箱根駅伝で関東学生連合チームへの選抜を目指す。そうしたら次はチームでの箱根駅伝出場。それから、全日本大学駅伝に出雲駅伝、そしてフルマラソン──その全てを、彼のフィルムに納めてもらう。
そのために重陽は今のこの「しんどい」を生き延びなければならない。
それに、この先にだっていくらでも待ち受けているであろう「しんどい」をやり過ごすため今この経験をしておくのは、決して無駄ではないはずだ。
「……よし。頑張ろ」
と声に出して頭を上げ、重陽は弁当の残りに手をつけた。最後の一口で頬を膨らませたまま予鈴を聞き、教室へ戻る。午後一番の授業は大嫌いな英語。「キャロ」の次は「ヴィゴ」と呼ばれ死ぬほど見かけをいじられて、きっつ……と思いながらもやっぱり重陽はへらへら笑っている。
ひどくいじめられていた小学生の頃は、もっと大人になれば慣れてなんにも感じなくなるはず。それまでの辛抱。それこそ「あと少し」だと思っていた。
──が、あれから十年近く経って十八歳になった今でも、やっぱりきついものはきつい。立ち向かわないことを選んだのは自分なので、何も文句は言えないのだけれど。
部活では、相変わらず双子とそれ以外のメンバーとの間の分断がひどい。重陽ひとりが間に立って「まあまあ」「そこをなんとか」とやり続けてどうにか場を納められる限度に、毎日じわじわ迫りつつある。
特に二年性は、これ以上双子のせいモチベーションが下がるとボイコットしかねない。三年はさすがにそこまでしないだろうとは思うが、怪しいメンバーもいる。
「──監督。ちょっといいすか」
その日の練習後、重陽は「ちょっとストレッチのこと相談してくる」とチームメイトの輪を抜けひとり職員室へ向かった。
「おう。喜久井か。どうした」
監督は重陽の顔を見るなり深刻そうに眉を潜めて立ち上がり、手招きをする。
「座って話すか」
そして職員室の奥にある、応接セットの椅子へかけるよう促した。
「で、どうした。青い顔して。どっか足に違和感でもあるか?」
「いえ。それは大丈夫っす。おれは絶好調なんすけど、それより──」
「なんだお前。じゃあいいよ。絶好調なら。驚かせるなよ」
監督は露骨に肩を撫で下ろし、対面から重陽の肩を叩く。重陽は「ははは……」とつい癖で曖昧な笑い声を上げてしまってから、いかんいかん。とまた表情を引き締めて続きを発した。
「県大会のエントリーについて、相談があります」
重陽がそう言うと、監督はまた──今度は不可解そうに──眉を潜め、少しだけ重陽の方に身を乗り出す。
「なるほど。お前だけに先に教えるってわけには行かないが、一応聞こうか」
「あざっす。……相談なんすけど、遥希を外すことはできませんか」
監督は眉を潜めたまま、苦虫を噛んだような顔で「ううん」と唸り腕を組んだ。
「……その話か」
「はい。たぶん分かっててくれてると思うんすけど、ちょっともうみんな限界っていうか」
重陽が反応を窺うようにそう言うと、監督は苦虫を噛み潰した上に鼻へわさびを突っ込まれたような顔で「それなあ……」とまた唸りながら頭をかいた。
「喜久井。これはまだここだけの話にして欲しいんだが」
「はい」
「遥希は来週頭から今月末まで、実業団の海外遠征に帯同させることにした」
「ええええっ!? 海が──っ」
監督は大声を上げた重陽の頭を「声がデカい」と身を乗り出してぺしんと叩き、ため息混じりでまたソファの上へ腰を下ろす。重陽もまた叩かれた頭をさすりながら「すみません」と声を潜め、頭の中で事態を整理する。
「ってことは、つまり──」
「そういうことだ」
「ですよね!?」
県大会は十日後──つまり、奇しくも遥希の高校駅伝県大会欠場は決定事項ということになる。
「え、ち、ちなみに、実業団ってどこの……」
と尋ねた重陽に監督が耳打ちしたのは強豪も強豪。日本記録を持つ選手も在籍する有名チームだった。
「教え子がマネージャーでな。インハイが終わって早々に打診は受けていたんだ。今の遥希をよそへ預けて穏便に済むとは思えんが……それも承知で預かってくれるというから、性根を叩き直してもらえるチャンスに賭けた」
「うおお、おおおお……羨ましすぎて素直に祝福も安心もできない……っ!」
重陽は自分の中に燃え上がった嫉妬の火力があんまり強すぎて、外面を取り繕う余裕もなく歯を食いしばって拳で膝を叩いた。
「お前からしたらそうだよなあ……でも、それこそ素直にそう言えるようになっただけ、やっぱりお前は成長したよ……」
けれど監督はそんな重陽を見て感慨深げに頷き、老眼鏡を外して眉間を揉んだ。見透かされていたのが恥ずかしくもあり、嬉しくもある。
「有希も不調が続いているし、正直なところ、あいつを外すのは戦力的に厳しくはある。しかし背に腹は代えられん。俺は長距離の三年全員を都大路に連れて行ってやりたい」
よほど苦渋の決断だったに違いない。監督は絞り出すようにそう言って老眼鏡を掛け直した。
全国高校駅伝決勝──通称・都大路。それはやはり高校生ランナーのみならず、指導者にとっても特別な意味を持つ大会に違いないのだ。
「……喜久井。お前には苦労もプレッシャーもかけてしまって、本当に申し訳ない──」
「ああいや、それは別に……やっぱ都大路って憧れだし、おれにできることは全部やりたいっていうか……」
と条件反射で首を横に振ってしまったら、急に目つきを変えた監督にわっしと頭を掴まれた。
「──が! そういうとこだぞ喜久井! お前の悪いところは!!」
「いいいいっ!?」
あんまり突然のことに、ついぞ発したことのない声が上がる。
「責任感が強いのも、人の間に立つ才能があるのも大いに結構! しかし喜久井。お前は速くなりたいならもっと我儘になれ。お前が本当に『逃げる』べきなのは衝突じゃなくてストレスだ!」
きつい口調で予想だにしていなかったことを叱咤され、面食らった。
「好きでやってると言うなら何も言わん。が、それで心に毒を貯めるぐらいならそんなもんは即刻やめちまえ!」
「いや、おれにしてみたら衝突ってそこそこストレス──」
「じゃあどっちの方が自分に『誠実』かで選べ。後悔しない方を選べ。大体、十八歳のガキに背負えるもんなんてその程度のことだけなんだよ。他人の感情のケツ持ちしようなんてのは百年早い!」
「……っス。肝に命じまっす」
百年経ったらおれは百十八歳の超じじいですが……と言いかけて、さすがにそれは揚げ足取りだと思い飲み込む。が、もしかするとそこで飲み込んでしまうのが、監督の言っている重陽の「悪いところ」なのかもしれない。
オフの日を一日挟み、日曜日の練習から突然遥希はいなくなった。朝から何度も「遥希は?」と尋ねられて、有希は少し鬱陶しそうだ。左目を眇めて不機嫌そうに、ただただ首を横に振っている。重陽と同様、他言無用を監督に言い聞かされているんだろう。
いたらいたで輪を乱しまくるだけの遥希だけれど、練習の無断欠席だけは一度たりともなかった。なので、いないといないでみんなざわつく。監督は準備運動を済ませて整列した長距離部門のメンバーを見渡して、少し呆れたように発した。
「いつにも増して落ち着きがないなあ。ふわっふわ、ふわっふわして……フワちゃんか」
誰も笑わない。重陽ですら「ははは」とも言えない。監督は気を取り直すように一度咳払いをしてから続けた。
「まあ、みんな気になってるだろうから先に言っておこう。遥希は今日から、実業団の海外遠征に帯同だ。今月いっぱい学校を離れる」
それを聞いた有希以外の全員が、最初に重陽がそれを聞いた時と同じように大きな声を上げる。
「監督!」
といち早く手を上げたのは、副部長の市野井だった。
「おう。どうした」
「今月末までってことは、県大会はあいつ抜きで行くってことすか」
「そうなるな」
直前より、もっとリアルな動揺が駆け抜けた。「あざっす!」と言って手を下げた隣の彼を目線だけで盗み見る。喉仏がごろりと動いた様で、生唾を飲んだのが分かった。
「なんだなんだお前ら。普段あれだけ村八分にしといて、いざって時だけあいつ頼りか? 情けないねえ」
煽り立てるように言われ、まんまと歯噛みし黙り込む部員一同。監督の見事な猛獣使いぶりに「か、かなわん……っ!」と重陽は内心で白旗を上げた。
「これを絶好のチャンスと捉えるか単なるチームの戦力ダウンと捉えるかは、お前たちそれぞれに思うところがあるだろう。しかし、俺から言えることがあるとすれば一つだけだ。あいつの椅子を取っておいてやる必要は一切ない!」
冷静に考えれば部長と監督、高校生とベテラン教師という立場やその他諸々の差なんていうのは埋まると思う方がどうかしている。重陽は、咄嗟に「できることは全部やりたい」なんて欲張っていた自分を深く恥入った。
「県大会のエントリーメンバーは今日の終わりにタイムトライアルで決める。分かりやすく一発勝負だ。が、当日のコンディション次第では当然控えとの入れ替えも行うからな。当日までは気を抜かず、調整を怠らないように。朝礼は以上!」
ありがとうございました! と声を揃えて頭を下げたあと、全員が全員ベンチコートを脱ぐ代わりに熱気を纏ったような顔つきで練習を開始した。
重陽もまた例外ではない。まずは、目の前の一本。そんな熱くて清々しい闘志が、インターハイの予選ぶりに胸に宿る。
遥希が高一だてらに実業団の遠征に参加したことは、その日の晩からネットニュースに載り始めた。
県大会エントリーを決めるタイムトライアルは「こんな雰囲気いつぶりだ?」というほどいいムードで行われただけに、更衣室がその話題で持ちきりになるであろうことがなんとなく気が重い。
自分は無事に県大会のエントリーはもぎ取れたし、そのことだけを考えていればいい。というのは、頭では分かるのだけれど。
「──遥希のやつ、写真だけは爽やかだよなあ」
最初に口を開いたのは、やっぱり市野井だった。彼は自分のスマホに記事を映して「なあ?」とチームメイトたちを集める。
「ってかこの話、漏れるとよっぽどマズかったんだろうな。じゃなきゃあいつが今日の今日まで黙ってられるとか、考えらんないし」
うんうん。そうそう。と先輩後輩問わず頷き合う輪の外で、重陽もまたそれに深く頷きつつも会話には加わらず自分の携帯でその記事を読んだ。
確かに遥希は部活ではついぞ見せたことない爽やかな笑みを浮かべていた。そしてインタビューには「せっかくもらえた貴重な機会なので、たくさんのことを吸収してチームに持ち帰りたいと思います」なんて、一ミリも思っていなさそうな回答を嘯いている。
「普段あんななのに、そういうことフツーにできるのすげームカつくんだけど。マジでナメてるってことじゃん俺らのこと。──有希。どうなのそのへん」
と言って彼は黙々とシューズの手入れをしていた有希に話を振ったので、重陽は「うぎゃーっ! 始めやがった!!」と内心で頭を掻きむしる。
「……別に」
有希はいつもの調子で左目を眇め、小さな声で短く応えた。
「なんだよ。別にって。どういう意味?」
すると大嫌いなあいつは、顎をしゃくって聞き返す。
「あいつは、速いから」
「ふうん。やっぱお前もそういう考えなわけ。速けりゃなんでも許されるってか」
うわ、絶好調かよ……。と思わず顔を顰め、重陽は目を閉じ頭を高速回転させて脳内に癒しを求めた。ぷいーっと鳴いてくっつき消えるモルモットのパズル、子猫の動画、SSRのどエロい推しボイス、もうすぐ発売されるラノベのシリーズ新刊──。
「……速いと、ああいられる」
いつものように物言いたげな仏頂面で黙り込んでいた有希が、やがて応える。「そいつはバッドアンサーだぜ有希!」と割って入りたくなるのを必死で堪えた。
重陽は監督の「他人の感情のケツ持ちしようなんてのは百年早い!」という金言を肝に命じたのだ。首を突っ込まないことに全神経を集中させる。が──。
「あっそ。じゃあお前も、家じゃヘコヘコあいつの足でも揉んでるわけだ。そうだよなあ? 置いてかれてるもんなあ」
そう返された瞬間に有希が手にしていたシューズを思い切り床に叩きつけたので、重陽は辛抱たまらず「ストップ! ストーーップ!!」と声を上げそのシューズに飛びついた。
「物に当たってはいけない!」
とまずは有希を叱りつけ、その後すかさず、
「それから! チームメイトを煽ってもいけない!! それ遥希ムーブだから!!」
と更に大きな声で市野井も諭した。
「フツーにビビって引いてんだって! お前ら以外の全員が!!」
と重陽が言うと、市野井は後ろを振り向いて舌打ちをする。重陽は、有希が床に叩きつけたシューズを「二度とすんな」とその胸に押し付けた。それから二人の間に立ち、まずは市野井の目を見て捲し立てる。
「マジでイッチーの雰囲気やばいって! こう言っちゃなんだけど、せっかくみんなの大っ嫌いなあいつがいないんだぜ!? なんでいない時まであいつにイライラさせられなきゃなんないんだよバカバカしいだろそんなの!!」
部活では滅多に声を荒げることのない重陽に気圧されてか、市野井は少し不服そうにしながらも「ごめん」とすぐに発した。
「そんで有希! お前は! 本当に! 言葉が足りない!!」
ぐるりと踵を返して、今度は有希に詰め寄る。
「速いと、ああいられる。何それ!? 全然意味分かんない! イッチーにキレられてんの自業自得だかんね!? フツーに答えになってねーからちゃんと説明して! ハイ!!」
ぱん! と大きく音が鳴るように手を叩き、有希に発言を促す。目を泳がせた有希は胸に抱えた自分のシューズを鞄にしまってそのまま更衣室を出て行こうとした。
「逃げんな!」
その腕を強く掴み、力任せに引き戻す。一年前の自分ならきっと引きずられていたのは自分だったろう。大きく重たくなった体もたまには役に立つ。
有希は黙ったまま、しばらく重陽に掴まれた腕から逃れようともがいていた。重陽も黙って「ぜってー逃がさん」の気迫だけで有希の腕を掴んだままその場に踏ん張る。
どれだけ振っても引いても重陽が腕を離さず、つま先さえ一センチも動かさないので、有希はやがて癇癪を起こした遥希と同じ顔で、しかしやっぱり蚊の鳴くような声で、細く細く発した。
「──俺は、走るしか……速いしか、ないのに。……ないから、ああいう風に、いられない」
そう言って有希は、はらはらと涙を流した。無言無表情無感情走りマシーンの有希が初めて見せた涙に、今日何度目か知れない動揺が走る。しかしそんな彼を目の当たりにして、全員が全員思ったであろうことを代弁したのは市野井だった。
「い、いや……速くてもダメだろああいう風にいちゃ……有希お前目ェ覚ませ……ってか、何考えてっか分かんねーけど静かなだけお前の方がまだマシだよ……」
彼らしい少し茶化したような言い方ではあったものの、その言葉が有希の腹の中にはすとんと落ちたのか、彼は少し気まずそうに目元を拭って「……っす」といつもの調子で頷いて見せた。
「悔しいとか、羨ましいとか、そういうことだよな? 有希にも、そういう気持ちがあったってことで合ってる?」
彼の腕を掴んでいた手の力を緩めて尋ねると、有希は今度は何も言わずに頷いた。
「だったら、みんなと同じ気持ちだよ。監督も言ってたじゃん。あいつの椅子なんか取っといてやる必要ないって……だからさ、一緒に頑張ろうよ県大会。ねえイッチー。イッチーもそう思うでしょ?」
頼む! これで矛を収めてくれ!! という気持ち一心で市野井を見る。彼は少し複雑そうな顔で──落とし所はここしかないか。というような雰囲気で──頭をかいた。
「……そうだな。そもそもまず、県大会で負けて『松本遥希さえいれば都大路行けたのに』って言われんのぜってーヤだし」
市野井がそう言うとチームメイトたちの雰囲気が一気にそちらへ傾き、重陽は思わず長く息を吐いた。
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